不格好オヤジの日中のぼやき

主に日本と中国の話題についてぼやきます。

もうじき上田が熱くなる

2015-01-17 13:47:53 | 旅行

 93歳で大往生を遂げた父方の伯父の葬儀に参列するために数十年ぶりに信州上田を訪れた。両親とも上田出身であったため、小学校を卒業するまで夏休みは毎年必ず遊びに行っていた思い出深い場所だ。特に母方の実家には毎年最低でも2週間、長い時では1か月近く滞在し、大集合した同年代のいとこたちと田んぼでカエル捕りをしたり、花火をしたりと本当に良く遊んだ。

 この上田、幼い頃には上野から鈍行列車で6~7時間近くかけてたどり着いた記憶もあるが、今は新幹線で東京から1時間半もかからない。ただし、新幹線に乗ったのでは、「峠の釜飯」(横川駅の駅弁)を買うために急いで横川駅に降り立つことも、浅間山の雄姿を十分拝むこともできない。日帰りが全く苦にならないほど、時間はあっという間になったものの、駅弁は車内でも販売しているもののいささか味気ないとの感もある。

 さて、前日の通夜に参加するため先に来ていた母から言われていた集合時間は午後1時。10時頃上田に到着し、時間的にちょっと余裕があったため、喪服にコートを羽織った状態で、駅から徒歩で懐かしの上田城に行ってみた。上田城はちょうど位置的にも上田駅と葬儀場(上田法事センター)の中間に位置する。しかし、前日降った雪が凍っていて足元はすべるし、寒さも身に応える。



 上田城は母の実家のあった場所から徒歩10分もかからない場所にあったため、子供時代、本当に良く駆けずり回った場所である。ただし、観光地として見ると、天守閣がない上に規模も小さく、堀と石垣を除けば江戸時代からの本物の建築物は櫓ぐらいしか残っていないため、世間的には真にパッとしない城との印象がある。上田合戦と呼ばれた二度の戦いで多勢に無勢のなか、徳川の大軍を二度とも退けた城として名を馳せたが、そんな勇ましい城にはとても見えない(真田が2度の合戦で上田城を守れた背景には、今風にいうと城というハードに頼れない真田が、ソフト(作戦)で徳川で打ち負かすことに心血を注いだ点があろう)。もっとも、当時の上田城はというと、真田昌幸、幸村が石田三成方に組みしたため、関ヶ原の合戦後、堀も含めて徹底的に破壊され(ただし、関ヶ原の合戦後しばらくの間は徳川側についた昌幸嫡男の真田信之の領地だった)、その後に入城した仙石氏の再建したものが今の上田城の元になっている。



  

 その他上田というと、思い出すのは千曲川とみすゞ飴。千曲川は五木ひろしの歌を思い浮かべる方が多いかもしれないが、日本最長の川、信濃川の長野県における呼称である。千曲川は秩父の甲武信ヶ岳近辺が源流で、上田盆地を経由して川中島付近で西から流れてきた犀川と合流、新潟県に入って信濃川となる。千曲川は上田の辺りでは鮎釣りで有名だが、私にとっては子供時代には真っ裸になって泳いだ記憶のある場所である。今思えば、相当危ないことをしたが、当時はそんな子供もいた。

 みすゞ飴は、母方の実家が小さいながらも菓子屋をしていたことから、毎年の夏、上田に行くと店先の売り物をもらい口にしていた懐かしの味だ。あんず、うめ、もも、ぶどう、りんごなどの完熟果実を寒天、砂糖、水飴を混ぜ合わせたあと固めた乾燥ゼリーである。明治の昔から存在し、無着色、無香料のため、その辺で売っている添加物だらけのゼリー、グミと比べると、とてもヘルシーである。今も上田駅前にはみすゞ飴の考案者である飯島新三郎の飯島商店(飯島商店自体は江戸時代から続く商家で油屋や米屋を営んでいたが、新三郎のみすゞ飴開発により業態転換)が重厚な建物(みすゞ飴本舗)として残っている。

