最近この言葉の受け止め方について考えていたので書いてみます。
ハトの倍くらいの大きさの脳みそしかない私の書くことは、論理的ではありませんので、感情的作文だと思って読んでください。
あっ!ハトさんごめんなさい。大きければいいってもんではないですし。
まずは、地球に生命が生まれて・・からにさかのぼってもよろしいでしょうか(笑)
地球誕生から40億年(かな)という長い歴史の中、最初の生命体が海で生まれ、やがて陸に上がるものが現れて、動物や植物が様々な環境に適応して進化や淘汰を繰り返し、3000万種ともいわれる多様な生き物が生まれました。
この生物多様性は、生きものたちの豊かな個性とつながりのこと。
これらの生命たちは一つひとつに個性があり、全て直接的、間接的に支えあって生きています。
それは自然界を見てみるとよくわかります。
色んな種がいて、そのすべての命に個性があり、一つとして同じものはない。
そんな自然界では、容赦ない弱肉強食。
それによって生息地を変えたり、自身を進化させてきた異種同士の野性たちに忖度などはなく、個々の種を存続させることが生きること。
それを、可哀そうとか残酷と思うのは、人間の良さでもあると思いますが。
一方人間という種同士はどうでしょう。
それまでは墓場まで持っていかなければいけなかったような、一般的な人とは違う自分を抱えて生きてきた人もいます。
現代の社会は、そんな人も含め、個々の多様性を受け入れましょうという動きが広がりました。
多様性とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは違う。
ラテン語のdiverstia(英語のdiversity)の語源としては、一致可能なものに反すること、矛盾、対立、不一致、といった消極的な意味があったそうですが、二義的には相違とか様々な形になる、というような意味も持ち、その後、消極的な意味が失われ、相異なる要素を有する、もしくはそれから構成される状態であり、そこから更に、異なったタイプの人々をあるグループや組織に包摂すること、とされているそうです。
そういう事を踏まえて、私は思うんです。
例えば今現在コロナ禍で、周りの人々の考え方の違いが露呈しています。
私は大丈夫だと不要不急で出歩く皆さんに対し、私などは、「どうして自粛できないのだろう」としか思えませんが、その人たちは、どうして我慢する必要がある、と思っている。
それも多様性ですか?
自分の人生だから思うように生きるというのは、美しく崇高な哲学なのでしょうか。
コロナの感染拡大で、精神的経済的にぎりぎりまで追い詰められている人は沢山いるでしょうが、そうでない人もいます。
もし淘汰というものがあるとしたら、生き延びるのはどっちなんだろうと思ってしまう自分がいます。
はい、もうお気づきでしょうが、私が書いていることは、多様性という崇高な意味から逸れているだろうと思います。
単純に色んな人がいるもんだ、と思えばいいだけの話。
今を生きる自分の気持ちを整理したかったので、生命の歴史まで遡ったりしたりなんかしました。
そんな私も多様性の一員。
身勝手な人々の行動を受け入れる事は出来ないけど、受け入れる義務もありません。
生物多様性というのは、時には残酷で厳しいもの。
生態系の頂点をCovid-19に明け渡たすことなく、何とか折り合いをつけて共存することはできないでしょうか。
生物多様性の意味の中で「それぞれが直接的、間接的に支えあって生きている」という一行をもう一度書いておきます。
さて、なぜか昨夜は何ヶ月?ぶりによく眠れました。
実家の朝顔。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫
校正が必要な文章ですが、忖度をお願いします。
私の好きなものは笑顔。笑顔は世界を救うと信じるつる姫のブログです。
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