新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

織田信長は謎だらけ 桶狭間合戦の謎

2020-03-06 18:37:46 | 新日本意外史 古代から現代まで

織田信長は謎だらけ
桶狭間合戦の謎

 桶狭間合戦があったとされる愛知県の鳴海潟のあたりは、今はすっかり陸地になっている。
「鳴海球場」としてプロ野球で知られているが、かつてはここから星が畸にかげては広々とした海だったことは、古今和歌集などによく詠じられている。
だから海原だった頃と陸になってしまう中間の十五、六世紀の頃は、湿地になっていたようである。
 江戸時代の貝原益軒が書き残した『吾妻路補記』にも、しめじの名所と出ているくらいゆえ相当に、昔から湿地でじめついた窪地だったろう。その本にも、
 「信長公は八千の勢いをもって、今川義元三万の勢いにうち勝ち、今川勢の死者を埋めし千人塚、首塚とよぶ義元の墓あり」と、益軒は書いている。
 が、当時の織田信長は、せっかく父の織田信秀が尾張一国を、切り従えたのを受げ継ぎはしたものの、次々と今川方の先き手となった松平党の為に奪取され、
半国どころが三郡しか保持していなかったのである。だからこの当時、一郡を二万石と換算しても、無理してかき集めたとしても、千人も無理だったろう。
だからとても、「信長が八千の車勢を率いて」とは、あまりにも筆がすべり大袈裟さすぎる。
 織田家の近習で祐筆であった太田牛一の、『信長公記』にも、信長が清州城から伴って行ったのは、佐脇藤八、岩室重休、長谷川橋介、加藤弥三郎、山口弘寄の五名のみであったと、
性格に実名を挙げて明記されている。
 つまり当時、信長の重臣であった林佐渡守や、丹羽長秀、佐久間玄蕃、村井民部、不破河内守らの名前は変だがどこにも出ていない。
芝居や講談では、『小敦盛』の仕舞いを、「人間、僅か五十年化転の内に比べれば」と、妻の奇蝶に鼓をうたせて舞い、「湯づけを持て」と信長は勇ましく、急ぎ腹ごしらえをし、
 「………それッ馬ひけィ」とばかり出撃してゆく勇ましい見せ場だが、近習の五名のみしか伴ってゆかなかったのでは、どうも話がくい違うようだ。
 ときの足利将軍義晴が、京にあって三好、松永の徒に押えつけられていて何ともならず、祖先を同じくする足利持氏系の今川義元へ、
 「応援に上洛してきて逆徒を追い払ってくれたら……次の将軍の座を譲ってもよい」
 との約束ができたゆえ、駿河、遠江、三河の全兵力三万五千を率い、急ぎ京へ上ろうとしていた当時の情勢を考えてみたい。
 行く先々で戦をしながら上洛するのであっては、せっかくの兵力が傷つき滅びてしまう。
 天下を掌握せんとしている三好松永の西国勢と対決する為には、今川義元としては一兵も失わずに京へ連れてゆくしかないのに、戦などしたがる筈は常識でも考えられはしない。
 だから何も好きこのんで隣国の信長と、合戦をしながら通行する訳はない。前もって信長征伐をなし通行安全の保証がなくては、進発してくるはずとてなかったろう。
 という事は、今川義元は出発に先立って織田方とは和平交渉をしていた事になる。
 つまり劣勢の織田方が降参して人質でも出すことによって、安全通行の保障をなし、征伐されるのは許してもらっていたと常識ではみるしかない。
 事によったら今川方の与騎として、京へ進発することになっていたから、重臣共は兵を揃えるために、知行地へ戻っていて清州城にいなかった、とみるべきだったろう。

