2/7土合公民館で第3回「地域の自然と歴史を学ぶ講座」が開かれ、行ってきました。
今回は「街道と往来」”市内の主な街道や宿場と土合界隈の村々のつながり”というタイトル
でした。
「土合」という地名の語源は、土が十と一が合わさったことからきており、十一の村が明治22年に
合併して土合村と名付けたとのことでした。何か由緒があるかと思ったら意外と単純でした。
講座で配布された資料によれば以下の11村です。出所は1810~1830年幕府編纂地誌で
文化~天保元年の徳川家斉の時代です。
本宿村(元宿) 明治12年に南元宿村と改称
西堀村 民戸106軒 与野郷と呼ばれた
関村 民戸17軒 鹿手袋村から分村したと伝えられる
鹿手袋 民戸47軒 1698年旗本知行地となる。高鼻庄与野郷と呼ばれた
田島村 民戸140軒
道場村 旗本知行地及び与野町圓乗院寺領
町屋村(町谷) 民戸48軒 高鼻庄と呼ばれた
中島村 民戸30余
山久保村 戸数6軒
新開村 民戸14軒
栄和村 明治10年西蓮寺村(千駄村と道場村から分村)と千駄村と合併
この資料を見ると、現在もその地名が残っていることが分かります。我が西堀村は田島村に次ぐ
大きな村であったようです。
各村は幕府領ですが、新開村は1655年に大宮氷川神社領になったとあります。明暦の徳川家綱
の時代で、何等かの理由で幕府が寄進したと思われます。
<つづく> ひろちゃん