年末に仕事の拠点を日本橋浜町に移してから、当然のごとく浜町、人形町界隈をぶらつく機会が増えたが、新年からいささか気になっていたのが「七福神めぐり」である。この辺りには、小さな神社(小さなものは数畳程度のものもある)が路地裏を含めてかなりの数点在していることは認識していたが、「日本橋七福神めぐり」の垂れ幕があちらこちらにかかり、ガイドブック片手に、多くの人が参拝しているのを目にするにつけ、自分も何となく興味をそそられていた。
今日は朝からPCと向かい合って、腰も痛くなってきたので、その七福神めぐりでもしてみるかとばかりネットで調べてみると、さすが江戸の昔も栄えていた日本橋界隈である。江戸時代の建物こそ戦火や震災でほとんど残っていないものの、それぞれにそれなりに由緒のある神社のようである。しかも、地図を見ると半径300~400m程度の中にすべてすっぽりおさまってしまうアクセスの良さだ。後で日本橋七福神の説明資料を見ると、日本の数ある七福神めぐりの中で一番巡拝時間が短いのがその特色と書いてあった。
というわけで、まずは明治座の横をすり抜けて、久松警察署の目の前にある笠間稲荷神社(寿老神)からスタートし、末廣神社、松島神社と回った。笠間稲荷神社は、茨城県笠間にある日本三大稲荷であるが、ここは1859年に笠間藩の時の藩主牧野貞直公が笠間から御分霊を江戸下屋敷に奉斎したのが始まりだという。ただ、その後は牧野家のみならず、日本橋魚河岸や商人たちの守り神として広く信仰を集め、今に至っている。その後、どういう経緯で寿老神を祀るようになったのかは分からないが、何の神様でも受け入れる日本人であり、まあそんなことはどうでも良いか。
そこから徒歩2分ほどで毘沙門天を祀る末廣神社へ。末廣神社は慶長元年(1596年)以前に鎮座し、かつてこの地にあった葭原(吉原)の氏神として信仰された。その後、社殿修復時に由緒正しい末廣扇が見つかったため現社名になったという。江戸の遊郭吉原の前進(葭町)が明暦の大火(1657年)以前、この辺りにあったということ自体も初めて知った。江戸初期には葦(よし)の茂る原っぱ(僻地)であったらしいが、そのことが吉原の名称の由来となったらしい。遊女たちのご冥福を祈って徒歩3分の松島神社へ。
大黒神を祀る松島神社の創建は、口伝によると鎌倉時代の元亨(1321)以前だという。大昔は入り海で小島があった場所らしい。その小島に移り住んだ下総の柴田氏が諸神を祀り、夜ごと燈火を掲げたところ、舟人が航海の安全を得たと伝えられている。末廣神社からも目と鼻の先のこの辺りは、明暦の大火以前はまさに遊郭、歓楽街の中心で、人形細工職人、呉服職人、歌舞伎役者、そして吉原の前進、葭町の芸妓たちで大変にぎわったと伝えられている。現在は大国主神を始め神格の高い神様が14柱もいて他の七福神よりその数は多いという。神社横にお守り等を売っているグッズ店があり、それなりににぎわっていた。
松島神社から新大橋通りを西南方向に進み改装中の水天宮を横手に見て、人形町通りを横断すると大きなマンションがあるが、その駐車場入り口前に、布袋様を祀る茶ノ木神社がある。かつて社の周りに茶ノ木が生い茂っていたことが名の由来という。元は佐倉藩主堀田家の屋敷跡だが、屋敷内も町方にも火災がなかったため火伏せの神として、防災のお願いをする人が多いという。
その茶ノ木神社から歩いて5分もかからない日本橋小学校、日本橋図書館の裏手に福禄寿を祀る小網神社がある。いつもそうなのか分からないが、今日私が行った日本橋七福神の中では一番の人出であった。文正元年(1466年)悪疫鎮静の神として鎮座し、太田道灌の崇敬も厚かったという。同神社のお守りを受け戦地に赴いた兵士全員が無事帰還したことから、「強運厄除けの神」とも言われている場所だ。
