あちらはいかがですか、たかちゃん?

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回想:難病、中咽頭癌の死5

2021-09-17 12:57:14 | 日記
難病、中咽頭癌の死4からの続き


大学病院の耳鼻科から、抗がん剤を飲むことをやめる意志を伝えると、緩和病棟のある病院を紹介された。
ここでは、痛みを取り除き、積極的な治療はない病院である。
痛み止めや大学病院でもらっていた難病の薬をもらい、必要な時には入院するところ、だいたいは最期を看とる場所として使われるようである。

たかちゃんは、痛み止めをコントロールする場所として2週間ほど使った。
首の骨に転移した癌が、右腕を上げる神経をダメにして、そこに弱い放射線をあてることで癌の進行を阻止させる。だがその後に、痛みが起こり、麻薬である痛み止めの量を決めるため、緩和病棟に入院した。

ここの病棟の医師がまたおかしな医師であった。
たかちゃんは、車イスで病室の外に一人で行っていたのだが、麻薬の痛み止めで時々意識がはっきりしないときがあった。
緩和病棟はすべて個室だったが、個室のドアはなく解放されていた。
たかちゃんは、夜中に意識がはっきりしないまま病室から大広間に行き、帰ってくる時に間違って隣の女性の部屋に入ってしまったようだ。
それについて、ここの緩和病棟の医師が、まるで犯罪を犯したような扱いをした。私は、その日の看護師に痛み止めで意識がはっきりしなくなることもありますよねと相談した。
その看護師はすぐに医師と看護師長と話し合いを持つ場を作ってくれた。
しかし、その医師も看護師長も、痛み止めでそんなことはないと話し始めた。
私は、ネットでそのようなことはよく起こることと調べていた。とても納得のいかない事だった。それだけではなく
医師に頼んだ書類の話を翌日にすると、そんなことは聞いていませんと真顔の返答に、まだ60代だけど認知症なの?この医者は大丈夫なの?
とても信頼できるところではなく、痛みのコントロールができたら、さっさと退院したいと強く思った。

たかちゃんの友人は、みな2週間おきに顔をみせてくれた。
この緩和病棟には、ここはお見舞いの人が泊まれる部屋もあり、ここから仕事に行くかなんて冗談を言っていた。
でも、みな部屋の外にでると、ここが終の場所かと私に聞いてきた。
それくらい、たかちゃんは気力をなくし、顔に生気がなかった。
私も、大丈夫かなと思うほど会話が成り立っていなかったのを覚えている。
痛み止め、それも麻薬になるとこんなにも変わるのかと思った。
からだが薬に慣れるまでには、よくあることだが、からだが慣れてくるとなくなると記されていた。

たかちゃんは、本当に医者に恵まれてなかったな、、
これがどんなに患者や家族を混乱させるか、、大学病院の整形外科医師に始まり、リハビリ病院の医師の責任のなさ、やる気のなさにびっくりしたものだが、
緩和病棟までもが、、

でも、大学病院の癌を見つけてくれた消化器科の医師と在宅医療の医師だけが、とてもたかちゃんを考えた言葉をかけてくれた。


それから、緩和病棟を退院して家で過ごすようになった。
たかちゃんからは、家で死にたいけど大丈夫かな、もう病院はいやだと言われた。
私は、いいよと答えた。
私も、8ヶ月以上の病院通いと、休まる場所になりえなかった病室はもううんざりしていた。

緩和病棟をでてからの5ヶ月は穏やかに時が流れた。
仕事で忙しかったたかちゃんとの時間を埋めるような、最後の時間を持たせてくれたのかもしれない。

介護保険で、在宅医療医師と看護師が二週間おきに来てくれ、途中、在宅での入浴も頼んだが、たかちゃんはいやがり、私が一日おきに入浴介助をしていた。

娘は社会人になり一人暮らしをしていたが、リハビリ病院を退院して自宅療養が始まったときに、戻ってきた。
息子は、隣の市に住んでいたが、仕事の拠点は家だったので、毎日通って来ていた。
以前は私とたかちゃん二人と犬一匹の静かな生活だったが、家族4人でご飯を食べることが多くなっていた。
それでも、たかちゃんは朝がイヤだと何度も言っていた。
仕事に行かれない自分のやるせなさを、朝に感じていたのだと思う。
車イスを持って旅行にも行ったが、行きたいところは仕事の場だった。


本当に死んでしまう8日前まで、この生活は続いた。

続きは、たかちゃんの最期を読んで下さい。










回想:難病、中咽頭癌の死4

2021-09-16 19:37:01 | 日記
難病、中咽頭癌の死3からの続き


リハビリ病院に着いてから、すぐにリハビリ計画が立てられ、これから長くて5月はここでリハビリとなる

5ヶ月が過ぎた頃には、両杖をついてサポート付きで歩くことができるようになっていた
でも、4ヶ月を過ぎた頃から、リハビリペースが落ち、たかちゃんは精神的にしずむことが多くなった。からだが思うように動かすことがつらいようであった
大学病院の難病科では、この病気のせいであるとの話だった。

