真実は何処に
家光と春日局の関係
鉄砲伝来と「火薬(硝石)」の関係






日本史では「従容として死に臨み、七言絶句の辞世の詩をのこして刑死していった」という幕末の志士の最期のあり方が、どうしても不思議で仕方がなかったから、
福島県の塙町役場に保管されていた牢問日誌の綴りなど見せて貰い、そういった刑死の模様は、これまでのものは、死に花を飾る式のまったくのデフォルメにすぎない事が判った。
だから、「戦場で死ぬ兵士」は「痛い」とか「やられた」とか「ちくしょう」「おっかさん」などとは云わず皆『天皇陛下バンザイ』と、
両手をあげて感動的に絶命するもの」ときめて掛っている人達には、不真面目ととられるかも知ぬ。
さて、世界史から弧立している日本史の断層を、「天文十二年、日本へ鉄砲が伝来し、万国共通の火器作戦の時代が到来した。
だから国産で雑賀や国友で和銃も作られたが、さて弾丸をとばす火薬材料の七五パーセントをしめる硝石は、日本では産出されなかった。
そこで織田信長は堺をその輸入港としてマカオに頼り、次の秀吉は備中備後の帰化人を通してルソンから輸入した。
次の国家主権者である徳川家康は、オランダ人によって長崎出島を、その門戸にした。つまり徳川の『鎖国』というのは、
なにも天主教禁圧が主ではなく、彼らがエージェントして、当時でいう『煙硝』をもちこみ、それを他の大名が入手するのを防ぐための『硝石独占輸入方式』であって、
このため各大名は『鉄砲があっても火薬が入手できない』ために叛乱できず、よって幕末までは『徳川三百年の泰平』が続いたのである」
というきわめて常識的な判っていそうで、そのくせ、これまで気付かなかった日本の歴史の盲点となっている。
福島県の塙町役場に保管されていた牢問日誌の綴りなど見せて貰い、そういった刑死の模様は、これまでのものは、死に花を飾る式のまったくのデフォルメにすぎない事が判った。
だから、「戦場で死ぬ兵士」は「痛い」とか「やられた」とか「ちくしょう」「おっかさん」などとは云わず皆『天皇陛下バンザイ』と、
両手をあげて感動的に絶命するもの」ときめて掛っている人達には、不真面目ととられるかも知ぬ。
さて、世界史から弧立している日本史の断層を、「天文十二年、日本へ鉄砲が伝来し、万国共通の火器作戦の時代が到来した。
だから国産で雑賀や国友で和銃も作られたが、さて弾丸をとばす火薬材料の七五パーセントをしめる硝石は、日本では産出されなかった。
そこで織田信長は堺をその輸入港としてマカオに頼り、次の秀吉は備中備後の帰化人を通してルソンから輸入した。
次の国家主権者である徳川家康は、オランダ人によって長崎出島を、その門戸にした。つまり徳川の『鎖国』というのは、
なにも天主教禁圧が主ではなく、彼らがエージェントして、当時でいう『煙硝』をもちこみ、それを他の大名が入手するのを防ぐための『硝石独占輸入方式』であって、
このため各大名は『鉄砲があっても火薬が入手できない』ために叛乱できず、よって幕末までは『徳川三百年の泰平』が続いたのである」
というきわめて常識的な判っていそうで、そのくせ、これまで気付かなかった日本の歴史の盲点となっている。
新火薬の考察
先ず、本能寺で信長が焼死したという事実は史実である。
だが本能寺が丸焼けになり、隣のサイカチの森にまで飛び火している程の大火災を何と見るかである。
当日は夜半からの大雨で、京の町屋も本能寺も森も、ぐっしょり濡れていただろうと想われ、これは普通の火事ではなく、
消防法で言うところの「特殊火災」なのである。即ち強烈な爆裂火薬だといえよう。
現在で言うならプラスチック爆弾で強力な爆発物ペンタ・テトロ・エーテル硝酸塩(PETN)と
RDX(トリメチレントリニトロアミン) そして可塑剤からなるセムテックスにもあたるだろう。
だが本能寺が丸焼けになり、隣のサイカチの森にまで飛び火している程の大火災を何と見るかである。
当日は夜半からの大雨で、京の町屋も本能寺も森も、ぐっしょり濡れていただろうと想われ、これは普通の火事ではなく、
消防法で言うところの「特殊火災」なのである。即ち強烈な爆裂火薬だといえよう。
現在で言うならプラスチック爆弾で強力な爆発物ペンタ・テトロ・エーテル硝酸塩(PETN)と
RDX(トリメチレントリニトロアミン) そして可塑剤からなるセムテックスにもあたるだろう。
「信長殺しに用いられた強烈な新黒色火薬は、スペイン国王フェリッペ二世によって、僅かかその数年前に、
南米チリで開発された新硝石によるもので、『これは、その後四十年たった元和七年九月になるまで、日本には正式に輸入されていない。
つまり信長殺しの直接死因である新型火薬をもっていたのは、当時としてはスペインと合併したポルトガル人の宣教師だけであるから、
彼らの中にその供給者が居た。そして当時としては京では二階建てが高層築物だったのに、平家建での本能寺から一町もない至近距離に
『真の教えの天主会堂(ドチリナ・ベル・ダ・デイラ)』という三階建てのバルコニー付きの建物が在って、そこにはポルトガル人の司祭や、日本人の助教がいた。
これも歴史的事実である。
そして奇怪なことに、本能寺の変のあった日の昼に、京都管区長オルガチーノは、今でいえば長い草鞋をはいて、逃げも逃げたり九州の涯まで逃避行している。
ところが後になって、ポルトガル王もかねたフェリッペ陛下は、オルガチーノにはマカオへ戻ることさえ許さない事実がある。
そこで秀吉は他の宣教師は追放したが、彼だけは行き場がないのに同情したのか、きわめて懇ろに保護してやって日本で死なせている」と、
このことはマカオ史料やローマ史料に記されている。
さらに、本能寺を囲んだ実行部隊の兵員編成と、その指揮系統は、どう考えても光秀自身が指揮していたとは考えにくい。
何故なら天正十年六月二日の凶行時間に光秀は本能寺にはいなかったのである。
これ程の大事をしでかすからには、万一失敗したら自分だけでなく一族一門の破滅なのに、蔭にかくれてその当人が操れるものではない。
又、これらの国内関係史料では、あらゆる光秀や信長関係資料を基にして従来の頼山陽の日本外史のような、
「敵は本能寺にあり」式のものが、如何に真実を歪めたものであるかを指摘する。