 ところが降参したはずの信長がなかなか挨拶に出て来ないので義元が怒ってしまい、いぶし出しに丸根や善照寺砦へ火をかけて脅かしたのだろう。
「これはいかん。うかうかしていたら、この清州まで押しかけて来るやもしれぬ」
 そこで、狼狽した信長が取るものも取りあえず、居合せた近習五名だけで、まだ暗いのに駆け出しだのが、本当のところらしい。ところが、かねて、
 「信長さまも今川義元殿御陣に加わって、上洛なされるらしい」と噂があったから、ついて行けば何かよいこともと、野次馬がぞろぞろ後を追いかけてきた。
 さて今川義元は二つの砦に火をつけさせた後、鳴海潟に面した平手の庄が、信長の母方の里と耳にすると、通りがかりのところゆえすぐさま、
 「よし、ついでに火をつけて懲めてやれ」と、山道から脇道を入ったとき、大粒な雨がざあっと降ってきた。そこで雨宿りに樹木の茂った田楽狭間の溪谷へ入った。
 さて、場所が母方の里の平手の庄ゆえ、信長にすれば子供の時にはよく遊び回っていた土地柄である。そこで丘の上へ出て眼下の今川勢を覗きおろしたところ、
「いくら俄か雨とはいえ右往左往しているではないか……だらしない」と呆れた。
 
その内に、信長が一番恐れていたのは、今川方の新鋭武器の鉄砲だったが、
「この雨にずぶ濡れで火縄も使えぬでは、唯の棒切れではないか」と見くびった。だから信長はきっとしてすぐさま伴ってきた五人の近習に、
「汝らで後からついてきた野次馬共を分け合って、部下となしよくいいきかせて、それぞれ突きこめ……濡れて役立たずだが、あの鉄砲をみな分捕らせろ」
 と命じ自分から、ひよどりの逆か落し同然に、窪地へ向かって突入した。
 それゆえ雨に降りこめられていた今川方は、誰一人としてまさか山崖上からふいに攻めこまれると気にしていた者はなく、みな仰天して、
「大変だ……」と本陣の者はびっくり仰天、あわてふためき、「砦に火を放たれた尾張の小伜め、頭へきて裏切って押し寄せたぞ」と逃げ惑った。
 武器もろくに持っていない野次馬の群れとは、雨のため気付く者もないからして、
 「えらい事になった……」と、われ先に遁れようとするのを、背後から、
 「待て」とばかり殴りつけ鉄砲を奪い、「おのれッ」と手向かう者は撲り殺した。
 そして今川義元の首まで取ってしまい、向かい合っている桶狭間の丘へ、分捕らせた鉄砲を並べて信長は勝どきをあげた。
いうなれば、まったくこれは信長の裏切りのバラードなのであって、俗説とはまるで違うようだ。
   平手政秀はお守り役ではない
 俗説といえば、「お守り役の平手政秀が、信長のうつけぶりを諫めるために切腹した」とする忠義めかした美談もある。しかしこれとても、
まったく事実とは相違している。平手政秀はお守りなどではなく、れっきとした母方の祖父に当たっていたのである。
そして信長の生母が平手の実家へ戻ってきている問、生身の女体ゆえ浮気でもしたらしく、それが見つかって祖父政秀に成敗されたのを、
 「おりや真相を知っとるぞ」と、後に成人した信長が、かまをかけたものだから、平手政秀は、「……おのれッ」と立腹して自害をとげたらしい。
(生母の名ははっきりしないが、父の織田信秀が信長を生ませた後、別の女のところへ入り浸り、寄り付かなくなった。
平手の家は仏教信心だが、男たちが戦で留守の時、空閨をかこった母は神信心の拝み屋と浮気をし、怒った政秀に殺されたのである)
それゆえ、その長男の監物を信長は伯父に当たっているから自分の名代にし、三方が原合戦のとき徳川方へ援軍を率いさせ向かわしたが、敗死するときくや、
 「あさましい負けっぷりである。徳川家康に対しても屍など引取って葬れぬぞ」そのまま罰として戦場にその遺骸を放って来させた。ついで平手一族へも、
 「追放」の沙汰を出した。そこで、平手の一族はみな憤り、「わが一門に生まれたくせにして、幼い時のことや生母のことを根にもって仇するとは怨めしや」
と、いうのであろうか。平手一族の男女三十八人が泣きに泣き、ついに無念のあまり折り重なって自決したのが、名古屋市西区赤塚玄賀町に、
「涙塚」の名で残されて、眼病によくきく地蔵として祀られていたのは、名古屋市役所編の『名古屋史要』などにある。

