新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

重要な本の紹介 「裁判官も人である」 「絶望の裁判所」

2020-03-25 16:29:53 | 新日本意外史 古代から現代まで

重要な本の紹介
「裁判官も人である」
「絶望の裁判所」

私は以前当ブログで、日本の古代から江戸時代、明治、現代にかけて、裁判という制度の下を脈々と流れる暗黒伏流の実態を「奇怪な日本の裁判」で抉剔した。
いやはや、この二冊の本も大変な内容で、日本の司法には全く希望がないことが判り暗澹とした。
警察や検察は平気で「事件を作り」罪なき民を罪人に仕立てるのは日常茶飯事。民は最後の砦である「おかみの白洲(裁判所)」で「正しい正義の判断」を求める。
しかし、出世欲や己の栄達しか頭にない裁判官には、正義感も情熱もない。冤罪が多いのも当たり前。
この二冊の本の著者は、生々しい感情が渦巻く、固く閉ざされていた扉を、粘り強い取材で裁判官の世界を初めてこじ開けている。

「裁判官も人である」
著者 岩瀬達哉 ジャーナリストである。ノンフィクションを得意とする。
著書に「年金大崩壊」「年金の悲劇」「伏魔殿 社会保険庁を解体せよ」「新聞が面白くない理由」その他。
出版社 講談社 定価:本体1700円(税別)

以下に少し長くなるがこの本の「はじめに」を引用する。
 人を裁き、裁かれた者の運命を差配する裁判官には、心からの謙虚さをもってその職務にあたることが求められている。
 法廷に立つ者の必死の叫びに耳を傾け、ささいに思える主張についても慎重に吟味し、真実探求の努力を惜しまないことでしか、正義の実践という裁判の目的を達しえないからだ。
あらゆる権力から独立し、その崇高な使命を担う裁判官は、日本でもっとも難しいとされる司法試験にパスし、さらに裁判実務の知識を学ぶ司法研修所の卒業試験でも、
上位の成績優秀者の中からしか採用されない。
 神ならぬ人が人を裁くという特別の責務と、国の政策をも変更しうる権力を与えられている裁判官には、最良の知性と良識、教養に裏打ちされた判断力、が求められているからだ。
 2018年度現在、裁判官は、最高裁判所を含む全国598ケ所の裁判所(簡易裁判所を除く)に3060人が配置されているが、そのうち最高裁事務総局で司法行政に携わる「裁判をしない裁判官」約150人を除くと、
実質約2910人であらゆる有件を審理し、判断を下している。
 裁判官一人あたりに割り振られる事件数は、年間200件~350件で、単純計算すると2日に1件ないし2件の割で処理していかないと消化できない数だ。
この事件の処理件数は、「星取表」と呼ばれる一覧表にまとめられ個人別に集計され、事件の処理が遅れると内部評価に響く。そのため、ほとんどの裁判官は事件の処理件数を気にしていて、
抱えている事件を少しでも減らそうとするのだという。
 もともと優等生として順調に歩んできた彼らが、内部評価を上げることに執着したとすれば、果たして厳正で人間的な判断が下せるものなのか。
 まして裁判官には、高度な洞察力が備わっているとの前提のもと、「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる」(刑事訴訟法318条)とされていて、誤判をしてもその責任を問われることはない。
 元最高裁判事の岸盛一は、絶筆となった連載エッセー「狐竹断簡」で「ひととおりの法律知識を身に着けても、裁判の道はこれとは全く別のもの」と断ったうえで、裁判官として諫めを説いた。