何故なら天正十年六月二日の凶行時間に光秀は本能寺にはいなかったのである。
これ程の大事をしでかすからには、万一失敗したら自分だけでなく一族一門の破滅なのに、蔭にかくれてその当人が操れるものではない。
又、これらの国内関係史料では、あらゆる光秀や信長関係資料を基にして従来の頼山陽の日本外史のような、
「敵は本能寺にあり」式のものが、如何に真実を歪めたものであるかを指摘する。
さらに、日本歴史学会会長だった故、高柳光寿博士は、
「徳川家康は、光秀遺愛の槍を、家臣の水野勝成に与える時に、『光秀にあやかれよ』と明言している。だから家康は光秀をもって信長殺しとみていない証拠である。
つまり光秀を「信長殺し」にしてしまったのは江戸時代の儒学からである」と述べておられる。
「徳川家康は、光秀遺愛の槍を、家臣の水野勝成に与える時に、『光秀にあやかれよ』と明言している。だから家康は光秀をもって信長殺しとみていない証拠である。
つまり光秀を「信長殺し」にしてしまったのは江戸時代の儒学からである」と述べておられる。
さて、その江戸の儒学というのは、徳川家光の代から勃興し、その子の家綱の代になって明国人の朱舜水が長崎から帰化して、いま後楽園スタヂアムになっている、
水戸上屋敷に仕えた時点から降盛するものであって、これは、大正十年六月当時は、それは、まさか合戦でも有りえないから、
「われこそが、信長殺しなり」と名のり出る者がいなくて、その当時としては六月十五日に安土城で焼死した信長の妻の奇蝶こと美濃御前をもってして、
「夫を殺した女」としてしまい、今だに日本各地どこへ行っても、この呪われた背節の顯化のような女人の墓など、一つもない有様だが、
家光、家綱の代になると、さすがに遡っていろいろと検討され、「信長殺しの真の下手人は、あのおひとであったのか」と判ってくる。
そこで、その人の名はいえないから、御用学者の儒者共が、
「では斎藤内蔵介の主人である明智日向守光秀を、主殺しにしてしまおう」ということになったのらしい。
もっと、はっきり云えば、これは当時の権中納言山科言経日記の六月十五日の条に、
「一、日向守内斎藤内蔵介、今度謀叛随一なり。堅固に籠り居りしを尋ね出され、六条河原にて誅せられる」
と出ている内蔵介の末娘の於福が、この当眸の権勢並ぶ者もない春日局、そのひとであるから、
水戸上屋敷に仕えた時点から降盛するものであって、これは、大正十年六月当時は、それは、まさか合戦でも有りえないから、
「われこそが、信長殺しなり」と名のり出る者がいなくて、その当時としては六月十五日に安土城で焼死した信長の妻の奇蝶こと美濃御前をもってして、
「夫を殺した女」としてしまい、今だに日本各地どこへ行っても、この呪われた背節の顯化のような女人の墓など、一つもない有様だが、
家光、家綱の代になると、さすがに遡っていろいろと検討され、「信長殺しの真の下手人は、あのおひとであったのか」と判ってくる。
そこで、その人の名はいえないから、御用学者の儒者共が、
「では斎藤内蔵介の主人である明智日向守光秀を、主殺しにしてしまおう」ということになったのらしい。
もっと、はっきり云えば、これは当時の権中納言山科言経日記の六月十五日の条に、
「一、日向守内斎藤内蔵介、今度謀叛随一なり。堅固に籠り居りしを尋ね出され、六条河原にて誅せられる」
と出ている内蔵介の末娘の於福が、この当眸の権勢並ぶ者もない春日局、そのひとであるから、
「春日局さまの亡父内蔵介さまは光秀の家老ゆえ、やむなく謀叛随一になられたのである。これは主従の問では、臣としては不可抗力の立場である。
なんといっても悪いのは……明智光秀である」
という帰納法にもなって、表向きは元和時代、内容は天保期の「川角太閤記」なども、光秀が謀叛を企てるのを内蔵介が諫め、聞き入れないので止むなく、
その下知によって本能寺へ突入したような出まかせが書いてある。
なんといっても悪いのは……明智光秀である」
という帰納法にもなって、表向きは元和時代、内容は天保期の「川角太閤記」なども、光秀が謀叛を企てるのを内蔵介が諫め、聞き入れないので止むなく、
その下知によって本能寺へ突入したような出まかせが書いてある。
しかし「忠義」などというモラルは、この時代には、まだ発生していない。それは儒学思想で、一般には仁義礼智忠信孝悌の八つの玉を犬がくわえてとんでゆく、
「里見八犬伝」ぐらいから弘まったものであって、なにしろ千姫を大坂城から救出して有名な津和野の城主坂崎出羽守あたりでさえ、
他から恩賞が貰えるとなると、その重臣共に突き殺され、その首をとられてしまうような、戦国末期はドライな世の中なのである。
なにかの行為には必らず後からの果報がつきものの時代で、自分が利得しないことには、「一文にもならぬ事を誰がする」という、きびしい世のあり方だったと云えよう。
「里見八犬伝」ぐらいから弘まったものであって、なにしろ千姫を大坂城から救出して有名な津和野の城主坂崎出羽守あたりでさえ、
他から恩賞が貰えるとなると、その重臣共に突き殺され、その首をとられてしまうような、戦国末期はドライな世の中なのである。
なにかの行為には必らず後からの果報がつきものの時代で、自分が利得しないことには、「一文にもならぬ事を誰がする」という、きびしい世のあり方だったと云えよう。
スペインの無敵艦隊の強さは火薬の差だった
さて、イギリスのエリザベス女王によって、メアリ女王がフォザリンゲー城に幽閉されていた西暦一五八二年というのは、日本の暦に直すと「天正十年」となる。
つまり、これは本能寺が新黒色火薬にふっとばされて、信長が死んだ年に当る。
そして、メアリ女王が殺されるのも、スペインの開発した新黒色火薬を、イングランドのエリザベスが恐れるあまり、
スペイン王子ドン・カルロスと縁談のあった事もある彼女を、危険視するあまり死罪にしてしまうのである。
このすぐ後になって、スペインの無敵艦隊が、エリザベス女王の海軍と決戦するに先だち、新黒色火薬を山づみに積みこんでいながら颱風にあう。
いくら強力な火薬でも、まさか颱風の目は撃破できない。かえって甲板にまで所せまくなるまで、積みあげた火薬樽の重味が船の吃水を深くしたので、
