6月16日(日)ハンガリー国立歌劇場公演
川口総合文化センター リリア メインホール
【演目】
ヴェルディ/「椿姫」全3幕
【配役】
ヴィオレッタ:イリーナ・ドブロフスカヤ/アルフレード:サボルチャ・ブリックナー/ジェルモン:アナトリー・フォカノフ/フローラ:カタリン・ゲーメッシュ/アンニーナ:エーヴァ・バラトニ/ガストン:ティボール・サッパノシュ/ドゥフォール:ゾルターン・ケレメン/医者:シャンドール・エグリ
【演出】アンドラーシュ・ベーケーシュ
【装置】ミクローシュ・フェヘール【衣裳】ユディト・シェッフェル 【振付】イェネー・レーチェイ
【演奏】
ヤーノシュ・コヴァーチュ指揮 ハンガリー国立歌劇場管弦楽団/合唱団/バレエ団
先月の「蓮の会」の公演に続いて再び川口リリアで「椿姫」を観た。外国のオペラハウスの来日公演はチケットがべらぼうに高いのでまず行かないのだが、このリリアでやるハンガリー国立歌劇場の公演は破格の安さに引かれた。そして公演内容は、いくつも来る外来オペラ公演のなかでも間違いなく上位に挙がる素晴らしいものだった。
ソリスト、合唱、オーケストラという、オペラの上演の音楽部分を担う要素がどれもとても高いレベルを示していたし、視覚的イメージを担う、ステージ上で繰り広げられる登場人物の統制のとれた動きや、2幕で登場した見事なダンス、衣装の美しさ、それに会場の制約上本拠地と同じとはいかなかっただろうが、落ち着いた雰囲気の舞台装置など、オペラの引越し公演に必要なもののどれもが好条件で整っていて、これでこの値段で本当にいいの?と思ってしまった。
そんななかでもひときわ輝いていたのがヴィオレッタ役のイリーナ・ドブロフスカヤ。会場では、この役が当初予告されていたエリカ・ミクローシャから交替になったとのお知らせが出ていて(体調不良のため)、主役が代役かぁ。。と思ったが、これは本当に素晴らしかった。
張りのある澄んだ美声から生み出される歌唱は、繊細さから強さまで、表現の幅がとても広くて柔軟。娼婦の色気、ひたすら純粋な愛を歌う健気さ、アルフレードの父親の言葉への強い拒絶から、これを受け入れるに至る感情表現の変化の見事さなど、どれを取っても場面に相応しい歌を聴かせ、そこには常に気高さが備わっていた。第3幕でのアリア「過ぎ去りし日」などで、瀕死の弱々しさを出しつつ、観客を強く引きつけてくる凝縮された集中力とリアルさは、全幕を通して素晴らしかったなかでも出色。ドブロフスカヤは、容姿の美しさも手伝って、ヴィオレッタに求められるものを完全に具えた名歌手だ。
この相手役、アルフレードを歌ったブリックナーも文句なしの出来ばえ。輝きと艶のある声は貴公子然としていて強さもあり、「燃える心を」で伝えるヴィオレッタへの熱い思いは聴衆にも真っ直ぐに迫ってきた。思い違いをしてヴィオレッタに怒りをぶつけるあたりも迫力があったが、歌がこれほど素晴らしいと逆に「この男はどうしてこう単純なんだろう」という気持ちが…
このオペラでもう一人重要な、アルフレードの父ジェルモンを歌ったフォカノフも素晴らしい。気高く均整が取れた表情で歌う「プロヴァンスの海と陸」などのアリアを聴いていると、立派な人格者を思わせるが、それだけにストーリーの展開にアタフタする姿は余計に滑稽に思えてしまう。この役に立派な風格のある歌をいくつも与えたヴェルディは、ジェルモンをどんな人物に描きたかったのだろうか。
コヴァーチュ指揮のハンガリー国立歌劇場管弦楽団は、人情味のある温かい響きを持っていて、丁寧で柔らかなニュアンスもいいし、こみ上げる感情表現などからは胸の鼓動が伝わってきた。近年、オーケストラの響きに地域性がなくなったと言われるが、ソロからもアンサンブルからも感じられる温かみや味わい深さが、東欧のイメージと結びついた。
そんなシンプルな味わいが、今日のようなオーソドックスな舞台装置や演出によくマッチしているように思った。とりわけ目を見張るような装置や仕掛けはなかった代わりに、登場人物を邪魔したり、意味深な人物の配置や動きがいくつかあるにはあったが、余計な謎解きを求めてくることもなく、今の場面を的確に示してくれて舞台の進行をスムーズに追うことができ、歌と音楽に集中することができた。ただ、終幕のヴィオレッタが死ぬ最後の場面で、アルフレードが、身を崩すヴィオレッタを抱きとめることもせず、ヴィオレッタに背中を向けてベッドに突っ伏して泣いているだけ、というのはちょっと切なすぎる。ヴィオレッタの孤独、哀れさを出したかったのだろうか・・・
