占星術への道-誕生史、星見の作法

・占星術の基礎-星見の作法とは?
・今も多くの人を魅了する占星術
・いつ、どこで、どのように生まれたのか?

<1> まず星を見なけりゃ! / ■夕陽を見よう-本当の最初はね

2021-03-14 10:11:04 | 星読みの作法-占星術のための-

■星を見よう!

 当たり前ですが、占星術は日・月・5惑星と星の配列から占うこと。ですから、これらを知らないことには話が始まりません。こうした天体は自然界を構成する主要メンバーですから、占星術とは自然と深く交わり、自然からいろいろ教わることに他なりません。まず、星と親しみ、星からの声を聴き、自然界とのつながりを強く意識することが大事です。

 2020年から2021年と世界的に猛威を振るったコロナウイルスですが、目に見えない自然物のウイルスとも共存していかなければならないことを、私たちは、深く学んだのではないでしょうか? そして、東日本大震災を引き起こした大地震と津波の凄まじさにただ愕然とするばかりでなく、これとて自然のなせる業、これとも人間はつき合っていかなければならないと思ったのではないでしょうか? 人間は間違いなく自然界の一員、この認識こそ占星術の基礎、成立基盤、哲学と言えるでしょう。

 ですから、占星術は単なる占いではないのです。人間が自然界の一員であることを否定できる人がいるでしょうか? 人間が自然界の影響を受けないと否定できる人がいるでしょうか? このように、占星術は揺るぎない自然界という基盤の上に立つ占いであり、単なる作り物ではありません。

 あなたはどれが北極星か、指し示すことができますか? 今夜の月はどんな形でしょうか? 今、太陽はどの星座にあるでしょうか? 常に天に意識を向けていれば、すぐに回答できる筈です。もし即答できなければ経験不足と認識し、早速、今から天を仰ぎ、太陽を、月を、星を探しましょう。方角を指し示すことはできますか? こうした経験と知識がなければ、あなたの占星術は偽物と言われても仕方がありません。

 しかし、初めから経験と知識を持ち合わせている人はいません。誰もが意識を傾け、時間をかけて会得してきたのです。早速、外へ出て天を仰ぎ、意識して星を見ることから始めましょう。


■夕陽を見よう-本当の最初はね

 でも、本当のことを言えば、星見は決して簡単ではありません。ですから、それより夕陽を見る方が機会も多く、楽だろうと思いますから、まず、これからにしましょう。

 この写真、桜に夕陽です。こうした行楽の折にだって見ることができます。わざわざでなくても良いのです。

 季節によって夕陽が沈む時刻や沈む方角が違うことはご存知でしょう。でも、それは実際に見て得た知識でしょうか? 学校のお勉強はそれでも良いでしょうが、占星術をと言う方なら、これはダメです。ちゃんと見なけれりゃ!

 できれば見る場所を決め、1年間、継続です。1年と言っても、もちろん、毎日ではありません。1ケ月に1回なら言うことなしで、2ケ月に1回で良いでしょう。ただ、ぼんやりと「ああ、きれいだな」ではいけません。しっかり、意識するのです。

 時計を見て、方角を確認、です。沈んだのはあの山のそことか、あの建物のあそことか、そんな程度で結構です。夕陽を見ようと思って見る、しっかり意識して見ることが大事なのです。

 やってみると、時刻と沈んで行く場所だけですから、大したことはありません。見終わったら、意識して見た証拠を残しましょう。それは、


①記録すること-年月日、時刻、場所

この3点を記録します。これを1年続ければ、あなたは後輩より1年先に進んでいるだけではなく、世間の人たちが容易に経験できない世界に足を踏み入れたことになります。専門家の世界の一員です。なぜなら、世間の人たちは1年間も意識して夕陽を見るなんて、ないのですから。