スペイン艦隊は、エリザベス女工の海軍に新黒色火薬の威力を示す一発だにうてず、ついに全艦隊が海底へ深く悲しく潜航してしまう。
そこで、あたら新火薬もついに水つく樽になってしまう。
だが、ツヴァイクにしろヨーロピアンの歴史をかく人たちは、この新黒色火薬の点に気づかず、もっぱらカトリックとプロテスタントの、凄じい宗教闘争の中においてのみ、
メアリ女王殺しを把握して解明しようとしている。しかし宗教戦争という目でみても、当時は日本とて同様だったといえる。
もちろん、日本ヘプロテスタントとよばれる新教が入ってきたのは、これは明治になってからであり、当時の日本の中世期の宗教戦争というのは、
織田信長の率いる別所出身系の戦国武者(元来は八幡と白山の神徒だが、足利期には大半が東方浄瑠璃如来を拝む薬師寺派に入れられている)と、
「西方極楽浄土」を唱える今日の浄土宗や真宗のもとである一向門徒の石山本願寺や、それに同調する高野山や延暦寺。そして、それに繋って大陸から硝石を供給されていた仏教大名たち。
つまりは、神道派と仏教側の宗教戦争なのである。
ただキリスト教国では、今でもカトリックとプロテスタントが歴然と二分されているのに比べ、日本列島では徳川家光の子の五代将軍綱吉の時代に「神仏混合」をなされてしまい、
そして、「寺社奉行」の管轄統一をうけてしまったから、近松門左衛門あたりでも、「この世には、神も仏もないものか」と心中ものの中で、同一に並べて台辞にしてしまうが、
あれは同じ社寺に併記されていたからの錯党でしかない。故島崎藤村の「夜明け前」にも現れてくるように、神道派の平田篤胤の門人たちは幕末になると「打倒仏教」を目ざして、
討幕の運動に、こぞって挺身し、やがて明治新政府ができると、太政官に「神祇省」をもうけ、「廃仏毀釈」といって、
これまで 神仏混合で祀られていた寺から、仏像をすてさせ釈尊や如来、観音の像を毀させてしまう。
つまり、これは本能寺が新黒色火薬にふっとばされて、信長が死んだ年に当る。
そして、メアリ女王が殺されるのも、スペインの開発した新黒色火薬を、イングランドのエリザベスが恐れるあまり、
スペイン王子ドン・カルロスと縁談のあった事もある彼女を、危険視するあまり死罪にしてしまうのである。
このすぐ後になって、スペインの無敵艦隊が、エリザベス女王の海軍と決戦するに先だち、新黒色火薬を山づみに積みこんでいながら颱風にあう。
いくら強力な火薬でも、まさか颱風の目は撃破できない。かえって甲板にまで所せまくなるまで、積みあげた火薬樽の重味が船の吃水を深くしたので、
スペイン艦隊は、エリザベス女工の海軍に新黒色火薬の威力を示す一発だにうてず、ついに全艦隊が海底へ深く悲しく潜航してしまう。
そこで、あたら新火薬もついに水つく樽になってしまう。
だが、ツヴァイクにしろヨーロピアンの歴史をかく人たちは、この新黒色火薬の点に気づかず、もっぱらカトリックとプロテスタントの、凄じい宗教闘争の中においてのみ、
メアリ女王殺しを把握して解明しようとしている。しかし宗教戦争という目でみても、当時は日本とて同様だったといえる。
もちろん、日本ヘプロテスタントとよばれる新教が入ってきたのは、これは明治になってからであり、当時の日本の中世期の宗教戦争というのは、
織田信長の率いる別所出身系の戦国武者(元来は八幡と白山の神徒だが、足利期には大半が東方浄瑠璃如来を拝む薬師寺派に入れられている)と、
「西方極楽浄土」を唱える今日の浄土宗や真宗のもとである一向門徒の石山本願寺や、それに同調する高野山や延暦寺。そして、それに繋って大陸から硝石を供給されていた仏教大名たち。
つまりは、神道派と仏教側の宗教戦争なのである。
ただキリスト教国では、今でもカトリックとプロテスタントが歴然と二分されているのに比べ、日本列島では徳川家光の子の五代将軍綱吉の時代に「神仏混合」をなされてしまい、
そして、「寺社奉行」の管轄統一をうけてしまったから、近松門左衛門あたりでも、「この世には、神も仏もないものか」と心中ものの中で、同一に並べて台辞にしてしまうが、
あれは同じ社寺に併記されていたからの錯党でしかない。故島崎藤村の「夜明け前」にも現れてくるように、神道派の平田篤胤の門人たちは幕末になると「打倒仏教」を目ざして、
討幕の運動に、こぞって挺身し、やがて明治新政府ができると、太政官に「神祇省」をもうけ、「廃仏毀釈」といって、
これまで 神仏混合で祀られていた寺から、仏像をすてさせ釈尊や如来、観音の像を毀させてしまう。
しかし明治新政府の薩長というのは、もともと大陸系であるし仏徒派であるから、「走狗は煮られる」というか、もう新政府の土台が固まれば、神道派は用なしゆえみな追放され、
神祇省もできたばかりで廃止されてしまう。これに対して「神風連」の乱なども起きるが、明治政府は神徒仏徒の宗教闘争を押さえ、
これを対外戦争に向けさせて、それまで圧迫していた神徒系を、戦争になると、「神州不滅」とか「神兵天下る」とか「神風がふく」と都合よく美化して利用したから、
現代になると、死んで葬式をするときは仏教で、婚礼や地鎮祭や、交通安全のお守りを貰う方が抻さまであるかのように勘違いされ、その結果が、
「宗教はアヘンなり」ととく共産圈の人民よりも、日本人の方が無宗教者が多いような結果にある。
神祇省もできたばかりで廃止されてしまう。これに対して「神風連」の乱なども起きるが、明治政府は神徒仏徒の宗教闘争を押さえ、
これを対外戦争に向けさせて、それまで圧迫していた神徒系を、戦争になると、「神州不滅」とか「神兵天下る」とか「神風がふく」と都合よく美化して利用したから、
現代になると、死んで葬式をするときは仏教で、婚礼や地鎮祭や、交通安全のお守りを貰う方が抻さまであるかのように勘違いされ、その結果が、
「宗教はアヘンなり」ととく共産圈の人民よりも、日本人の方が無宗教者が多いような結果にある。
しかし、中世紀にあっては、そんな事はない。神道なり仏教なりみな宗教をもっていた。そして、その宗教闘争の凄じさは、信長をして比叡山を焼き討ちにさせ、
高野山の僧侶を一人残らず殺掠させてしまうのである。だからして反仏勢力の信長が倒されてしまうと、その翌年には一斉に宗教改革さえも、早々と全国で始められる。
