10月15日(月)ベルリン国立歌劇場公演
東京文化会館
【演目】
シェーンベルク/「モーゼとアロン」 演奏: 演出:
【配役】
モーゼ:ジークルフィート・フォーゲル、アロン:トーマス・モーザー、若い娘:カローラ・ヘーン、病人:シモーヌ・シュレーダー他
【演出/美術】
ペーター・ムスバッハ
【衣装】
アンドレア・シュミット=フッテラー
【演奏】
ダニエル・バレンボイム指揮 ベルリン・シュターツカペレ/ベルリン国立歌劇場合唱団
バレンボイム率いるベルリン国立歌劇場による、シェーンベルクの12音技法で書かれた未完のオペラ「モーゼとアロン」の公演。
日本での舞台上演は実に37年振りというのは、演奏の難しさが主因であるように公演のチラシには書いてあったが、こういうタイプのオペラは観客の動員が困難なことも理由にあげられるのではないだろうか。そんな「難解な」オペラでも会場はほぼ満員の入り。そして終演後は鳴り止まぬ拍手とブラボー。しかし、現代曲の演奏会には余り縁のなさそうな大勢のお客のうち一体何人が、この上演に接して「また来たい」と思ったかを考えるとかなり疑問を感じる。
確かにバレンボイム指揮するベルリン・シュターツカペレの演奏は素晴らしかった。雄弁で湿感のある弦は一糸乱れね見事な歌を歌い上げ、管も熱いハートと完璧な腕前で語りかけてくる。そこにはバレンボイムのどんな細部もないがしろにしない徹底したスコアの読みによる確信に満ちた明確な表現が熱く息づいている。このオペラでの主役の一部とも言える合唱も素晴らしい。しなやかで艶があり、「不協和音」のハーモニーを美しく響かせる。また、シュプレヒゲザングの鋭い迫力もすごい。
ただ一人の歌でのソリストとも言えるアロン役のトーマス・モーザーの深い説得力のある柔らかく磨かれた美声での歌唱は、言葉を実に丁寧に吟味して語りかけて来る。セリフだけのモーゼ役のジークフリート・フォーゲル、セリフが「歌」に匹敵する迫力で訴えかけてきた。声の抑揚と発音の持つ表現力の豊かさに感服した。
そんな二人の終盤での緊迫したやり取りが、これまた雄弁なオケに伴われて歌われる場面には釘付けになった。モーザーの最後の言葉、"Oh, Wort, Du, Wort, das mir fehlt!"(おお、言葉よ、おまえが私には欠けているのだ!)というこのオペラを象徴するセリフが胸に突き刺さる。そして息が絶えてゆくような弦のフェルマータが何と印象的に響いたことか。
これほど陰影に富んで、豊かな表現力を発揮した演奏に対して、しかしムスバッハの演出はそうした表現力とは対極にあるような「無表情」を通し「個性」を押し殺し続けたのはどうしてなんだろう。終始殺風景なセットは最近のはやりかも知れないが、男も女も、おまけに群集と相対するモーゼとアロンまでもが、みーんな同じ日本人の男の弔問客のような服に、オールバックの髪とサングラスといういでたち。誰がモーゼかもよくわからない。群集の動きにも明確なメッセージが伝わってこない。
もっと生々しい原色や強烈な照明、なまめかしいダンスや、象徴的な動きなどで、豊かな表現を聴かせる演奏と一体となって物語を盛り上げたらどうなんだろう、なんて思うのは所詮素人の抱く場違いな望みなのだろうか。2幕で盲人の持つ白いステッキを象徴するような光る棒を群集が手に手に持って集まってきたときは、なにやらすごいパフォーマンスが始まるのかと思いきや、紅白歌合戦でお客が持つペンライト程度の効果しかもたらさない… 「表現することを拒否することが表現」とでも言っているようにしか思えない。
ムスバッハは「一握りの玄人にしかわからない、崇高な文化の伝承者とは違う」と自らの姿勢を語っているが、ああいうひねくれた思わせぶりの演出を見てしまうと、何だか矛盾を感じる。「難解」と言われることも多いシェーンベルクの音楽に視覚的な表現力を与えることで、「シェーンベルクの音楽も素晴らしいね!」と普段シェーンベルクなんて聴かないような人も感銘するような舞台を実現することでリピーターを増やすほうが効果的なのに… これも素人的発想かな。
この演出のせいで、演奏会形式の上演でやったほうがもっと感動できたかも… なんて思ってしまった。それだけ演奏は素晴らしかった。