 少し欲が出て、記録に止まらず進歩したいと思うなら、

黄道と12星座(12宮、12サインではない!) ©(株)浜島書店


②スターチャートへ記入

することです。やり方は簡単。上の図のように太陽位置があらかじめ記されているスターチャートを用意し、そこに見た日付の場所を、この図のように、マークするだけ。ここでは4月20日の位置を赤●でマークしてみました。これを1年続ければ、黄道上を移動する太陽を意識して見たことになります。記録済みのスターチャートは1年の成果の証です。大切に保存しておきましょう。

 これをやれば背景の星座もわかるでしょうし、占星術で使っている星座と合わないこともわかることでしょう。「あれっ?」と思ったら、あなたは占星術をちゃんと理解するための入り口に辿り着いたことになります。

 次回はさらに夕陽の観察を深化させてみましょう。

福島 憲人(2021.3.14.)


<18> 4章 ギリシャ、ローマおよびヘレニズム文化期エジプトにおける占星術 (紀元前600-紀元200 年頃)/ギリシャ

2021-03-14 08:46:01 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

ギリシャ人

 紀元前6世紀、多数の有名な哲学者であり科学者でもある人たちが現れるとともに、ギリシャ「哲学」(知恵への愛)が興った。ターレス(紀元前625年-547年)とアナクシマンドロス(紀元前610年-547年)はともにミレトスの出身で、ピタゴラス(紀元前580年-500年)のように天文学と論理学を研究し始めた。有名な哲学者としては、ソクラテス(紀元前469年-399年)、プラトン(紀元前427年-347年)、アリストテレス(紀元前384年-322年)がいた。コス島のヒポクラテス(紀元前460年-380年)は医学の父であり、ユークリッド(およそ紀元前295年頃)は偉大な数学者でした。紀元前5世紀と4世紀はギリシャの黄金時代で、アテネがその中心であった。

 だが、紀元前350年頃には、ギリシャの諸都市は衰退してしまった。アレクサンドロス大王は、アレキサンドリアやアンティオキアのような都市にギリシャ文化を広げることに成功した。ギリシャ人の居留地と周辺地域とのネットワークによって共通の文化が発達したことで、ギリシャ的な外観や生活様式を持つヘレニズム文化が作られた。ヘレニズム文化の時代はアレグサンダー大王の死(前323年)から、紀元前2世紀にローマが台頭してきて、ギリシャの自治が終わりを迎えた頃までである。だが、ギリシャのスコラ哲学は途絶えることはなく、ギリシャ人たちがバビロニア文化を同化したのと同じように、ローマ帝国に受け継がれていった。

 

ギリシャ神話

 惑星がギリシャ神話のなかに組み込まれていった。マイアの息子ヘルメスは神々の使者であると同時に、商売、悪知恵および発明の神だった。その家は、軌道速度が最も速い惑星の水星とされた。ゼウスとタイタン・ディオーネーの娘であるアフロディテは美と愛の女神だった。彼女の住処は金星であった。ゼウスとヘラの息子、アレスは戦争の神であり、彼の住処は火星であった。ギリシャ人は5番目の惑星(木星、ジュピター)にゼウスにちなんだ名前をつけた。6番目の惑星の土星はクロノスと結びつけられ、年老いた神として象徴的に表されていた(この惑星は遠方にあるので、ゆっくりと動き、冷たく見えたから)。セレネは月の女神であった。アポロは太陽、詩、音楽および美の神であった。ギリシャ人は数多くの神々や女神の冒険に関する無数の物語と詩を持ち込んだ。物語は、時代や都市、さらに作者の想像によって、修正が加えられたり、生き生きとしたものとなった。

 

ギリシャの哲学者兼科学者

 紀元前6世紀くらいの昔に、地球は丸いと考えられていた。ピタゴラス(紀元前580年-500年)は、地球は丸く、しかも地球も惑星も静止している太陽のまわりを回転している、と言った。ピタゴラスはイタリア南部のクロトンで宗教、神秘学、哲学を扱う学派(学校?)を立ちあげた。この学派は次の世紀も生き残り、数学と天文学に関し革新的な考えを打ち出していた。その中に入っていたのがピタゴラスの定理であった。地球は球体とされた。それは宇宙の中心ではなく、他の天体同様、円軌道を動く天体と考えられていた。「天球のハーモニー」が存在していた。そのためのエネルギーはゼウスがもたらしてくれた。この神性はプラトンも認めていたし、ある意味ではアリストテレスも、またプトレマイオスを始めとする後世の科学者たちも認めていた。

