難病、中咽頭癌の死4からの続き
大学病院の耳鼻科から、抗がん剤を飲むことをやめる意志を伝えると、緩和病棟のある病院を紹介された。
ここでは、痛みを取り除き、積極的な治療はない病院である。
痛み止めや大学病院でもらっていた難病の薬をもらい、必要な時には入院するところ、だいたいは最期を看とる場所として使われるようである。
たかちゃんは、痛み止めをコントロールする場所として2週間ほど使った。
首の骨に転移した癌が、右腕を上げる神経をダメにして、そこに弱い放射線をあてることで癌の進行を阻止させる。だがその後に、痛みが起こり、麻薬である痛み止めの量を決めるため、緩和病棟に入院した。
ここの病棟の医師がまたおかしな医師であった。
たかちゃんは、車イスで病室の外に一人で行っていたのだが、麻薬の痛み止めで時々意識がはっきりしないときがあった。
緩和病棟はすべて個室だったが、個室のドアはなく解放されていた。
たかちゃんは、夜中に意識がはっきりしないまま病室から大広間に行き、帰ってくる時に間違って隣の女性の部屋に入ってしまったようだ。
それについて、ここの緩和病棟の医師が、まるで犯罪を犯したような扱いをした。私は、その日の看護師に痛み止めで意識がはっきりしなくなることもありますよねと相談した。
その看護師はすぐに医師と看護師長と話し合いを持つ場を作ってくれた。
しかし、その医師も看護師長も、痛み止めでそんなことはないと話し始めた。
私は、ネットでそのようなことはよく起こることと調べていた。とても納得のいかない事だった。それだけではなく
医師に頼んだ書類の話を翌日にすると、そんなことは聞いていませんと真顔の返答に、まだ60代だけど認知症なの?この医者は大丈夫なの?
とても信頼できるところではなく、痛みのコントロールができたら、さっさと退院したいと強く思った。
たかちゃんの友人は、みな2週間おきに顔をみせてくれた。
この緩和病棟には、ここはお見舞いの人が泊まれる部屋もあり、ここから仕事に行くかなんて冗談を言っていた。
でも、みな部屋の外にでると、ここが終の場所かと私に聞いてきた。
それくらい、たかちゃんは気力をなくし、顔に生気がなかった。
私も、大丈夫かなと思うほど会話が成り立っていなかったのを覚えている。
痛み止め、それも麻薬になるとこんなにも変わるのかと思った。
からだが薬に慣れるまでには、よくあることだが、からだが慣れてくるとなくなると記されていた。
たかちゃんは、本当に医者に恵まれてなかったな、、
これがどんなに患者や家族を混乱させるか、、大学病院の整形外科医師に始まり、リハビリ病院の医師の責任のなさ、やる気のなさにびっくりしたものだが、
緩和病棟までもが、、
でも、大学病院の癌を見つけてくれた消化器科の医師と在宅医療の医師だけが、とてもたかちゃんを考えた言葉をかけてくれた。
それから、緩和病棟を退院して家で過ごすようになった。
たかちゃんからは、家で死にたいけど大丈夫かな、もう病院はいやだと言われた。
私は、いいよと答えた。
私も、8ヶ月以上の病院通いと、休まる場所になりえなかった病室はもううんざりしていた。
緩和病棟をでてからの5ヶ月は穏やかに時が流れた。
仕事で忙しかったたかちゃんとの時間を埋めるような、最後の時間を持たせてくれたのかもしれない。
介護保険で、在宅医療医師と看護師が二週間おきに来てくれ、途中、在宅での入浴も頼んだが、たかちゃんはいやがり、私が一日おきに入浴介助をしていた。
娘は社会人になり一人暮らしをしていたが、リハビリ病院を退院して自宅療養が始まったときに、戻ってきた。
息子は、隣の市に住んでいたが、仕事の拠点は家だったので、毎日通って来ていた。
以前は私とたかちゃん二人と犬一匹の静かな生活だったが、家族4人でご飯を食べることが多くなっていた。
それでも、たかちゃんは朝がイヤだと何度も言っていた。
仕事に行かれない自分のやるせなさを、朝に感じていたのだと思う。
車イスを持って旅行にも行ったが、行きたいところは仕事の場だった。
本当に死んでしまう8日前まで、この生活は続いた。
→続きは、たかちゃんの最期を読んで下さい。