はいどうも。ひさびさに完全エロなし恋愛小説です。
結婚して今年で10年、いつしか夫とは会話も無くなり、家庭内別居も同然の毎日を過ごしていた乃理子。
そんなとき、乃理子はあるSNSサイトを通じてひとりの男性に心を惹かれる。たび重なるメッセージのやり取りで、その気持ちはさらに深まって……
31歳の誕生日、乃理子が下した決断。そしてその結果は……
みたいな話です。2万字弱くらいあるので、よかったらお時間ある時にどうぞ。
↓ ↓ ↓
吉本乃理子は、真夜中にひとり自室のパソコンに向かう。電源を入れ、画面が立ち上がるのを待つ。照明をオフにしている部屋の中で、そこだけはまぶしすぎるほどの光が明滅する。その光に照らし出される乃理子の顔からは、表情と呼べるものがすべて消えていた。
同じ家の中にいるはずの夫は、もう寝たのか、それともまだ起きているのか。結婚して10年、いつのまにかお互いに対する興味はすっかり薄れ、もともと口下手だった夫との会話は日ごとに減っていった。今では「おはよう」「いってらっしゃい」「おかえりなさい」この三つの言葉を儀礼的に乃理子が口にする程度で、夫はそれに返事すらしなくなった。
20歳のとき、お互いの情熱をありったけ燃やしつくし、「まだ若すぎるんじゃないのか」という周囲の反対を押し切って同い年の明彦と結婚した。明彦は愛する乃理子との生活のために、と早朝から深夜まで仕事に励み、乃理子はそんな夫の背中をひどく寂しい気持ちで見つめ続けた。子供になかなか恵まれない生活の中で、乃理子もフルタイムの仕事を始めた。朝から晩までの仕事は決して楽ではない。乃理子は疲れ、家事は当然のように滞り、明彦との喧嘩が絶えなくなった。
「君は無理に働く必要なんかないって何度言ったらわかるんだ。金儲けより家の中のことをしっかりやってほしいんだよ、僕は!」
「ひとりで1日中ずっと家の中にいろっていうの!? 子供もいなくてひとりぼっちで、気が狂いそうになるのよ……働くことの何が悪いの、わたしはあなたの奴隷じゃないのよ!?」
「奴隷だなんて、そんなこと言ってないだろう……乃理子、おまえ、まさか職場で浮気なんかしてるんじゃないだろうな?」
「浮気!? 馬鹿にしないでよ、どうしてそんな言葉がでてくるの? あなたのほうこそ、残業だ、接待だ、とか言って本当は浮気してるんじゃないの!?」
それが最後の喧嘩だった。それ以来、明彦は乃理子と一切口をきかなくなった。そんな時間の積み重ねはふたりの間に修復できない溝を生み、結婚10年目を迎える今年、もはや何のために一緒にいるのかさえわからなくなっていた。
だからといって、離婚するほどの決定的な理由もない。まだ夫婦仲が良かった頃に、やっとの思いで手に入れた2階建てのマイホームには常に寒々しい空気が漂う。せっかくの家にいる時間も乃理子は1階、明彦は2階の自室にこもっていることがほとんどだった。
画面の明滅が止まる。
乃理子は無表情のまま使い慣れたマウスに細い指をのせ、インターネットのお気に入りページをクリックした。カラフルなキャラクターが散りばめられたトップページが表示される。
『アミューズ』というそのサイトは、可愛らしいキャラクターを使ったミニゲームをメインに、ブログやチャット、簡単なメッセージのやりとりもできる最近流行りのSNSサイトである。乃理子も半年ほど前、職場の友人に紹介されてここを利用するようになった。最初は見ず知らずの相手が画面の向こうにいることに対して途方もない違和感を感じていたが、ミニゲームやチャットを通じて気の合う仲間ができてからは、毎日のようにここで遊ぶようになった。
お互いのブログにコメントし合ったり、時間があるときにチャットで職場や家庭の愚痴をこぼし合ったりするだけで、これまで感じていた寂しさが癒されていくような気がした。ここではリアルの友人に話せないような内容でも平気で会話のネタにすることができる。相手が見ず知らずの他人で、おそらく一生会うこともないと思うと、肩の力を抜いて素直な自分でいられる。『アミューズ』にログインした瞬間、表情の無かった乃理子の顔に微笑みが浮かぶ。
トップページにパスワードを打ち込んで、『マイページ』と呼ばれる自分のページを開く。そこには乃理子が利用するサービスや自分宛てのお知らせが集約されて載っており、広いネットの世界の中における自分の部屋のようなものだった。
今日のお知らせは2件。『メッセージが届いています』『あなたのブログにコメントがありました』という文が赤字で目立つように表示されている。メッセージの受信ボックスをクリックすると、ゲーム仲間のハルカからチャットの誘いが入っていた。
『ミコへ。 今夜0時からみんなでチャットやってるから、ヒマだったらのぞいてください。もちろん話題が尽きるまでエンドレスでやるつもり! 例の彼との話、みんな聞きたがってるよっ☆ ハルカより』
ミコというのが乃理子がこのサイトで使っている名前だ。特に意味はなく、このサイトを使い始めたときに適当に考えた。今ではそれが仲間内で定着している。
時計を見ると、午前1時を少し過ぎたところだった。ハルカに返信を打つ。
『ハルカへ。 メッセありがとう。ごめんね、明日の朝も早いからチャットはまた今度にします。例の彼とはそのまま、特に進展はナシ。週末のチャット会は絶対に参加するから、みんなによろしくね! ミコより』
名無男はただ乃理子のブログに優しいコメントを残し、乃理子はそれに返信する。たったそれだけの関係だったが、その言葉から溢れる暖かさや、応援してくれている気持ちがものすごく嬉しかった。
ハルカたちゲーム仲間に名無男とのことを相談したことがある。ブログのコメントをやり取りするだけでは物足りなく感じてきた自分の気持ちを、素直に話した。仲間たちの意見は様々で、
「それはミコから誘わせるための作戦じゃない? 騙されちゃダメ!」
なんて警戒心を剥き出しにする子もいれば、
「好きなんだったら、別にもっと仲良くなっちゃえばいいじゃない。たぶん相手もいい大人なんだし、割りきった関係でセフレくらいにはしてあげてもいいんじゃない?」
と極端な意見を出す子もいた。セフレ……セックスフレンドという言葉に、乃理子は顔が真っ赤になった。30にもなって純情を気取るつもりはないが、そんな体だけの関係なんて自分は望んでいない。じゃあ、具体的に名無男とどうなりたいか、と言われるとそれはそれでうまく答えられないのだけれど。
「一度メッセージでも送ってみたら? あなたともっと仲良くなりたいです、とかって。コメントは誰でも見れちゃうけど、メッセの内容は自分たちしかわからないから、相手ももっといろいろ話してくれるかもよ」
ハルカが出したその案が、一番良いような気がした。でも、いざ個人的なメッセージを送るとなると気後れしてしまい、明日にしよう、また明日にしよう、と先延ばしになっていた。
今日、また名無男からのコメントを見て、そのいつもと変わらない優しい文面に「やっぱりもっと仲良くなりたいかも」と思い、乃理子はメッセージの新規作成画面を立ち上げた。
何度も見直して、書いて、消去して、を繰り返し、1時間以上かけてメッセージが完成した。内容は、いつもコメントを入れてくれることに対するお礼と、もう少し個人的に名無男さんのことが知りたい、ということ。そしてもっと仲良くなりたい、ということ。そんなに長い文章でもないのに、おかしくないか何度も読み返してから送信した。
すると5分も経たないうちにピピッ、と電子音がして名無男から返信メッセージが届いた。あまりの早さにびっくりすると同時に、とりあえず返事をもらえたことに安堵のため息を漏らす。
『ミコさんへ。 初めてのメッセージ、とても嬉しく思います。今日はもう遅いので、明日ゆっくりお返事を書かせていただきます。取り急ぎお礼まで。 名無男』
胸の中にふんわりとした照れくささのような感情が広がる。
メッセージ、嬉しかった、だって。明日またお返事くれるんだって。
早くも翌日届く名無男のメッセージを期待しながら、乃理子はその短い返信文を何度も何度も読み返した。
翌日、またいつものように仕事から帰ると、ほぼ同時に夫が帰宅した。「おかえりなさい」と声をかけてもやっぱり無言。2階の部屋へと階段を上がる後ろ姿を見ながら、そのスーツの背中がしわくちゃなのを見ると、ほんの少し悲しくなった。何度スーツをハンガーにかけるように言っても、床にくしゃくしゃにして置いておく癖がなおらなかった。おそらく、いまも2階で彼の洋服は適当に床の上に散らばされたままなのだろう。
気乗りしないまま台所に立ち、二人分の夕食をテーブルに並べ、誰もいないダイニングでテレビを見ながら食べる。乃理子が自分の食器を片付け、浴室に向かったのを見計らって夫が夕食を食べに下りてくる。こういう状態を異常だと感じなくなったのは、いったいいつからだろう。熱いお湯を頭から浴びながら正面に備え付けられた鏡を見ると、そこに映る乃理子の顔にはやはり表情が無かった。
浴室から出て台所へ行くと、夫が使い終わった食器が重ねてある。ざぶざぶと洗って水切りカゴに伏せる。部屋干ししていた洗濯ものを夫のものと分け、夫の分はたたんで階段の1段目に重ねて置いておく。簡単に水回りの掃除を済ませて、1日の家事が終わる。
昨日の夜にあまり眠れていないせいか、頭の芯のほうがどんよりと重く、軽い頭痛がする。自室に戻ってパソコンの電源を入れ、画面の立ち上がりを待つ。
アミューズのトップページ。『メッセージが届いています』の赤文字。乃理子は大慌てで受信ボックスを開き、メッセージを確認した。新しいメッセージは一通。差出人は、名無男。
『ミコさんへ。 こんにちは……こんばんは、かな? 昨日はメッセージありがとうございました。ミコさんのブログは僕のほうこそ読むのを楽しみにさせてもらっています。コメントを入れ続けるのはもしかして迷惑なのかな、と思っていたので、そうではないとわかって安心しました。うまく言えなくて申し訳ないのですが、一生懸命に等身大の自分と向き合おうとする姿が素敵だな、と思って応援していました。
僕のことがもっと知りたい、とのことですが、ご質問いただければ答えられる範囲でなんでもお答えしますよ。ただ、こういった場所ですので、あまり個人的なことは答えられないこともあるかと思いますが、それは許してください。
もっと仲良くなりたいなんて言ってもらえるとは思っていなかったので、とても嬉しいです。これからは、もし良かったらブログへのコメントを入れるだけではなくて、こうしてメッセージのやりとりを続けていけたらいいなと思いますが、御迷惑でしょうか? 名無男より』
