市内観光も袖の下(ジャカルタ)
韓国の東洋化学から、インドネシアの新しい合弁会社に副社長として派遣されたAhn(安)さんがシンガポールに遊びにきた。新居浜時代、半導体薬品の工場建設のため何度も韓国に行き、先方の担当者としてお世話になった人なので、同じ仕事をしていたPCSのNさんといっしょにシンガポールを案内してあげた。Ahnさんは別れるときに、「ぜひジャカルタにも遊びに来てください。」と言って帰って行った。
28 January 1995
翌1995年の1月末、シンガポールは旧正月(Chinese New Year)で長期休暇に入るので、初めての休みだし、どこか旅行でもと考えていたとき、ふとAhnさんを思い出し、手紙を書いてみたところ、ぜひいらっしゃいと言うので、遠慮なく、初めてのシンガポールからの外遊にジャカルタを選んだ。
でも、特に何処を見たいと言う計画もなく、とりあえず往復の切符だけ手に入れて機上の人となった。
スカルノハッタ国際空港は、近代的で広々した空港で、インドネシアの第一印象は良好だった。(その後次々と裏切られるが…。)
空港にはAhnさんが迎えに来てくれていた。さすが副社長、運転手付きの車で、運転手にインドネシア語で指示している。まだ就任以来半年程度なのに、立派なものだ。聞けば、会社で特訓を受けていると言う。Ahnさんは、英語よりもむしろ日本語がうまい韓国人だが、困ったことに、私と話すときに、韓国語+英語+日本語+インドネシア語がチャンポンになって、時々わけがわからなくなる。話している本人が気がついていないようだ。
ジャカルタ市内をまわり、市の中央部に建つモナス(独立記念塔)を訪れた。高さ137mの塔は、頂上で炎が燃えている形で、遠くから見ても良く目立つ。上ってみようと近くに行くと、上りのエレベーターを待つ長蛇の列。あきらめようとしたが、Aさんがこっちに来いと言う。裏に回って階段を上がると、2階のエレベーター降り口の前にきた。観光客が全員降りた後、エレベーターの運転員に金をにぎらせると、簡単に乗せてくれた。1階に下りてエレベーターのドアがあくと、外には相変わらず長蛇の列、あまりにきまりが悪くて運転員のかげに隠れるようにしていたが、乗ってきた人たちは、我々を胡散臭そうに見るだけで、文句を言う人はいない。あとでAhnさんいわく、「ここは全てお金次第です。」
人口1000万人を越えるジャカルタは、さすがに大きい。塔の上から見ても、街は切れ目なく続いている。雑然とした大都会は、街の中の所々に緑が見え、遠くから見る限り東京より美しく見える。実際は、車で少し都心を離れると、スラムのような建物があり、貧富の差が激しいことがわかる。
Ahnさんが旅の予定を聞くので、別にないと答えると、ぜひボロブドールとジョグジャカルタを見て帰りなさいと言う。全然インドネシアの予備知識がなかったので、改めて観光ガイドを読むと有名な所らしい。さっそく車で旅行会社に行き、ホテルと飛行機の手配をしてくれた。もちろん支払いは自分のカード。
しかしその後は夜中まで、レストラン、ディスコと案内してくれて、一銭も払わせてくれなかった。「私は韓国人です。お客様に払わせるわけにはいきません。」
Ahnさん本当にありがとうございました。
翌日は、Ahnさんの家族と一緒に、タマンミニ公園に遊びにいった。公園の池の中に、インドネシアの島々を形どった小さな島が浮かんでいる。公園の中には、各地域の住居が展示してあり、スマトラ、ジャワ、バリ等々、それぞれの地域の文化、生活の違いがわかる。インドネシアの広さを改めて感じた。
昼食は、奥さんの手作りの弁当を木陰でごちそうになった。奥さんいわく、「インドネシアの食事は、とても口に合わないので、食事はいつも私が作ります。」確かにマレー料理、インドネシア料理は苦手だ。タイ、ベトナム料理はうまいのになぜだろう。イスラム教の影響もあるのかも知れない。
その晩もう一泊したあと、ジョグジャカルタに飛んだ。
翌日から、インドネシアはラマダン(イスラムの断食月)に入ったが、自分がその断食に参加することになるとは、その時には考えてもいなかった。
(安さん一家)
(続く)
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