リハビリ病院での入院は5ヶ月のところを、家のお風呂やトイレのリフォームで、1ヶ月延びだ6ヶ月の入院となった。
こんな大変な時でも、夕食後のリハビリ仲間とお茶をする友人6人もできていた。
誰でもすぐにとけ込むことができる、たかちゃんならではのことでした。
その方たちとは、今も私に電話がかかってくる間柄である。

9月に退院となり、大学病院からリハビリ病院への8ヶ月に及ぶ入院は終わった
たかちゃんも私もどんなに待ちわびたことか、、
仕事は息子とともに自営業をしていたので、息子がどうにか耐えて頑張ってくれた。
この先は、自宅でできる仕事のみで、
すっかり変わってしまった状況でやっていくしかない。
それでも家族でやっと落ち着いてやっていけると思っていた。

退院して2ヶ月経った頃、いつもの大学病院の通院で、喉の調子が悪い、体調が悪いということを訴えた。
また耳鼻咽喉科に行き、内視鏡で見るがなんともないと言われた。
用心して消化器科でも診てもらおうと胃カメラをすると、その消化器科の医者が
扁桃腺になにかあると言う。
再び耳鼻咽喉科に行き、やっと見えるくらいの小さな腫瘍があるということで、細胞の検査をするために取って、2週間後に結果がわかるとのことだった。

2週間を待たずに、その耳鼻咽喉科の医者から自宅に電話がきた。
癌であることが告げられ、それから全身の炎症をみるPET検査、CT.MRIの検査。
たかちゃんは自宅での移動は、車イス。トイレや入浴は一人で行えていた。
いつも、私が運転をして大学病院の一時間弱の道のりは、車イスを車に積んで、いつも一緒だった。

検査結果を聞きにいくと、
腫瘍マーカーはそれほどではないが、中咽頭の4センチ癌が見つかり、肝臓、骨3ヵ所に転移している末期であることが告げられた。
それに対して、たかちゃんは顔色を変えずに、どのくらい生きられるかを聞いていた。
医者からは余命は数ヶ月単位との返答があった。飲み薬の抗がん剤のみが唯一のものとも。
たかちゃんは、放っておくとどうなるかと聞くと、腫瘍が大きくなり腫瘍が開いて血まみれになり痛みがあると。
たかちゃんは、飲み薬の分子標的の抗がん剤を飲むことをお願いするが、それも三回飲んで体調が悪くなりやめてしまった。

体調が悪いと、難病のせいで日常生活ができなくなるのをとても嫌っていた。
抗がん剤を飲んでも完治することはないなら、穏やかに生活したいこと最優先したい気持ちは、私にもよくわかった。
長く辛い8ヶ月に及ぶ入院がなかったら積極的な治療をしたのかもしれない。

抗がん剤を飲んで辛い日常で長く生きられるかもしれないが、それよりも、短くなるかもしれないが穏やかな生活をたかちゃんは選んだ。

これからが私にとって、夫の死を待っているような辛い日々の始まりであった。


回想:難病、中咽頭癌の死3

2021-09-16 10:38:48 | 日記
たかちゃんの病気、難病、中咽頭癌の死2からの続き


主治医は何度も手術で取り除いた腫瘍を検査するが、何度も癌ではないと、自分の判断は間違っていないことを常に主張していた。患者は、医者の言うことを聞くのが当たり前だというオーラを出していた。

そうこうしているうちに足はピクリとも動かなくなった

変に微熱が続き、ここの大学病院の難病専門科のドクターに依頼して、初めて
肥厚性硬膜炎という難病にたどりついた
この病気は、見つかってから300症例もない珍しいもの。
すぐに大量のステロイド療法が始まり、何とか足先の感覚が戻ってきた。
そうしているうちに、たかちゃんには喉の異変があり、以前のたかちゃんの声ではなくなっていたので、耳鼻咽喉科でみてもらうが、副作用の強いステロイドのせいであるということになった
この時、もっといろいろな検査をしていたらと悔やまれる。

またリハビリが始まるが、前のように支えられて歩くのには程遠い状態で、平行棒で身体を支えて立つことすらできなくなっていた
専門のリハビリ病院を勧められ、歩けなくなってからの2ヶ月少しの大学病院の入院は終わった。
専門のリハビリ病院選びは、病院施設併設のリハビリ病院がいいなと思っていたけれど、たかちゃんは自宅から遠くて家族に頻繁に会えないのを嫌い、自宅近くのリハビリ病院にした。
たかちゃんの生い立ちは、いつも一人ぼっちだったので、病院での一人も耐えられなかったのだろう。
私は体調をくずした1週間以外は、毎日、定期を買って電車で病院に通った。
大学病院にはリハビリ病院から通院するということで、自宅から車で20分ほどのリハビリ病院に転院した。