 シチリア島の町アクラガスに生まれたエンペドクレス(紀元前493年-433年)は、シュメール人が考え出した地、水、火、風という「要素・エレメント」を改めて取り入れた。アナクサゴラスAnaxagorus(紀元前500年-428年)は、エンペドクレスとは対照的に、エレメントは火、地、風、水ではなく、小さな粒子の集合体とし、太陽の大きさはペロポンネソス(南ギリシャ)より少し大きな火のような岩だ、と言った。この話がもとで彼は訴追され、アテネから放逐された。

 プラトンは、対話集ティマイオスで、宇宙についてティマイオスに論議させ、火・地・風・水の4つの基本的なエレメントというエンペドクレスの考えをくりかえし述べさせている。諸天体には生きている知的な魂が付与されていて、様々な円上をあるものは速く、またあるものはゆっくりと移動する。宇宙には4種類の生き物が住んでおり、これらは宇宙の中で認識されている4つの基本要素に対応している。つまり、火に相当する天界の神聖なある種のもの、空気に相当する翼のあるもの、水に相当する水の種、そして地に相当する砂漠の創造物である。

 初期のギリシャには、この考えとは違って、原子論派とも言うべき学派があった。この学派は紀元前5世紀にレウキッポスによって始めたもので、その後デモクリトス(紀元前460年)に引き継がれた。それは現代の原子論の先駆をなすものであるが、プラトン等は徹底的にこれを嫌った。話によると、プラトンは入手できたデモクリトスの著作をすべて焼き払おうとしたが、二人のピタゴラス派学者がとどめた、ということだ。

 アリストテレス(紀元前384年-322年)はアテネにあった学派から分れて、リュケイオンLyceumという新しい学派を打ち立てた。彼はエンペドクレスの4つの「エケメント」を受け入れ、天を作っているという5つ目のエレメント「エーテル」をこれに加えたが、原子論は否定した。リュケイオンの概念や考えの多くは、その後ヘレニズム文化の終末期にアレキサンドリアの博物館へもたらされた。そして、アリストテレスはプラトンが唱えた天体の神性説を補強した。

 プラトンの学園のメンバーであるクニドスのエウドクソス(紀元前400-347)は数理天文学を形あるものにした最初のギリシャの天文学者だった。彼は、ギリシャとバビロニアの天文学を統合した最初の天文学者のうちの1人だった。キケロはエウドクソスについて、「誕生日に基づくいて人の人生について予測したり、断言したりしているカルデア人の占星術師を信じるべきではない」と書いたのはエウドクソスだ、と言っている。

 サモスのアリスタルコス(紀元前310-230)は、一時、アレキサンドリアに住んでいたが、地球から月や太陽までの距離を計算し、太陽は地球より何倍も大きいという結果を得た。こうして、太陽が地球のまわりを回っているのではなく、地球と惑星が太陽を巡っていると考える方が合理的だとわかった。この異端的な学説に対して、ストア派のクレアンテスは「彼は不信仰罪で起訴されるべきだ」と言明した。

 ヒッパルコス(紀元前190-126)は星々を明るさで分類し、最初の大規模な星(850星)のカタログを作成し、太陽と月の大きさと距離を決定するための実用的方法を初めて考案した。さらに、彼は春分点が移動していくという歳差運動があることを明らかにした。ヒッパルコスは、また、太陽を含む諸天体がすべて地球のまわりを回転しているという天動説を構築し、プトレマイオスのために舞台を整えた。この間違いは長いこと糾されることはなかった。ヒッパルコスの著作は初期の論文「エウドクソスとアラートスの自然についての注釈」以外ほとんど何も残っておらず、ヒッパルコスについて私たちが知っていることのほとんどはプトレマイオスによるものである。

 

