北河内の神社仏閣と日の出・日の入り-富士山・明神大神宮
先日からの続きです。以前Twitterでも宗教学者の島薗進先生が近畿の五芒星、金山遺跡の地上の北斗七星、旧星田村の降星伝承等神社仏閣の面白いトポスを呟かれていたのですが、交野ケ原・旧星田村の星田妙見宮の妙見信仰に鑑み、妙見信仰の北辰(北極星)と明星の同一視と山の並びを調べてみて気が付いた点をメモします。昔々の宗教人の祈りが少し垣間視えた様な気がしました。
今城塚古墳-熱田神宮ラインと和気神社と明星山+妙見山
実在を確認できる最古の天皇、継体天皇(507 - 531年)の真の陵墓と言われている今城塚古墳と熱田神宮を直線で結ぶと、宇佐八幡宮神託事件(769年)の和気清麻呂の和気神社と明星山と妙見山の上を線は通る。
今城塚古墳
8月18日今城塚古墳、明星山+妙見山+阿星山
その今城塚古墳から元明天皇即位日だと言われている西暦707年8月18日と同じ2016年8月18日の日の出は、明星山と妙見山が重なる。後方左側に釈迦ヶ岳、右側に御在所岳と妙見山、前方左側に阿星山、右側に明星山。地蔵菩薩を秘仏とする長寿寺や白山神社のある阿星山については次の牽牛石にて。
牽牛石
中山観音寺跡の牽牛石の夏至の日の出は、今城塚古墳でふれた阿星山からの日の出です。
冬至の今城塚古墳と朱智神社
冬至の日の出は、以前の記事で恐らく北辰(北極星)を示すだろうと推定した京田辺市・天王の朱智神社から昇ります。
旧正月の今城塚古墳と灯明寺山
2017年1月28日の旧正月の日の出は、廃仏毀釈で横浜の三渓園へ移築された燈明寺三重塔があった灯明寺山から昇ります。ここでもまた、失しなわれた伽藍につきあたります。廃仏毀釈では相当大規模な伝統が失われてしまいました。
今城塚古墳-箸墓古墳ラインと星の森、聖滝(茄子石)、堂跡嶺
今城塚古墳と箸墓古墳を結ぶ線上に交野ケ原・降星伝説の星の森、戦前にあった巨石・茄子石の跡(聖滝)、続群書類従・河内国小松寺縁起の廃小松寺(現在四条畷cc)にある堂跡嶺(小松山)が重なる。
住吉大社-明星輪寺ラインと南宮大社、妙見山、哮ヶ峰、堂跡嶺
住吉大社と明星輪寺の線上に堂跡嶺(小松山)、哮ヶ峰( 饒速日命・天磐船の天孫降臨)、妙見山、鉱山の神・金山彦命の南宮大社がある。
堂跡嶺
堂跡嶺、富士山、妙見山+明星ヶ岳
今城塚古墳-箸墓古墳ラインと住吉大社-明星輪寺ラインの交点にくる堂跡嶺(小松山)から富士山へラインを引くと、妙見山と中腹に虚空蔵菩薩を本尊とする古刹・明星山宝生院国分寺のある明星ヶ岳がラインの上で重なる。延長すると淡路島の石屋神社をさす。
堂跡嶺、富士山、妙見山+明星ヶ岳
夏至、堂跡嶺(小松山)では8月18日富士山と明星ヶ岳の方角から日が昇る。
堂跡嶺と夏至の乙姫岩、冬至の乙姫山
夏至、堂跡嶺(小松山)横の現在ゴルフクラブの建物が建設されている辺りから夏至に乙姫岩と艮山から日が昇り、冬至は乙姫岩と亀山から日が昇る。
石屋神社
石屋神社-堂跡嶺-妙見山-明星ヶ岳-富士山ライン
堂跡嶺(小松山)と富士山のラインの延長線上にある淡路島の石屋神社が元在った場所、城山から富士山への線上に明星ケ岳と妙見山が並ぶ。
石屋神社と明星ケ岳と妙見山
8月18日の日の出は富士山の方角、妙見山と妙見山の間、明星ヶ岳と堂跡嶺(小松山)・御机神社の方向から昇る。
石屋神社、夏至の日の出
夏至の日の出は養老山、鏡山と龍王山の間から昇る。
妙見山と金星(虚空蔵菩薩・明星菩薩・明星天子・普香天子)
古墳や神社仏閣の配置では、明星・妙見信仰の意図をもって配置されている様子なので他の妙見山と明星山、虚空蔵山の配置を見てみました。
茄子石
茄子石・夏至の日の入り妙見山・虚空蔵山・竜王山
星田新池の公園から奥まった場所にあり、古地図では家ほどの大きな石があったと言われている茄子石(現在の聖滝近辺)から観た夏至の日の入りは、妙見山と虚空蔵山の間の竜王山です。
正傅寺
正傅寺と明星ヶ岳・妙見山・富士山
8月18日、八丁三所の降星伝説の獅子窟寺と同じく薬師瑠璃光如来像のある四条畷市の正傅寺では富士山の方角で明星ヶ岳と妙見山が重なった場所から日は昇ります。
夏至の日の出
夏至や冬至の日の出にはなにかの祈りがこめられているようです。
星の森
交野ケ原の降星伝説の星の森の夏至の日の出は、伝説の中で弘法大師空海が祈った獅子窟寺の獅子窟のある百重ヶ原の王の墓(亀山院陵)から昇ります。
まだまだ興味深い配置がみられるのですが、それはまた次回メモします。これら人為的に祈りの気持ちを表わしたであろう配置や山々へのネーミングは、仏教と神道の教義に詳しい人が見ると色々面白いものなのかもしれません。
以前島薗進先生、平川秀幸先生他Twitter上の先生達が呟いていた神社のトポロジーとが頭の中であわさり色々と調べたのですが、つくづく感じたのは、各神社はほぼ元寺院であり、寺院と神社は昔はセットであった点です。どれだけ大規模な伝統の破壊が明治維新時の廃仏毀釈の時に起ったのか、どれほど大量の仏教芸術が破壊されたり流出したりしたのかと思うと-そういえば今回調べたあの寺院や神社のお地蔵様は破壊されていたな、とかを思い出すにしても-物凄い規模の喪失だったのだなぁと残念に思います。これら祈りの思いを込めた神仏の配置の破壊が-空海さんの足跡が残っているのですが-もし、日本の精神世界の荒廃となにか関係があるとするのならば、本当は再現の上、さらに時代に合わせて統合変容しなければならないのかもしれません。