乃理子は書かれてある言葉のひとつひとつに、喜びを噛みしめながら読んだ。大急ぎで返信を書く。
『名無男さんへ。 突然のメッセージにも丁寧なお返事をいただき、ありがとうございます。メッセージのやり取りを続けることは、こちらのほうこそお願いしたいくらいです。
質問には何でもお答えいただけるとのことでしたが』
ここまで書いて、乃理子の指は止まった。どうしよう、何を質問したらいいんだろう。漠然と名無男のことがもっと知りたいと思っただけで、具体的な質問は頭に無かった。少し考えて、まずは誰もがプロフィールページに載せているような基本的なことから聞いてみることにした。
『名無男さんはどちらにお住まいですか? わたしは生まれも育ちも関西ですが、夫と結婚したときに関東に来ました。あれから10年たちますが、いまだに慣れないことも多いです。また、お仕事はどういったことをされていますか? わたしのほうはブログにも書いてある通り、小さな会社の事務をやっています。あ、こちらの年齢は30前後ですが、名無男さんはおいくつぐらいでしょうか? それから』
また指を止める。ひと呼吸おいてから、キーボードを叩く。
『ご結婚されていますか?』
本当はこれが一番聞きたかった。乃理子が結婚しているのはブログにも散々夫の愚痴を書いてきたので、むこうはよく知っているはずだった。聞いたからと言ってどうなるものでもないが、どうしても知っておきたかった。
『なんだか本当に質問を並べただけのメッセージになってしまいました。もちろん、内緒にしておきたいことは答えなくて大丈夫です。また、逆にわたしへの質問が何かありましたら、何でも答えます。
それでは、また。 ミコより』
今度は読み返すと送信できなくなりそうだったので、すぐに送信ボタンを押した。メッセージが無事に送信されたことを示す画面を見ながら、どきどきと高鳴る胸にそっと手を当てた。
名無男からの返信は、翌朝の早い時間に届いていた。前日にメッセージが届くと自動で携帯電話に知らせてくれるシステムに登録しておいたので、朝起きた瞬間にメッセージの受信に気がついた。出勤前にどきどきしながら画面を開く。
『ミコさんへ。 おはようございます。昨日は遅くまで家で持ち帰りの仕事をしており、返事が遅くなって申し訳ありません。さて、いただいたご質問の件ですが、僕は生まれてからずっと東京で暮らしています。仕事は普通のサラリーマンですが、不景気なのに従業員不足で悩んでいる不思議な会社で働いています。給料や待遇は可もなく不可もなく、といったところでしょうか。年齢は同じく30代ですが、前半か後半かというところはご想像にお任せします(笑) 結婚はしています』
結婚している、という文字を読んだとき、チクッと胸を鋭い針で刺されたような痛みが走った。馬鹿みたい、わたしだって結婚しているのに……動揺を抑えながら続きを読む。
『僕の方からミコさんへの質問があれば、ということですが、いろいろあるはずなのにあらためてそう言われると何から質問して良いのかわかりません。ブログを拝見して、ミコさんのことはだいたい知ったような気になっているからかもしれません(笑)
以前から少し気になっていたことなのですが、最近のミコさんは少し疲れているように思います。もし良かったら、なにか力になれないかなと思うのですが……と言っても、こうして話を聞くぐらいのことしかできないんですけどね。
変なことを書いてしまって申し訳ない。気に障ったら無視してもらってかまいません。
それでは、今日もお仕事頑張ってください。僕も頑張ります。 名無男』
彼らしい、押しつけがましくない文章。画面を閉じ、大急ぎで会社に向かいながら、乃理子はメッセージの内容を何度も頭の中で思い返していた。
名無男が結婚していたということが、自分でも驚くほどショックだった。そして、同じ東京に住んでいるということが嬉しかった。なんとなく、近くにいてくれるような気がする。そんなわずかな共通点が支えになるほど、乃理子の心は名無男に傾きつつあった。
元気が無いのは自分でもわかっていた。ブログの内容も以前は明るい話題と愚痴が半々くらいだったのに、最近では愚痴ばかりになってしまっている。仕事もたしかに大変だったが、何よりも家庭で満たされないことが大きかった。
嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、それを共有する相手がいないことが狂おしいほどに寂しかった。仲が良かった頃には、乃理子と明彦はお互いに何でも言い合える友達のような夫婦だった。あのまま一生楽しく暮らしていけると思っていたのに、人生というのは本当にどこでどうなるかわからない。
今のような冷え切った関係になってしまったのは、どちらが悪いということでもないのはよくわかっていた。もっとお互いに話し合う機会を持つべきだったし、そうでないのなら、子供もいないのだしさっさと離婚して新しい人生を歩き出せばいいのだ。
どちらの方向へも行動をとらないで、自分をまるで透明人間のように扱う明彦が憎らしかった。また、同じく自分から行動を起こせない自分にも腹が立っていた。愛情があるのかないのか、そんなこともすっかりわからなくなった。不満だらけの日常を抱えて、明るく楽しいブログなんて書けるわけもない。パソコンに向かって吐き出す言葉の端々には、乃理子の「助けて」「ここから救いだして」という無言の願いが溢れだしていた。
その日の夜。誰かにいまの気持ちを聞いてほしくて、仲間同士で使っているチャットルームの画面を開いた。パスワードを入力すると、画面の中で自由に発言し合って会話ができる。
すでに数人が入室して、ゲームの攻略法などについて会話が始まっていた。表示されている名前は、ハルカ、ミナミ、ヨシ、コウ。画面の上部に『ミコさんが入室しました』と赤字が表示されると、みんながミコに挨拶をする。
『ミコー! 久しぶり、待ってたよ^^』
『こんばんは! なかなか来れなかったもんね、元気?』
『こんばんはー。ミコ、例の彼とはどうなったの?』
『やっと来た! 今日こそは彼のこといっぱい聞かせてもらうからね』
表示された発言に乃理子がひとつひとつ返事を打ち込み終わると、みんなの興味は『彼』のことに集中した。『彼』とはもちろん名無男のことである。
乃理子はちょっと照れくさいような気持ちで、名無男とメッセージのやりとりを始めたことを伝えた。そして彼が既婚者であるということがわかり、ものすごくショックだったということも。
『ええ? なんでショックなの? ミコだって旦那さんいるのに』
『わたしはミコの気持ちわかるなあ。だって例え画面の中だけのことでもさ、好きな相手が結婚してるなんて、聞きたくないよ』
好きな相手、と言われて顔が熱くなるのがわかった。ぼんやりとした気持ちはあっても、はっきりと言葉にされるとなんだか重みがある。
『へえ、もっと仲良くなりたいって言えたんだ! 前にも言ったけど、むこうもミコのこと絶対好きだと思うな。さっさと会っちゃえばいいのに』
そう発言したミナミは、このサイトで知り合った男性と熱愛の真っ最中である。お互いの家までは新幹線で1時間ほどの距離らしく、月に1度か2度だけ会う大人の関係を満喫しているらしい。ミナミもお相手の男性も、お互いに既婚者だからこそ問題ないのだという。
『ミナミ、簡単にそんなこと言っちゃダメよ。ミコ、わかってると思うけど、こういう場所って危険なひともいっぱいいるんだから、余程のことが無い限りは会ったりしないほうがいいとわたしは思う。犯罪に巻き込まれる可能性だってあるじゃない』
コウがたしなめるように言う。乃理子自身もどちらかといえば慎重派で、これまではずっと同じように思ってきた。でも、今はその気持ちがぐらついている。
『うーん、実際に会うかどうかは別にして、これからもっと仲良くなれる可能性はあるよね。いっぱいメッセのやり取りしてさ、ミコの気持ちが固まってきたら、それをぶつけてみればいいんじゃない? まだミコのほうも、なんとなく好きかな、くらいなんでしょ?』
それはその通りだった。考えてみれば、まだお互いにものすごく気を張った言葉でのやりとりしかしていない。それをみんなに伝えると『まずは敬語をやめるところから始めてみたらどうか』と、それだけは全員の意見が一致した。
『ねえねえ、それよりミコは名無男さんのどんなところに惹かれたの?』
『あ、それわたしも気になってた。だってさ、あのひとが入れてるコメントって普通のことばっかりじゃない?』
『毎日なにかしらのコメントを入れてくれるってだけでも、半年も続けば嬉しいものじゃないの? それにここまでまったく下心も見えなかったわけだし。ミコもどっちかといえば純情だから、あんまりガツガツ来られなかったのが逆に良かったんじゃない?』
『えーっ、わたしだったらそんなの物足りないな。会いたい、エッチしたい、とか言われるほうが女として認められてる気がするもん』
会いたい、エッチしたい、なんて……もし、名無男からそんなことを言われたら、そのときはどうするだろう。少し前までは迷う余地もなく断っていたはずなのに、考えてしまう自分がいる。ぼんやりしてキーボードを打つ指が止まってしまった乃理子をおいて、ほかのメンバーはお互いの恋愛観について熱い議論を始めてしまった。
そのあと1時間ほどチャットに付き合ってから、いったん画面を閉じた。今朝届いたメッセージにはまだ返信できていない。みんなに言われたように、まずは敬語をやめようって書いてみようか。そんなことを考えながら、乃理子は背伸びをしてキッチンに向かった。
頭の中でメッセージの文章を練りながら、冷蔵庫のミネラルウォーターを出した。2リットルのペットボトルはずっしりと重く、非力な乃理子が片手で持つと妙に不安定になる。重みで右腕を震わせながらコップに水を注いでいると、ふっと腕が軽くなった。
驚いて振り返ると、明彦がばつの悪そうな顔でペットボトルを後ろから支えてくれていた。乃理子は名無男のことでいっぱいになった頭の中をのぞき見られたようで、あせってうまく話せなかった。
「び、びっくりするじゃない……こんな夜中に……」
明彦は相変わらず無言のまま、乃理子がコップに注ぎ終わったのを見て、ペットボトルにそのまま口をつけてごくごくと水を飲み、それを冷蔵庫に戻してまた何事も無かったように2階へと上がっていった。何を考えているのかわからない明彦の行動は乃理子の心をかき乱し、名無男へのメッセージの内容はすっかり頭から飛んでしまった。
自室に戻り、再び画面を立ち上げる。今朝届いたメッセージの画面を見ながら、ゆっくりと返信を打つ。
『名無男さま