こんな「オペラ音痴」のpocknに、この上演の魅力を教えてくれる人がいたら、コメントやトラックバックを歓迎します(もちろん皮肉じゃなくて本心です)。
あ、上演の中味とは関係ないけれど、オケのチューニングが終わり、会場の照明が落ちていよいよバレンボイムの登場を待ちわびるというときになって、場内アナウンスが、携帯のスイッチの確認について、撮影や録音の禁止について、おまけに、「これらの行為を見かけたらお近くの係員まで…」なんてことをいつまでも長々としゃべり続けたが、こんなタイミングにこんなアナウンスを長々と入れるのってどういうことだろう? ご丁寧に2幕の開始前も暗くなってからアナウンスが入った。マナーの悪いお客は許せないが、こんなアナウンスも興ざめだ。入口で配られた配役表にも、カメラのフィルムの没収に至るで細かく長々と注意書きがあったが、ここまで度を超した注意喚起はお客を最初から犯罪者扱いしているようにも感じてしまう。
この主催者、チケットを予約するにも、発売から何週間も経たないと席を選ばせてくれなかったし(ヴァルトラウト・マイヤーのチケットを予約しようとした時も席を選べなかったので結局買うのをやめてしまった)、お客あっての演奏会、お客あってのオペラ公演だってことをもう少し謙虚に自覚してもらいたいものだ。
東京文化会館
【演目】
シェーンベルク/「モーゼとアロン」 演奏: 演出:
【配役】
モーゼ:ジークルフィート・フォーゲル、アロン:トーマス・モーザー、若い娘:カローラ・ヘーン、病人:シモーヌ・シュレーダー他
【演出/美術】
ペーター・ムスバッハ
【衣装】
アンドレア・シュミット=フッテラー
【演奏】
ダニエル・バレンボイム指揮 ベルリン・シュターツカペレ/ベルリン国立歌劇場合唱団
バレンボイム率いるベルリン国立歌劇場による、シェーンベルクの12音技法で書かれた未完のオペラ「モーゼとアロン」の公演。
日本での舞台上演は実に37年振りというのは、演奏の難しさが主因であるように公演のチラシには書いてあったが、こういうタイプのオペラは観客の動員が困難なことも理由にあげられるのではないだろうか。そんな「難解な」オペラでも会場はほぼ満員の入り。そして終演後は鳴り止まぬ拍手とブラボー。しかし、現代曲の演奏会には余り縁のなさそうな大勢のお客のうち一体何人が、この上演に接して「また来たい」と思ったかを考えるとかなり疑問を感じる。
確かにバレンボイム指揮するベルリン・シュターツカペレの演奏は素晴らしかった。雄弁で湿感のある弦は一糸乱れね見事な歌を歌い上げ、管も熱いハートと完璧な腕前で語りかけてくる。そこにはバレンボイムのどんな細部もないがしろにしない徹底したスコアの読みによる確信に満ちた明確な表現が熱く息づいている。このオペラでの主役の一部とも言える合唱も素晴らしい。しなやかで艶があり、「不協和音」のハーモニーを美しく響かせる。また、シュプレヒゲザングの鋭い迫力もすごい。
ただ一人の歌でのソリストとも言えるアロン役のトーマス・モーザーの深い説得力のある柔らかく磨かれた美声での歌唱は、言葉を実に丁寧に吟味して語りかけて来る。セリフだけのモーゼ役のジークフリート・フォーゲル、セリフが「歌」に匹敵する迫力で訴えかけてきた。声の抑揚と発音の持つ表現力の豊かさに感服した。
そんな二人の終盤での緊迫したやり取りが、これまた雄弁なオケに伴われて歌われる場面には釘付けになった。モーザーの最後の言葉、"Oh, Wort, Du, Wort, das mir fehlt!"(おお、言葉よ、おまえが私には欠けているのだ!)というこのオペラを象徴するセリフが胸に突き刺さる。そして息が絶えてゆくような弦のフェルマータが何と印象的に響いたことか。
これほど陰影に富んで、豊かな表現力を発揮した演奏に対して、しかしムスバッハの演出はそうした表現力とは対極にあるような「無表情」を通し「個性」を押し殺し続けたのはどうしてなんだろう。終始殺風景なセットは最近のはやりかも知れないが、男も女も、おまけに群集と相対するモーゼとアロンまでもが、みーんな同じ日本人の男の弔問客のような服に、オールバックの髪とサングラスといういでたち。誰がモーゼかもよくわからない。群集の動きにも明確なメッセージが伝わってこない。
