9月18日 活き活きクラブでは今年度第2回の社会見学会として「神楽坂散策」を実施しました。参加者23名。会員の方に案内して3日目には定員を超える参加申込みがありました。有難うございました。
当日は夏日に近い暑さでしたが、楽しい一日を過ごされたのではないでしょうか。
現地ではガイドを付け、人数が多かったため2グループに分かれて散策しました。
「神楽坂」とは早稲田通りの一部で、地下鉄飯田橋を出た神楽坂下から神楽坂上までの間のことです。以下ガイドの案内に沿って写真で振り返ります。
神楽坂下から散策開始。ここからしばらくは上り坂。先ずは、最初に目に飛び込んで来るのは「不二家 飯田橋神楽坂店」、ここには数ある不二家の中でも、ここしか売られていないと云う「ペコちゃん焼き」があります。
しばらく歩くと、神楽坂の由来が書かれた石碑があります。
セカンド側の皆さん、熱心にガイドの説明を聞いています。
神楽坂と言えば花柳界、江戸後期に誕生したそうで、最初は「牛込花街」と云っていたそうです。往時は150軒近い料亭に600名近い芸者・舞子さんがいたそうですが、現在は8軒の料亭に芸者さんは30名位いだそうです。この芸者新道は明治時代にできた道で、芸者さんたちが料亭に通う近道としてよく利用していたことから名付けられたとのこと。
今に残る料亭「千月」の前で。
神楽坂らしさを一番感じる場所が「かくれんぼ横丁」「本多横丁」「兵庫横丁」界隈です。
その象徴が細い道に整然と敷き詰められた石畳です。
花街の面影漂う石畳。約28,000個の石で作られている神楽坂の石畳の中には“恋愛成就に効く”とされているハートの石畳が見られる。
セカンド側のグループとすれ違いました
今に残る料亭の一つ「うお徳」。明治の文豪、泉鏡花が愛した料亭。
風情あふれる石畳の道、石畳と黒い塀が見られる神楽坂らしい通り。
この通りにある旅館「和可菜」(現在は閉館)、小説家野坂昭如や山田洋次監督ら映画監督らがよく利用したと云う。「粋な黒塀見越しの松に・・・」はここをモチーフに作られたとか。右側の「幸本」は8軒の料亭のうちの一つ。
和可菜の女将は故小暮実千代の妹で表札と写真が出ている。
日本酒「白鷹」を飲む人だけしか入れない居酒屋。
寺内公園というのが、大型マンションの隣にある。ここの案内板を見ると、神楽坂という街の成り立ちがよくわかる。このあたりには、鎌倉時代の終わり頃から行元寺(ぎょうがんじ)というお寺があった。けっこう広い敷地を持つお寺だったようだ。江戸時代になると行元寺の土地を武家などに貸出したのだが、そこに細い路地ができて、そこから花柳界が誕生したのだそうだ。行元寺は、明治40年に西五反田に移転、その跡地を寺内と呼んだ。そして、大正時代、関東大震災以降、被害の少なかった神楽坂へ日本橋や銀座から商人が流入し、繁盛するようになったんだとか。
神楽坂通りにある老舗の文房具店、夏目漱石や石川啄木などに愛用された原稿用紙が有名だそうです。
神楽坂のシンボル的存在、1595年に創立された「毘沙門天 善国寺」
ここでまたセカンド側グループとすれ違いました。
芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた「見番横丁」。 この日、稽古場から情緒ある三味線の音が聞こえていました。
建物の入り口にはこんなチラシが貼られていました。
鏡花と北原白秋がともに住んだことがあるという旧居跡、残念ながら建物は現存せず、東京理科大学の敷地の一角になっていて、碑と案内板が立つのみでした。
当館は「日本一の計算機コレクション」「録音技術の歴史」「東京物理学校の貴重資料」が常設展示されている博物館です。初期のそろばん、
タイガー計算機など昔懐かしい計算機が数多く陳列されています。
若宮八幡神社は鎌倉時代に源頼朝公により建立された由緒ある御社
割烹 加賀にてランチ。昼食後一旦解散。お疲れ様でした。
縁結びの神社、東の伊勢神宮として知られている「東京大神宮」。昼食後、有志でお参り。神道において最高位に位置する神「天照皇大神」(あまてらすおおみかみ)をはじめとする神々を祀っています。現在広く行われている神前結婚式は、当社の創始によるものであり、今も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えております。
最後までご覧いただき有難うございました。