こんばんは。お返事に時間がかかってしまって申し訳ありません。いつも優しいお気づかいありがとうございます。
まず、ひとつ提案があります。もしもお嫌でなければ、コメントやメッセージのなかでお互いに敬語を使うのをやめてみるのはどうでしょうか。ちょっとしたことですが、距離が縮まるような気がして……ごめんなさい、うまく説明できないのですが。
それから、最近疲れているようだと言われるのはまさにその通りです。体は特になんともないのですが、以前からブログにも書いているように夫のことでずっと悩み続けています。同じ家の中にいるのに、もう何年も会話がありません。もう、きっとこのまま修復はできないのだと思います。
この半年、名無男さんからのコメントにわたしはずいぶん助けられてきました。こんなことを書くと気持ち悪いと思われるかもしれませんが、わたしは名無男さんをひとりの男性として意識しはじめています。結婚しているとお聞きしたのに、こんなこと書いちゃうなんて最低ですよね……』
そこまで書いて、乃理子の指は止まった。なんてことを書いているんだろう……でも、これが今の自分の本当の気持ち。このまま送ったら、きっと名無男は二度とメッセージを返してくれない。さっきの明彦の行動で混乱した勢いで、こんなことを書いてしまったけど……
いずれにしても、これを伝えずには先に進めない。震える指で送信ボタンをクリックし、そのまま画面を閉じてパソコンの電源を落とした。
翌日の早朝、携帯電話のランプが点滅しているのに気がついた。メッセージ受信のお知らせ。飛び起きてパソコンを立ち上げ、メッセージ画面にアクセスする。新着メッセージは1件、名無男から。
『ミコさんへ
おはようございます。昨日のメッセージを受け取ってから、僕はずっと眠れずにいました。ああ、もう敬語はやめようということでしたね、気をつけます。でも、急には難しいですね(笑)
ご主人との関係で悩んでいることは、ブログからわかっていました。僕も……複雑な事情があって詳しくは書けないのですが……妻との間にトラブルを抱えていて、ミコさんと同じように、もう修復は無理かもしれないと思っている。
女性の方からあんなことを書かせてしまって申し訳ない。僕の方から言うべきだった。僕もミコさんをひとりの女性として大切に思っています。妻がいながら、不誠実だと思われそうですね。
あなたさえ良ければ、僕は画面の中の恋人、ということでどうだろう。この画面の中では、僕にたくさん甘えてくれていい。僕はあなたの支えになりたいと思う。
返事は急ぎません。 名無男』
そのメッセージを読みながら、乃理子の胸は高鳴った。画面の中の恋人、だって……。ずいぶんと久しぶりの、甘く切ない感情がしっとりと広がっていく。甘えてくれていい、という一言には涙が滲んだ。
『名無男さま
いま、メッセージを読みました。文字だけでどこまで伝わるかわからないけれど、あなたの言葉を震えるような思いで読みました。不誠実なのは、わたしのほうです。お互いに結婚していて、支え合うべき相手がいることを知っているのに、こんなにも名無男さんのメッセージを嬉しく思ってしまうから。
わたしも、あなたの画面の中の恋人になりたい。 ミコより』
他人には恥ずかしくて絶対に見せられない文面。読み返す前に送信する。また、5分とたたないうちに返事が来て、そのまま何通もメッセージを交換し続けた。その中に並ぶ言葉は、これまでのものよりもずっと親密で、愛情に満ちたものに感じられた。
お昼を過ぎるまでメッセージのやり取りを続けた後、名無男が出かけるというのでそこでやりとりは小休止となった。恋人同士の雰囲気を盛り上げてくれるためか、これまでの彼には見られなかった言葉……『ずっと可愛らしいひとだと思っていた』『こんなに素敵なひとをきちんと愛さないご主人が信じられない』という蕩けそうになる言葉……を名無男はたくさんくれた。
乃理子はもらったメッセージを何度も何度も開いては、食事も摂らずにそこに書かれた言葉たちを眺めていた。
夕方近くになり、買い物に行く気にもなれずに、乃理子は冷蔵庫の中の材料で夕食の準備を始めた。あまり手の込んだものは作りたくなくて、カレーライスに決めた。炊飯器に米をセットしてスイッチを入れ、具材を鍋で煮込む。そういえば明彦とまだ仲が良かった頃は、カレーぐらいなら自分もできると言って、よく作ってくれたっけ……。不器用なくせに張り切って、皮をむかれたじゃがいもはもとの大きさの半分くらいになっちゃって、にんじんも変な形で、玉ねぎの皮むきで涙も鼻水もダラダラ流して……出来上がったカレーはものすごく不細工だったけど、それでも世界一おいしく感じられた。
ふたりの笑い声が、うるさいくらい響いていたはずなのに。日が暮れて薄暗くなりはじめたキッチンは、そんな頃があったことすら打ち消すように冷え冷えとしている。
この家を出たら、わたしはもっと自由に、幸せになれるのだろうか。そんな勇気もないくせに。でも、もしも『彼』とやり直せたら……らちもない想像をめぐらせながら、乃理子はぐつぐつと音を立てる鍋を見つめていた。
出来上がったカレーを、いつものようにひとりで食べる。とりあえずお腹におさまりさえすれば、味なんてどうでもよかった。食器を片付け、階段の上を見上げる。電気は消えているらしい。寝ているのか、それとも外出しているのか。考えても苦しいだけ。だから無理に考えないようにする。頭をぶるぶると左右に振って、乃理子は自室に戻った。
名無男は夜中まで用事があるということだったから、それまでの間、ハルカに話を聞いてもらうことにした。メッセージで確認すると、すぐにチャットルームに来てくれるという。パスワードを入力していつもの場所に入ると、すでにハルカが待機していた。
『なになに? ミコからお誘いなんて珍しい。彼のこと、進展あったの?』
何でも率直に言うところがハルカの良いところだと思う。ミコはそんないつも通りのハルカに苦笑しながら、昨日からの名無男とのやりとりを打ち込んだ。
『画面の中の恋人!? すごいじゃない、なんなの、たった一晩のうちに何があったのよ! 甘えてくれていい、とか、支えになりたい、なんて大人のひとって感じでいいなあー。わたしもそんなこと言われてみたいよ』
それから、そのあとのやりとりで言われた『可愛い』『素敵だ』という言葉が嬉しかったことも伝えると、
『なにそれ、いきなり急展開! どうなの? ミコとしては、名無男ってひととこのままどうにかなっちゃってもいいの? ミナミみたいに』
ミナミみたいに……会って、セックスして……どうだろう。そんなことまで考えられない。ただ、望んでいないと言えば嘘になる。
『もう恋人、とか言っちゃってるんでしょう? そしたらその後に来る当然の展開だと思うんだけどな。リアルでもそうじゃない? ちょっと仲良くなって、食事にでも行って、お互いの相性がよさそうならエッチしてみて、ってなるよね。完全にダブル不倫まっしぐらに見えるんだけど、それ大丈夫なの?』
たしかに、子供の付き合いでは無い以上、そうしたことは考えておかなくてはいけない。わかっているはずなのに、ダブル不倫なんて言われると、汚らしい感じがして少し気分が良くなかった。まだうまく考えられない、とだけ答えておいた。
『そっか、そうだよね。まあ、お互い大人なんだから、誰にも止める権利なんて無いとは思うけどさ。ほら、でも何かあったときに傷つくのは女の方だから、って思っちゃうんだ。ごめんね、余計なこと言って』
ハルカ自身も少し前にこのサイトで知り合った男性と、リアルで会ったことがあると聞いている。ただ、画面上で接していたときのイメージと、実際に会った時のギャップが激しすぎて合わず、一度食事に行っただけで終わったらしい。慎重派のコウが、いつだったか『文字だけのやりとりだといくらでも取りつくろうことができるし、嘘ばっかり書いてる可能性もある』と言っていた。たしかにそれもそうだと思う。でも、名無男に限ってはそんなことはない……はず。
『あーあ、ミコったらすっかり恋愛モードに入っちゃってる。そうだよね、好きな人のこと、疑いたくないよね。たしかに、あのコメントみてると悪い人には見えない。わたしはミコがどの方向を選んでも、ちゃんと応援するつもり。またなにかあったら教えてよ』
優しいハルカ。ちゃんと乃理子の気持ちを汲んでフォロー入れてくれる。そのまま恋愛って難しいよね、というような話をしばらく続けてチャットルームを閉じた。会話の最後の方で、ハルカが『彼と写メの交換すれば? きっと文字だけよりずっとリアル感あって楽しいと思う』と言うのを聞いて、乃理子は少し気持ちが弾んだ。
深夜1時過ぎ、名無男からのメッセージはまだ届かない。どうしても写真の交換のことを相談したくなって、短文のメッセージを書いて送った。
『名無男さま
こんばんは。お仕事お疲れさま。いきなりですが、提案があります。
名無男さんと顔写真の交換をしたいな、と思ったのですがどうでしょうか? 携帯で撮ったものでも、プリクラでも、なんでもいいのですが……。それを見ながら、メッセージを読むことができたら本当におしゃべりしているような気持ちになれるかなって。
お返事お待ちしています。 ミコ』
そのメッセージを送ってから数日過ぎても、名無男からの返信は届かなかった。
乃理子は余計なことを書いてしまったのかと落胆し、家事をする気もなくなり、仕事でもミスを連発するほどショックを受けた。やっと返事が届いたのは、メッセージを送信してからちょうど1週間後のことだった。
『ミコさんへ
まず、お返事がこんなに遅くなってしまって申し訳ない。いくつかの仕事に追われていたことと、もらったメッセージにどう返信していいか迷っていたのが正直なところです。
結論からいえば、写真の交換はできない。それは僕の方の勝手な事情で、決してあなたのことを大切に思う気持ちに嘘は無い。なにかをごまかすために言っているのではないと、それだけはわかってほしいと思う。
1週間も放っておくなんて、僕は早くも恋人失格かな。最近はブログも更新していないね。僕の返事が無いことに落ち込んでいたのかな、と思うのはうぬぼれすぎだろうか。もしもそうだとしたら、不謹慎ながら嬉しく思います。 名無男』
もう写真のことなんてどっちでも良かった。名無男がまたメッセージをくれたことで、乃理子は緊張の糸が切れたように涙ぐんだ。画面が涙で滲む。急いで返信を打つ。
『名無男さま
こちらこそ、本当にごめんなさい。いきなり写真だなんて……こうしてメッセージをやり取りできるだけでも幸せなのに。この1週間、わたしはたしかにおかしかった。あなたに恋人宣言されてから、ずっとわけのわからない妄想ばかりしていました。笑わないで読んでくれますか?