これは各地の古い社寺に、今でも、「天正十一年裁可状」という名で残され伝わっている。つまり信長の生存中は「修験」とよばれた行者によって支配されていた社寺が、
天正十年の本能寺の変を境にして変り、それまでの神徒系を追放し、改めて一向門徒か、京に本山を有す各派や、高野山とか延暦寺といった流れをくむ者を、
新たに住職に頂いて、その存続を裁許されるように願い出たものに対してのこれは「許可状」なのである。
〈掛川去稿〉(『掛川史稿』……静岡県郷土史料)にも、「往費の延寿院は現今の広安寺なり。昔は「博士小太夫とよぶ修験者なりしが、
天正十一乍の裁許状により(住持が)三宝(仏教)の仏果の所となる」といったた記載さえもみられる。
つまり「信長殺し」というのは、「誰々の謀叛」ということより、これは日本という国の中世における、
カトリック対プロテスタントならぬ、神仏両派の宗教争いとする見方もなりたってくる。
なにしろ信長に代って国家権力を握った仏徒派の秀吉は、比叡山や高野山を復興させたはよいが、その死後、当時「北の政所」とよばれていた寧子(ねね)が、
阿弥陀峯の山麓に「豊国神社」として、秀吉を祀り、古山兼右にその神職を司とるよう委職したところ、次の国家権力を握って交替した徳川家康によって、
「仏家のものが、もっでの外である」と、そのせっかく造営されたばかりの荘厳な神社を、たった一日で跡形もない位に破却され、取り壊してしまったことは有名である。
家康と秀忠の父子は、はっきり神道派を自認して、徹底的に仏徒派の弾圧を断行したのである。
カトリック対プロテスタントならぬ、神仏両派の宗教争いとする見方もなりたってくる。
なにしろ信長に代って国家権力を握った仏徒派の秀吉は、比叡山や高野山を復興させたはよいが、その死後、当時「北の政所」とよばれていた寧子(ねね)が、
阿弥陀峯の山麓に「豊国神社」として、秀吉を祀り、古山兼右にその神職を司とるよう委職したところ、次の国家権力を握って交替した徳川家康によって、
「仏家のものが、もっでの外である」と、そのせっかく造営されたばかりの荘厳な神社を、たった一日で跡形もない位に破却され、取り壊してしまったことは有名である。
家康と秀忠の父子は、はっきり神道派を自認して、徹底的に仏徒派の弾圧を断行したのである。
つまり天正十年六月二日の本能寺の変によって神道派の信長を、メアリースチュアート女王のごとく死へ送った新教徒ともいうべき仏徒の豊臣政権は、
家康の嫌いな寺の梵鐘に、「国家安康」などと銘を入れたばっかりに、大仏殿を再興したり洛中洛北の寺をうるおした仏果がえられず、
ついに大坂落城という破局を迎えた。そしてそのあと、家康父子は、また「神徒派の世」にまき返しをしたように、寺という寺に対して厳しい措置をとった。
なのに神道派の徳川家が三代家光からは、まるで掌を返したように、がらりと変化してしまうのである。
「これは……何故であろうか」という疑問が、どうしても起きる。
徳川家光が〈徳川台記〉やこれまでの講談種の俗説のように、「徳川秀忠の長子」であるならば、こんなことは起きるわけはない。
また「春日局」が乳母だけならば、あんなに威張って天下の権を握って、死ぬまで大奥に居られるはずはない。
またその死に際して、代官町の春日局の枕元へ尾張、水戸、紀伊の御三家はつきっきりで奉仕した。
家光将軍も千代田嬢を出て三度も訪れているが、正子の家綱までもが何度も行っている。そして、
恐れ多くも京の御所より女官右衛門佐の局が、わざわざ見舞いに下向までしてきている。
家康の嫌いな寺の梵鐘に、「国家安康」などと銘を入れたばっかりに、大仏殿を再興したり洛中洛北の寺をうるおした仏果がえられず、
ついに大坂落城という破局を迎えた。そしてそのあと、家康父子は、また「神徒派の世」にまき返しをしたように、寺という寺に対して厳しい措置をとった。
なのに神道派の徳川家が三代家光からは、まるで掌を返したように、がらりと変化してしまうのである。
「これは……何故であろうか」という疑問が、どうしても起きる。
徳川家光が〈徳川台記〉やこれまでの講談種の俗説のように、「徳川秀忠の長子」であるならば、こんなことは起きるわけはない。
また「春日局」が乳母だけならば、あんなに威張って天下の権を握って、死ぬまで大奥に居られるはずはない。
またその死に際して、代官町の春日局の枕元へ尾張、水戸、紀伊の御三家はつきっきりで奉仕した。
家光将軍も千代田嬢を出て三度も訪れているが、正子の家綱までもが何度も行っている。そして、
恐れ多くも京の御所より女官右衛門佐の局が、わざわざ見舞いに下向までしてきている。
これは(春日局が徳川家で大切にされていたから)という事実より、春日局自体に対して御所は、
何か感謝すべきことがあったようにも拝される。ということは、春日局の実父が「本能寺の信長殺しの斎藤内蔵介だった」
という点も併せて考えさせられる問題である。
しかし春日局と家光の間柄を、これまでの俗説のように乳母とみてゆくと、可笑しすぎる事が多いから、
故三田村鳶魚などは、その著の〈徳川の家督争い〉では、明白に、「徳川家光は精神薄弱者である」ときめつけている。また〈空印言行録〉などには、
「ただのひとにはおわせず、辻斬りなどもなせりといわれる」と精神病者に扱っているし、
〈徳川実紀〉という徳川史料でさえも、「小心」であると評し[粗暴]とも言っている。
つまり講談本の「家光と彦左」や「家光と一心太助」そして「徳川の婦人たち」のようなもののなかでは、
思いやりのある貴公子となって出てくる家光も、こうした資料ものにかかると、まことアブノーマルな変質者で、しかも「低能」とされている。
しかしこの説の根拠はまんざらでもないのである。
何か感謝すべきことがあったようにも拝される。ということは、春日局の実父が「本能寺の信長殺しの斎藤内蔵介だった」
という点も併せて考えさせられる問題である。
しかし春日局と家光の間柄を、これまでの俗説のように乳母とみてゆくと、可笑しすぎる事が多いから、
故三田村鳶魚などは、その著の〈徳川の家督争い〉では、明白に、「徳川家光は精神薄弱者である」ときめつけている。また〈空印言行録〉などには、
