「リズムカンパニー」という和太鼓グループの演奏会の情報をお届けします。
ラミーユにお住まいの方が出演されます。
よろしければお出かけください。
投稿者:山本泰雄
「リズムカンパニー」という和太鼓グループの演奏会の情報をお届けします。
ラミーユにお住まいの方が出演されます。
よろしければお出かけください。
投稿者:山本泰雄
講義では、この辺りは低湿地帯であったので、通常の遺跡では見つからないものが出土したとのことです。
遺跡には水場遺構があって、井戸のように使っていたもようですが、今でも湧水が豊富に出ており、発掘現場では発掘品の泥を落とすのにも使われたそうです。
丸木舟は3隻(1隻は加工中のもの)発見され、他の遺跡に比べて多いとのことです。さいたま市では約10隻発見されているそうです。
縄文時代後期(3650年前)の舟の長さは3.6Mで、もう1隻は4250年前のもので4.2Mあるそうです。舟はクリ材で出来ており、このぐらいの長さの舟を作るには7~8Mに育ったクリの材木を伐採しており、木材を有効資源として生育を管理していたのではないかとの事でした。
また、木をくりぬく道具も必要であり、縄文人は高い知識と技量を持っていたことに驚きました。
道具では、もとは約1Mの長さがあったと思われる、漆が塗られた丸木弓(出土は47~48cm)や、漆塗りの櫛、赤い漆塗りの土器等が発見されていますので、漆の精製も行われていた可能性もあるとの事でした。また、発見された矢じりは矢と柄が付いたもので、両者を固定させるために、漆か天然アスファルトを接着剤として使用したとの事ですから驚きです。
籠のように編んだ編組(へんそ)品も見つかり、これは県内では例がなく珍しいものだそうです。その他に、堅果類のクリ、トチノキ、クルミ、ドングリなどが見つかっており、おこげの付いた土器もあって、縄文人の生活の一端が窺えます。
発掘は3月に終了して、今後出土品の分析・保存処理が行われて、その一部も公開されるとの事でした。
この講座によって、4000年前のこの地域はどのような場所であったかが分かり、その環境の中で縄文人が日々、創意工夫をしながら生活を営む光景が目に見えるようです。
おわり
ひろちゃん
H25-7-17土合公民館の「地域と自然と歴史を学ぶ講座:南鴻沼遺跡の発掘調査」を受講しました。定員が50名の教室が、中高年の方々でほぼ満席の盛況でした。
さいたま市教育委員会文化財保護課々長小倉均氏による、H23~H24年に実施された発掘調査の詳しい内容の講義でした。
遺跡は建設工事中の市道町谷本太線がさいたま市役所から大宮バイパス方面に向かって真っすぐ延びた、新幹線・埼京線高架の少し手前、鴻沼川近くの建設工事現場です。中央区大戸1丁目あたりで、近くには大戸貝塚遺跡があります。
遺跡では今から約4000年前の縄文時代後期の丸木舟や土器などが多数見つかったそうです。
この辺りは大宮台地であり、何故丸木舟があったのか疑問に思いましたが、同じシリーズの講座「鴻沼と見沼低地の自然と歴史を探る」(H23-1-15)の資料「関東平野の古地理変遷」によると、
①縄文時代早期(約7000年前)地球温暖化に伴い氷河が融け、急速に海面上昇が起こり、縄文の海が荒川低地や見沼低地に進入してきた。
②縄文時代前期(約6000年~5500年前)には縄文の海が進んで、海岸線が荒川低地では川越付近まで、見沼低地では大宮の寿能付近まで達した。
③縄文時代後期~弥生時代には縄文の海は次第に低下していった。
とありますので、縄文時代後期は縄文の海が低下して、海岸線が下がった後、低地に残った水溜り(沼)や川があった湿地帯で、生活をするには舟を必要としたからではないかとおもわれます。
また、同じ資料の中の国土地理院「大地条件図大宮」の微地形区分図を見ると、遺跡の辺りは台地の中でも浅い谷であったことが分かります。
つづく
ひろちゃん