この家を出て、名無男さんとふたりで新しい生活を始めるという妄想です。休日には一緒に買い物に出かけたり、たまには旅行に行ったり、仕事から帰ってきた後に他愛もない話をしあって笑ったり……そんな当たり前の夫婦のようなことを一緒にできたらいいなって思っていました。ごめんなさい、奥様もいらっしゃるのに、勝手にこんなこと考えてしまって。
これからもたくさんメッセージのやり取りを楽しみたいです。 ミコより』
送信し終わって画面をぼんやり眺めているうちに、すぐに返信が届いた。
『ミコさま
あなたは本当に可愛らしい人ですね。よければ、あなたにとっての理想の家庭像をもっと聞かせて欲しい。休日に一緒に買い物に行って、両行もして……ほかにどんなことがしたいと思っているんだろう。僕もできることなら、あなたとそんな生活がしたい。
無責任にこんなことを言うのはいけないことですね。反省します。 名無男』
『名無男さま
メッセージの中だけでも、そんなふうに言ってもらえて嬉しいです。やりたいことはまだまだたくさんあります。
例えば、お給料日の夜だけはふたりでお気に入りのお店のディナーを食べに出かけたり、何か共通の趣味を持つのもいいと思うし……季節ごとの洋服を一緒に見に行くのも楽しそう。あなたに似合う洋服を、わたしがあれこれ選んで試着してもらったり。
どれもこれも、あたりまえすぎることばかりですよね。でも、わたしがしたいのは、心を許せる相手とそんなあたりまえの暮らしをすることなんです。 ミコより』
『ミコさま
僕たちはすごく考えが似ているように思います。ミコさんが書いたような暮らしは、僕の憧れでもあります。現実にはなかなか難しいこともあるかもしれないけど、そういう毎日を重ねていける夫婦は幸せだろうと思う。
あなたを妻にしたご主人は、幸せ者ですね。 名無男』
夫は……明彦は乃理子と結婚して幸せだと感じたことはあったのか。今はそれすら疑問に思う。乃理子と名無男は一晩中メッセージのやりとりを続け、その中で乃理子は拗ねて見せ、彼に甘え、彼はそんな乃理子をどこまでも受け入れた。幸せな時間は瞬く間に過ぎ、気付けば朝がやってきていた。
ふたりはお互いの生活に支障がないようにとルールを決めることにした。平日は夜中に1時間だけ、休日前夜は気が済むまでメッセージのやり取りやチャットをしようということに決めた。
夜になれば必ず彼と話ができる。そう思えば、何もない日常生活にも張りが出た。だらしない生活をしていたら、もしも名無男と共に生活するようになったときに悪い気がした。だから、どんなに疲れていても家事は以前よりもきちんとするように頑張った。料理も手を抜かず、栄養のバランスを考えたものを作るようにもなった。それがすべて夫のためではなく、名無男のためだというのが皮肉ではあるけれど。
夫の態度は一貫して変わらない。顔を見ても話すことはなく、目も合わさず、たまに2階で物音がすると「ああ、いるのかな」と思う程度だった。少しだけ罪悪感のようなものを感じたが、だからといって名無男との関係にブレーキをかける要素にはならなかった。
日がたつごとに、どんどん気持ちが惹かれていくのがわかった。手の届くところに相手がいたら、迷わず抱きあっていたに違いないと思えるほど、乃理子の気持ちは燃えあがっていった。
メッセージを交換するようになって3カ月ほど過ぎた頃、星座か何かの話の流れでお互いの誕生日の話題になった。乃理子の誕生日は2週間後の10月15日だというと、名無男はびっくりするようなことを言い出した。
『ミコさま
10月14日の誕生日、僕にお祝いをさせてもらえないだろうか。少し前に、大きな花束を恋人からもらうのが夢だって言っていただろう? あれを実現させてあげたい。もちろん、直接会って渡すつもりだ。それとも、やっぱり会うのは難しいかな? 名無男』
名無男と……会う? 心臓が壊れそうなくらいバクバクと音をたてた。文字だけのやり取りで、こんなにも好きになってしまった。会いたくないわけが無い。でも……不安が無いわけじゃない。会ってしまったことで、せっかくのふたりの関係が壊れてしまったら……またあの張りの無い毎日に逆戻りなんて絶対に嫌。
ぐるぐるといろんな考えが渦巻く。少し考えさせてほしい、と返信して、いつかの名無男と同じように1週間ほど悩んだ。
いざこういう事態になると、ハルカたちにも相談する気になれない。否定も肯定もされたくなかった。大切な人からの、大切な誘い。いい加減な気持ちで答えたくない。自分だけでしっかりと答えを出したかった。
そして、乃理子は答えを出した。
『名無男さま
お返事をお待たせしてごめんなさい。どうしてもいい加減な気持ちでお返事したくなかったのです。
わたし、あなたに会いたい。誕生日を一緒にお祝いしてください。 ミコより』
『ミコさま
突然困らせるようなことを言って、こちらこそ悪かった。当日は君が好きだと話していたイタリアンレストランを予約しておくよ。待ち合わせ場所と時間はまた連絡する。今週はもう忙しくてあまりメッセージを送れないかもしれないけど、当日会えるのを楽しみにしているよ。 名無男』
その翌日には、具体的な待ち合わせ場所と時間の連絡がきた。場所は乃理子の家から電車で30分ほどのところにある、有名な時計台の下。誰が言い出したのか、そこで待ち合わせをするカップルは必ず幸せになれるとか。時間は午後6時。チャコールグレイのスーツに濃い赤のネクタイ、それに大きな花束を持っていくからすぐにわかると思う、と書いていた。
乃理子も当日着て行く予定の服装を伝え、楽しみにしています、と送った。
31歳の誕生日、わざわざ花束を用意して祝ってくれる名無男のためにも、これをただのデートにしたくは無かった。ひとつの区切りをきちんとつける、新たな旅立ちの日にしようと乃理子は決めていた。
誕生日の2日前、会社の昼休みに区役所へ出かけた。滅多に来ることがなく、少し戸惑ったが目的のものはすぐに見つかった。家に帰って、ダイニングテーブルにそれを広げる。薄っぺらい紙に緑の枠組みと文字。離婚届。
こんな紙一枚で夫婦の関係は終わらせることができるのか、と思うと、拍子抜けしそうになる。そういえば婚姻届もこんな紙一枚のことだった。あのときの気持ちは、もう忘れてしまった。
自分が書くべきところだけしっかりと記入して印鑑を押す。これを、誕生日に名無男と会う前にテーブルの上において出る。おそらく夫は迷わずサインして、この中途半端で面倒くさい関係を終わらせてくれるに違いない。
印鑑を押すとき、一筋だけ涙が流れた。でも、それはいったいどういう涙なのか、乃理子にもよくわからなかった。
そして誕生日。もう、今日のデートから帰ったら翌日には家を出て行くつもりだった。ほとんどの荷物は段ボールに詰め終わっている。別に名無男に頼る気持ちは無かったので、しばらくは地元の関西でもう一度自分を見つめ直そうと思っていた。家のローンもほとんど終わっているし、特に財産分与や何かを請求するつもりはない。
予定通りテーブルの上に離婚届を広げて置き、がらんとした自分の部屋をもう一度眺めてから乃理子はドアを閉めた。
日曜日の夕方、電車の中は幸せそうな親子連れや恋人たちが溢れていた。きゃあきゃあと楽しそうな声を聞きながら、乃理子は車窓を流れる風景だけをじっと見ていた。夕暮れが迫る街並みにはキラキラと照明が灯りはじめ、昼間とは違う表情に変わっていく。心はもう波立つこともなく、ただ静かに名無男との不思議な関係に思いを馳せた。
午後5時半を少し過ぎたところで待ち合わせ場所に着いた。さすがに有名スポットだけあって、若いカップルたちで混雑している。まだ時間には早すぎる。乃理子は時間を確認した後、すぐ近くのコーヒーショップでカフェオレを頼み、それを持ったまま時計台の真下にあるベンチに座った。
日が暮れた後、しんしんと寒さが忍び寄ってくる。昼間は暑いくらいだったのに……半袖のワンピースで来たことを後悔しながら温かいカフェオレを啜った。名無男はいったいどんなひとなんだろう。写真を断るくらいだから、ものすごく容姿にコンプレックスがあるひとなのだろうか。ちらっと頭の中で漫画に出てくる太っちょでいじめっ子のキャラクターを想像して、乃理子はひとり笑った。
「あの……」
急に声をかけられて、手に持ったカフェオレを落としそうになる。顔をあげると目の前に色とりどりの花束が突き出されていた。それは、赤、黄色、白、ピンク……カラフルな花たちが何十本もまとめられたもので、乃理子が名無男に話した理想の花束そのものだった。
「名無男さん、ですか?」
花束で視界を遮られ、顔が見えない。足元の革靴とチャコールグレイのスーツの膝下だけが確認できた。相手は答えない。
「わたしです。ミコです。今日はありがとう……」
花束の隙間から、ようやく相手の顔が見えた。乃理子は言葉を失い、まだ半分ほど残ったカフェオレのカップが地面に転がった。思わず立ち上がる。
「明彦……どうして……?」
眉尻を下げたバツの悪そうな、夫、明彦の顔がそこにあった。明彦は頭をぽりぽりと掻きながら、小さな声で「少し話そう」と言った。
もう一度ベンチに座り直す。せっかく席が空くと思っていたカップルたちの舌打ちが聞こえる。頭が混乱して、何から言えばいいのかわからなくなった。明彦が静かに頭を下げた。
「ごめん。だますようなことして、本当に悪かった。おれ、馬鹿だからこんなことしか思いつかなくて……でも、なんか、ほんとどうしていいかわかんなくて……」
「あ、明彦、本当にあなたが名無男なの?」
ただでさえ口下手な明彦は、必死でいままでのことを説明しようとしていたが、話の前後関係がばらばらな上に興奮してよけいにわからなくなるので、話の途中で何度も乃理子が内容を整理しながら聞かなくてはならなかった。
明彦が乃理子のブログを知ったのは、ちょっとした偶然だった。ある日、どうしても必要な書類が見当たらなくて、もしかして乃理子の部屋に紛れ込んでいないかと、乃理子が入浴中に部屋に入ったことがあったらしい。
「それでさ、ほんとに、見るつもりなんて無かったんだけど、ほら、なんとなくパソコンの画面見たら……あの、ブログの画面でさ……」
「ああ……」
たしかに、ブログ画面にアクセスしたまま放置したことも珍しくは無かった。それを見た明彦は、何を書いているのか興味をそそられて、自分のパソコンから検索してアクセスし、当たり障りのないコメントを入れるようになったという。
「ほら、俺たち、こんなふうになって……まともに話なんかできる状態じゃなかっただろ? でも、嘘臭いって思われそうだけど、なんていうか、乃理子のことずっと気になっててさ……なら、直接言えばいいって思われるかもしれないけど、ほら、そんな空気じゃなかったし……」
「そう……」
「職場のことでも、俺のことでも、すげえ悩んでて、悪いなって思ってたけど、ずっと乃理子が俺のこと怒ってるんだって思ってて……でもほら、コメントとか入れると悦んでくれただろ? メッセージを始めたときも、すげえ楽しそうで、なんか俺も嬉しくなって……」