もっと生々しい原色や強烈な照明、なまめかしいダンスや、象徴的な動きなどで、豊かな表現を聴かせる演奏と一体となって物語を盛り上げたらどうなんだろう、なんて思うのは所詮素人の抱く場違いな望みなのだろうか。2幕で盲人の持つ白いステッキを象徴するような光る棒を群集が手に手に持って集まってきたときは、なにやらすごいパフォーマンスが始まるのかと思いきや、紅白歌合戦でお客が持つペンライト程度の効果しかもたらさない… 「表現することを拒否することが表現」とでも言っているようにしか思えない。
ムスバッハは「一握りの玄人にしかわからない、崇高な文化の伝承者とは違う」と自らの姿勢を語っているが、ああいうひねくれた思わせぶりの演出を見てしまうと、何だか矛盾を感じる。「難解」と言われることも多いシェーンベルクの音楽に視覚的な表現力を与えることで、「シェーンベルクの音楽も素晴らしいね!」と普段シェーンベルクなんて聴かないような人も感銘するような舞台を実現することでリピーターを増やすほうが効果的なのに… これも素人的発想かな。
この演出のせいで、演奏会形式の上演でやったほうがもっと感動できたかも… なんて思ってしまった。それだけ演奏は素晴らしかった。
こんな「オペラ音痴」のpocknに、この上演の魅力を教えてくれる人がいたら、コメントやトラックバックを歓迎します(もちろん皮肉じゃなくて本心です)。
あ、上演の中味とは関係ないけれど、オケのチューニングが終わり、会場の照明が落ちていよいよバレンボイムの登場を待ちわびるというときになって、場内アナウンスが、携帯のスイッチの確認について、撮影や録音の禁止について、おまけに、「これらの行為を見かけたらお近くの係員まで…」なんてことをいつまでも長々としゃべり続けたが、こんなタイミングにこんなアナウンスを長々と入れるのってどういうことだろう? ご丁寧に2幕の開始前も暗くなってからアナウンスが入った。マナーの悪いお客は許せないが、こんなアナウンスも興ざめだ。入口で配られた配役表にも、カメラのフィルムの没収に至るで細かく長々と注意書きがあったが、ここまで度を超した注意喚起はお客を最初から犯罪者扱いしているようにも感じてしまう。
この主催者、チケットを予約するにも、発売から何週間も経たないと席を選ばせてくれなかったし(ヴァルトラウト・マイヤーのチケットを予約しようとした時も席を選べなかったので結局買うのをやめてしまった)、お客あっての演奏会、お客あってのオペラ公演だってことをもう少し謙虚に自覚してもらいたいものだ。
このオペラを見て、その人類の将来はとても暗い、という気持ちになりました。
yokochanさん、TBありがとうございます。さっそく読ませて頂きました。含蓄のある解説+感想、さすが読みが深いですねー。「男も女もない」というところ、実は僕も最初はそう思っていたのですが、「じゃあ、女性が男装してるのはどうしてだろう…?」と思うと益々わからなくなってきてしまったんです。シェーンベルクも結局完成させられなかった、というところがこのオペラには明確な答えが存在せず、聴衆や、その時代の状況でいろいろな答え、というか問いが出てくる… というところでしょうか… また教えてくださいね!
失礼をばいたしました。
またもや同じ日に居合わせましたね。
こも演出、以外なほど、単純な読みが正解かもしれません。ある方は、あの像は東独のホーネッカー議長にそっくりと言っておられました。
舞台はともかく、バレンボイムの熱意で引っぱられた公演に思いました。
そして、あの館内放送は鬱陶しかったですね。
ところが、私の観たトリスタンで、フライング拍手がありました。そうしたマナーをうまく喚起できないものでしょうか?昨年のルツェルンの奇跡の静寂が懐かしいです。
トリスタンの感想を読んで、こちらもやっぱり行っておけばよかったと思いました。でもフライング拍手ってのは参りますね!一昔前の東京でのライブ録音なんかと聴き比べれば、日本の聴衆もけっこう余韻を大切にするようになったとは思いますけれど、この種の事件の根絶はやっぱり難しいのでしょうか。こういうのは一種の犯罪だと思います。或いは控えめに言っても「大事故」…
去年のアバド… 本当に懐かしいですね!