ラミーユ浦和 活き活きクラブ

わたしたちは65歳以上のシニアのグループです。ブログを通じて「絆」を強めて行こうと開設しました。

床もみじの宝徳寺と桐生の織物記念館見学

2022-11-15 | 社会見学会

11月11日 活き活きクラブの年間行事計画の一つ「床もみじの宝徳寺と桐生織物記念館に行ってきました。今回の参加者は24名。

先ずは桐生織物記念館へ、

1300年の歴史を持ち日本を代表し伝統的工芸品の指定を受けている桐生織。1934年(昭和9年)に建てられた桐生織物記念館は、「織都」の別称を持つ桐生の隆昌をいまに伝える象徴的な建築物として、1997年(平成9年)5月に国の登録有形文化財に指定されています。

桐生織物記念外観。木造2階建て瓦ぶきでそのころに流行したスクラッチタイルが張りめぐらされています。屋根には青緑色の洋瓦を用い、2階の旧大広間にはステンドグラスが入ったモダンな造りとなっています。 係りの方から桐生絹織物の歴史の説明を聞く。 2階は資料展示室になっており、かつて桐生で使われていた貴重な織機をはじめ、さまざまな資料やパネルで桐生織物をやさしく解説しています。 映画「利休」使用された衣装も。 陳列場。窓はステンドグラスが使用され、モダンな造りとなっている。 伝統的工芸品「桐生織」七つの技法。桐生織には、御召織(おめしおり)、緯錦織(よこにしきおり)、経錦織(たてにしきおり)、風通織(ふうつうおり)、浮経織(うきたており)、経絣紋織(たてかすりもんおり)、綟り織(もじりおり)の七技法があり、桐生織伝統工芸士会によって技術の継承がなされている 。 1階の物販コーナー 織物記念館見学のあと、昼食前に食事処の近くにある高津戸峡の紅葉が見頃だと云うことで 立ち寄ることに。 腹ごしらえが済んで、今回のメインの見どころ「床もみじの宝徳寺」へ向かう。 宝徳寺は臨済宗大本山建長寺第73世仏印大光禅師を開山として、桐生地域の領主であった、桐生佐野正綱公の開基により室町時代の宝徳年間 (1450年頃)に創建された禅寺です。 床もみじ 右側の襖に描かれている龍の画も床に映り込み、美しい“双龍”が出現!  作者は、宝徳寺の本山である「鎌倉建長寺」の襖絵(非公開)でも知られる白浪(はくろう)画伯。 原爆の残り火「平和の火」。 本堂の拝観入口に広島原爆の残り火から分火された「平和の火」が灯っています。 宝徳寺戦後70周年記念事業として2015年8月6日(広島原爆忌)に、八女市で保存されている灯火を宝徳寺に分火して貰ったもの。 枯山水(石庭)。枯山水とは、水がなく石と砂に植樹で造られた庭園。 お地蔵さん。宝徳寺のイラスト御朱印のモチーフとなっている「お地蔵さん」が境内に点在。この地蔵を探すことを楽しんでいる若い女性が何人もいるとか。 池泉庭園(ちせんていえん)。丸みを帯びた巨石の集団石組による池泉庭園が造られている。日本庭園で最も多い様式。池泉庭園(ちせんていえん)とは、自然の景色を凝縮して創られる庭園の様式で、山があり川があり海がある庭です。池泉庭園には「水」という要素が取り入れられているのが特徴です。 枯山水 。生垣(いけがき)に囲まれた敷地に飛石で苑路(えんじ)が造られ周遊できる。 境内の通路にはたくさんの菊の花が。 本堂。右のもみじが本堂の床に映り込んでいます。本堂の左の方に、床もみじを鑑賞している人影が見られます。 石垣のお地蔵さんが見送ってくれました。 集合写真 余談:桐生市という市名の由来は、元来この地方が山間部にあるため朝夕霧の発生が多かったので霧生の名が転化したものといわれ、また、桐の木が良く生えるので桐生の名が生まれたと言われています。この桐生市を中心としたのが桐生織物産地です。