これには介護タクシーといって、横になって運ぶこともできるもので、自宅の方向に向かう車のなかで不安で流れる風景を見ていたのを覚えている。
この介護タクシーの運転手さんの優しい仕草や言葉に泣きそうなのを押さえるのがやっとだった。
たかちゃんも不安でいっぱいだったと思う。


回想:難病、中咽頭癌の死2

2021-09-15 09:30:38 | 日記
たかちゃんの難病は、肥厚性硬膜炎という、脊髄の硬膜というのが厚くなり神経を圧迫する病気。
2013年の1月の中旬、背中が痛いというので近くの整形外科に受診。脊柱管狭窄症という脊髄が変形などで神経を圧迫しているのではと湿布をもらった。
その年の1月末には歩くことが難しくなってきた。それなのに長野の出張があり、病院受診を勧めたのに仕事人間の夫は足を引きずり長野に。
嫌な予感のなかひどくなり、長野にいる夫に今すぐ帰って来るように言い、出張の最終日に夜中に運転して帰ってきた。
翌日には歩くことができなくなり、市内の社会福祉協議会で車イスを借りてきた。

もともと大学病院のリウマチ科にかかっていたので、そこへ翌日に受診。
主治医がいなかったので、他の先生にみてもらうと整形外科だねということで
そこの大学の整形外科で診てもらう。
高飛車な医者だなということであまり良い印象のない整形外科医だった。
また2日後に来るように言われた。

ネットで調べると、1日で手術できて評判のいいクリニックがあるので、そこで診てもらう。
CTやMRIなどの検査をするが、原因がわからない、大学病院へ行ったほうがいいと言われ、また印象の悪い大学病院へ。

その印象の悪い医者ではなく、一番上の教授に診てもらいたいと話し診てもらうが、大学病院の方針か、また印象の悪い医者が主治医となり診てもらうことになり、入院となる。
日曜日に入院となり、なかなかすぐには診てもらえず、もう両足が動かすこともできなくなっていた
検査が進むと、急に今日の夕方に手術すると入院数日後の面会時に言われ、脊髄の硬膜のところに腫瘍のようなもながあり、すぐにでも除去すると話があった。
同意書を書いたり手術の用意をしたりして、夕方6時頃から手術が始まり、11時に終わった。
たかちゃんは、意識がもどり、きれいに腫瘍が取れたと話があり足先が動いたので、息子、娘と安心したのを鮮明に覚えている。
執刀医は印象の悪いあの医者で、手術の経過を教授と印象の悪い医者から、家族3人で聞いた。
手術後に足の神経が正常であるかをみるものがあり、それによると歩くことが出来ない可能性があると話された。
でも、足先は動いている、それなのに、、もう精神はめいいっぱいで想像ができなかった。

その後、1ヶ月でリハビリでなんとか両腕を二人に支えられてやっと歩くことができるまでになった。
でも日常は車イスで、なんとか介助してベッドから車イスに乗り、トイレへ。
私は、これからの生活を考えて病院でシャワー介助をしていた。

食にうるさかったたかちゃんは、お寿司や惣菜や持っていく私の料理を、時には涙ながらでうれしがっていた。

良くなっていくとばかり思っていた私、夫もそう思っていたのに、徐々に足の動きが悪くなり、再び両足が動くことができなくなった
手術で取った腫瘍に悪性はなく癌ではなかったのに

四万湖、六合道の駅

2021-09-15 07:01:02 | 日記
9月13日、四万湖に行ってきた。

緊急事態のコロナなのにね。




群馬県の四万温泉へ行く途中にある。

ずいぶん前から行ってみたかった。

夫が亡くなってから、ワンコ🐶との旅が

唯一の趣味。

場所は群馬県吾妻郡中之条の奥にある。

行ってみたらダムで中之条ダムなのに

名前は四万湖。

なぜか、湖の色がキレイなブルー、いや

エメラルドブルーというものかな。


ここではカヌーをしてる人、夫婦、家族

で訪れる人、バイクで来る人。

やっと行くことができて満足、満足。

途中、見たことのないトカゲが3匹遭遇。

さて、シェルポ君、次は道の駅を目指そ

うかね😊



道の駅六合、これでくにと読むから、地

名は難しい。山奥にあって、それなりに

人がいた。

お昼を食べたいけど、コロナでお店に入

るのは抵抗あるし、ワンコ🐶は入れない

し、気温が高いから車にお留守番も考え

もの。

バス停にテーブル、椅子が作られて誰も

居ないので、お店のおばさんにそこで食

べてもいいか聞いたら、持っていってあ

げるとのことで。

こちらを拝借して夏野菜冷やし蕎麦。

期待してなかったけど、

すっごく美味しかった。れんこんとカボ

チャとナスとパプリカの素揚げにキュウ

リと大葉に天かす。蕎麦の質がいい!

満足満足🍴🈵😆