姪が住んでいる大阪からの帰り、「せっかく立体曼荼羅を見ようと思って東寺に行ったのに、仏像のほとんど全部上野に行ってしまっていた、本当悔しい!」という姉のぼやきを聞き、しめしめ、ならばこちらは上野で労せず見てやれとばかり国立博物館「国宝東寺・空海と仏像曼荼羅」展に行ってきました。
チケット売り場から入場前も長蛇の列で、正直楽をして見たという感じではありませんでしたが、第2会場の最後に展示されている(大日如来等ほんの一部を除いて、大部分上野に持ってきているという)東寺講堂・立体曼荼羅の仏像たちは圧巻でした。
東寺は、中学、高校の修学旅行、社会人になってからも個人的にも、研修生やお客さんのアテンド等でも幾度となく訪れていますが、若い頃は仏像に興味がわかず、ほとんど素通りに近い状態でした。通訳案内士(中国語)の勉強を始めた頃から、お寺や仏像の本を目にするようになり、ようやく仏像にも興味が湧いてきました。
この特別展、他の特別展同様、展示物の撮影は原則禁止ですが、ここの「帝釈天座像」だけは撮影可能(外国人はこの部屋の仏像が撮影可能と誤解したようで結構他の仏像もパチパチとっていました)です。この仏像おっさんの私から見ても本当にすばらしくイケメンです。当時は写真も映像もグラビア雑誌もないため、作者が仏像を彫刻するにあたって、おそらくモデルとなる実像のイケメンがいたんだと推察します。(自分もイケメンに生まれていれば人生変わったのに・・・・ブツブツ・・・・まあ、関係ありませんが)
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それにしても、空海の時代は交通手段はほとんど徒歩か馬か、せいぜい船だった中で、しかもたった2年の中国留学(その内多くは移動時間、中国の福州近くに漂着してから長安までで数か月を要しています)で、密教をマスター、日本に持ち込み、真言密教、密教芸術の礎を築いた空海に思いを馳せると、気が遠くなりそうな作業と苦労の数々が目に浮かびます。その後の土木、灌漑、治水、農業、医療、教育、美術、ひょっとすると音楽?等での功績を目にしても改めて、ものすごい吸収力、構想力の持ち主であり、世界的にも本当の意味で天才と言える人だったのだと思います。
それに引き換え、20年も中国にいたくせいに自分は何を残したんだ?(ここで空海と比較しても仕方ないか・・・・)
なお、空海を軽く見るわけではありませんが、空海は中国においては流暢な中国語を話したのではなく、主に筆談によりコミュニケーションを取っていたと思われます。中国語を多少でも勉強したことのある自分の目から見て、この短い期間で地域によって方言やアクセントの大きく異なる中国語を不自由なく、聞き取り、話すことは不可能です。
司馬遼太郎「空海の風景」を始めとする小説や逸話集の中における空海の描写を見る限り、中国に到着したばかりの空海が中国語会話に何一つ苦労せず中国での生活に溶け込み、密教の師である恵果和尚と何不自由なくコミュニケーションを取ってるように感じられますが、それはさすがに無理だと思います。ただ、彼の漢文力からしたら筆談でのコミュニケーションにはほぼ不自由は感じなかったでしょう。
いつか空海が中国でたどった足跡を巡礼してみたいと思います。