しばらくの間、このメッセージを貼り付けさせていただきます。
今日は、それは言葉のあやでしょ、というようなことを書きます。
あくまで私の想いや受け止め方での事で、誰かを責めたり非難したりするようなものではありませんので、あらかじめご了承ください。
長くなりますし、楽しい話ではありませんので、興味ない方はスルーしてください。
例えば、アスリートの方から出てくる言葉に
「私が頑張る事で、人々に元気を与えられたら」というようなものがあります。
その言葉に、いつも少なからずの違和感を覚えます。
才能にも環境にも恵まれて、そして何より、人並外れた努力をし、素晴らしい活躍をされている皆さんに、私たちを見下しているというような感情は決してないでしょうし、実際、活躍するアスリートなどを見て、元気や希望をもらう人は沢山います。
しかしながら、それどころではない人たちや、私のように素直にそれらを「与えて」もらえない人間もおります。
つまり、受け取る側の気持ちです。
眠れぬ夜に、ふと思ったんです。
give-and-takeという言葉があるけど、どうなんだろうって。
そうなんですよ、私は常に小難しいことを考える性質なんです。偉いでしょ?(笑)
私は、病を神さまからのギフトとして受け止める事で、ここまで自分を保ってきた。
言い換えれば、神さまが与えてくださったものだと思う事で、前に進んできました。
生かされている限りは前にしか進めないのも事実ですが。
また、私がブログを書いているのは、これを読んで誰か一人でも、笑顔になったり気付きが合ったりしてもらえばいいと思っているから。
私は、自分を生き、自分の言葉を勝手に発信しているだけで、与えている、という意識もなければ、そもそも、与えるような素晴らしい実力や才能も持ってはいない。
それでも、ここにきて何かを受け取ってくださる方がおられるのは、ありがたい事です。
このところ、作り物の映画は観ないで、ひたすら命を生きる自然や生き物たちをずっと見ています。
人間が編集したものですが、まあそこまで考えたら何もみれないですし。
その人間さまは地球上で特別な存在ですから、彼らにあてはめることは出来ませんが、彼らは無意識に、種さえ超えて沢山のものを与え、受け取りあって生きています。生物多様性ってやつです。
肉食獣に捕食されるものたちも、その命は巡り巡って大自然の循環に大きく貢献していくのです。
自然界には全く無駄がありません。
あ、人間が特別な存在というのは、エライとか優れているという意味ではありません。
もし地球にいらない種がいるとしたら、の話になってはいけませんのでね。
横になって堂々巡りの思考を繰り返しているうち、受け取るものがいなければ、与えるものは何もないんだ、と思ったんです。
また、与えると言える前には、沢山の物を受け取って来たからだという意識、感謝もなくてはいけないよね、と。
以前、ビールのCMで、私の好きなアーティストの一人宮本浩次さんが、
自分が与えているとかじゃなくて、相手がそれぞれに勝手に受け取ってくれる・・・みたいな事をおっしゃってたんです。
ちょっと、はっきり覚えてなくてすいませんが、後で調べても出てこなかった。
あ!それそれ!
私はほんの一度の数秒のCMからみやじさんのメッセージを受け取りました。ありがとうございます。大好きです(笑)
そうなんですよ。きっと。
与えるという事よりも、沢山受け取る事がだいじだな~と。
絵画でもなんでもそうですが、誰かが語る薀蓄よりも、自分の感受性で受け取ったものの方を大事にしたい。
与えることよりも受け取ることで余生を生きる。
私の人生で誰かに与えたものが在ったとしたら、なんだろうな、自分だけの時間?
笑
いや、それも含め、神から受け取った私の命が誰かに与えたものより、それらの時間から受け取ったものの方が断然多いと思います。
ていうか、全部受け取ったものかも。意味が分からん。
同じ人間でも、住む場所言葉などが違えば、例えばtakeやget、giveという英語も、日本人の感覚とは違うところもあります。
「モノ」が「どこ(誰)」から「どこ(誰)」に渡ったか、それを示す単語のようで、
日本人からすると、「もらう」「くれる」には「ありがたい」気持ちが入っていますが、英語にはないらしいです。
いつもお世話になって~とか、あの時はありがとうございました、的なものも多分ないですよね。
Hi!でほとんどすべて解決。
爆
英語の話せない留学生だった私が言える口ではありませんが、口ではなくキーボードですから(笑)
そんなことで、未明に目覚めて明け方二度寝した私なのでした。
それでも、6時前にはこたろうくんのために起きましたよ。
彼から受け取るものは、私が彼に「与える」ご飯よりもずっとずっと大量ですから。
最後までお読みいただきありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