次は少し離れるが人形町通りに戻り、小伝馬町方面に向かって進み、日本橋堀留町1-10の角を日本橋方面に曲がると、恵比寿様を祀る椙森神社が見えてくる。他の七福神より多少敷地の広さを感じるが、それでもやはり寂しい神社だ。ところが、ここの創建は1000年以上前で、平将門の討伐祈願や、太田道灌の雨乞い祈願などの記録も残る古社だという。今はほとんど人気がなくそんなに由緒あるところにも感じないが、10月に恵比寿神大祭が催されその時はにぎわうとのこと。
そして再び人形町通りを水天宮方面に戻り、甘酒横丁を明治座方面に向かって歩くと、今回の七福神めぐりの終着駅、水天宮(弁財天)仮宮に到着する。本来の水天宮はここではないが、今年の4月まで本宮は再建中のため、ここでお参りするしかない。少し速足だったが3時半ごろに浜町公園をスタートし5時過ぎには七福神めぐりを完結した。私にとって初めての七福神めぐりであったが、やっぱりここは相当効率良く回れる七福神だということは感じた。ものすごく小さな神社ばかりだが歴史に思いをはせるとそれなりに楽しめる。
それにしても、それぞれミニチュアのように本当に小さな神社で、由来を見ると元は七福神とは関係のない様々な神様だったのに、その後七福神として多くの人が一生懸命お参りしているなんてそんな国は日本だけであろう。特に、どれもこれもそれなりに大きなキリスト教の教会やイスラムのモスクなど一神教の国からすると全く理解できない、変わった民族に見えるに違いない。しかし、これぞ日本人の寛容さであり、いい加減さであり、宗教に絡んだ争い事が諸外国と比べれば極めて少なかった理由なのだ。日本の八百万の神様は誰もを受け入れてくれるごく身近な存在なのだ。
ただ、こんなに小さな神社を一生懸命回っても外国人にはちっとも面白くはないだろうとも思う。ネットで人形町の案内サイトを見ると中国語サイトもあって、七福神めぐりも紹介されているが、ちょっと中国人の観光には無理があるかもしれない。一方、甘酒横丁やその周辺には老舗が多く、江戸や明治から昭和の東京の風情を想起させる場所も各所に点在しているため、もう少し街並みの見せ方を工夫し、集客の仕掛けを作りさえすれば、外国人、特に欧米人にも受けるのではないだろうか?
浜町、人形町界隈はなかなか味のある街である。
今日は朝からPCと向かい合って、腰も痛くなってきたので、その七福神めぐりでもしてみるかとばかりネットで調べてみると、さすが江戸の昔も栄えていた日本橋界隈である。江戸時代の建物こそ戦火や震災でほとんど残っていないものの、それぞれにそれなりに由緒のある神社のようである。しかも、地図を見ると半径300~400m程度の中にすべてすっぽりおさまってしまうアクセスの良さだ。後で日本橋七福神の説明資料を見ると、日本の数ある七福神めぐりの中で一番巡拝時間が短いのがその特色と書いてあった。
というわけで、まずは明治座の横をすり抜けて、久松警察署の目の前にある笠間稲荷神社(寿老神)からスタートし、末廣神社、松島神社と回った。笠間稲荷神社は、茨城県笠間にある日本三大稲荷であるが、ここは1859年に笠間藩の時の藩主牧野貞直公が笠間から御分霊を江戸下屋敷に奉斎したのが始まりだという。ただ、その後は牧野家のみならず、日本橋魚河岸や商人たちの守り神として広く信仰を集め、今に至っている。その後、どういう経緯で寿老神を祀るようになったのかは分からないが、何の神様でも受け入れる日本人であり、まあそんなことはどうでも良いか。
そこから徒歩2分ほどで毘沙門天を祀る末廣神社へ。末廣神社は慶長元年(1596年)以前に鎮座し、かつてこの地にあった葭原(吉原)の氏神として信仰された。その後、社殿修復時に由緒正しい末廣扇が見つかったため現社名になったという。江戸の遊郭吉原の前進(葭町)が明暦の大火(1657年)以前、この辺りにあったということ自体も初めて知った。江戸初期には葦(よし)の茂る原っぱ(僻地)であったらしいが、そのことが吉原の名称の由来となったらしい。遊女たちのご冥福を祈って徒歩3分の松島神社へ。
