現在、世界水泳モントリオール2005が行われてる。
つい、夜に朝にTVをみてしまって頭がボウっとしてる。おかげで、
北島康介選手とパンチ佐藤の声の違いがわからないほどであるが、
前者の話にはおもしろみがないのでわずかに区別はできる。それはさておき、
モントリオールといえば今年から大リーグがなくなってしまった町である。
♪ドッドッ<ミッ>ド<レッ<ファ>レッ>ド>シッ、
<ドッドッ<ミッ>ド<レッ>シ>ラッラ>ソッ♪
コマネチの10点満点の町である。他方、
大リーグが依然として残ってるカナダの都市も私の寝不足の目も、
トロントである。また、ルースィー・モード・モンゴメリ女史の
「ついのすみか(ジャーニー’ズ・エンド)」があった地でもある。
モンゴメリ女史はスコットランド貴族の血を引くカナダ人である。
「赤毛のアン」の原題は「アン・オヴ・グリーン・ゲイブルズ」……
「緑色の切妻屋根のおうちの子アンちゃん」である。
赤と緑のクリスマス的補色関係という結構なアンばいに配されてる物語である。
昭和17年春、モンゴメリは67歳数箇月の生涯を終える。
亭主の鬱病にさいなまれ、その気があった自身にもウツってしまったようである。
損なった健康に苦しみ、薬物に依存せざるをえない厳しい晩年だったとか。
一説にその死が赤と緑を混ぜた黒ずんだ水彩度だったとされてるのは、
そういった状況からである。遠い故郷、プリンス・エドワード島に葬られたが、
翌年にはご亭主もあとを追うかのように亡くなり、なかよく隣りに埋められた。
悲惨な最期のモンゴメリ、といえば、俳優のモンゴメリ・クリフトも哀れであった。
さて、晩年の身体的苦痛といえば、7月28日という日は、
白内障を治すというニセ医者の毒牙にかかって盲目にされ、残り少ない
憂し日々を送らざるをえなかった大バッハの命日である。土用の
丑の日のウナギを食してれば、多少は視力が回復できてたかもしれないが。が、
いずれにしても、おんなじ人物によって失明させられたヘンデルが、
まるでバッハの災難を追いかけるような「フーガの技法」である。
7月28日という日はまた、功成り名を遂げたヴェネッツィアを立ち、
グラーツに出向いたのちヴィーンに出たはいいが、頼みにしてた皇帝カール6世が
突然死んでしまい、継承問題に煩わされるマリア・テレジアには
庇護してもらえなかったのか、やがて有り金も底をつきホームレスとなり、行き倒れ、
無縁仏として葬られた(実際には身元不明死体として処理されたわけではない)
アントーニオ・ヴィヴァールディの命日でもある。ちなみに、
このオーストリア継承戦争は海外にまで飛び火し、カナダでも英仏の紛争が起こるのである。
今でもケベック独立運動の火種は消えてない。大作曲家ヴィヴァールディが
ヴィーンの貧民墓地に埋められてたのが判明したのは、200年弱のちの
1938年、モンゴメリ女史がいよいよ決定的に精神の破綻をきたしそうになって、
最後の「アン」シリーズを書こうと決意したころのことだそうである。
さて、ヴィヴァールディといえば「(合奏)協奏曲」の作家である。「春」3楽章、
♪ミーー<ファーー>レーー<ミーー|>ドーー<レーー>シーー・ーーー♪
これを「子どもの情景」第1曲に「意味もなく」採り入れてしまった
ローベルト・シューマンの命日が翌28日である、ということは、イッヒ・ヴァイス、である。
いわずと知れた、悲惨な晩年を送った「作曲家」である。それはどうでも、
ヴィヴァールディのヴィーンでの「野垂れ死に」はけっして「犬死に」ではなかった。
その「春」1楽章の主主題♪ドー|<ミーミーミー>レ>ド<ソーーを短化して、
パガニーニは♪ラー、ラ・ラ<ド>シ>ラ|<ミー♪を「キソウ」した。そして、
それをヴィーンで披露した。ベートー神はそれを聞こえない耳で聴いたか楽譜を見たかして、
♪ラーーー・ー<ド>シ>ラ|<ミ(>レ>シ<ミ|>ラ)♪と、
のちにクラ音界の最高傑作と目される「第九」主章主主題の一部に取り込んだ。
ベートー神だけではない。リスト、ブラームス、ラフマニノフがそれぞれに
それが「ヴィヴァールディの主題」に基づくものであることを知らずとも、
「パガニーニの主題」を受け継いだ曲を作ったのである。その代表が、
ヴィヴァールディ→パガニーニ→ベートーフェン、である。
これを、我々音数学研究者は「サン=マルコ譜連鎖」と呼んでるのである。
