ときどき
いきなりですが、ヒュー・ジャックマン主演『ファウンテン 永遠につづく愛』感想にちょっと補足します。
8月のめちゃくちゃ暑い日に観に行った銀座テアトルシネマの入り口はこんな感じでした。いえ、同行者の撮った写真が、今頃になってこっちのPCに来たもので。
この映画について最初に書いた感想で、私は例の「未来編(宇宙編)」パートを、トミーの妄想または心象風景であると理解しました。その意見は今も変わっていません。
わざわざこんなことを書く理由は、「アロノフスキー監督は、あれを『26世紀の宇宙飛行士』であると言っている」ことが、ご覧になった方の解釈に少なからず影響を及ぼしていると思ったからです。
偉そうなことを言わせて頂くと、映像(イメージ)で繋ぐこの種の「解釈自由作品」について、「作り手がこう言っていた」は、根拠としては信用し難いと私は思っています。
例として適切かどうか判りませんが、『2001年宇宙の旅』という作品があります。
あの映画のクライマックス、ボーマン船長が宇宙空間を旅して例の「部屋」に到る一連の描写について、多くの人は彼が「過去の地球と人類の歴史を目の当たりにした(追体験した)」と解釈しました。
私などは、ボーマンはそれを追体験した後、スターチャイルドとして顕現した未来の地球に於いて、再び同じ歴史が繰り返されるのを見つめ続けるのだと思い、これは輪廻と言うより「永劫回帰だ!」と、大いに感動したものです。だからこそ『ツァラトゥストラ』だったのだ、と。
ところが、メイキングブックやキューブリック監督、また原作者アーサー・C・クラークの発言を読んでびっくり!
ボーマンの「旅」とは、モノリスを建造したエイリアンの惑星への旅だったのだそうです。当初は、彼らの星のセットも作る予定でいたけれど、予算と時間の都合でああいう描写になっただけという話を聞いた時には、何だかがっかりしてしまいました。
しかしながら、その設定で作って、あの映画が傑作たり得たか否かは疑問ですし、受け取る側の様々な読みや解釈を巻き込んで行ったがゆえに、『2001年』は映画史に残る名作となったのではないでしょうか。
上述したような本来の意図と離れた解釈や受け止め方についても、製作者側は否定してはいません。
『ファウンテン』製作が、そこまで行き当たりばったりだったとは思いませんが、雑誌等の監督インタビューや談話を見るに、結局のところ解釈は受け取る側の自由だと語っています。
他の例を挙げると、ディレクターズカットだファイナルカットだと異なるバージョンを出し続け、これこそが作品の本来あるべき姿だと言い続ける『ブレードランナー』商法(と、あえて言います)には、大いなる疑問や違和感を抱かずにいられません。
通常の映画作品は監督一人の手によって作られるものではないし、いったん公開された以上、監督や製作会社がそこまで私物化できるものではないと思います。
という訳で、『ファウンテン』という作品についての私自身の解釈は、やはり変わってはいません。勿論それが「正しい」と主張するつもりもありません。
或る映画雑誌の、読者の方のご意見として、イジーの書いた「作品」であると思われる「スペイン~マヤ編」について、「前世の記憶」が彼女に筆を執らせたのではないか、というものがあり、それも有りかも、と思いました。
それにつけても、ブログのように「流れて」しまう形でなく、多くの人の声や意見や解釈をとどめて置く場があれば……それこそが公式サイトの役目なのではないか、とも思わずにはいられません。
いきなりですが、ヒュー・ジャックマン主演『ファウンテン 永遠につづく愛』感想にちょっと補足します。
8月のめちゃくちゃ暑い日に観に行った銀座テアトルシネマの入り口はこんな感じでした。いえ、同行者の撮った写真が、今頃になってこっちのPCに来たもので。
この映画について最初に書いた感想で、私は例の「未来編(宇宙編)」パートを、トミーの妄想または心象風景であると理解しました。その意見は今も変わっていません。
わざわざこんなことを書く理由は、「アロノフスキー監督は、あれを『26世紀の宇宙飛行士』であると言っている」ことが、ご覧になった方の解釈に少なからず影響を及ぼしていると思ったからです。
偉そうなことを言わせて頂くと、映像(イメージ)で繋ぐこの種の「解釈自由作品」について、「作り手がこう言っていた」は、根拠としては信用し難いと私は思っています。
例として適切かどうか判りませんが、『2001年宇宙の旅』という作品があります。
あの映画のクライマックス、ボーマン船長が宇宙空間を旅して例の「部屋」に到る一連の描写について、多くの人は彼が「過去の地球と人類の歴史を目の当たりにした(追体験した)」と解釈しました。
私などは、ボーマンはそれを追体験した後、スターチャイルドとして顕現した未来の地球に於いて、再び同じ歴史が繰り返されるのを見つめ続けるのだと思い、これは輪廻と言うより「永劫回帰だ!」と、大いに感動したものです。だからこそ『ツァラトゥストラ』だったのだ、と。
ところが、メイキングブックやキューブリック監督、また原作者アーサー・C・クラークの発言を読んでびっくり!
ボーマンの「旅」とは、モノリスを建造したエイリアンの惑星への旅だったのだそうです。当初は、彼らの星のセットも作る予定でいたけれど、予算と時間の都合でああいう描写になっただけという話を聞いた時には、何だかがっかりしてしまいました。
しかしながら、その設定で作って、あの映画が傑作たり得たか否かは疑問ですし、受け取る側の様々な読みや解釈を巻き込んで行ったがゆえに、『2001年』は映画史に残る名作となったのではないでしょうか。
上述したような本来の意図と離れた解釈や受け止め方についても、製作者側は否定してはいません。
『ファウンテン』製作が、そこまで行き当たりばったりだったとは思いませんが、雑誌等の監督インタビューや談話を見るに、結局のところ解釈は受け取る側の自由だと語っています。
他の例を挙げると、ディレクターズカットだファイナルカットだと異なるバージョンを出し続け、これこそが作品の本来あるべき姿だと言い続ける『ブレードランナー』商法(と、あえて言います)には、大いなる疑問や違和感を抱かずにいられません。
通常の映画作品は監督一人の手によって作られるものではないし、いったん公開された以上、監督や製作会社がそこまで私物化できるものではないと思います。
という訳で、『ファウンテン』という作品についての私自身の解釈は、やはり変わってはいません。勿論それが「正しい」と主張するつもりもありません。
或る映画雑誌の、読者の方のご意見として、イジーの書いた「作品」であると思われる「スペイン~マヤ編」について、「前世の記憶」が彼女に筆を執らせたのではないか、というものがあり、それも有りかも、と思いました。
それにつけても、ブログのように「流れて」しまう形でなく、多くの人の声や意見や解釈をとどめて置く場があれば……それこそが公式サイトの役目なのではないか、とも思わずにはいられません。