「ただのひとにはおわせず、辻斬りなどもなせりといわれる」と精神病者に扱っているし、
〈徳川実紀〉という徳川史料でさえも、「小心」であると評し[粗暴]とも言っている。
つまり講談本の「家光と彦左」や「家光と一心太助」そして「徳川の婦人たち」のようなもののなかでは、
思いやりのある貴公子となって出てくる家光も、こうした資料ものにかかると、まことアブノーマルな変質者で、しかも「低能」とされている。
しかしこの説の根拠はまんざらでもないのである。
ハムレット家光
十六世紀の末の英国において、旧教のスコットランド女王メアリ・スチュアートと、
新教のスコットランド女王のエリザベス一世が、「両虎相戦わば」といった具合に睨みあいしていた頃、
海をこえた日本列島の江戸千代田城においても、やはり二人の女王が互いに睨みあっていた。
それは、云わずと知れた片や神道派の、織田信長の姪で「ごう」ともいうが二代将軍秀忠の正室で江与の方。
それに対するのは仏徒派で、その信長殺しの娘である「於福」こと春日局である。
新教のスコットランド女王のエリザベス一世が、「両虎相戦わば」といった具合に睨みあいしていた頃、
海をこえた日本列島の江戸千代田城においても、やはり二人の女王が互いに睨みあっていた。
それは、云わずと知れた片や神道派の、織田信長の姪で「ごう」ともいうが二代将軍秀忠の正室で江与の方。
それに対するのは仏徒派で、その信長殺しの娘である「於福」こと春日局である。
この二人の対峙は十七世紀に入った一六二六年にようやく終止符がうたれた。というのは、その寛永三年九月十五日に、江与の方が死んで「崇源院」と名が改まったからである。
メアリのように断頭台で首をきられたわけではないが、メアリと同じように四度の結婚をした於市御前の三女は、その晩年は春日局に苛められて、この高貴な女王は泣きあかして死んだという。
もちろん俗書の「大奥秘伝」などによると、春日局のさし向けた者によって砒毒をかわれて、髪毛もみな抜けおち顔中をはれあがらせて非業の死をとげたという。
しかし、〈徳川台記〉などには、死因には一切ふれず、「よって普請奉行八木勘十郎は大命を仰せつかり、棟梁鈴木遠江守をもって、芝増上寺境内にその御霊屋を翌月から着工し、
まる三年の歳月をもって、寛永五年九月落成」とのみある。
メアリースチュアート女王だって、その死後は、ひとまずは淋しいビータロバ墓地に埋められていたが、やがて盛大な松明行列にかこまれて掘り起され、
そのまま堂々と死の行進をロンドンに向け、テームズ河を舟でのぼって、歴代の王や女王の納骨堂であるウェストミンスター寺院へと葬られ、
今では大理石像となって、まるで、モナリザの微笑みたいな静かな容貌をいつも見せている。
さて崇源院が亡くなってから四年目の寛永九年の正月。さきに家光に将軍職を譲っていた二代将軍の徳川秀忠が風邪をひいた。そして死んだ。
が息を引取る間際に気がかりらしく、
メアリのように断頭台で首をきられたわけではないが、メアリと同じように四度の結婚をした於市御前の三女は、その晩年は春日局に苛められて、この高貴な女王は泣きあかして死んだという。
もちろん俗書の「大奥秘伝」などによると、春日局のさし向けた者によって砒毒をかわれて、髪毛もみな抜けおち顔中をはれあがらせて非業の死をとげたという。
しかし、〈徳川台記〉などには、死因には一切ふれず、「よって普請奉行八木勘十郎は大命を仰せつかり、棟梁鈴木遠江守をもって、芝増上寺境内にその御霊屋を翌月から着工し、
まる三年の歳月をもって、寛永五年九月落成」とのみある。
メアリースチュアート女王だって、その死後は、ひとまずは淋しいビータロバ墓地に埋められていたが、やがて盛大な松明行列にかこまれて掘り起され、
そのまま堂々と死の行進をロンドンに向け、テームズ河を舟でのぼって、歴代の王や女王の納骨堂であるウェストミンスター寺院へと葬られ、
今では大理石像となって、まるで、モナリザの微笑みたいな静かな容貌をいつも見せている。
さて崇源院が亡くなってから四年目の寛永九年の正月。さきに家光に将軍職を譲っていた二代将軍の徳川秀忠が風邪をひいた。そして死んだ。
が息を引取る間際に気がかりらしく、
「徳川の家は抻徒なり、墓や廟所はいらぬぞよ」と遺言した。なにも吝をしたり、来るべき不況にそなえて冗費を慎しめと遺言したのではない。
カトリックとプロテスタントでは教義が違うように、神徒と仏教もやはり違う。
当時の仏教はみな土葬だから、寺には墓地という死体格納のガレージがあったが、神徒は火葬で、その骨壷を各自の神棚においた。だから神社には「平安殿」はあるが墓地はついていない。
だが明治末から大正にかけて伝染病が流行し官営の火葬場ができたとき、その事業利益をあげるために市町村条例で、土葬を禁じ火葬を奨励した。
しかし、だからといって各自が、その骨壷を自宅保管してしまっては、それでは寺が儲がらぬからと、一斉に「埋葬許可令」を施行し「やいて粉にして埋めろ」という事になった。
そこで、これまで墓地や石碑のなかった神徒系も、止むなく寺へ頼んで墓地を分けて貰い、これまで墓はなかったのだから「何々家先祖代々の墓」というのを一斉につくった。
現在、墓地へゆくと、こういう代々の墓が多くみられるのは、この時のブームの結果に他ならない。
さて、そのとき家光は、秀忠の遺言通りにしようと思ったらしいが、生き残ってまだまだピンビンしていた和製エリザベス女王の春口局は、仏教興隆の好機と思ったのであろう。
「構わぬ、たてませい。早うせいやい」と下知をした。なにしろ、この頃の日本版エリザベスの権勢が当たるべからざる有様であったことは、
〈寛政十年二月の鳴海史料〉にもあり、原文通りに引用すれば、
「鳴海刑部六代目兵庫賢鰮の寛永丙子の年、時の政所春日局さまよりとの仰せにて、天海僧正さまの御使いを賜り、その御考判を下しおかれ候むねを洩れ承る。
よって兵庫謹んで伺候せしところ種々の御下問ありて後、畏れ多くも御局さまにおいては、土井甚三郎利勝さま初め家老衆一同を呼びつけなされ、
その立会いのもとに、新銭鋳造の儀を鳴海兵庫に一任の儀仰せ付けられ候いぬ」
カトリックとプロテスタントでは教義が違うように、神徒と仏教もやはり違う。