「それは写真交換なんてできないわよね……」
「そう、あれは本当にどうしようかと思って、でも……あ、うん、ほんと、ごめん……メッセージみたいにゆっくり考えながらだったら、乃理子が喜ぶようなことも言えるんだけど、だめだな、直接しゃべるとこんなふうになって……もう、許してくれないと思うけど、俺、ほんとにおまえのこと大事に思ってた。ごめん……」
同い年なのに、まるで子供のようにうつむいて鼻をすすりあげる明彦の腕をとって、乃理子はゆっくりと立ち上がった。花束を両手で受け取り、そのかぐわしい香りを胸一杯に吸い込む。
「もういいわ。あーあ、なんだか気が抜けてお腹すいちゃった。話は後にしましょう。ちゃんとイタリアンレストラン予約してくれてるんでしょ?」
「う、うん、もちろんだ。奮発して一番高いコース頼んでるよ」
「じゃ、行きましょうか。名無男さん?」
花束を右手で抱き、左手を明彦の腕に絡ませる。顔を見合わせて大きな声でげらげらと笑いながら、ふたりは歩幅をそろえて歩き始めた。もう一度、わたしたちやりなおせるよね。乃理子は、帰ったら真っ先にあの離婚届を破り捨てようと心に誓った。
(おわり)
結婚して今年で10年、いつしか夫とは会話も無くなり、家庭内別居も同然の毎日を過ごしていた乃理子。
そんなとき、乃理子はあるSNSサイトを通じてひとりの男性に心を惹かれる。たび重なるメッセージのやり取りで、その気持ちはさらに深まって……
31歳の誕生日、乃理子が下した決断。そしてその結果は……
みたいな話です。2万字弱くらいあるので、よかったらお時間ある時にどうぞ。
↓ ↓ ↓
吉本乃理子は、真夜中にひとり自室のパソコンに向かう。電源を入れ、画面が立ち上がるのを待つ。照明をオフにしている部屋の中で、そこだけはまぶしすぎるほどの光が明滅する。その光に照らし出される乃理子の顔からは、表情と呼べるものがすべて消えていた。
同じ家の中にいるはずの夫は、もう寝たのか、それともまだ起きているのか。結婚して10年、いつのまにかお互いに対する興味はすっかり薄れ、もともと口下手だった夫との会話は日ごとに減っていった。今では「おはよう」「いってらっしゃい」「おかえりなさい」この三つの言葉を儀礼的に乃理子が口にする程度で、夫はそれに返事すらしなくなった。
20歳のとき、お互いの情熱をありったけ燃やしつくし、「まだ若すぎるんじゃないのか」という周囲の反対を押し切って同い年の明彦と結婚した。明彦は愛する乃理子との生活のために、と早朝から深夜まで仕事に励み、乃理子はそんな夫の背中をひどく寂しい気持ちで見つめ続けた。子供になかなか恵まれない生活の中で、乃理子もフルタイムの仕事を始めた。朝から晩までの仕事は決して楽ではない。乃理子は疲れ、家事は当然のように滞り、明彦との喧嘩が絶えなくなった。
「君は無理に働く必要なんかないって何度言ったらわかるんだ。金儲けより家の中のことをしっかりやってほしいんだよ、僕は!」
「ひとりで1日中ずっと家の中にいろっていうの!? 子供もいなくてひとりぼっちで、気が狂いそうになるのよ……働くことの何が悪いの、わたしはあなたの奴隷じゃないのよ!?」
「奴隷だなんて、そんなこと言ってないだろう……乃理子、おまえ、まさか職場で浮気なんかしてるんじゃないだろうな?」
「浮気!? 馬鹿にしないでよ、どうしてそんな言葉がでてくるの? あなたのほうこそ、残業だ、接待だ、とか言って本当は浮気してるんじゃないの!?」
それが最後の喧嘩だった。それ以来、明彦は乃理子と一切口をきかなくなった。そんな時間の積み重ねはふたりの間に修復できない溝を生み、結婚10年目を迎える今年、もはや何のために一緒にいるのかさえわからなくなっていた。
だからといって、離婚するほどの決定的な理由もない。まだ夫婦仲が良かった頃に、やっとの思いで手に入れた2階建てのマイホームには常に寒々しい空気が漂う。せっかくの家にいる時間も乃理子は1階、明彦は2階の自室にこもっていることがほとんどだった。
画面の明滅が止まる。
乃理子は無表情のまま使い慣れたマウスに細い指をのせ、インターネットのお気に入りページをクリックした。カラフルなキャラクターが散りばめられたトップページが表示される。
『アミューズ』というそのサイトは、可愛らしいキャラクターを使ったミニゲームをメインに、ブログやチャット、簡単なメッセージのやりとりもできる最近流行りのSNSサイトである。乃理子も半年ほど前、職場の友人に紹介されてここを利用するようになった。最初は見ず知らずの相手が画面の向こうにいることに対して途方もない違和感を感じていたが、ミニゲームやチャットを通じて気の合う仲間ができてからは、毎日のようにここで遊ぶようになった。
お互いのブログにコメントし合ったり、時間があるときにチャットで職場や家庭の愚痴をこぼし合ったりするだけで、これまで感じていた寂しさが癒されていくような気がした。ここではリアルの友人に話せないような内容でも平気で会話のネタにすることができる。相手が見ず知らずの他人で、おそらく一生会うこともないと思うと、肩の力を抜いて素直な自分でいられる。『アミューズ』にログインした瞬間、表情の無かった乃理子の顔に微笑みが浮かぶ。
トップページにパスワードを打ち込んで、『マイページ』と呼ばれる自分のページを開く。そこには乃理子が利用するサービスや自分宛てのお知らせが集約されて載っており、広いネットの世界の中における自分の部屋のようなものだった。
今日のお知らせは2件。『メッセージが届いています』『あなたのブログにコメントがありました』という文が赤字で目立つように表示されている。メッセージの受信ボックスをクリックすると、ゲーム仲間のハルカからチャットの誘いが入っていた。
『ミコへ。 今夜0時からみんなでチャットやってるから、ヒマだったらのぞいてください。もちろん話題が尽きるまでエンドレスでやるつもり! 例の彼との話、みんな聞きたがってるよっ☆ ハルカより』
ミコというのが乃理子がこのサイトで使っている名前だ。特に意味はなく、このサイトを使い始めたときに適当に考えた。今ではそれが仲間内で定着している。
時計を見ると、午前1時を少し過ぎたところだった。ハルカに返信を打つ。
『ハルカへ。 メッセありがとう。ごめんね、明日の朝も早いからチャットはまた今度にします。例の彼とはそのまま、特に進展はナシ。週末のチャット会は絶対に参加するから、みんなによろしくね! ミコより』
名無男はただ乃理子のブログに優しいコメントを残し、乃理子はそれに返信する。たったそれだけの関係だったが、その言葉から溢れる暖かさや、応援してくれている気持ちがものすごく嬉しかった。
ハルカたちゲーム仲間に名無男とのことを相談したことがある。ブログのコメントをやり取りするだけでは物足りなく感じてきた自分の気持ちを、素直に話した。仲間たちの意見は様々で、
「それはミコから誘わせるための作戦じゃない? 騙されちゃダメ!」
なんて警戒心を剥き出しにする子もいれば、
「好きなんだったら、別にもっと仲良くなっちゃえばいいじゃない。たぶん相手もいい大人なんだし、割りきった関係でセフレくらいにはしてあげてもいいんじゃない?」
と極端な意見を出す子もいた。セフレ……セックスフレンドという言葉に、乃理子は顔が真っ赤になった。30にもなって純情を気取るつもりはないが、そんな体だけの関係なんて自分は望んでいない。じゃあ、具体的に名無男とどうなりたいか、と言われるとそれはそれでうまく答えられないのだけれど。
「一度メッセージでも送ってみたら? あなたともっと仲良くなりたいです、とかって。コメントは誰でも見れちゃうけど、メッセの内容は自分たちしかわからないから、相手ももっといろいろ話してくれるかもよ」
ハルカが出したその案が、一番良いような気がした。でも、いざ個人的なメッセージを送るとなると気後れしてしまい、明日にしよう、また明日にしよう、と先延ばしになっていた。
今日、また名無男からのコメントを見て、そのいつもと変わらない優しい文面に「やっぱりもっと仲良くなりたいかも」と思い、乃理子はメッセージの新規作成画面を立ち上げた。
何度も見直して、書いて、消去して、を繰り返し、1時間以上かけてメッセージが完成した。内容は、いつもコメントを入れてくれることに対するお礼と、もう少し個人的に名無男さんのことが知りたい、ということ。そしてもっと仲良くなりたい、ということ。そんなに長い文章でもないのに、おかしくないか何度も読み返してから送信した。
すると5分も経たないうちにピピッ、と電子音がして名無男から返信メッセージが届いた。あまりの早さにびっくりすると同時に、とりあえず返事をもらえたことに安堵のため息を漏らす。
『ミコさんへ。 初めてのメッセージ、とても嬉しく思います。今日はもう遅いので、明日ゆっくりお返事を書かせていただきます。取り急ぎお礼まで。 名無男』
胸の中にふんわりとした照れくささのような感情が広がる。
メッセージ、嬉しかった、だって。明日またお返事くれるんだって。
早くも翌日届く名無男のメッセージを期待しながら、乃理子はその短い返信文を何度も何度も読み返した。
翌日、またいつものように仕事から帰ると、ほぼ同時に夫が帰宅した。「おかえりなさい」と声をかけてもやっぱり無言。2階の部屋へと階段を上がる後ろ姿を見ながら、そのスーツの背中がしわくちゃなのを見ると、ほんの少し悲しくなった。何度スーツをハンガーにかけるように言っても、床にくしゃくしゃにして置いておく癖がなおらなかった。おそらく、いまも2階で彼の洋服は適当に床の上に散らばされたままなのだろう。
気乗りしないまま台所に立ち、二人分の夕食をテーブルに並べ、誰もいないダイニングでテレビを見ながら食べる。乃理子が自分の食器を片付け、浴室に向かったのを見計らって夫が夕食を食べに下りてくる。こういう状態を異常だと感じなくなったのは、いったいいつからだろう。熱いお湯を頭から浴びながら正面に備え付けられた鏡を見ると、そこに映る乃理子の顔にはやはり表情が無かった。
浴室から出て台所へ行くと、夫が使い終わった食器が重ねてある。ざぶざぶと洗って水切りカゴに伏せる。部屋干ししていた洗濯ものを夫のものと分け、夫の分はたたんで階段の1段目に重ねて置いておく。簡単に水回りの掃除を済ませて、1日の家事が終わる。
昨日の夜にあまり眠れていないせいか、頭の芯のほうがどんよりと重く、軽い頭痛がする。自室に戻ってパソコンの電源を入れ、画面の立ち上がりを待つ。
アミューズのトップページ。『メッセージが届いています』の赤文字。乃理子は大慌てで受信ボックスを開き、メッセージを確認した。新しいメッセージは一通。差出人は、名無男。
『ミコさんへ。 こんにちは……こんばんは、かな? 昨日はメッセージありがとうございました。ミコさんのブログは僕のほうこそ読むのを楽しみにさせてもらっています。コメントを入れ続けるのはもしかして迷惑なのかな、と思っていたので、そうではないとわかって安心しました。うまく言えなくて申し訳ないのですが、一生懸命に等身大の自分と向き合おうとする姿が素敵だな、と思って応援していました。