ギリシャの占星術師

 およそ紀元前5世紀からプトレマイオス(西暦紀元150年頃)の時代にかけて、占星術の内容はバビロニア人からギリシャ人に伝えられ、ホロスコープ占星術は拡張し、改良された。残念ながら、現在まで残っている記録は粘土板やパピルス、そしてプリニウスとかプルタルコスのような歴史家が書いたコメントなどの断片的なものだけである。

 前に述べたキディヌKiddinu、ベロッソスBerossus、スディネスSudinesなどのカルデア人に加え、ヘレニズム時代の占星術の革新者としてはクリトデムスCritodemus(紀元前250年頃)、ミンダスMyndusのアポロニウス(紀元前220年頃)やビザンティウムのエピゲネスEpigenes (紀元前220年頃)などがいる。「ペトシリスPetosiris/ネケプソNechepso」(紀元前150前頃)という名前は、おそらく架空の王/聖職者のことで、文書によく出てくる(星占い師は文献では陰の人物として現われることが多く、その時代は多くの場合あまり信頼できない)。よく現われるもう一つの名前はヘルメス・トリスメギストスで、時にはヘルメティカHermeticaと呼ばれることもあるが、おそらく実在しないギリシャ人であろう(その実際の意味は「3倍偉大な水星」)。その両方とも、哲学や宗教が、紀元1世紀から3世紀にかけて、あちこちに拡散した結果を示しているように思われる。

 ポシドニウスPoseidonius(紀元前135-51)はギリシャの哲学者であり科学者であり、散文家でもあって、正確に太陽の大きさを計算し、星占いの普及を図った。作家としての才能があり、ローマの指導者たちと親しかったため、古代ローマ時代とその後の占星術の伝播や普及に大きな働きをした。

福島憲人・有吉かおり

 


<17> 3章 新バビロニア時代/黄道十二宮の登場(続)/サイン(十二宮)と惑星の特質

2021-03-14 08:22:25 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

図29:バビロニアのホロスコープ、バビロン(前258)から。©大英博物館

 


表面

(おそらく1行欠けている)

月(?)ニサン(?)、夜(?)14番目の(?)....

シュマ・ウススの息子、シュマ・イッディナの息子、デケの子孫が生まれた。

その時に、月はさそり座の「角」の下にあった。

木星はうお座に、金星は

おうし座に、土星はかに座に、

火星は双子座に。水星は、(最後に)沈んで、(まだ)

[まだ見えて]いた。

(月)ニサン、一日目(前の月の30日目の後に

続く日)、

(三日月は)28(日目に見えていて)、14日(?)[の日の出後に月が見えていた

期間は] 4,40(?)であった。

月が最後に現われたのは27番目の日だった。

 

裏面

(出だしは記されていない)。

(状況?)はあなたにとって良くなるだろう(?)。

デュウズDu'uzの月、12の年、

8の年(?)...

 [----]

(裏面の残りの部分は、多分、何行か消失している)


図28:最古のホロスコープ、バビロン(紀元前410)から。オックスフォード アシュモリアン博物館見学者提供写真。

(くさび形文字研究ジャーナル6(1952)、「バビロニアのホロスコープ」)Aザックスのテキストから:54-57.


 

サイン(十二宮)と惑星の特質

 バビロニア人がどのようにしてその考えを発展させていったか、それを明らかにしている粘土板が全て見つかっているわけではないので推測の域に留まっているが、星座をさまよう惑星の特質がどのようにして引き出され、やがてサイン黄道12宮に結実したか、興味深い問題である。プトレマイオスが強調するところによれば、サインのはっきりした特性は惑星のそれと相関があるという。たとえば、7月ー8月という最も暑い夏の星座であるライオンの獅子宮は最も熱い星、つまり太陽とうまく合う、という。また、冬の星土星は冬の宮である白羊(おひつじ)宮や宝瓶(みずがめ)宮と合う、などという次第である。

 