当時の仏教はみな土葬だから、寺には墓地という死体格納のガレージがあったが、神徒は火葬で、その骨壷を各自の神棚においた。だから神社には「平安殿」はあるが墓地はついていない。
だが明治末から大正にかけて伝染病が流行し官営の火葬場ができたとき、その事業利益をあげるために市町村条例で、土葬を禁じ火葬を奨励した。
しかし、だからといって各自が、その骨壷を自宅保管してしまっては、それでは寺が儲がらぬからと、一斉に「埋葬許可令」を施行し「やいて粉にして埋めろ」という事になった。
そこで、これまで墓地や石碑のなかった神徒系も、止むなく寺へ頼んで墓地を分けて貰い、これまで墓はなかったのだから「何々家先祖代々の墓」というのを一斉につくった。
現在、墓地へゆくと、こういう代々の墓が多くみられるのは、この時のブームの結果に他ならない。
さて、そのとき家光は、秀忠の遺言通りにしようと思ったらしいが、生き残ってまだまだピンビンしていた和製エリザベス女王の春口局は、仏教興隆の好機と思ったのであろう。
「構わぬ、たてませい。早うせいやい」と下知をした。なにしろ、この頃の日本版エリザベスの権勢が当たるべからざる有様であったことは、
〈寛政十年二月の鳴海史料〉にもあり、原文通りに引用すれば、
「鳴海刑部六代目兵庫賢鰮の寛永丙子の年、時の政所春日局さまよりとの仰せにて、天海僧正さまの御使いを賜り、その御考判を下しおかれ候むねを洩れ承る。
よって兵庫謹んで伺候せしところ種々の御下問ありて後、畏れ多くも御局さまにおいては、土井甚三郎利勝さま初め家老衆一同を呼びつけなされ、
その立会いのもとに、新銭鋳造の儀を鳴海兵庫に一任の儀仰せ付けられ候いぬ」
これは寛政十三年六月から鋳造された「寛永通宝」の穴あき銭を鳴海兵庫に下命した時の経過模様であるが、時の幕閣の老中筆頭の土井利勝ら以下が、
さながら春日局の家老位にしか見えなかったという点において、このエリザベス女王の春口局の当時の権勢は偲ばれる。
だから土井利勝は、(家光公が何んと仰せられようとも、お局さまの命令とあれば、突貫工事をせねばなるまい)と自分が総奉行となって、とうとう年内の十月には秀忠の廟を落成させてしまった。
「参拝にゆかれるがよい」と家光は、春口局に云われて芝の増上寺へゆくと、
「あ、あれは何んじゃ」と、秀忠の「台徳廟」の他に別個にある建物をみて指さして尋ねた。
「はあっ、あれなるは七年前に亡くなられましたる崇源院さまの御霊屋にござりまするが……」
と、土井利勝が畏って答えたところ、家光は不快そうに睨みつけていたが、また吃って、「め、目障りじゃ……すぐ、た叩っきこわしてしまえ」と唇を震わせて云いつけたという。
本物のメアリースチュアート女王は、生きている内こそ苛められたが、死後はウェストミンスター寺院で、いつも微笑をたたえて居られるというのに、江与の方ときたら、その廟所さえ、
さっさと壊してしまえといわれているのだから、これは比較できぬ位に憐れである。
さて、この時は、千代田城の一室ではなく増上寺山内という野外ページェントだったから、お伴の幕臣の他に寺僧共も、咳払ひとつせずみな静まり返っていたので、
この家光の罵りの怒号は、多くの者の耳に、青天の霹靂のごとく響きわたったらしい。だから、
(家光が、秀忠と江与の方の子供である)などと思いこんでいる者は、びっくりしてしまい、
(死んだ親父さまのお詣りにきて怒鳴るとは……不謹慎な)と愕いたり、
(己れのお袋さまの御廟所がここにあるのを……七年間も知らず七つだとは、呆れたことではある)
ということになって話が弘まり、ついに徳川家光という人は、
「あれは暗愚である」「ばかである」「精神異常か、精薄である」という事になってしまったらしい。
なにしろ、いつの時代でも何処でも、又そうであろうが、偉大な母親、それが女王などの場合には、生れた息子は損をするらしい。
さながら春日局の家老位にしか見えなかったという点において、このエリザベス女王の春口局の当時の権勢は偲ばれる。
だから土井利勝は、(家光公が何んと仰せられようとも、お局さまの命令とあれば、突貫工事をせねばなるまい)と自分が総奉行となって、とうとう年内の十月には秀忠の廟を落成させてしまった。
「参拝にゆかれるがよい」と家光は、春口局に云われて芝の増上寺へゆくと、
「あ、あれは何んじゃ」と、秀忠の「台徳廟」の他に別個にある建物をみて指さして尋ねた。
「はあっ、あれなるは七年前に亡くなられましたる崇源院さまの御霊屋にござりまするが……」
と、土井利勝が畏って答えたところ、家光は不快そうに睨みつけていたが、また吃って、「め、目障りじゃ……すぐ、た叩っきこわしてしまえ」と唇を震わせて云いつけたという。
本物のメアリースチュアート女王は、生きている内こそ苛められたが、死後はウェストミンスター寺院で、いつも微笑をたたえて居られるというのに、江与の方ときたら、その廟所さえ、
さっさと壊してしまえといわれているのだから、これは比較できぬ位に憐れである。
さて、この時は、千代田城の一室ではなく増上寺山内という野外ページェントだったから、お伴の幕臣の他に寺僧共も、咳払ひとつせずみな静まり返っていたので、
この家光の罵りの怒号は、多くの者の耳に、青天の霹靂のごとく響きわたったらしい。だから、
(家光が、秀忠と江与の方の子供である)などと思いこんでいる者は、びっくりしてしまい、
(死んだ親父さまのお詣りにきて怒鳴るとは……不謹慎な)と愕いたり、
(己れのお袋さまの御廟所がここにあるのを……七年間も知らず七つだとは、呆れたことではある)
ということになって話が弘まり、ついに徳川家光という人は、
「あれは暗愚である」「ばかである」「精神異常か、精薄である」という事になってしまったらしい。
なにしろ、いつの時代でも何処でも、又そうであろうが、偉大な母親、それが女王などの場合には、生れた息子は損をするらしい。
シェーックスピアから見える家光の類似点
さて当時、エリザベス女王の方は、メアリ女王からさも親切そうに、
シュルーズベリ伯爵夫人が申しますには……貴女(エリザベス)は青春期は過ぎ去り子供を生む時期も去ったというのに、