つい、夜に朝にTVをみてしまって頭がボウっとしてる。おかげで、
北島康介選手とパンチ佐藤の声の違いがわからないほどであるが、
前者の話にはおもしろみがないのでわずかに区別はできる。それはさておき、
モントリオールといえば今年から大リーグがなくなってしまった町である。
♪ドッドッ<ミッ>ド<レッ<ファ>レッ>ド>シッ、
<ドッドッ<ミッ>ド<レッ>シ>ラッラ>ソッ♪
コマネチの10点満点の町である。他方、
大リーグが依然として残ってるカナダの都市も私の寝不足の目も、
トロントである。また、ルースィー・モード・モンゴメリ女史の
「ついのすみか(ジャーニー’ズ・エンド)」があった地でもある。
モンゴメリ女史はスコットランド貴族の血を引くカナダ人である。
「赤毛のアン」の原題は「アン・オヴ・グリーン・ゲイブルズ」……
「緑色の切妻屋根のおうちの子アンちゃん」である。
赤と緑のクリスマス的補色関係という結構なアンばいに配されてる物語である。
昭和17年春、モンゴメリは67歳数箇月の生涯を終える。
亭主の鬱病にさいなまれ、その気があった自身にもウツってしまったようである。
損なった健康に苦しみ、薬物に依存せざるをえない厳しい晩年だったとか。
一説にその死が赤と緑を混ぜた黒ずんだ水彩度だったとされてるのは、
そういった状況からである。遠い故郷、プリンス・エドワード島に葬られたが、
翌年にはご亭主もあとを追うかのように亡くなり、なかよく隣りに埋められた。
悲惨な最期のモンゴメリ、といえば、俳優のモンゴメリ・クリフトも哀れであった。
さて、晩年の身体的苦痛といえば、7月28日という日は、
白内障を治すというニセ医者の毒牙にかかって盲目にされ、残り少ない
憂し日々を送らざるをえなかった大バッハの命日である。土用の
丑の日のウナギを食してれば、多少は視力が回復できてたかもしれないが。が、
いずれにしても、おんなじ人物によって失明させられたヘンデルが、
まるでバッハの災難を追いかけるような「フーガの技法」である。
7月28日という日はまた、功成り名を遂げたヴェネッツィアを立ち、
グラーツに出向いたのちヴィーンに出たはいいが、頼みにしてた皇帝カール6世が
突然死んでしまい、継承問題に煩わされるマリア・テレジアには
庇護してもらえなかったのか、やがて有り金も底をつきホームレスとなり、行き倒れ、
無縁仏として葬られた(実際には身元不明死体として処理されたわけではない)
アントーニオ・ヴィヴァールディの命日でもある。ちなみに、
このオーストリア継承戦争は海外にまで飛び火し、カナダでも英仏の紛争が起こるのである。
今でもケベック独立運動の火種は消えてない。大作曲家ヴィヴァールディが
ヴィーンの貧民墓地に埋められてたのが判明したのは、200年弱のちの
1938年、モンゴメリ女史がいよいよ決定的に精神の破綻をきたしそうになって、
最後の「アン」シリーズを書こうと決意したころのことだそうである。
さて、ヴィヴァールディといえば「(合奏)協奏曲」の作家である。「春」3楽章、
♪ミーー<ファーー>レーー<ミーー|>ドーー<レーー>シーー・ーーー♪
これを「子どもの情景」第1曲に「意味もなく」採り入れてしまった
ローベルト・シューマンの命日が翌28日である、ということは、イッヒ・ヴァイス、である。
いわずと知れた、悲惨な晩年を送った「作曲家」である。それはどうでも、
ヴィヴァールディのヴィーンでの「野垂れ死に」はけっして「犬死に」ではなかった。
その「春」1楽章の主主題♪ドー|<ミーミーミー>レ>ド<ソーーを短化して、
パガニーニは♪ラー、ラ・ラ<ド>シ>ラ|<ミー♪を「キソウ」した。そして、
それをヴィーンで披露した。ベートー神はそれを聞こえない耳で聴いたか楽譜を見たかして、
♪ラーーー・ー<ド>シ>ラ|<ミ(>レ>シ<ミ|>ラ)♪と、
のちにクラ音界の最高傑作と目される「第九」主章主主題の一部に取り込んだ。
ベートー神だけではない。リスト、ブラームス、ラフマニノフがそれぞれに
それが「ヴィヴァールディの主題」に基づくものであることを知らずとも、
「パガニーニの主題」を受け継いだ曲を作ったのである。その代表が、
ヴィヴァールディ→パガニーニ→ベートーフェン、である。
これを、我々音数学研究者は「サン=マルコ譜連鎖」と呼んでるのである。
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