  

 いずれにしても、これまで地味で不器用、世間的には今一つパットしない上田であったが、来年のNHKの大河ドラマ「真田丸」(脚本:三谷幸喜、主演:堺雅人)の舞台に決まったことで、その上田がにわかに熱くなりだしたようである。来年は「真田丸」放映に合わせて上田城と合わせて、別所温泉、周辺の歴史ある寺などが観光ガイド本で紹介され、観光客の数も大きく増えていくことであろう。

 高齢化と人口減少で耕作放棄などが続き、父の実家のある村(昨年は小学校への入学者がゼロだったとか)などは大変な状況のようだが、信州の自然環境はまことにすばらしく、人も純朴で真面目な努力家が多い。さりとて、若者がそもそもいなくなっている場所での地方創生、再生は不可能であろうと思う。ただ、高齢者だけになっても、せめて昔ながらの農村風景を荒地にだけはしないでほしいと願うのは単なる都会者のわがままだろうか?

    

 伯父さんに別れを告げ、老母と共に新幹線で東京へ。このブログの大半はその新幹線の中で書き綴った。


成人式

2015-01-12 13:02:30 | 日記
 今日は成人の日、日本の成人は満20歳からとされているが、これは世界的には極めて遅い部類に属するようだ。ウィキペディアを見ると、大半の国では、成人年齢を18歳としているようで一番早いプエルトリコ、ハイチでは何と14歳、キルギス・ネパール等でも16歳で成人と見做されるとのこと。ヨーロッパはその大半が満18歳、アメリカは州により異なるが、大半はやはり18歳で、ごくわずかの州で19歳、21歳というところもあるようだ。

日本と同じ、満20歳を成人年齢としているのはタイ、台湾、ニュージーランド、チュニジアぐらいなもので、お隣の韓国では19歳と中途半端な年齢となっている。日本が何故20歳にしたかについては、明治民法制定時の徴兵制度、課税が20歳からだったという説と、15歳前後を成人としていた当時の日本の慣習と当時20代前半を成人とみなすことが多かった欧州との中庸を取ったという話の2つがあるようだが、確かなことは分からない。

 私が長く暮らした中国は、世界の大部分の国と同じ満18歳が成人年齢である。ただし、成人が有する権利、義務に目をやると、犯罪を犯した場合に完全な法的責任が生じる(ただし、中国の場合、故意による殺人、強姦、放火等重大な犯罪では14歳以上でも刑事責任が生じる)という点では似ているものの、様々の点で日本とは大きく異なる。

 日本では、成人と同時に選挙権、飲酒、喫煙、保護者の同意なき結婚等の権利が生じるが中国では随分と状況が異なる。中国では成人になっても一般の国民(人民)に選挙権がないのは無論のこと、成人年齢に達しただけでは結婚すらできるとは限らない。中国は法律上、男性が満22歳、女性が満20歳になるまで結婚はできないのである。親の同意は必要であるものの男性18歳、女性16歳で結婚できる日本と比べると年齢的に随分と遅くなっている。

 しかし、「上に政策あれば、下に対策あり」の中国。農村では習慣的に早くから結婚し家庭を持っているものも多く、そういう場合は式だけ先に挙げてしまっている(結婚登記は法定年齢に達した後行う)ケースが多いようである。駐在時代に良く通っていた上海の足裏マッサージ屋では、結婚式だけ先に挙げて、成人前に子供も産んだという出稼ぎマッサージ師の女の子に複数出会ったことがある。要は式だけ先に挙げてしまって、それをもって世間的また実質的に結婚したことにするのである。もっとも、都会ではこれと逆なケースが一般的だ。つまり、結婚登記だけ先に済ませ、結婚式は後で行うというパターンである。結婚登記を済ませていれば、日本の常識では立派に夫婦だが中国ではあくまで結婚式を挙げて皆にお披露目しなければ対外的に夫婦と言わないケースが多い。私が結婚式で征婚人(婚礼立会人)を務めた夫婦も、まず結婚登記を行い、時間的にはかなり後で結婚式を挙げるという形であった。