ある殿方(レスター伯爵)と、とても数多くベッドを倶になさったり、その他でも、お気に召した男性をみつけると、貴女さまは
フランスのみだらな民謡の(愛に心をくだく愉しみこそ、女はいつも喪わず、歓びこそ、新しき恋人と倶に枕する床にあり)などと、はしたない歌詞を口寸さまれながら、
夜になるとシュミーズにコートを上から纒っただけの恰好で、男どもを寝かしている部屋へ、ノックもなしに入ってゆかれるとか……そのお忍びの姿を
彼女(シュールズベリ伯爵夫人)も何度も拝したと、そんな怪しからんことを申すのでございますよ。
だが、私(メアリ女王)は、そんな愚にもつかぬ中傷などは、すこしも信じていません。何故かなれば(あなたの肉体はふつうの女体とは異って居られる)という事を、
よく私は存じあげているからでありますの……しかし、それは、アンジュ侯とも結婚しかねた貴女の秘密なんですもの……わたし誰にも云いはしませんことよ。
しかし何も知らぬ人々は詰まらぬ風評の方を、とても興味深く云いふらすものです。ですから私は口さがない侍女や彼女(シュルーズベリ伯爵夫人)みたいな者はお近づけならねよう御忠告しましてよ」
という書簡を受取る位だから、その肉体的欠陥のせいもあってか、夫もなかったが子はなかった。
シュルーズベリ伯爵夫人が申しますには……貴女(エリザベス)は青春期は過ぎ去り子供を生む時期も去ったというのに、
ある殿方(レスター伯爵)と、とても数多くベッドを倶になさったり、その他でも、お気に召した男性をみつけると、貴女さまは
フランスのみだらな民謡の(愛に心をくだく愉しみこそ、女はいつも喪わず、歓びこそ、新しき恋人と倶に枕する床にあり)などと、はしたない歌詞を口寸さまれながら、
夜になるとシュミーズにコートを上から纒っただけの恰好で、男どもを寝かしている部屋へ、ノックもなしに入ってゆかれるとか……そのお忍びの姿を
彼女(シュールズベリ伯爵夫人)も何度も拝したと、そんな怪しからんことを申すのでございますよ。
だが、私(メアリ女王)は、そんな愚にもつかぬ中傷などは、すこしも信じていません。何故かなれば(あなたの肉体はふつうの女体とは異って居られる)という事を、
よく私は存じあげているからでありますの……しかし、それは、アンジュ侯とも結婚しかねた貴女の秘密なんですもの……わたし誰にも云いはしませんことよ。
しかし何も知らぬ人々は詰まらぬ風評の方を、とても興味深く云いふらすものです。ですから私は口さがない侍女や彼女(シュルーズベリ伯爵夫人)みたいな者はお近づけならねよう御忠告しましてよ」
という書簡を受取る位だから、その肉体的欠陥のせいもあってか、夫もなかったが子はなかった。
しかしメアリ女王には、ヘンリー七世の曽孫に当るヘンリー・ダーンリとの間に息子がいた。ジニームズ六世である。
彼は母のメアリ女王が、エリザベス女王に出した書簡で怒りをかっているようだから、英国議会が請願する死刑許可書に、きっとサインをするだろう。
そこでこの際、それを防ぐためには、「囚われのメアリ女王陛下のため、ご自分の影響力を有効に使いなさったらいい……フランス国民は、親孝行というモラルを愛していますから、
きっと御協力を致しますよ」と要望するフランス大使に向って、エジンバラにいたそのジェームズ六世は冷ややかに、
(自分が材料を色々と鍋へ入れてこしらえたスープは、自分で呑むべきだろう)とフランス語で返事をしたという。
つまりメアリ女王の一人息子は、自分の母が殺されるというのに、それを見殺しにしたというので、
(エリザベスの死後、彼女に子がないから、西暦1603年『ジェームズ一世』になり、スコットランドとイングランドの両方の君王をかね、大英帝国の最初の王となる)彼をば、
「愚かなる王」とか「精神薄弱なキング」とフランスやドイツでは今でも評している。
おそらくジェームズは、父のヘンリー・ダーンリが、メアリースチュアートの第二の夫であったという事実よりも、ボズウェル伯爵が母と通じて、父のヘンリーを殺害したという事に対して、
その憤りをもちつづけ、そこで、
「勝手にスープを呑め」と怒嶋ったのであろうが、誰もが、そこまでは同情はしない。
ただ、この時点、つまり1603年は慶長七年であるから、徳川家康が二月十二目に征夷大将軍の宣下をうけているが、時に、劇作家のシェイクスピアも四十歳になっていた。
これまでシェイクスピアの研究家にかかると、彼の四大悲劇の一つとされている「「ムレット」たるや、
「これはデンマークに実在した王子(ムレレットの悲劇で、すでに十二世紀の頃にデンマークの詩人サクソ・グラマティクスによって、世に知られ、
1576年(天正四年安土城落成の年)のフランス版のブルフォレ編の『悲劇大成』にも入れられている。
彼は母のメアリ女王が、エリザベス女王に出した書簡で怒りをかっているようだから、英国議会が請願する死刑許可書に、きっとサインをするだろう。
そこでこの際、それを防ぐためには、「囚われのメアリ女王陛下のため、ご自分の影響力を有効に使いなさったらいい……フランス国民は、親孝行というモラルを愛していますから、
きっと御協力を致しますよ」と要望するフランス大使に向って、エジンバラにいたそのジェームズ六世は冷ややかに、
(自分が材料を色々と鍋へ入れてこしらえたスープは、自分で呑むべきだろう)とフランス語で返事をしたという。
つまりメアリ女王の一人息子は、自分の母が殺されるというのに、それを見殺しにしたというので、
(エリザベスの死後、彼女に子がないから、西暦1603年『ジェームズ一世』になり、スコットランドとイングランドの両方の君王をかね、大英帝国の最初の王となる)彼をば、
「愚かなる王」とか「精神薄弱なキング」とフランスやドイツでは今でも評している。
おそらくジェームズは、父のヘンリー・ダーンリが、メアリースチュアートの第二の夫であったという事実よりも、ボズウェル伯爵が母と通じて、父のヘンリーを殺害したという事に対して、
その憤りをもちつづけ、そこで、
「勝手にスープを呑め」と怒嶋ったのであろうが、誰もが、そこまでは同情はしない。
ただ、この時点、つまり1603年は慶長七年であるから、徳川家康が二月十二目に征夷大将軍の宣下をうけているが、時に、劇作家のシェイクスピアも四十歳になっていた。