大黒神を祀る松島神社の創建は、口伝によると鎌倉時代の元亨(1321)以前だという。大昔は入り海で小島があった場所らしい。その小島に移り住んだ下総の柴田氏が諸神を祀り、夜ごと燈火を掲げたところ、舟人が航海の安全を得たと伝えられている。末廣神社からも目と鼻の先のこの辺りは、明暦の大火以前はまさに遊郭、歓楽街の中心で、人形細工職人、呉服職人、歌舞伎役者、そして吉原の前進、葭町の芸妓たちで大変にぎわったと伝えられている。現在は大国主神を始め神格の高い神様が14柱もいて他の七福神よりその数は多いという。神社横にお守り等を売っているグッズ店があり、それなりににぎわっていた。
松島神社から新大橋通りを西南方向に進み改装中の水天宮を横手に見て、人形町通りを横断すると大きなマンションがあるが、その駐車場入り口前に、布袋様を祀る茶ノ木神社がある。かつて社の周りに茶ノ木が生い茂っていたことが名の由来という。元は佐倉藩主堀田家の屋敷跡だが、屋敷内も町方にも火災がなかったため火伏せの神として、防災のお願いをする人が多いという。
その茶ノ木神社から歩いて5分もかからない日本橋小学校、日本橋図書館の裏手に福禄寿を祀る小網神社がある。いつもそうなのか分からないが、今日私が行った日本橋七福神の中では一番の人出であった。文正元年(1466年)悪疫鎮静の神として鎮座し、太田道灌の崇敬も厚かったという。同神社のお守りを受け戦地に赴いた兵士全員が無事帰還したことから、「強運厄除けの神」とも言われている場所だ。
次は少し離れるが人形町通りに戻り、小伝馬町方面に向かって進み、日本橋堀留町1-10の角を日本橋方面に曲がると、恵比寿様を祀る椙森神社が見えてくる。他の七福神より多少敷地の広さを感じるが、それでもやはり寂しい神社だ。ところが、ここの創建は1000年以上前で、平将門の討伐祈願や、太田道灌の雨乞い祈願などの記録も残る古社だという。今はほとんど人気がなくそんなに由緒あるところにも感じないが、10月に恵比寿神大祭が催されその時はにぎわうとのこと。
そして再び人形町通りを水天宮方面に戻り、甘酒横丁を明治座方面に向かって歩くと、今回の七福神めぐりの終着駅、水天宮(弁財天)仮宮に到着する。本来の水天宮はここではないが、今年の4月まで本宮は再建中のため、ここでお参りするしかない。少し速足だったが3時半ごろに浜町公園をスタートし5時過ぎには七福神めぐりを完結した。私にとって初めての七福神めぐりであったが、やっぱりここは相当効率良く回れる七福神だということは感じた。ものすごく小さな神社ばかりだが歴史に思いをはせるとそれなりに楽しめる。
それにしても、それぞれミニチュアのように本当に小さな神社で、由来を見ると元は七福神とは関係のない様々な神様だったのに、その後七福神として多くの人が一生懸命お参りしているなんてそんな国は日本だけであろう。特に、どれもこれもそれなりに大きなキリスト教の教会やイスラムのモスクなど一神教の国からすると全く理解できない、変わった民族に見えるに違いない。しかし、これぞ日本人の寛容さであり、いい加減さであり、宗教に絡んだ争い事が諸外国と比べれば極めて少なかった理由なのだ。日本の八百万の神様は誰もを受け入れてくれるごく身近な存在なのだ。
ただ、こんなに小さな神社を一生懸命回っても外国人にはちっとも面白くはないだろうとも思う。ネットで人形町の案内サイトを見ると中国語サイトもあって、七福神めぐりも紹介されているが、ちょっと中国人の観光には無理があるかもしれない。一方、甘酒横丁やその周辺には老舗が多く、江戸や明治から昭和の東京の風情を想起させる場所も各所に点在しているため、もう少し街並みの見せ方を工夫し、集客の仕掛けを作りさえすれば、外国人、特に欧米人にも受けるのではないだろうか?
浜町、人形町界隈はなかなか味のある街である。