僕のことがもっと知りたい、とのことですが、ご質問いただければ答えられる範囲でなんでもお答えしますよ。ただ、こういった場所ですので、あまり個人的なことは答えられないこともあるかと思いますが、それは許してください。
もっと仲良くなりたいなんて言ってもらえるとは思っていなかったので、とても嬉しいです。これからは、もし良かったらブログへのコメントを入れるだけではなくて、こうしてメッセージのやりとりを続けていけたらいいなと思いますが、御迷惑でしょうか? 名無男より』
乃理子は書かれてある言葉のひとつひとつに、喜びを噛みしめながら読んだ。大急ぎで返信を書く。
『名無男さんへ。 突然のメッセージにも丁寧なお返事をいただき、ありがとうございます。メッセージのやり取りを続けることは、こちらのほうこそお願いしたいくらいです。
質問には何でもお答えいただけるとのことでしたが』
ここまで書いて、乃理子の指は止まった。どうしよう、何を質問したらいいんだろう。漠然と名無男のことがもっと知りたいと思っただけで、具体的な質問は頭に無かった。少し考えて、まずは誰もがプロフィールページに載せているような基本的なことから聞いてみることにした。
『名無男さんはどちらにお住まいですか? わたしは生まれも育ちも関西ですが、夫と結婚したときに関東に来ました。あれから10年たちますが、いまだに慣れないことも多いです。また、お仕事はどういったことをされていますか? わたしのほうはブログにも書いてある通り、小さな会社の事務をやっています。あ、こちらの年齢は30前後ですが、名無男さんはおいくつぐらいでしょうか? それから』
また指を止める。ひと呼吸おいてから、キーボードを叩く。
『ご結婚されていますか?』
本当はこれが一番聞きたかった。乃理子が結婚しているのはブログにも散々夫の愚痴を書いてきたので、むこうはよく知っているはずだった。聞いたからと言ってどうなるものでもないが、どうしても知っておきたかった。
『なんだか本当に質問を並べただけのメッセージになってしまいました。もちろん、内緒にしておきたいことは答えなくて大丈夫です。また、逆にわたしへの質問が何かありましたら、何でも答えます。
それでは、また。 ミコより』
今度は読み返すと送信できなくなりそうだったので、すぐに送信ボタンを押した。メッセージが無事に送信されたことを示す画面を見ながら、どきどきと高鳴る胸にそっと手を当てた。
名無男からの返信は、翌朝の早い時間に届いていた。前日にメッセージが届くと自動で携帯電話に知らせてくれるシステムに登録しておいたので、朝起きた瞬間にメッセージの受信に気がついた。出勤前にどきどきしながら画面を開く。
『ミコさんへ。 おはようございます。昨日は遅くまで家で持ち帰りの仕事をしており、返事が遅くなって申し訳ありません。さて、いただいたご質問の件ですが、僕は生まれてからずっと東京で暮らしています。仕事は普通のサラリーマンですが、不景気なのに従業員不足で悩んでいる不思議な会社で働いています。給料や待遇は可もなく不可もなく、といったところでしょうか。年齢は同じく30代ですが、前半か後半かというところはご想像にお任せします(笑) 結婚はしています』
結婚している、という文字を読んだとき、チクッと胸を鋭い針で刺されたような痛みが走った。馬鹿みたい、わたしだって結婚しているのに……動揺を抑えながら続きを読む。
『僕の方からミコさんへの質問があれば、ということですが、いろいろあるはずなのにあらためてそう言われると何から質問して良いのかわかりません。ブログを拝見して、ミコさんのことはだいたい知ったような気になっているからかもしれません(笑)
以前から少し気になっていたことなのですが、最近のミコさんは少し疲れているように思います。もし良かったら、なにか力になれないかなと思うのですが……と言っても、こうして話を聞くぐらいのことしかできないんですけどね。
変なことを書いてしまって申し訳ない。気に障ったら無視してもらってかまいません。
それでは、今日もお仕事頑張ってください。僕も頑張ります。 名無男』
彼らしい、押しつけがましくない文章。画面を閉じ、大急ぎで会社に向かいながら、乃理子はメッセージの内容を何度も頭の中で思い返していた。
名無男が結婚していたということが、自分でも驚くほどショックだった。そして、同じ東京に住んでいるということが嬉しかった。なんとなく、近くにいてくれるような気がする。そんなわずかな共通点が支えになるほど、乃理子の心は名無男に傾きつつあった。
元気が無いのは自分でもわかっていた。ブログの内容も以前は明るい話題と愚痴が半々くらいだったのに、最近では愚痴ばかりになってしまっている。仕事もたしかに大変だったが、何よりも家庭で満たされないことが大きかった。
嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、それを共有する相手がいないことが狂おしいほどに寂しかった。仲が良かった頃には、乃理子と明彦はお互いに何でも言い合える友達のような夫婦だった。あのまま一生楽しく暮らしていけると思っていたのに、人生というのは本当にどこでどうなるかわからない。
今のような冷え切った関係になってしまったのは、どちらが悪いということでもないのはよくわかっていた。もっとお互いに話し合う機会を持つべきだったし、そうでないのなら、子供もいないのだしさっさと離婚して新しい人生を歩き出せばいいのだ。
どちらの方向へも行動をとらないで、自分をまるで透明人間のように扱う明彦が憎らしかった。また、同じく自分から行動を起こせない自分にも腹が立っていた。愛情があるのかないのか、そんなこともすっかりわからなくなった。不満だらけの日常を抱えて、明るく楽しいブログなんて書けるわけもない。パソコンに向かって吐き出す言葉の端々には、乃理子の「助けて」「ここから救いだして」という無言の願いが溢れだしていた。
その日の夜。誰かにいまの気持ちを聞いてほしくて、仲間同士で使っているチャットルームの画面を開いた。パスワードを入力すると、画面の中で自由に発言し合って会話ができる。
すでに数人が入室して、ゲームの攻略法などについて会話が始まっていた。表示されている名前は、ハルカ、ミナミ、ヨシ、コウ。画面の上部に『ミコさんが入室しました』と赤字が表示されると、みんながミコに挨拶をする。
『ミコー! 久しぶり、待ってたよ^^』
『こんばんは! なかなか来れなかったもんね、元気?』
『こんばんはー。ミコ、例の彼とはどうなったの?』
『やっと来た! 今日こそは彼のこといっぱい聞かせてもらうからね』
表示された発言に乃理子がひとつひとつ返事を打ち込み終わると、みんなの興味は『彼』のことに集中した。『彼』とはもちろん名無男のことである。
乃理子はちょっと照れくさいような気持ちで、名無男とメッセージのやりとりを始めたことを伝えた。そして彼が既婚者であるということがわかり、ものすごくショックだったということも。
『ええ? なんでショックなの? ミコだって旦那さんいるのに』
『わたしはミコの気持ちわかるなあ。だって例え画面の中だけのことでもさ、好きな相手が結婚してるなんて、聞きたくないよ』
好きな相手、と言われて顔が熱くなるのがわかった。ぼんやりとした気持ちはあっても、はっきりと言葉にされるとなんだか重みがある。
『へえ、もっと仲良くなりたいって言えたんだ! 前にも言ったけど、むこうもミコのこと絶対好きだと思うな。さっさと会っちゃえばいいのに』
そう発言したミナミは、このサイトで知り合った男性と熱愛の真っ最中である。お互いの家までは新幹線で1時間ほどの距離らしく、月に1度か2度だけ会う大人の関係を満喫しているらしい。ミナミもお相手の男性も、お互いに既婚者だからこそ問題ないのだという。
『ミナミ、簡単にそんなこと言っちゃダメよ。ミコ、わかってると思うけど、こういう場所って危険なひともいっぱいいるんだから、余程のことが無い限りは会ったりしないほうがいいとわたしは思う。犯罪に巻き込まれる可能性だってあるじゃない』
コウがたしなめるように言う。乃理子自身もどちらかといえば慎重派で、これまではずっと同じように思ってきた。でも、今はその気持ちがぐらついている。
『うーん、実際に会うかどうかは別にして、これからもっと仲良くなれる可能性はあるよね。いっぱいメッセのやり取りしてさ、ミコの気持ちが固まってきたら、それをぶつけてみればいいんじゃない? まだミコのほうも、なんとなく好きかな、くらいなんでしょ?』
それはその通りだった。考えてみれば、まだお互いにものすごく気を張った言葉でのやりとりしかしていない。それをみんなに伝えると『まずは敬語をやめるところから始めてみたらどうか』と、それだけは全員の意見が一致した。
『ねえねえ、それよりミコは名無男さんのどんなところに惹かれたの?』
『あ、それわたしも気になってた。だってさ、あのひとが入れてるコメントって普通のことばっかりじゃない?』
『毎日なにかしらのコメントを入れてくれるってだけでも、半年も続けば嬉しいものじゃないの? それにここまでまったく下心も見えなかったわけだし。ミコもどっちかといえば純情だから、あんまりガツガツ来られなかったのが逆に良かったんじゃない?』
『えーっ、わたしだったらそんなの物足りないな。会いたい、エッチしたい、とか言われるほうが女として認められてる気がするもん』
会いたい、エッチしたい、なんて……もし、名無男からそんなことを言われたら、そのときはどうするだろう。少し前までは迷う余地もなく断っていたはずなのに、考えてしまう自分がいる。ぼんやりしてキーボードを打つ指が止まってしまった乃理子をおいて、ほかのメンバーはお互いの恋愛観について熱い議論を始めてしまった。
そのあと1時間ほどチャットに付き合ってから、いったん画面を閉じた。今朝届いたメッセージにはまだ返信できていない。みんなに言われたように、まずは敬語をやめようって書いてみようか。そんなことを考えながら、乃理子は背伸びをしてキッチンに向かった。
頭の中でメッセージの文章を練りながら、冷蔵庫のミネラルウォーターを出した。2リットルのペットボトルはずっしりと重く、非力な乃理子が片手で持つと妙に不安定になる。重みで右腕を震わせながらコップに水を注いでいると、ふっと腕が軽くなった。
驚いて振り返ると、明彦がばつの悪そうな顔でペットボトルを後ろから支えてくれていた。乃理子は名無男のことでいっぱいになった頭の中をのぞき見られたようで、あせってうまく話せなかった。
「び、びっくりするじゃない……こんな夜中に……」
明彦は相変わらず無言のまま、乃理子がコップに注ぎ終わったのを見て、ペットボトルにそのまま口をつけてごくごくと水を飲み、それを冷蔵庫に戻してまた何事も無かったように2階へと上がっていった。何を考えているのかわからない明彦の行動は乃理子の心をかき乱し、名無男へのメッセージの内容はすっかり頭から飛んでしまった。