  投稿者:活き活きクラブ事務局
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迎賓館赤坂離宮へ

2022-06-08 | 社会見学会
6月3日(金)迎賓館赤坂離宮和風別館と本館を参観に行きました。
参加者は19名。和風別館の入場者枠の関係から当初15名の募集をしましたところ即日定員に達し、急遽別の時間帯に追加予約するという大変好評でした。


先ず腹ごしらえ。迎賓館正門前の休憩所内にて。



休憩所内の中庭にて。

腹ごしらえも終わって迎賓館へ向かう。西門から入り、厳重な身体チェックを終えて、少し離れたところにある受付所へ。
テントのところが受付所。
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/64/96db9184a10cebb7ef1289045996ccc2.jpg" border="0">


和風別館全景。 
和風別館は昭和49年迎賓館の大改修時に新設され、「遊心亭」と名付けれている。
面積254㎡、和室4室、洋間1室。


この池には鯉が約130匹いるそうです。最初はいなかったのですが、ある時「時の総理大臣」が「池には鯉が居たほうが良いじゃろ」と山古志村から錦鯉を連れてきたそうです。賓客に、ここで鯉の餌やりが恒例なんだそうです。賓客がこられる時は、2日くらい前から鯉たちは「調整」に入るそうです。



迎賓館の職員の方が案内して遊心帝の中に入ります。遊心亭の中では撮影禁止でした。


坪庭
先ず案内されたのが渡り廊下の坪庭。孟宗竹や前面に敷き詰められた京都の白川砂と貴船石が配されています。この坪庭が見える廊下側が主賓の方が入場する正面玄関にあたるそうです。

坪庭を見た後、靴を脱いで室内へ。
主和室:主和室は47畳敷の大広間です。
ここで賓客を和食でおもてなししたり、着物の着付けや生け花鑑賞などもするそうです。
主和室の前の大きなガラス窓からは、さっきの池が望めます。
即席料理室:カウンター内に料理人が入り、目の前でお寿司を握り天ぷらを揚げてもてなします。
茶室:少し広めの部屋で、一段高いところに4畳半の畳席があってお茶をたてることができます。
茶室には人間国宝さん達が創った茶器や、京都大徳寺の僧侶が書かれた掛け軸が飾られていました。

ここで全ての部屋の見学が終わりです。入ってきた入口に戻る。


盆栽
和風別館前には盆栽が飾られており、樹齢100年にもなるものもあるそうです。
これらは賓客をお迎えするときに季節の花々と一緒に正面玄関に飾られます。
見学ツァー時には飾られず待機であります。


和風庭園
丁寧に手入れされた芝生と木々が印象的なお庭。左手に並ぶのは紅白の梅林。初春には美しい花を咲かせてくれるそうです。
中門付近には松の木も植えられており、正門からの坪庭にあった竹、そしてこの梅とあわせて「松竹梅」を揃えて植えているのです。

約1時間の和風別館(遊心帝)参観でした。
とても非日常な体験ができ、上質の贅沢さに感動してしまいます。
とても日本らしい素晴らしい「和風別館」(遊心亭)でした。


主庭から本館を眺める。



全員で記念写真を1枚。



前庭と本館外観。
前庭はヴェルサイユ宮殿の前庭に倣って花崗岩(ピンコロ石)約25万個を敷き詰められています。
5月24日、前庭でバイデン大統領の歓迎式典が行われました。
アルバム