川口総合文化センター リリア メインホール
【演目】
ヴェルディ/「椿姫」全3幕
【配役】
ヴィオレッタ:イリーナ・ドブロフスカヤ/アルフレード:サボルチャ・ブリックナー/ジェルモン:アナトリー・フォカノフ/フローラ:カタリン・ゲーメッシュ/アンニーナ:エーヴァ・バラトニ/ガストン:ティボール・サッパノシュ/ドゥフォール:ゾルターン・ケレメン/医者:シャンドール・エグリ
【演出】アンドラーシュ・ベーケーシュ
【装置】ミクローシュ・フェヘール【衣裳】ユディト・シェッフェル 【振付】イェネー・レーチェイ
【演奏】
ヤーノシュ・コヴァーチュ指揮 ハンガリー国立歌劇場管弦楽団/合唱団/バレエ団
先月の「蓮の会」の公演に続いて再び川口リリアで「椿姫」を観た。外国のオペラハウスの来日公演はチケットがべらぼうに高いのでまず行かないのだが、このリリアでやるハンガリー国立歌劇場の公演は破格の安さに引かれた。そして公演内容は、いくつも来る外来オペラ公演のなかでも間違いなく上位に挙がる素晴らしいものだった。
ソリスト、合唱、オーケストラという、オペラの上演の音楽部分を担う要素がどれもとても高いレベルを示していたし、視覚的イメージを担う、ステージ上で繰り広げられる登場人物の統制のとれた動きや、2幕で登場した見事なダンス、衣装の美しさ、それに会場の制約上本拠地と同じとはいかなかっただろうが、落ち着いた雰囲気の舞台装置など、オペラの引越し公演に必要なもののどれもが好条件で整っていて、これでこの値段で本当にいいの?と思ってしまった。
そんななかでもひときわ輝いていたのがヴィオレッタ役のイリーナ・ドブロフスカヤ。会場では、この役が当初予告されていたエリカ・ミクローシャから交替になったとのお知らせが出ていて(体調不良のため)、主役が代役かぁ。。と思ったが、これは本当に素晴らしかった。
張りのある澄んだ美声から生み出される歌唱は、繊細さから強さまで、表現の幅がとても広くて柔軟。娼婦の色気、ひたすら純粋な愛を歌う健気さ、アルフレードの父親の言葉への強い拒絶から、これを受け入れるに至る感情表現の変化の見事さなど、どれを取っても場面に相応しい歌を聴かせ、そこには常に気高さが備わっていた。第3幕でのアリア「過ぎ去りし日」などで、瀕死の弱々しさを出しつつ、観客を強く引きつけてくる凝縮された集中力とリアルさは、全幕を通して素晴らしかったなかでも出色。ドブロフスカヤは、容姿の美しさも手伝って、ヴィオレッタに求められるものを完全に具えた名歌手だ。
この相手役、アルフレードを歌ったブリックナーも文句なしの出来ばえ。輝きと艶のある声は貴公子然としていて強さもあり、「燃える心を」で伝えるヴィオレッタへの熱い思いは聴衆にも真っ直ぐに迫ってきた。思い違いをしてヴィオレッタに怒りをぶつけるあたりも迫力があったが、歌がこれほど素晴らしいと逆に「この男はどうしてこう単純なんだろう」という気持ちが…
このオペラでもう一人重要な、アルフレードの父ジェルモンを歌ったフォカノフも素晴らしい。気高く均整が取れた表情で歌う「プロヴァンスの海と陸」などのアリアを聴いていると、立派な人格者を思わせるが、それだけにストーリーの展開にアタフタする姿は余計に滑稽に思えてしまう。この役に立派な風格のある歌をいくつも与えたヴェルディは、ジェルモンをどんな人物に描きたかったのだろうか。
コヴァーチュ指揮のハンガリー国立歌劇場管弦楽団は、人情味のある温かい響きを持っていて、丁寧で柔らかなニュアンスもいいし、こみ上げる感情表現などからは胸の鼓動が伝わってきた。近年、オーケストラの響きに地域性がなくなったと言われるが、ソロからもアンサンブルからも感じられる温かみや味わい深さが、東欧のイメージと結びついた。
そんなシンプルな味わいが、今日のようなオーソドックスな舞台装置や演出によくマッチしているように思った。とりわけ目を見張るような装置や仕掛けはなかった代わりに、登場人物を邪魔したり、意味深な人物の配置や動きがいくつかあるにはあったが、余計な謎解きを求めてくることもなく、今の場面を的確に示してくれて舞台の進行をスムーズに追うことができ、歌と音楽に集中することができた。ただ、終幕のヴィオレッタが死ぬ最後の場面で、アルフレードが、身を崩すヴィオレッタを抱きとめることもせず、ヴィオレッタに背中を向けてベッドに突っ伏して泣いているだけ、というのはちょっと切なすぎる。ヴィオレッタの孤独、哀れさを出したかったのだろうか・・・