自室に戻り、再び画面を立ち上げる。今朝届いたメッセージの画面を見ながら、ゆっくりと返信を打つ。
『名無男さま
こんばんは。お返事に時間がかかってしまって申し訳ありません。いつも優しいお気づかいありがとうございます。
まず、ひとつ提案があります。もしもお嫌でなければ、コメントやメッセージのなかでお互いに敬語を使うのをやめてみるのはどうでしょうか。ちょっとしたことですが、距離が縮まるような気がして……ごめんなさい、うまく説明できないのですが。
それから、最近疲れているようだと言われるのはまさにその通りです。体は特になんともないのですが、以前からブログにも書いているように夫のことでずっと悩み続けています。同じ家の中にいるのに、もう何年も会話がありません。もう、きっとこのまま修復はできないのだと思います。
この半年、名無男さんからのコメントにわたしはずいぶん助けられてきました。こんなことを書くと気持ち悪いと思われるかもしれませんが、わたしは名無男さんをひとりの男性として意識しはじめています。結婚しているとお聞きしたのに、こんなこと書いちゃうなんて最低ですよね……』
そこまで書いて、乃理子の指は止まった。なんてことを書いているんだろう……でも、これが今の自分の本当の気持ち。このまま送ったら、きっと名無男は二度とメッセージを返してくれない。さっきの明彦の行動で混乱した勢いで、こんなことを書いてしまったけど……
いずれにしても、これを伝えずには先に進めない。震える指で送信ボタンをクリックし、そのまま画面を閉じてパソコンの電源を落とした。
翌日の早朝、携帯電話のランプが点滅しているのに気がついた。メッセージ受信のお知らせ。飛び起きてパソコンを立ち上げ、メッセージ画面にアクセスする。新着メッセージは1件、名無男から。
『ミコさんへ
おはようございます。昨日のメッセージを受け取ってから、僕はずっと眠れずにいました。ああ、もう敬語はやめようということでしたね、気をつけます。でも、急には難しいですね(笑)
ご主人との関係で悩んでいることは、ブログからわかっていました。僕も……複雑な事情があって詳しくは書けないのですが……妻との間にトラブルを抱えていて、ミコさんと同じように、もう修復は無理かもしれないと思っている。
女性の方からあんなことを書かせてしまって申し訳ない。僕の方から言うべきだった。僕もミコさんをひとりの女性として大切に思っています。妻がいながら、不誠実だと思われそうですね。
あなたさえ良ければ、僕は画面の中の恋人、ということでどうだろう。この画面の中では、僕にたくさん甘えてくれていい。僕はあなたの支えになりたいと思う。
返事は急ぎません。 名無男』
そのメッセージを読みながら、乃理子の胸は高鳴った。画面の中の恋人、だって……。ずいぶんと久しぶりの、甘く切ない感情がしっとりと広がっていく。甘えてくれていい、という一言には涙が滲んだ。
『名無男さま
いま、メッセージを読みました。文字だけでどこまで伝わるかわからないけれど、あなたの言葉を震えるような思いで読みました。不誠実なのは、わたしのほうです。お互いに結婚していて、支え合うべき相手がいることを知っているのに、こんなにも名無男さんのメッセージを嬉しく思ってしまうから。
わたしも、あなたの画面の中の恋人になりたい。 ミコより』
他人には恥ずかしくて絶対に見せられない文面。読み返す前に送信する。また、5分とたたないうちに返事が来て、そのまま何通もメッセージを交換し続けた。その中に並ぶ言葉は、これまでのものよりもずっと親密で、愛情に満ちたものに感じられた。
お昼を過ぎるまでメッセージのやり取りを続けた後、名無男が出かけるというのでそこでやりとりは小休止となった。恋人同士の雰囲気を盛り上げてくれるためか、これまでの彼には見られなかった言葉……『ずっと可愛らしいひとだと思っていた』『こんなに素敵なひとをきちんと愛さないご主人が信じられない』という蕩けそうになる言葉……を名無男はたくさんくれた。
乃理子はもらったメッセージを何度も何度も開いては、食事も摂らずにそこに書かれた言葉たちを眺めていた。
夕方近くになり、買い物に行く気にもなれずに、乃理子は冷蔵庫の中の材料で夕食の準備を始めた。あまり手の込んだものは作りたくなくて、カレーライスに決めた。炊飯器に米をセットしてスイッチを入れ、具材を鍋で煮込む。そういえば明彦とまだ仲が良かった頃は、カレーぐらいなら自分もできると言って、よく作ってくれたっけ……。不器用なくせに張り切って、皮をむかれたじゃがいもはもとの大きさの半分くらいになっちゃって、にんじんも変な形で、玉ねぎの皮むきで涙も鼻水もダラダラ流して……出来上がったカレーはものすごく不細工だったけど、それでも世界一おいしく感じられた。
ふたりの笑い声が、うるさいくらい響いていたはずなのに。日が暮れて薄暗くなりはじめたキッチンは、そんな頃があったことすら打ち消すように冷え冷えとしている。
この家を出たら、わたしはもっと自由に、幸せになれるのだろうか。そんな勇気もないくせに。でも、もしも『彼』とやり直せたら……らちもない想像をめぐらせながら、乃理子はぐつぐつと音を立てる鍋を見つめていた。
出来上がったカレーを、いつものようにひとりで食べる。とりあえずお腹におさまりさえすれば、味なんてどうでもよかった。食器を片付け、階段の上を見上げる。電気は消えているらしい。寝ているのか、それとも外出しているのか。考えても苦しいだけ。だから無理に考えないようにする。頭をぶるぶると左右に振って、乃理子は自室に戻った。
名無男は夜中まで用事があるということだったから、それまでの間、ハルカに話を聞いてもらうことにした。メッセージで確認すると、すぐにチャットルームに来てくれるという。パスワードを入力していつもの場所に入ると、すでにハルカが待機していた。
『なになに? ミコからお誘いなんて珍しい。彼のこと、進展あったの?』
何でも率直に言うところがハルカの良いところだと思う。ミコはそんないつも通りのハルカに苦笑しながら、昨日からの名無男とのやりとりを打ち込んだ。
『画面の中の恋人!? すごいじゃない、なんなの、たった一晩のうちに何があったのよ! 甘えてくれていい、とか、支えになりたい、なんて大人のひとって感じでいいなあー。わたしもそんなこと言われてみたいよ』
それから、そのあとのやりとりで言われた『可愛い』『素敵だ』という言葉が嬉しかったことも伝えると、
『なにそれ、いきなり急展開! どうなの? ミコとしては、名無男ってひととこのままどうにかなっちゃってもいいの? ミナミみたいに』
ミナミみたいに……会って、セックスして……どうだろう。そんなことまで考えられない。ただ、望んでいないと言えば嘘になる。
『もう恋人、とか言っちゃってるんでしょう? そしたらその後に来る当然の展開だと思うんだけどな。リアルでもそうじゃない? ちょっと仲良くなって、食事にでも行って、お互いの相性がよさそうならエッチしてみて、ってなるよね。完全にダブル不倫まっしぐらに見えるんだけど、それ大丈夫なの?』
たしかに、子供の付き合いでは無い以上、そうしたことは考えておかなくてはいけない。わかっているはずなのに、ダブル不倫なんて言われると、汚らしい感じがして少し気分が良くなかった。まだうまく考えられない、とだけ答えておいた。
『そっか、そうだよね。まあ、お互い大人なんだから、誰にも止める権利なんて無いとは思うけどさ。ほら、でも何かあったときに傷つくのは女の方だから、って思っちゃうんだ。ごめんね、余計なこと言って』
ハルカ自身も少し前にこのサイトで知り合った男性と、リアルで会ったことがあると聞いている。ただ、画面上で接していたときのイメージと、実際に会った時のギャップが激しすぎて合わず、一度食事に行っただけで終わったらしい。慎重派のコウが、いつだったか『文字だけのやりとりだといくらでも取りつくろうことができるし、嘘ばっかり書いてる可能性もある』と言っていた。たしかにそれもそうだと思う。でも、名無男に限ってはそんなことはない……はず。
『あーあ、ミコったらすっかり恋愛モードに入っちゃってる。そうだよね、好きな人のこと、疑いたくないよね。たしかに、あのコメントみてると悪い人には見えない。わたしはミコがどの方向を選んでも、ちゃんと応援するつもり。またなにかあったら教えてよ』
優しいハルカ。ちゃんと乃理子の気持ちを汲んでフォロー入れてくれる。そのまま恋愛って難しいよね、というような話をしばらく続けてチャットルームを閉じた。会話の最後の方で、ハルカが『彼と写メの交換すれば? きっと文字だけよりずっとリアル感あって楽しいと思う』と言うのを聞いて、乃理子は少し気持ちが弾んだ。
深夜1時過ぎ、名無男からのメッセージはまだ届かない。どうしても写真の交換のことを相談したくなって、短文のメッセージを書いて送った。
『名無男さま
こんばんは。お仕事お疲れさま。いきなりですが、提案があります。
名無男さんと顔写真の交換をしたいな、と思ったのですがどうでしょうか? 携帯で撮ったものでも、プリクラでも、なんでもいいのですが……。それを見ながら、メッセージを読むことができたら本当におしゃべりしているような気持ちになれるかなって。
お返事お待ちしています。 ミコ』
そのメッセージを送ってから数日過ぎても、名無男からの返信は届かなかった。
乃理子は余計なことを書いてしまったのかと落胆し、家事をする気もなくなり、仕事でもミスを連発するほどショックを受けた。やっと返事が届いたのは、メッセージを送信してからちょうど1週間後のことだった。
『ミコさんへ
まず、お返事がこんなに遅くなってしまって申し訳ない。いくつかの仕事に追われていたことと、もらったメッセージにどう返信していいか迷っていたのが正直なところです。
結論からいえば、写真の交換はできない。それは僕の方の勝手な事情で、決してあなたのことを大切に思う気持ちに嘘は無い。なにかをごまかすために言っているのではないと、それだけはわかってほしいと思う。
1週間も放っておくなんて、僕は早くも恋人失格かな。最近はブログも更新していないね。僕の返事が無いことに落ち込んでいたのかな、と思うのはうぬぼれすぎだろうか。もしもそうだとしたら、不謹慎ながら嬉しく思います。 名無男』
もう写真のことなんてどっちでも良かった。名無男がまたメッセージをくれたことで、乃理子は緊張の糸が切れたように涙ぐんだ。画面が涙で滲む。急いで返信を打つ。
『名無男さま
こちらこそ、本当にごめんなさい。いきなり写真だなんて……こうしてメッセージをやり取りできるだけでも幸せなのに。この1週間、わたしはたしかにおかしかった。あなたに恋人宣言されてから、ずっとわけのわからない妄想ばかりしていました。笑わないで読んでくれますか?
