尊敬する人物の一人で、私のブログに応援をくださる緩和ケアの先生のブログに書かれていた事についてです。
先生の患者さんに、設計の仕事をしていた人がいたそうです。
彼は、病室で自分のお墓を設計されていたのですが、ある時から、その作業が一向に進まなくなったとか。
患者さんは、
「自分でも最初はただ、嬉々として専門の道を自分のために活かそうと思っていただけだったのですが、いつしか、図面を書きながら、死ぬということを実感するようになってきて、これが出来上がらなければ、死ぬことは先延ばしなるような感覚になってしまったのでしょうね。
でも、仕上がらなくてもよいのではって思うところもあって・・」。
とおっしゃったそうです。
少し前から、もう思い残すことも、自分の役割もなくなった、と感じる事が多いわたしにとって、これは胸に刺さるお話でした。
命を区切られた方たちが、どのような想いで余命というものを過ごされるのか、それは人それぞれでしょう。
思い残すことはないと言って、生きる目的をなくし、何の努力もしないのは、自分の命に対して申し訳ない事です。
才能のある方が亡くなられたとき、「志半ばで」とか、「思い残すことが沢山あった」という言葉が多く聞かれます。
でも、私はいつも違和感を覚えます。
それって、周りの人間が思う事で、志や目標や夢を持ち続けて生きて来られたことは、素晴らしい事なのではないでしょうか。
先生のブログには、ガウディのサグラダファミリアの写真が引用されていました。
私も、詳しくは知らず、あれって一体何をしたいんだろう、永遠に完成しないって、何なんだろう、位にしか思っていませんでした。
しかし、
>>
サグラダ・ファミリア教会は(中略)ガウディ自身の彫刻作品でありそれを単に形式だけを追って完成させることは冒頭です。あれはガウディの手を離れた後はそのまま手をつけずに残しておくべきです」ガウディ友の会中心人物
ホアン・ブラッツ氏の言葉より
ホアン・ブラッツ氏の言葉より
>>
という言葉を見つけ(多分冒頭というのは冒涜の間違いかなとも思いますが)、またもややこしく考える自分がいます。
ガウディの形式にのっとり、その意思を継いでいこうとする人もいれば、本人亡き後は、手を加えずにそのままにしておくべき、という人もいる。
変な言い方をすれば、死人に口なし。
本人は命の最後まで志や夢や目標を持ち、その命を生きた、という言葉に尽きるのではと。
どなたかの意志を引きつぐという事も、もちろんありますが、いずれにしても命のある者たちが、その命を使って物事を行っていくわけです。
このブログを読ませていただいて、自分が洋梨だとか、いや用無しだとか、思い残すことがないと言って逃げないで、
思い残すことを沢山作ろうじゃないか!と思った次第です。
そうじゃないと、いただいた命に対して失礼ですから。
思い残すことがある人生の方が豊かなんじゃないかな。
悔いなく生きる、という言葉も、死がいつ訪れるかわからないから言えることでしょう。
命が終わる時に、何も思い残すことはないと思えるのは、それは目的を達成したからではなく、そこまで生きて来られたことに対して言え
る言葉なのかもしれませんが、それは、その魂にしかわからないこと。周りの人がどのように解釈しようと。
キバナコスモスとおそろい色のこたろうくんハロウィンバージョン。
こたろうバカ殿の巻。
ああ。。。。思い残すことはある。
こたろうが死ぬまでは死ねないわ。
最後までお読みいただきありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