まとめ

 結論をまとめると、バビロニアにおける天文学や占星術が発達するにつれて、ギリシャの天文学や占星術も進化していった。それは最初の千年紀の初めに始まり、エジプトの天文学/占星術も同様に成長した。最初、ギリシャ人とバビロニア人の間では交流があったが、エジプトでは、アレグサンダー大王以前は、他国との情報交換はあまりなかったようである。そこで、占星術がバビロニア起源であると言う場合、紀元前6世紀にまでしか遡れないというのは本当なのだ。その後、旅の形態が発達し、当然のように交易が始まった。だから、ホロスコープはバビロニア発祥であると言う場合、他の地域よりはむしろバビロニアらしい、と言うべきである。バビロニアのホロスコープ占いも後になれば、ヘレニズム文化やギリシャの考えがますます浸透してきて、変質してしまった。この伝承知識という富を実体あるものにしたのはプトレマイオスであった。

 


表面

(セレウコス王朝時代の)53年、(閏のアダル月、政暦6月,教暦12月の月)が入り、最初の

夜に、月が

バリエティス星Barietisの下 2と1/2キュビットのところを(通り過ぎた)。

12日目:(春)分時。

1日目:月..うお座。

裏面

(セレウコス王朝の時代の)54年、キスリムKislim月、

(先月の30日に続く)1日目、

8番目の夜に。

空が暗くなり始めた頃、月はうお座の星(?)の

下1と1/2キュビットにあり、

月は東方に1/2キュビット(すでに通り)過ぎていた。

20日目:(冬)至。

13日目:月のナnaは11。

上部端

その時、木星はやぎ座に、金星はさそり座にあって、

- 9番目の(日)に、水星は(ついに)いて座の東に

消えた。土星と

火星はてんびん座に。

注釈(ザックス、52):

子どもの誕生について通常述べられているような明確な説明に欠けていたが、この粘土板が受胎と誕生を結びつけたホロスコープであることをクグラーはみごとに見抜いた。


図29:バビロニアのホロスコープ、バビロン(前258)から。©大英博物館。

A.ザックスのテキストより、「バビロニアのホロスコープ」、くさび形文字の研究ジャーナル6(1952):58-60.

 


表面

77年(セレウコス王朝の)シマンSiman(の月)、4番目の(日から?)、

5番目(の日)の夜明け前(のある時刻までの間に?)、

アリストクラテスは生まれた。

その日、月はしし座に。太陽はふたご座の12;30度に。

月がその面を真ん中から上に向けていた。(これに対応する

オーメンは次のとおり)「もし、真ん中から

上に方に、それ(すなわち、月)がその面を向けていれば、(間違いなく)

破壊をもたらす(であろう)。」 木星

...いて座の18度。

木星の場所は(意味する):(彼の人生は?)安定し、良くなるだろう。彼は

裕福になり、彼は

長生きし、彼の時代は多年に(文学的表現では長く)なるだろう。金星は

おうし座の4度にある。

金星のある場所は(意味する):彼がどこに行こうとも、それは彼に幸せを

もたらすだろう。

彼は息子と娘に恵まれるであろう。ふたご座に水星、

(約4行が不明瞭)

裏面

太陽とともに。水星のある場所は(意味する):勇敢なものは最高位と

されるだろう。

彼は彼の兄弟以上に重要な人になるだろう。

土星:かに座6度。火星:かに座24度。..

毎月の22番目と23番目

(残り部分には記載がない。)


図30:バビロン(紀元前235)のバビロニアのホロスコープ。

A.ザックス「バビロニアの星占い」から。くさび形文字の研究ジャーナル6(1952):60-61.

 


表の面

[1]69[年](セレウコス王朝の)、デメトリオスDemetriosが(王である時に)、アダル

の月、(その1日目は

前の月の)第30番目の日に(合致しているはず)、

6番目の夜、

暮れ行く頃、月は

1キュビット進んでいた(つまり、おうし座B星の西―)

6番目の日、朝に、子どもが生まれた。

その時、月はふたご座の初めの所にあり、

太陽はうお座に、木星はてんびん座に、金星と火星はやぎ座に、

土星はしし座にあった。

その月は、(月は)14番目の日の日の出後の

早朝に初めて見えた。

端部

月が最後に見えたのは第27番目の日

裏面

170年(セレウコス王朝の)、ニサンの月、4日目。(春)分。

その子は、木星の光り輝く(?)棲家で生まれた。

(残りの部分は記述されていないか、破損した。)


上および左:

図31:ウルク(紀元前142)時代のバビロニアのホロスコープ。

写真©:大英博物館。

A.ザックス「バビロニアのホロスコープ」からのテキスト。くさび形文字の研究ジャーナル6(1952):62-63.