この家を出て、名無男さんとふたりで新しい生活を始めるという妄想です。休日には一緒に買い物に出かけたり、たまには旅行に行ったり、仕事から帰ってきた後に他愛もない話をしあって笑ったり……そんな当たり前の夫婦のようなことを一緒にできたらいいなって思っていました。ごめんなさい、奥様もいらっしゃるのに、勝手にこんなこと考えてしまって。
これからもたくさんメッセージのやり取りを楽しみたいです。 ミコより』
送信し終わって画面をぼんやり眺めているうちに、すぐに返信が届いた。
『ミコさま
あなたは本当に可愛らしい人ですね。よければ、あなたにとっての理想の家庭像をもっと聞かせて欲しい。休日に一緒に買い物に行って、両行もして……ほかにどんなことがしたいと思っているんだろう。僕もできることなら、あなたとそんな生活がしたい。
無責任にこんなことを言うのはいけないことですね。反省します。 名無男』
『名無男さま
メッセージの中だけでも、そんなふうに言ってもらえて嬉しいです。やりたいことはまだまだたくさんあります。
例えば、お給料日の夜だけはふたりでお気に入りのお店のディナーを食べに出かけたり、何か共通の趣味を持つのもいいと思うし……季節ごとの洋服を一緒に見に行くのも楽しそう。あなたに似合う洋服を、わたしがあれこれ選んで試着してもらったり。
どれもこれも、あたりまえすぎることばかりですよね。でも、わたしがしたいのは、心を許せる相手とそんなあたりまえの暮らしをすることなんです。 ミコより』
『ミコさま
僕たちはすごく考えが似ているように思います。ミコさんが書いたような暮らしは、僕の憧れでもあります。現実にはなかなか難しいこともあるかもしれないけど、そういう毎日を重ねていける夫婦は幸せだろうと思う。
あなたを妻にしたご主人は、幸せ者ですね。 名無男』
夫は……明彦は乃理子と結婚して幸せだと感じたことはあったのか。今はそれすら疑問に思う。乃理子と名無男は一晩中メッセージのやりとりを続け、その中で乃理子は拗ねて見せ、彼に甘え、彼はそんな乃理子をどこまでも受け入れた。幸せな時間は瞬く間に過ぎ、気付けば朝がやってきていた。
ふたりはお互いの生活に支障がないようにとルールを決めることにした。平日は夜中に1時間だけ、休日前夜は気が済むまでメッセージのやり取りやチャットをしようということに決めた。
夜になれば必ず彼と話ができる。そう思えば、何もない日常生活にも張りが出た。だらしない生活をしていたら、もしも名無男と共に生活するようになったときに悪い気がした。だから、どんなに疲れていても家事は以前よりもきちんとするように頑張った。料理も手を抜かず、栄養のバランスを考えたものを作るようにもなった。それがすべて夫のためではなく、名無男のためだというのが皮肉ではあるけれど。
夫の態度は一貫して変わらない。顔を見ても話すことはなく、目も合わさず、たまに2階で物音がすると「ああ、いるのかな」と思う程度だった。少しだけ罪悪感のようなものを感じたが、だからといって名無男との関係にブレーキをかける要素にはならなかった。
日がたつごとに、どんどん気持ちが惹かれていくのがわかった。手の届くところに相手がいたら、迷わず抱きあっていたに違いないと思えるほど、乃理子の気持ちは燃えあがっていった。
メッセージを交換するようになって3カ月ほど過ぎた頃、星座か何かの話の流れでお互いの誕生日の話題になった。乃理子の誕生日は2週間後の10月15日だというと、名無男はびっくりするようなことを言い出した。
『ミコさま
10月14日の誕生日、僕にお祝いをさせてもらえないだろうか。少し前に、大きな花束を恋人からもらうのが夢だって言っていただろう? あれを実現させてあげたい。もちろん、直接会って渡すつもりだ。それとも、やっぱり会うのは難しいかな? 名無男』
名無男と……会う? 心臓が壊れそうなくらいバクバクと音をたてた。文字だけのやり取りで、こんなにも好きになってしまった。会いたくないわけが無い。でも……不安が無いわけじゃない。会ってしまったことで、せっかくのふたりの関係が壊れてしまったら……またあの張りの無い毎日に逆戻りなんて絶対に嫌。
ぐるぐるといろんな考えが渦巻く。少し考えさせてほしい、と返信して、いつかの名無男と同じように1週間ほど悩んだ。
いざこういう事態になると、ハルカたちにも相談する気になれない。否定も肯定もされたくなかった。大切な人からの、大切な誘い。いい加減な気持ちで答えたくない。自分だけでしっかりと答えを出したかった。
そして、乃理子は答えを出した。
『名無男さま
お返事をお待たせしてごめんなさい。どうしてもいい加減な気持ちでお返事したくなかったのです。
わたし、あなたに会いたい。誕生日を一緒にお祝いしてください。 ミコより』
『ミコさま
突然困らせるようなことを言って、こちらこそ悪かった。当日は君が好きだと話していたイタリアンレストランを予約しておくよ。待ち合わせ場所と時間はまた連絡する。今週はもう忙しくてあまりメッセージを送れないかもしれないけど、当日会えるのを楽しみにしているよ。 名無男』
その翌日には、具体的な待ち合わせ場所と時間の連絡がきた。場所は乃理子の家から電車で30分ほどのところにある、有名な時計台の下。誰が言い出したのか、そこで待ち合わせをするカップルは必ず幸せになれるとか。時間は午後6時。チャコールグレイのスーツに濃い赤のネクタイ、それに大きな花束を持っていくからすぐにわかると思う、と書いていた。
乃理子も当日着て行く予定の服装を伝え、楽しみにしています、と送った。
31歳の誕生日、わざわざ花束を用意して祝ってくれる名無男のためにも、これをただのデートにしたくは無かった。ひとつの区切りをきちんとつける、新たな旅立ちの日にしようと乃理子は決めていた。
誕生日の2日前、会社の昼休みに区役所へ出かけた。滅多に来ることがなく、少し戸惑ったが目的のものはすぐに見つかった。家に帰って、ダイニングテーブルにそれを広げる。薄っぺらい紙に緑の枠組みと文字。離婚届。
こんな紙一枚で夫婦の関係は終わらせることができるのか、と思うと、拍子抜けしそうになる。そういえば婚姻届もこんな紙一枚のことだった。あのときの気持ちは、もう忘れてしまった。
自分が書くべきところだけしっかりと記入して印鑑を押す。これを、誕生日に名無男と会う前にテーブルの上において出る。おそらく夫は迷わずサインして、この中途半端で面倒くさい関係を終わらせてくれるに違いない。
印鑑を押すとき、一筋だけ涙が流れた。でも、それはいったいどういう涙なのか、乃理子にもよくわからなかった。
そして誕生日。もう、今日のデートから帰ったら翌日には家を出て行くつもりだった。ほとんどの荷物は段ボールに詰め終わっている。別に名無男に頼る気持ちは無かったので、しばらくは地元の関西でもう一度自分を見つめ直そうと思っていた。家のローンもほとんど終わっているし、特に財産分与や何かを請求するつもりはない。
予定通りテーブルの上に離婚届を広げて置き、がらんとした自分の部屋をもう一度眺めてから乃理子はドアを閉めた。
日曜日の夕方、電車の中は幸せそうな親子連れや恋人たちが溢れていた。きゃあきゃあと楽しそうな声を聞きながら、乃理子は車窓を流れる風景だけをじっと見ていた。夕暮れが迫る街並みにはキラキラと照明が灯りはじめ、昼間とは違う表情に変わっていく。心はもう波立つこともなく、ただ静かに名無男との不思議な関係に思いを馳せた。
午後5時半を少し過ぎたところで待ち合わせ場所に着いた。さすがに有名スポットだけあって、若いカップルたちで混雑している。まだ時間には早すぎる。乃理子は時間を確認した後、すぐ近くのコーヒーショップでカフェオレを頼み、それを持ったまま時計台の真下にあるベンチに座った。
日が暮れた後、しんしんと寒さが忍び寄ってくる。昼間は暑いくらいだったのに……半袖のワンピースで来たことを後悔しながら温かいカフェオレを啜った。名無男はいったいどんなひとなんだろう。写真を断るくらいだから、ものすごく容姿にコンプレックスがあるひとなのだろうか。ちらっと頭の中で漫画に出てくる太っちょでいじめっ子のキャラクターを想像して、乃理子はひとり笑った。
「あの……」
急に声をかけられて、手に持ったカフェオレを落としそうになる。顔をあげると目の前に色とりどりの花束が突き出されていた。それは、赤、黄色、白、ピンク……カラフルな花たちが何十本もまとめられたもので、乃理子が名無男に話した理想の花束そのものだった。
「名無男さん、ですか?」
花束で視界を遮られ、顔が見えない。足元の革靴とチャコールグレイのスーツの膝下だけが確認できた。相手は答えない。
「わたしです。ミコです。今日はありがとう……」
花束の隙間から、ようやく相手の顔が見えた。乃理子は言葉を失い、まだ半分ほど残ったカフェオレのカップが地面に転がった。思わず立ち上がる。
「明彦……どうして……?」
眉尻を下げたバツの悪そうな、夫、明彦の顔がそこにあった。明彦は頭をぽりぽりと掻きながら、小さな声で「少し話そう」と言った。
もう一度ベンチに座り直す。せっかく席が空くと思っていたカップルたちの舌打ちが聞こえる。頭が混乱して、何から言えばいいのかわからなくなった。明彦が静かに頭を下げた。
「ごめん。だますようなことして、本当に悪かった。おれ、馬鹿だからこんなことしか思いつかなくて……でも、なんか、ほんとどうしていいかわかんなくて……」
「あ、明彦、本当にあなたが名無男なの?」
ただでさえ口下手な明彦は、必死でいままでのことを説明しようとしていたが、話の前後関係がばらばらな上に興奮してよけいにわからなくなるので、話の途中で何度も乃理子が内容を整理しながら聞かなくてはならなかった。
明彦が乃理子のブログを知ったのは、ちょっとした偶然だった。ある日、どうしても必要な書類が見当たらなくて、もしかして乃理子の部屋に紛れ込んでいないかと、乃理子が入浴中に部屋に入ったことがあったらしい。
「それでさ、ほんとに、見るつもりなんて無かったんだけど、ほら、なんとなくパソコンの画面見たら……あの、ブログの画面でさ……」
「ああ……」
たしかに、ブログ画面にアクセスしたまま放置したことも珍しくは無かった。それを見た明彦は、何を書いているのか興味をそそられて、自分のパソコンから検索してアクセスし、当たり障りのないコメントを入れるようになったという。
「ほら、俺たち、こんなふうになって……まともに話なんかできる状態じゃなかっただろ? でも、嘘臭いって思われそうだけど、なんていうか、乃理子のことずっと気になっててさ……なら、直接言えばいいって思われるかもしれないけど、ほら、そんな空気じゃなかったし……」
「そう……」
「職場のことでも、俺のことでも、すげえ悩んでて、悪いなって思ってたけど、ずっと乃理子が俺のこと怒ってるんだって思ってて……でもほら、コメントとか入れると悦んでくれただろ? メッセージを始めたときも、すげえ楽しそうで、なんか俺も嬉しくなって……」
「それは写真交換なんてできないわよね……」
「そう、あれは本当にどうしようかと思って、でも……あ、うん、ほんと、ごめん……メッセージみたいにゆっくり考えながらだったら、乃理子が喜ぶようなことも言えるんだけど、だめだな、直接しゃべるとこんなふうになって……もう、許してくれないと思うけど、俺、ほんとにおまえのこと大事に思ってた。ごめん……」
同い年なのに、まるで子供のようにうつむいて鼻をすすりあげる明彦の腕をとって、乃理子はゆっくりと立ち上がった。花束を両手で受け取り、そのかぐわしい香りを胸一杯に吸い込む。
「もういいわ。あーあ、なんだか気が抜けてお腹すいちゃった。話は後にしましょう。ちゃんとイタリアンレストラン予約してくれてるんでしょ?」
「う、うん、もちろんだ。奮発して一番高いコース頼んでるよ」
「じゃ、行きましょうか。名無男さん?」
花束を右手で抱き、左手を明彦の腕に絡ませる。顔を見合わせて大きな声でげらげらと笑いながら、ふたりは歩幅をそろえて歩き始めた。もう一度、わたしたちやりなおせるよね。乃理子は、帰ったら真っ先にあの離婚届を破り捨てようと心に誓った。
(おわり)
今回の作品も楽しく最後まで拝読しました。
定形にとどまることなく、自由に書いていくうちに
ヒョイと、新天地が開くことがあります。
秋に入り、しのぎやすい陽気になりました。
夜が長くなり、創作に没頭しやすい季節に入りました。
ますますの活躍を期待していますので、健康に
留意しながら、頑張ってください。
純愛も、たまにはいいですね(笑)
ちょうど去年の秋に小説を書き始めてもうすぐ1年になります。いろいろなことがあったけど、創作の楽しさも面倒くささもたくさん味わいました(笑)
ひさびさの恋愛小説は、正直本当に難しかったです。
最後までお読みいただいて、嬉しいです。
落合様もお体を大切に。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
ちょっとウルウルきてしまったのは、自分と主人公を重ねてしまったからかもしれません。先程の初々しいカップルの話も良かったですが、こちらもとても良かったです。
なんというか、とても才能のある方だと思います。他の作品も読ませていただきますね。
才能はたぶんないけど、でも書くことは好きなので今後もいろいろと書き散らしていくかと思います。
この話も、もっと最後までラストがわからないように書くことができればよかったのですが、そのあたりがなかなか難しかったです。
1人ドキドキしながらよんでます…。
ラストの展開、決して悪い意味ではありませんので、失礼な書き方でしたら本当にごめんなさい。いつも読むだけで書き込みとかほとんどしたことがなく、ネット慣れ?してなくてすみません。あ~こうなったらいいなというラストの展開が想像通りで嬉しかったので、思わず書いてしまいました。すみません、色々共通してたので、主人公に自分を重ねてしまって。
お返事頂けて嬉しかったです。
どうしても文字だけの世界なのでうまく伝わりにくいですが、ただもっとうまく書きたかったというだけのことなので、全然失礼とか思ってないですよ!
読んでいただけて感想をいただけるだけで、書き手としては嬉しい限りです。
官能小説まで読んでいただけているとのこと、ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。