本日2013年7月30日から100年前、
新美南吉(にいみ・なんきち、1913-1943)は、
現在の愛知県半田市に、畳屋の次男として生まれた。
生後4か月で死んだ長男の名・正八(しょうはち)を、
ゴッホのように、そのまま引き継がされた。
4歳のときに母親が死に、父親は後妻を娶った。が、
離婚・再婚など実父と継母の間がゴタゴタしてたので、
実母方の祖母に引き取られ、その名字新見を名乗った。
母親不在で父親の愛情を受けないと、
道を踏み外す子供に成長することが多い。また、
道は踏み外さなくても、終生、
母を追い求める傾向がある。
当時の、家柄はあまりよくはないが勉強のできる子供の常として、
師範学校への進学をめざした。が、
体格検査で不合格となった。労咳になりやすい体だった。
尋常小学校の代用教員となったが、結局、
現在の東京外語大の英文科に進んだ。そして、
卒業後に貿易会社に勤めた。が、喀血して
郷里に戻った。病気のために長続きせず、
職を転々と替えた。そして、結核のために
29歳で衰弱死した。
同じく鈴木三重吉の「赤い鳥」掲載されたが、
不快な内容の「蜘蛛の糸」という"童話"を書いた
左翼思想作家芥川龍之介のように
故事や他作をネタにしたわけではないが、新見は
孤児を主人公に据えがちな芸風である。そして、
常に悲しい。
狐を主人公とする童話が新見の作品に多いのは、
古来、狐が被差別民や未知の技術を持つ異民族の象徴だったことを
継承してることに加え、その漢字に含まれる
「瓜」が孤と共通してることがあると推察される。
代表作である「ごん狐」では、
母親と二人暮らしだった百姓の兵十(ひょうじゅう)が
獲った鰻をイタズラ狐のごんがリリースしてしまう。が、
実はその鰻は死に瀕した兵十の母親が、
死ぬ前に食べたいと倅にせがんだものだったのである。
記憶が形成される前に実母と死に別れた新見には
執着が避けれない設定である。ともあれ、
そんな孝行をごんはフイしたのである。
葬列を見てそれを悟ったごんは、
罪滅ぼしに鰯売りの鰯を盗んで兵十の家に投げ入れた。
それでごんはいいことをしたと思ったのだが、
言うまでもなく浅知恵である。
兵十が鰯を盗んだと思われてしまったのである。
それでもまだごんは学習できない。今度は
ただちには被害が判らない栗や松茸を
兵十の家に置いてくのだった。いっぽう、
母親が死んでから急に栗や松茸が家に置かれるようになったのは、
「神様」の御慈悲だと思い始めた。で、
愚かなごんは
(俺が栗や松茸を置いてやってるのに、
俺には礼も言わないで何で神様に礼を言うんだ。
割に合わない)
とすねるのだった。が、
またしても恩着せがましく栗を持ってったところ、
「おっかあが食いてゃーでよと言ってた鰻を盗んだ狐だな。
覚悟するだぎゃー!」
と、ごんを銃殺したのだった。が、
よく見ると、栗は増えてたのである。
ごんは盗みにきたのではなく、いつも
置いてくれた張本人だった。それに気づいた兵十は、
「ごん、おみゃーだったがや。栗をくれてたのは」
と、虫の息のごんを抱き起こして訊いた。
ごんは目をつぶったまま頷き、息絶えたのだった。
兵十の手からごんを撃ち殺した火縄銃が床に落ちた。
その銃口からは青い煙が細く立ちのぼってるのだった。
罪の償いを"黙って"行うことがかえって
迷惑をかけたり、謝意が通じないことにつながった。逆に、
親切を仇と勘違いして安易に武器を使う愚を説いてる。が、
新見は教訓じみた書きかたはしてない。つまり、
「読む者にどうすべきだったかを考えさせる」
形になってるのである。
悪いことをしたなと思ったら、すみやかに謝る。
償いの形は行動だけでなく、説明も加えないと誤解を招く。
犯人だと思ってもよく吟味しなで即断すると冤罪を生むこともある。
等々。が、
孤独でひねくれ者になったごんには、
あのときこうだったらとか、
あそこではこうしてればとか、
と立ち戻って是正してみることなど、
現実問題としては机上の空論である。
幼児期から児童期の親からの躾や道徳教育が
すべてを決してしまうからである。
新見が死んだのは昭和18年の春である。
アッツ島玉砕のほんの少し前のことである。
29歳の命を憐れに思うむきもあるかと思うが、
労咳で召集されずに好きな童話や詩を作ってられた新見のほうが、
濃霧・雨・雪の寒さと飢えと圧倒的な戦力相手の戦地で
虫けらのように死んでった人たちより
はるかに幸せ者だったはずである。
新美南吉(にいみ・なんきち、1913-1943)は、