 

図32:ホロスコープが出現した時代の年代記

オットー・ノイゲバウアー、ファン・ホウゼン著「ギリシャのホロスコープ」、アメリカ哲学協会、1959、から改作

福島憲人・有吉かおり

 


<16> 3章 新バビロニア時代/ホロスコープ占星術以前/黄道十二サイン(宮)の登場

2021-03-13 09:58:59 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

図28:紀元前410年4月29日の日付のある最も古いホロスコープ


ホロスコープ占星術以前

 次に示すウルク時代の粘土板には、ホロスコープ以前のデータが表わされているが、ほとんどはオーメンの形で書かれている(図27を参照)。それはオーメン占星術とバビロニア・ギリシャのホロスコープ占星術を結びつけている粘土板である。ザックスは紀元前5世紀頃のものとしている。

 

黄道十二サイン(宮)の登場

 黄道をそれぞれ30度ずつに区切った十二サイン(宮)が考え出されたことは、占星術が成立する上で決定的に重要なワンステップとなった。これは、紀元前417~410年の間にあったはずである。紀元前419年と418年用の天文記録にはまだ星座が使用されており、そして12サイン(宮)を使用している最初のホロスコープとして知られているものは紀元前410年とされているからである。

 こうして、ついにホロスコープが誕生した。紀元前410年4月29日の日付のある最も古いホロスコープ(図28を参照)はバビロンで出土したものである。それには天文学のデータ以外についてはほとんど何もなくて、さそり座の“角”(角とはてんびん座の南北の天秤皿にあたる)の真下に月、うお宮に木星が、おうし宮に金星が、かに宮中に土星が、ふたご宮に火星があり、そして水星は見えず、と書かれている。「事態はあなたにとって良くなる」という短いぼんやりした記述は、占星術的な予言という点では何も提示していないのに等しい。

 現在までバビロニアの楔形文字のホロスコープが16個発見されており、それは紀元前410~68年に亘っている。そのうち15個はセレウコス王朝の時代(紀元前280~68年)のものである。15個のうちの3つを紹介しておいた(図29、30および31を参照)。1番目と2番目はバビロンから出土したもので、3番目はウルクで出土したものである。最初のホロスコープでは予言は行わず、受胎と誕生を結びつけている。2番目は漠然とした予言を示しているだけで、3番目では予言はしていない。

 バビロニアの約1800枚の天文学関連の粘土板のうち、ホロスコープはたった16枚しか見つかっていない。ギリシャのホロスコープでは反対である。約20枚の天文学の粘土板があり、その10倍以上のホロスコープ粘土板が見つかっている。バビロニアで最後のホロスコープが作られたのとほぼ同じ時期にギリシャで最初のホロスコープが出現したことに注目しよう。これは、ギリシャ人の思想にバビロニアの占星術が重要な役割を果たしたことを教えている。

 図32にホロスコープのそれぞれの年代記を示しておいた。

 


プレ・ホロスコープ占星術の例。楔形文字文書から

(表)

白羊宮なる所:彼の家族の死。

金牛宮なる所:戦死。

双児宮なる所:囚われの身での死。

巨蟹宮なる所:海洋での死;

長寿。獅子宮なる所:彼は長生きし、

裕福になるだろう;第2に、

彼の個人的な敵の逮捕

乙女宮なる所:彼は裕福になるであろう;

怒り。

 

天秤宮なる所:よい日;彼は死ぬだろう

40年[という年齢で?]?

 

天蠍宮なる所:激怒による死[である]?