この後、本館内部を参観し解散、各自帰路につきました。
参考:迎賓館の説明 ←クリックしてください


                                投稿者:やまちゃん











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渋沢栄一翁生誕の地を訪れる

2021-12-13 | 社会見学会

コロナの関係で止む無く中断していた社会見学会でしたが、12月10日久しぶりに実施しました。

行先は、今、大河ドラマで放送中の渋沢栄一翁の生誕地深谷。

参加者は18名でした。

今回訪れた施設は、渋沢栄一記念館⇒旧渋沢邸(中の家)⇒尾高惇忠生家⇒

渋沢栄一青天を衝け 深谷大河ドラマ館⇒誠之堂・清風亭

先ず、最初に訪れたのが「渋沢栄一記念館」

講義室に入り、渋沢栄一アンドロイド(人造人間)による講義を受ける。 その後、資料室に移動し、渋沢栄一ゆかりの遺墨や写真などを拝見。 子供達がボランティアでガイドしていた。 次に訪れたのは、旧渋沢邸(中の家)。 渋沢栄一は江戸時代後期の1840年(天保11年)この地で誕生。渋沢家の長男として23歳まで中の家で過ごした。生家は1892年(明治25年)に火災で焼失し、現存するのは家督を継いだ栄一の妹・てい夫婦が1895年(明治28年)に上棟した建物。

正門、正門の扉はケヤキの一枚板で作られている。 母屋、屋根に「煙りだし」と呼ばれる天窓のある典型的な養蚕農家の形をしている。 母屋の前に渋沢栄一翁の銅像が立っている。 母屋の周囲には四つの土蔵がある。写真の右側の土蔵には大谷石を積んだ半地下室を持ち,藍玉の製造・貯蔵場として使用されていた。 奥の部屋に置かれている渋沢栄一翁のアンドロイド。80歳の渋沢栄一の姿を再現している。 渋沢栄一翁が好んだ深谷の郷土料理「煮ぼうとう」専門店で煮ぼうとうを食べる。 食事後、尾高惇忠の生家を訪ねる。 この尾高惇忠生家は江戸時代後期に惇忠の祖父磯五郎が建てたと伝えられる。「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物。 この家の2階で、惇忠若き日に惇忠や栄一らが尊王攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取り・横浜外国商館焼き討ちの謀議をなしたと伝わる。 焼き討ち計画を立てた時の血判状(大河ドラマ館にて展示されている) 尾高惇忠生家の内部、尾高惇忠の肖像写真が玄関に飾られている。 ボランティアガイドの説明を聞く。後方の建物は煉瓦作りの土蔵で日本煉瓦製造の煉瓦で建てられた。 次に訪れたのが大河ドラマ館。 館内に入るとアンドロイド映像の渋沢栄一と尾高惇忠のパネルが迎えてくれる。天井からは藍で染められた長い布が下がり井戸が設けられている。 渋沢栄一とその妻(パネル)が迎えてくれる。 渋沢栄一翁が育った家として創作された中の家のセット。当時の暮らしぶりが身近に感じられる。 パリ万博のパビリオンで外国人に混じって栄一達一行がエレベーターに乗ったシーンに使われたエレベーターのセット。 平岡平四郎が妻やすへ残した文。実際に撮影に使われたものが展示されている。 大河ドラマで出演者が着た衣装。左:渋沢喜作、 右:渋沢栄一 尾高ゆう 左:尾高長七郎、中:渋沢てい、右:尾高平九郎 この車は1936年(昭和11年)アメリカで製造されたもので、当時の日本煉瓦製造の社長が個人で購入し社用車として活用した。現在は深谷市内の会社経営者が譲り受け管理している。栄一が創設した日本煉瓦で使用された車であることから深谷大河ドラマ館開館期間中に限り特別に展示されている。(説明版より抜粋) いよいよ最後は誠之堂・清風亭 誠之堂の前でボランティアガイドによる説明を聞く。 誠之堂は大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して第1銀行行員たちの出資により建築された。 誠之堂外観、ここで使用されているレンガは日本煉瓦製造で焼かれたものである。 内部 ステンドグラス。中國風の珍しい題材。 清風亭外観、清風亭は大正15年(1926)当時第1銀行頭取だった佐々木勇之助の古希を記念して建てられた。 清風亭内部。 皆さん、渋沢栄一翁の偉大さを改めて知り、学ぶことができたのではないでしょうか。 投稿者:やまちゃん
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