 結婚の話を長くしすぎたが、喫煙、飲酒はどうであろうか?中国駐在期間中、いろいろな中国人に、中国での喫煙年齢、飲酒年齢について尋ねてみたが、どうも皆歯切れの悪い答えしか返ってこない。「成人である18歳以上じゃない?」「よく知らない」「法律でそんな規定あったっけ?」等々。最後やむを得ず、ある弁護士に確認したところ、驚くべきことに中国では飲酒、喫煙とも明確な年齢規定がないというのが結論であった。ただし、未成年保護法に保護者(親、監督者)が、喫煙、飲酒などにつながらないよう監督する義務があるとの規定はある。また、タバコについてはたばこ販売取扱業者に対して、未成年への販売を禁止する規定があり、事実上喫煙は18歳以上という共通認識はできつつあるようだ。しかし、飲酒年齢については明確なものは何も存在しない。いろいろな中国人と話していると小学校時代から飲酒をしていたという人は結構多い。

 こうして見てくると、日本でも昨今は20になっても成人意識を持てない連中が増えてきているものの、中国ではそれに輪をかけて成人という意識は稀薄かもしれない。成人になっても選挙権も生まれず、男性は結婚もできず、飲酒も別に成人だから飲めるというわけではない。何とメリハリのない成人年齢?このためか知らないが、中国には成人式なるものも存在しないのである。


日本の年末年始

2015-01-05 13:55:54 | 日記
 22年ぶりに年末から正月にかけて、完全に日本で過ごしたが、日本の年末、正月も随分と変わったものだと思う。かつて元旦は多くの店が休業していたが、今は百貨店、大型ショッピングモール、スーパーを含め、すべて元旦から初売りがスタートし、かつての繁華街、商店街にあった元旦(三が日)独特の静寂はない。昔は多くの人が「元旦(或いは三が日)ぐらいはゆっくりしたい」などと言っていたものだが元旦はむしろ、大型小売店を営業するものにとっては営業戦略上、大変重要な日であり、悠長に休んでなどいられないというわけだ。



 正月料理の準備も随分変わったのだと思う。自ら作る人が減ったから既製品が増えたのか、既製品が増えたから作る人が減ったのかは分からない(たぶん、両方の理由からだろう)が、年末の大型スーパーにはあふれんばかりのおせち料理が並んでおり、これならわざわざ主婦が家で苦労して作る必要もあるまいと思う。年末も年始も多くの店が平気で開いているため、昔のように食料品を買いだめしておく必要もない。

 初売りのベンチマークであった福袋のかなりが年末から売られているのにも驚いた。昔は福袋と言えば、デバートと一部小売店の専売特許のようなものだったが、これほどたくさんの店が福袋を扱っていては有難味がなくなるのではないかと思う。ただ、中身が確認できる福袋が出てきている点は、消費者に対して良心的だ。昔は中身が見れないものしかなく、福袋を買ったものの服のサイズが全然合っていないなんてことは良くあった。年賀状も久方ぶりに復活してみたが、今は若者を中心にメールでの年賀挨拶も多いため、昔のようにポストの中の年賀はがきを見て正月をことさら感じることもなくなっているのかもしれない。

 初詣とお年玉の習慣ぐらいはさほど変わっていないと思うが、とにかく日本の年末年始がかつての非日常的な世界とは打って変わって随分と日常化したものだと思う。



 それでも少しはこの時期特有の非日常世界を体験したく、紅白歌合戦も無理して見たが、吉高由里子のメリハリのない司会、(知らない多くの)へたくそな歌手、トリの松田聖子の歌にもがっかりさせられ(高音部分が出ていなかった)、昔の紅白歌合戦のようには楽しめなかった。年をくったせいかもしれないが何だかとても寂しい気持ちだ。