彼の運命による死は。射手宮

なる所:海洋での死。

 

磨羯宮なる所:彼は貧しくなり、

ヒステリーになるだろう[?] 彼は

病気になり、死ぬだろう。宝瓶宮なる所:

40?年?[の年齢で?]、彼は

息子?を持つでしょう;水死。

双魚宮なる所:40?年?[の年齢で?]、

彼は死ぬだろう;ずっと先に...

 

月が現われた時、子どもが生まれると、

[彼の人生?は] 明るく、

立派で、安定して、そして長生きするだろう。

 

木星が現われた時に、子どもが生まれると、

[その後、彼の人生?は] 安定して、

良いだろう。彼は裕福になり、長生きする

だろう、[彼] の時代は長く続くだろう。

 

金星が現われた時、子どもが生まれると、

[その後、彼の人生?は]

特別に?平安なものとなろう。彼が行くところはどこも、

良くなるだろう。[彼の] 時代は長く続く

だろう。

 

水星が現われた時、子どもが生まれたら、

[その後、彼の人生?は]華やかで、

立派になろう。...

 

火星が現われたとき、子どもが生まれたら、

[その後]・・・熱烈な? 感情的?

 

土星が現われた時、子どもが生まれたら、

[その後、彼の人生?は] 暗く、

不遇で、病気がちで、そして抑圧されるだろう。

 

月食の時、子どもが生まれたら、

[その後、彼の人生?は] 暗く、不遇で、明るくは

ないだろう。

 

日食の時、子どもが生まれたら、

[その後].......長寿。

 

(裏面)

木星が現われていて、金星が沈んでいる時、子どもが

生まれると、それはその人にとって

とても良きこととなろう。彼の妻?は

去り、そして..

 

木星が現われ、そして水星が沈んだ時に、子どもが

生まれれば、それはその人にとってとても良きこととなろう。

彼の長男は死ぬだろう。

 

木星が現われ、そして土星が沈んだ時に子どもが

生まれれば、それはその人とってとても良きことと

なろう。彼個人の敵は死ぬだろう。

 

木星が現われ、火星が沈んだ時に子どもが

生まれれば、それはその人とってとても良きことと

なろう。彼は自分の敵が敗北するのを

目の当たりにするだろう[?]。

 

金星が現われ、そして木星が沈んだ時に

子どもが生まれたら、妻は

彼よりも強くなるだろう。

 

金星が現われ、そして土星が沈んだ時に

子どもが生まれたら、彼の長男は死ぬ

だろう。

 

金星が現われ、そして火星が沈んだ時に

子どもが生まれたら、彼は自分の敵を

捕らえるであろう。

 

子どもが生まれ、そしてその日に木星が

合の後に初めて見えると、

その後...もし子供が

生まれ、その日に木星が見えなくなったとすると、

[合になる寸前に]、

その後...

 

うしかい座E星が現われる時、子ども?が生まれると、

彼には息子ができないであろう。

 

北のかんむり座のB星が現われる時、彼は

・・・・・だろう。ヘルクレス座B星が現われると、

クレーンによる(吊り下げられて?)死?

 

ヘルクレス座u星が現われると、彼は貧しくなるだろう。

 

はくちょう座が現われると、彼は皮膚病を患うであろう。

耳が聞こえなくなるであろう。

 

ペガスス座n 星が現われると、彼は宿命の死を

遂げることになるであろう。

 

アンドロメダ座v星のまわりの星座が現われると、

ヘビによる死がもたらされる。

 

ペルセウス座B 星が現われると、武器による死?

 

ぎょしゃ座a星が見えると、彼は裕福になるだろう。

武器による死?

 

ふたご座が現われると、牢獄での死?

 

かに座が現われると、武器による死...