 津和野の涙塚
 「涙塚」とよばれるのはこの外に、新幹線がのびて便利になった津和野にもある。なにしろ幕末まで大名領でも土地は私有でない。
領内寺院の人別帖で統轄されている寺百姓、つまり奴百姓とよばれる農民だけが、領主には活殺自在に扱えたゆえ、後述するが苛め抜かれてのせいらしい。
 津和野出身で有名なのは西周(にしあまね)で、その遠縁にあたる森林太郎(鴎外)が明治以降は有名であるが、
維新の頃は、大国隆正やその門下の福羽美静が抜き出ている。
なにしろ徳川綱吉によって、「神佛混合令」が天下に布令されて、元禄時代から始っていた神道への大圧迫を、大国隆正の門人玉松譟が岩倉具視に講釈して世直しを建言した。
それを聞き、渡りに船とばかり眼を輝やかせ、 「………これを利用し、もって王政復古の原動力にすべし」と岩倉は、秘かに玉松操をして平田派や本居派の国学者や、
各地の神道派に檄をとばして、松下神社の蘇民派をおおいに使ったのである。
 
なのに、おかげ参りを今では間違えて、伊勢の大神さまのお札ふりとしてしまっている。
 そして、おかげも、おかけさまでといった意味にとられているが、本当はそうではない。
江戸時代も公卿(大陸から渡来の征服者)は陽、地家つまり被征服系の天の朝や騎馬民族系(日本原住民)は、「陰の民」とされ、日陰者であると陰の民とされたのは、
(庶子の民なり)の意味で、今でも、「……われら庶民の立場では」などと、一般使われているのでも判る。
 つまり伊勢二見が浦にあって「蘇民将来来福之守」の護符、奥州平泉に残っていて「蘇民将来子孫人也」の柳の木の守りを出している松下神社が、かげの民の守り本尊とされていた。
 それゆえ騎馬民族の末裔の蘇我王朝残党は、遥々各地から伊勢や平泉へ集ったのが本当の、「おかけ詣り」なのである。
この裏書きは松下系の大財閥鴻池が、二見浦まで番頭を出して、一人二朱ずつ施しをしていた帳面によっても判るのだが、
玉松や大国らは彼ら陰の民の一大動員によって、新政の世になした功をかわれ、太政官の上に神祇官がおかれ、津和野の旧藩主亀井惟監が司る役目にもなったのである。
もちろん岩倉や薩州人は、徳川家を潰すと、
 
「綱吉以来の神怫混合策を倒し、廃仏毀釈としたのゆえ、もう用はない」と間もなく、神祇省を廃正し、津和人らは中央政府から追われてしまうのである。
「おかけ詣り」にしても、伊勢だけがクローズアップされ平泉が伏せられ、訳けが判らなくなっているのも真相を匿す為らしい。
 明治から百五十年そこそこだが、あまりにも作り変えられすぎている。たとえば、
 「安政の大獄」にしても、今では勤皇の志士を捕えて井伊大老が弾圧したようになっている。
 しかし本当はどうやら明治になってからの、勝って権力を握った者らが作らせた歴史らしい。
 徳川家も家光の代までは小御所へ伺候し、節刀を賜って征夷大将軍の宣下をうけていた。
 しかし寛永三年八月上洛のとき。中院通村を伝奏としての後水尾帝より、山城二十万石の要求をうけ承知したのを、反古にしてしまってよりは、将軍宣下に上洛の行事は廃止された。
 「征夷」の勅旨を賜るだけで関東で宣下するようになった。そこで水戸の斉昭は野心を抱き、
 「自分でも勅命さえ賜われば征夷大将軍になれ、水戸が江戸に代って幕府の地となり、家臣の汝らも直参の身分になれるのだ」と、京水戸屋敷留守居役鵜飼幸吉父子らに運動させ、
攘夷の勅諭をうけたのが事の起りである。そこで井伊大老が憤慨して直ちに逮捕を命じ、
 「天に二つの日がないように、この世に二人の征夷大将軍がいて堪るものか」と、斉昭へ隠居を命じ関係者一同を処断したのが安政の大獄にすぎぬ。
勤皇運動に短絡させるのはおかしすぎる。