現在の愛知県半田市に、畳屋の次男として生まれた。
生後4か月で死んだ長男の名・正八(しょうはち)を、
ゴッホのように、そのまま引き継がされた。
4歳のときに母親が死に、父親は後妻を娶った。が、
離婚・再婚など実父と継母の間がゴタゴタしてたので、
実母方の祖母に引き取られ、その名字新見を名乗った。
母親不在で父親の愛情を受けないと、
道を踏み外す子供に成長することが多い。また、
道は踏み外さなくても、終生、
母を追い求める傾向がある。
当時の、家柄はあまりよくはないが勉強のできる子供の常として、
師範学校への進学をめざした。が、
体格検査で不合格となった。労咳になりやすい体だった。
尋常小学校の代用教員となったが、結局、
現在の東京外語大の英文科に進んだ。そして、
卒業後に貿易会社に勤めた。が、喀血して
郷里に戻った。病気のために長続きせず、
職を転々と替えた。そして、結核のために
29歳で衰弱死した。
同じく鈴木三重吉の「赤い鳥」掲載されたが、
不快な内容の「蜘蛛の糸」という"童話"を書いた
左翼思想作家芥川龍之介のように
故事や他作をネタにしたわけではないが、新見は
孤児を主人公に据えがちな芸風である。そして、
常に悲しい。
狐を主人公とする童話が新見の作品に多いのは、
古来、狐が被差別民や未知の技術を持つ異民族の象徴だったことを
継承してることに加え、その漢字に含まれる
「瓜」が孤と共通してることがあると推察される。
代表作である「ごん狐」では、
母親と二人暮らしだった百姓の兵十(ひょうじゅう)が
獲った鰻をイタズラ狐のごんがリリースしてしまう。が、
実はその鰻は死に瀕した兵十の母親が、
死ぬ前に食べたいと倅にせがんだものだったのである。
記憶が形成される前に実母と死に別れた新見には
執着が避けれない設定である。ともあれ、
そんな孝行をごんはフイしたのである。
葬列を見てそれを悟ったごんは、
罪滅ぼしに鰯売りの鰯を盗んで兵十の家に投げ入れた。
それでごんはいいことをしたと思ったのだが、
言うまでもなく浅知恵である。
兵十が鰯を盗んだと思われてしまったのである。
それでもまだごんは学習できない。今度は
ただちには被害が判らない栗や松茸を
兵十の家に置いてくのだった。いっぽう、
母親が死んでから急に栗や松茸が家に置かれるようになったのは、
「神様」の御慈悲だと思い始めた。で、
愚かなごんは
(俺が栗や松茸を置いてやってるのに、
俺には礼も言わないで何で神様に礼を言うんだ。
割に合わない)
とすねるのだった。が、
またしても恩着せがましく栗を持ってったところ、
「おっかあが食いてゃーでよと言ってた鰻を盗んだ狐だな。
覚悟するだぎゃー!」
と、ごんを銃殺したのだった。が、
よく見ると、栗は増えてたのである。
ごんは盗みにきたのではなく、いつも
置いてくれた張本人だった。それに気づいた兵十は、
「ごん、おみゃーだったがや。栗をくれてたのは」
と、虫の息のごんを抱き起こして訊いた。
ごんは目をつぶったまま頷き、息絶えたのだった。
兵十の手からごんを撃ち殺した火縄銃が床に落ちた。
その銃口からは青い煙が細く立ちのぼってるのだった。
罪の償いを"黙って"行うことがかえって
迷惑をかけたり、謝意が通じないことにつながった。逆に、
親切を仇と勘違いして安易に武器を使う愚を説いてる。が、
新見は教訓じみた書きかたはしてない。つまり、
「読む者にどうすべきだったかを考えさせる」
形になってるのである。
悪いことをしたなと思ったら、すみやかに謝る。
償いの形は行動だけでなく、説明も加えないと誤解を招く。
犯人だと思ってもよく吟味しなで即断すると冤罪を生むこともある。
等々。が、
孤独でひねくれ者になったごんには、
あのときこうだったらとか、
あそこではこうしてればとか、
と立ち戻って是正してみることなど、
現実問題としては机上の空論である。
幼児期から児童期の親からの躾や道徳教育が
すべてを決してしまうからである。
新見が死んだのは昭和18年の春である。
アッツ島玉砕のほんの少し前のことである。
29歳の命を憐れに思うむきもあるかと思うが、
労咳で召集されずに好きな童話や詩を作ってられた新見のほうが、
濃霧・雨・雪の寒さと飢えと圧倒的な戦力相手の戦地で
虫けらのように死んでった人たちより
はるかに幸せ者だったはずである。
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