図27: プレ・ホロスコープ占星術、ウルク出土(およそ紀元前5世紀)(A.ザックス(「バビロニアのホロスコープ」、楔形文字研究誌6(1952)68-75から)

福島憲人・有吉かおり

 


<15> 3章 新バビロニア時代(紀元前600-300年頃)/カルデアの占星術/カルデアの占星術師

2021-03-13 09:39:24 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

カルデア:メソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称

カルデアの占星術 

 ナボポラザールNabopolassarの下で、新バビロニアすなわちカルデア人の時代が始まった。カルデアという言葉は、アッシリアのカルデゥ(Kaldu)から来たもので、南メソポタミアを意味しており、カルデア人という言葉は、文学や、天文学、占星術などを学んだバビロニアの学者や聖職者たちを指すためにギリシャ人が使ったものである。その後に登場したバビロニアの占星術師はマギと呼ばれており、一種の魔術師であった。

 歴史上のカルデア人(ペルシャ湾近くの南バビロニアに住んでいたメソポタミア人)と、動物の内臓や天体現象から得られたオーメンを基に予言をしていたベル・マルデュックの聖職者を区別しておくことが大事である。カルデアの聖職者たちの時代はおよそ紀元前6世紀から西暦2世紀までである。ホロスコープを最初に作成したのがカルデアの聖職者たちだった。

 ギリシャの地理学者ストラボン(紀元前63年~紀元19年)は自著「地理学」にカルデア人について次のように書いている。

 バビロンでは、その多くが天文学に関係しているカルデア人と呼ばれているその地域の哲学者がいて、彼らのために特別に居留地が定められている。しかし、中には、一般に承認されていないが、誕生日占いをする占星家であると公言している者もいる。アラビアやペルシア海の近隣にもカルデア人の部族がいるし、彼らが居住していた領地もある...たとえば、オルケノイOrchenoiとかボルシッペノイBorsippenoiとか呼ばれる者たち他にも別の名前の者たちもいて、派閥に分かれては、同じ課題についていろいろな教義を持ち出して議論している。そして、たとえばキデナスKidenasやナブラノスNaburanosやスディネスSudinesのような何人かのこうした人物について言及している数学者もいる。セレウキアのセレウコスもカルデア人である。

 

カルデアの占星術師

 キディヌKiddinu(時々キデナス、シデナスと言われることもある Kidinnu、Kidenas、Cidenasと綴られることもある。紀元前340年頃)は、バグダッド南西のユーフラテス川に沿ったシッパルで活動していたバビロニアの天文学者/占星術師であった。キディヌKiddinuは、正確な食の周期を示したり、一般にはヒッパルコスの功績とされる歳差運動の発見にための舞台を整えるなど、月やその他の天体の周期を系統的かつ正確に描き出した。

 キプロスからアテネへやって来たギリシャの哲学者であるキチオンCitiumのゼノン(前333-262頃)は、宿命論と予定説を教義の中心とするストア哲学と呼ばれる哲学の一派を打ち立てた。ストア哲学は、その後、ヘレニズム/ローマ時代になると占星術をさらに支援するようになった。

 ベル(あるいはマルデュック)のバビロニア人聖職者であるベロッソスBerossusは、紀元前275年頃、医学校で有名だったギリシャのコス島にやってきた。ベロッソスBerossusは有能な歴史家で、バビロニアの歴史および文化についてギリシャ語(the Babyloniaca, or Chaldaica) (バビロニア語、およびカルデア語)で3冊の本を書いた。さらに、彼は天文学/占星術の学校を設立した。キディヌKiddinuの資料を使って、ギリシャ人にバビロニアの天文学/占星術を伝える手助けをした。ベロッソスBerossusの2人の弟子であるアンティパトラスAntipatrusとアキノポラスAchinopoulus(およそ紀元前258年)が、ホロスコープに受胎日を使った。

 スディネスSudines(紀元前220年頃)は、カルデア人の占い師で、コス島からそう遠くないペルガムムのアッタロスI世Attalos 1の宮廷付き占星術師だった。彼はさらに宝石についての権威でもあった。

 アレクサンドロス大王の死後、バビロンや他のカルデア人の都市は宗教の中心地になった。オーメンの報告は、紀元1世紀のパルティア後期まで、数世紀にわたって続けられた。動物の肝臓や内臓を調べる占いは規則的に行なわれていた。

福島憲人・有吉かおり