「裁判官に見識が欠けていると、その裁判は、法の形式的適用に終始して、現実離れのした形式主義・合法主義に陥り、裁判官は、法の文言を口頭で宣言する機械と化してしまう。
卑近な寓話を例にとれば、形式的な公式主義とは、靴を買いに靴屋に出かけた男が、自分の足に合う靴がないので自分の足を削り取るようなもの、形式的な合法主義とは、
寸法書きを家に忘れたといってそれをとりとりに自宅にかけ戻るようなものである。そして、そのあげくマンネリズムに陥り、裁判は生彩を欠き味気のないもの、
と世間からは『裁判官のあたま』と揶揄されるようなものとなってしまう」
独善と傲慢の象徴ともいうべき「裁判官のあたま」に凝り固まってしまうと、情味に欠け、人の葛藤の底にあるものを探ろうとしないだけでなく、安易に検察官の主張を受け入れることになる。
検察官と対立するよりは、無罪が確実なのであれば、「この先の上級審が無罪にしてくれるだろうから、とりあえず有罪にしておこう」という心理に陥るのだという。
 元東京高裁裁判長で、現役時代30件に及ぶ無罪判決を書き、そのすべてで検察官の上訴を退け、無罪判決を確定させた弁護士の木谷明は、裁判官と検察官の関係についてこう述べている。
 「私か名古屋高裁に勤務していたころの話です。友人のN検事から、こういうことを言われました。『裁判官は、検事の主張とあまり違ったことをしないほうがいいぞ。何故かというと、
我々はむずかしい問題については、庁全体あるいは高検、最高検まで巻き込んで徹底的に協議してやっているんだ。それに比べてあんたたちはいったい何だ。
一人かせいぜい三人じゃなかいか。そんな体制で俺たちに勝てるはずがないんだ。仮に一審で俺たちの主張を排斥して無罪判決をしたって、俺たちが控訴すれば、たちまちそんな判決は吹っ飛んじゃうんだ』」
 確かに、「司法統計年報」はこの検事の言葉を裏付けている。
 裁判官の無罪判決を不服とし、検察が控訴した場合、高裁で一審判決が破棄される確率は約7割にのぼる。これに対し起訴された被告人が控訴した場合、その主張が認められ二審で無罪となる確率は
一割程度に過ぎないからだ。
審議が十分尽くされず、誤判等が起こるメカニズムは、民事裁判においてもさほど変わらない。裁判官は忙しいため、訴状を読んでとりあえずの心証をとってしまうと、
そのファーストインプレッションで「『ああ、これはこっちが勝ちね』つて頭の中にインプットする」のだという。また、弁護士の能力を比較して、「この先生は信頼できる」「主張に乗れるなと思う」 
一方で、ここの先生はダメなんだな」と印象づけられると、提出された書面は「読み飛ばしている」こともあって、当の訴訟当事者がいくら法廷で真実を語っても裁判官の心を染めることはできない。
 まして、論理的組み立てができていない書面を提出する弁護士や、結審間際になって慌てて多数の証拠を出すなど、裁判官が辟易するような弁護活動では勝てる裁判も負けてしまうのである。
地方裁判所の裁判長はこう言った。
「裁判は、究極のところ法律だけでは判断できないんです。憲法の理念もあるし、世論もあるし、社会的な落ち着きも総合的に考えなければならない。自分ではここが確かだろうなと思っても、
当事者から提出された証拠で説明できなかったら認定しない。この人、本当のことを言ってるだろうと思っても、それを裏付ける証拠が伴っていないと主張を受け入れないで、
確実なところで認定して結論を出すというのが、一番無難で一般的な判断。それを一歩踏み込んで本当と思うところに判断を下すと、まず、控訴されて高裁でひっくり返されますからね。
それは基本的にやらない。
高裁でひっくり返されるのは、裁判官としてのプライドが許さないうえ、その後の人事評価にも少なからず影響するからだ。裁判官亀また組織のなかにいる以上、人事によって縛られているのである。
 まして民事裁判は、刑事裁判のように絶対的真実を求めるものではなし。争っている当事者の主張に、どれだけ分があるかを相対的に判断するため、時として真実から遠のいた判決になって心致し方ないと
割り切ることができるという。
 一般に真実探求の場であると考えられている裁判と、実際の裁判とでは大きな隔たりがあるのである。世間の常識から乖離した「裁判官村」という閉ざされた世界のなかで、裁判官たちは、
いったいどんな思いで日々の法廷に臨んでいるのか。そして裁判所は、どのような組織風土と論理のもとに運営されているものなのか。
 普段、われわが接することのなし裁判官の素顔に迫り、裁判所の内幕を解明するため、私は足掛け4年にわたり、のべ100人を超える現職裁判官や元裁判官を全国に訪ね歩いた。
一度ならず二度、三度と通いつめるなか、彼らが語ってくれた生々しい記憶や、提供してくれた備忘録、司法研修所資料など多数の個人資料や内部文書をもとに、厚いベールに包まれた
「孤高の裁判所」の奥深くに分け入ってみることにしよう。
「絶望の裁判所」
著者 瀬木比呂志(せぎひろし)
一九五四年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。一九七九年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務、アメリカ留学。
並行して研究、執筆や学会報告を行う。二〇一二年明治大学法科大学院専任教授に転身。民事訴訟法等の講義と関連の演習を担当。
著書に、「民事訴訟の本質と諸相」、『民事保全法〔新訂版〕』(ともに日本評論社、後者は近刊)等多数の専門書のほか、関根牧彦の筆名による『内的転向論』その他。
出版社 講談社現代新書
定価 760円(税別)
以下はカバーからの抜粋。
権力に仕える「役人」であり、制度の「囚人」にすぎない日本の裁判官。
裁判所が、一般世間から隔絶した「孤高の王国」であるとみるのは、明らかな誤りである。確かに、その王国は世間とは切れており、法服の住人たちは、
市井の人の思いや希望などにはほとんど関心がない。しかし、彼らは、みずからの出世や評価にはきわめて敏感な、その意味では俗物的な人間なのであり、
霞ヶ関官僚と同様に、日本的なピラミッド制ヒエラルキーによって操縦されている。最高裁による徹底した裁判官の支配、統制のシステムが巧妙なのは、その力、
網の目がきわめて強力であり緻密でありながら、同畤に、きわめてみえにくくとらえにくいという点にある。
その意味で、日本の裁判官は、実は、見えない「檻」、「収容所」の中に閉じ込められた制度の囚人たちであるといってもよいだろう。
本書は。一人の学者裁判官が目撃した司法荒廃、崩壊の黙示録であり、心ある国民、市民への警告のメッセージである。

最後に、老生、今、世間の御機嫌に忖度せず、詔わずの日々を送っている。しかし、日々耳目に入ってくる悲惨な出来事は、怒りと憤り山盛りのニュース。
これらを三流の観点から分析し、焦燥感と無力感に苛まれている。その中の一つに、
学校法人森友学園(大阪市)への国有地売却と財務省の公文書改ざん問題で、同省近畿財務局の赤木俊夫さん(当時54)が自殺したのは、
公文書改ざんに加担させられたからだなどとして、赤木さんの妻が18日、国と佐川宣寿(のぶひさ)元同省理財局長に計約1億1200万円の損害賠償を求める訴えを大阪地裁に起こしたニュースがある。
この裁判は、元体制内の人間の家族が、現体制を相手取っての裁判だから、注目(見もの)である。
下級裁判所に国を敗訴させる判決を出す、勇気ある裁判官が居たとしても、上級審では覆されるのが常識だから、この裁判も注視している。
老生としても、多くの国民と同様、「家族に寄り添った」判決が出ることを強く望んでいるのだが・・・・。