6月18日(火)大野和士 指揮 東京都交響楽団/晋友会合唱団/東京少年少女合唱隊
~第753回 定期演奏会Aシリーズ~
東京文化会館
【曲目】
◎ブリテン/戦争レクイエム Op.66

S:リー・シューイン/T:オリヴァー・クック/Bar:福島明也
ブリテンの代表作でありながら、普段はなかなか聴く機会のない「戦争レクイエム」を聴けるのも、生誕100年のアニバーサリーならでは。前回この曲を聴いたのはいつだったかと記録を遡ったら1995年だった。やはり大野和士指揮の都響で、合唱も同じ晋友会と東京少年少女合唱隊。
18年ぶりの今夜の公演も感銘深いものだった。緻密で厳しく、綿密で柔軟な音楽表現に情熱も注ぎ込まれる大野和士の指揮は、「戦争レクイエム」のような音楽にとりわけ相応しい。オーケストラも合唱も、こうした大野の求めに十分に応え、緊張感に満ちた密度の高い、しなやかで熱のこもった演奏を聴かせてくれた。
通常のレクイエムで使われるラテン語の典礼文に加え、戦争で犠牲となったイギリスの詩人、ウィルフリッド・オーウェンの母国語(英語)による戦争の悲惨さを訴えるリアルな詩をテキストに選ぶことで、クリスチャンでない者にとってはまじないのように聞こえがちの典礼文が、俄然意味を持って訴えかけてきた。ブリテンはこうした効果を計算していたのだろうが、それを実演でここまで実感させてくれたのは、大野の的確な音楽の読みと、ソリスト達の功績だろう。晋友会と東京少年少女合唱隊の合唱も、豊かで濃厚な表情を聴かせながらも荒削りになることはなく、演奏を大いに盛り上げた。
テノールとバリトンがオーウェンの戦争を描写する詩を歌うのに対して、ソプラノは合唱とともに典礼文を歌うが、テノールのクックとバリトンの福島は、安定感に支えられつつ、 エッジの効いた明晰な語り口でリアルに詩の情景や情感を伝えた。ソプラノのシューインは、一人合唱団の更に上部中央に立ち、全体を司る女神のようにも見えたが、歌も天上から光が射すような神々しさがあり、やはり典礼文を歌う合唱団を率いて、テノールとバリトンが歌うオーウェンの詩の内容を、象徴的に聴き手に印象づけていった。
この作品の初演では、第2次世界大戦の主要当事国からそれぞれソリストを起用する構想だったというが、18年前の大野/都響の公演でも、敢えて多国籍のソリストが選ばれていて、今回のソリストの国籍も、日本、中国、韓国だった。このことは開演前にプロフィールを読んでいなかったため気づかなかったが、最近何かと争いが絶えないこの三国から、「戦争レクイエム」のソリストが起用されていたことは、やはり開演前に知っておくべきだった。それによって別の感慨が生まれていたかも知れない。
戦争の悲惨さを訴えかけるこの「戦争レクイエム」だが、その音楽は、死者や大切な人を失った人達を情け容赦なくムチ打つような非情に徹したものではなく、犠牲者を悼み、悲しんでいる者を慰め、憤っている者の心を鎮める働きも持っていることを感じた。「リベラメ」の壮絶な戦場の描写などからは、オペラ「ピーター・グライムス」で、主人公が群衆から徹底的に攻撃される場面が思い出されたが、この「戦争レクイエム」ではむしろ「慰め」に主眼が置かれているように感じられ、「悲痛さ」や「残酷さ」でガンガン攻めてくるだろうなと身構えていたわりには、そうした意味での衝撃は強烈というほどではなかった。これは演奏のためか、作品自身のためかを判別するには、もう少しじっくり作品と向き合う必要がありそうだ。
~第753回 定期演奏会Aシリーズ~
東京文化会館
【曲目】
◎ブリテン/戦争レクイエム Op.66


S:リー・シューイン/T:オリヴァー・クック/Bar:福島明也
ブリテンの代表作でありながら、普段はなかなか聴く機会のない「戦争レクイエム」を聴けるのも、生誕100年のアニバーサリーならでは。前回この曲を聴いたのはいつだったかと記録を遡ったら1995年だった。やはり大野和士指揮の都響で、合唱も同じ晋友会と東京少年少女合唱隊。
18年ぶりの今夜の公演も感銘深いものだった。緻密で厳しく、綿密で柔軟な音楽表現に情熱も注ぎ込まれる大野和士の指揮は、「戦争レクイエム」のような音楽にとりわけ相応しい。オーケストラも合唱も、こうした大野の求めに十分に応え、緊張感に満ちた密度の高い、しなやかで熱のこもった演奏を聴かせてくれた。
通常のレクイエムで使われるラテン語の典礼文に加え、戦争で犠牲となったイギリスの詩人、ウィルフリッド・オーウェンの母国語(英語)による戦争の悲惨さを訴えるリアルな詩をテキストに選ぶことで、クリスチャンでない者にとってはまじないのように聞こえがちの典礼文が、俄然意味を持って訴えかけてきた。ブリテンはこうした効果を計算していたのだろうが、それを実演でここまで実感させてくれたのは、大野の的確な音楽の読みと、ソリスト達の功績だろう。晋友会と東京少年少女合唱隊の合唱も、豊かで濃厚な表情を聴かせながらも荒削りになることはなく、演奏を大いに盛り上げた。
テノールとバリトンがオーウェンの戦争を描写する詩を歌うのに対して、ソプラノは合唱とともに典礼文を歌うが、テノールのクックとバリトンの福島は、安定感に支えられつつ、 エッジの効いた明晰な語り口でリアルに詩の情景や情感を伝えた。ソプラノのシューインは、一人合唱団の更に上部中央に立ち、全体を司る女神のようにも見えたが、歌も天上から光が射すような神々しさがあり、やはり典礼文を歌う合唱団を率いて、テノールとバリトンが歌うオーウェンの詩の内容を、象徴的に聴き手に印象づけていった。
この作品の初演では、第2次世界大戦の主要当事国からそれぞれソリストを起用する構想だったというが、18年前の大野/都響の公演でも、敢えて多国籍のソリストが選ばれていて、今回のソリストの国籍も、日本、中国、韓国だった。このことは開演前にプロフィールを読んでいなかったため気づかなかったが、最近何かと争いが絶えないこの三国から、「戦争レクイエム」のソリストが起用されていたことは、やはり開演前に知っておくべきだった。それによって別の感慨が生まれていたかも知れない。
戦争の悲惨さを訴えかけるこの「戦争レクイエム」だが、その音楽は、死者や大切な人を失った人達を情け容赦なくムチ打つような非情に徹したものではなく、犠牲者を悼み、悲しんでいる者を慰め、憤っている者の心を鎮める働きも持っていることを感じた。「リベラメ」の壮絶な戦場の描写などからは、オペラ「ピーター・グライムス」で、主人公が群衆から徹底的に攻撃される場面が思い出されたが、この「戦争レクイエム」ではむしろ「慰め」に主眼が置かれているように感じられ、「悲痛さ」や「残酷さ」でガンガン攻めてくるだろうなと身構えていたわりには、そうした意味での衝撃は強烈というほどではなかった。これは演奏のためか、作品自身のためかを判別するには、もう少しじっくり作品と向き合う必要がありそうだ。