これまでシェイクスピアの研究家にかかると、彼の四大悲劇の一つとされている「「ムレット」たるや、
「これはデンマークに実在した王子(ムレレットの悲劇で、すでに十二世紀の頃にデンマークの詩人サクソ・グラマティクスによって、世に知られ、
1576年(天正四年安土城落成の年)のフランス版のブルフォレ編の『悲劇大成』にも入れられている。
だから、これを劇化したものを『原ハムレット』として区別しているが、これは当時の事情からして『スペイン悲話』の作者トマスーキッドのものと思われる。
つまりシェイクスピアは、その十四年前にエリザベス女王にしばしば観覧の栄を賜って好評をえていたセネカ悲劇の『スペイン悲話』に影響をうけ、
ブルフォレの『『ハムレット物語』を改作したものであろう」と剽窃ときめつけられている。だからして現代のT・S・エリオットなども、
シェイクスピアのハムレットは、芸術的には失敗作つまり愚作といわざるを得ない。なにしろ主人公のハムレット白身の感情に対応すべき、
肝腎な客観的相対性の関連性が、あまりにも欠けすぎている憾みがありすぎるからである」
つまりシェイクスピアは、その十四年前にエリザベス女王にしばしば観覧の栄を賜って好評をえていたセネカ悲劇の『スペイン悲話』に影響をうけ、
ブルフォレの『『ハムレット物語』を改作したものであろう」と剽窃ときめつけられている。だからして現代のT・S・エリオットなども、
シェイクスピアのハムレットは、芸術的には失敗作つまり愚作といわざるを得ない。なにしろ主人公のハムレット白身の感情に対応すべき、
肝腎な客観的相対性の関連性が、あまりにも欠けすぎている憾みがありすぎるからである」
と、それが模倣のイミテーションにすぎないと云う観点にたっているから、てきびしく批評をしている。
しかし山に入ってば山をみずというが、案外にも英語国民のほうが、こうした古典への読みは浅いのではあるまいか。
これは「「ムレットという人名はデンマークの王子に現存していた」とか「ブルフォレのハムレット物語が種本なんだ」という、尤もらしい既成概念に捉えられてしまうから、
それが判らなくなってしまうのであって、こうした作劇法は、日本でも旧幕時代は江戸三座が聖天町の弾左衛門取締に入ってからは、公儀へ気兼ねし弾圧を避ける方法として、
その筋立てに、よく用いられるものである。
しかし山に入ってば山をみずというが、案外にも英語国民のほうが、こうした古典への読みは浅いのではあるまいか。
これは「「ムレットという人名はデンマークの王子に現存していた」とか「ブルフォレのハムレット物語が種本なんだ」という、尤もらしい既成概念に捉えられてしまうから、
それが判らなくなってしまうのであって、こうした作劇法は、日本でも旧幕時代は江戸三座が聖天町の弾左衛門取締に入ってからは、公儀へ気兼ねし弾圧を避ける方法として、
その筋立てに、よく用いられるものである。
つまり日本の歌舞伎の院本ものでも、これはよく使う手法で、たとえば元禄十四年の刃傷事件を扱うのに「仮名手本忠臣蔵」では、
「足利時代」という設定を、まずして、吉良上野介を「高師直」とか、浅野内匠頭を「塩谷判官」としてしまう類である。
といって、これは歌舞伎の約束事であるから、日本人なら、これはこういう設定にはなっているが、本当は徳川期の芝居だと判ってみているが、
シェイクスピアになると、肝腎な設定がいまだにヨーロッパでは呑みこめていないらしい。私も念のためにロンドンの大きな古本屋のスミスやフォイルヘ行って、
シェイクスピアの研究書を数冊も纏めて求めてきたが、私の考えのような発想を向うの人間は誰もしていない。
だから私の書くことはやや、奇異にとられるかも知れないが、「ハムレットのモデル」そのものは、デンマークのハムレットではなく、他ならぬメアリ女王の伜の
「ジェームズー世そのひと」だというのである。英国史のアイザノアーバーリンも、これに関して、
「1603年にスチュアート王朝のスコットランド王ジェームズが、イングランド王をかねるや、直ちにシェイクスピア劇団は、王の庇護下に入るという宮廷芸術家の安定を得られた。
翌1604年11月1日。ジェームズ一世は、シェイクスピアに『ヴェニスのムーア人』の芝居を宮廷で開演させ諸侯を招いて見物させた。
これは彼の死後七年目の1623年に編纂された三十六編のシェイクスピア戯曲全集には『オセロー』として入っているものである」
とシェイクスピアが死ぬまで、そのジェームズー世に可愛がられていたこと、王室から保護されている事実を書いている。だが「何故か」までは、それは残念ながら、ついに解明をしていない。
「足利時代」という設定を、まずして、吉良上野介を「高師直」とか、浅野内匠頭を「塩谷判官」としてしまう類である。
といって、これは歌舞伎の約束事であるから、日本人なら、これはこういう設定にはなっているが、本当は徳川期の芝居だと判ってみているが、
シェイクスピアになると、肝腎な設定がいまだにヨーロッパでは呑みこめていないらしい。私も念のためにロンドンの大きな古本屋のスミスやフォイルヘ行って、
シェイクスピアの研究書を数冊も纏めて求めてきたが、私の考えのような発想を向うの人間は誰もしていない。
だから私の書くことはやや、奇異にとられるかも知れないが、「ハムレットのモデル」そのものは、デンマークのハムレットではなく、他ならぬメアリ女王の伜の
「ジェームズー世そのひと」だというのである。英国史のアイザノアーバーリンも、これに関して、
「1603年にスチュアート王朝のスコットランド王ジェームズが、イングランド王をかねるや、直ちにシェイクスピア劇団は、王の庇護下に入るという宮廷芸術家の安定を得られた。
翌1604年11月1日。ジェームズ一世は、シェイクスピアに『ヴェニスのムーア人』の芝居を宮廷で開演させ諸侯を招いて見物させた。
これは彼の死後七年目の1623年に編纂された三十六編のシェイクスピア戯曲全集には『オセロー』として入っているものである」
とシェイクスピアが死ぬまで、そのジェームズー世に可愛がられていたこと、王室から保護されている事実を書いている。だが「何故か」までは、それは残念ながら、ついに解明をしていない。