新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

本の紹介 「天下分け目の 関が原合戦はなかった」

2020-06-11 11:13:18 | 新日本意外史 古代から現代まで

本の紹介
「天下分け目の 関が原合戦はなかった」


著者紹介(二人の共著になっている)
以下は巻末の紹介文からの引用である。
乃至政彦(ないし・まさひこ)
歴史家。 1974年、香川県高松市生まれ。神奈川県相模原市在住。 2011年に伊東潤との共著『関東戦国史と御館の乱』(洋泉社)を刊行。
代表作に『戦国の陣形』(講談社)、『上杉謙信の夢と野望』(KKべストセラーズ)、『戦国武将と男色』(洋泉社)。その他、多数の書籍の監修に携わる。
おもな論文に「戦国期における旗本陣立書の成立:[武田信玄旗本陣立書]の構成から」。 NHK 『歴史秘話ヒストリア』、BS-TBS 『諸説あり!』などの歴史番組にも出演。
高橋陽介(たかはし・ようすけ)
歴史研究者。1969年、静岡県浜松市生まれ。東海古城研究会・勝永座談会・佐賀戦国研究会・曳馬郷土史研究会に所属。おもな論文に「関ヶ原新説-西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説-
に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」。著書に『改訂版一次史料・にみる関ケ原の戦い』(ブイッーソリューション)がある。
関ケ原の合戦の研究で最先端に位置する新進気鋭の研究者として、歴史学者や歴史愛好家から注目を集め、BS-TBS 『諸説あり』にも出演した。
河出書房出版社 定価・本体1600円(税別)
両者とも、BSテレビ番組に出演して、著名な人らしいが、この手の番組は観ないし、二人の著作本も見たことがないので、コメントのしようがない。
今回は、この本に関しての感想だけを書いてみます。
表紙の通り、「関が原の合戦はなかった」は太く大文字で、「天下分け目の」が小さく書いてある。
そそっかしい私は、かの有名な関が原合戦が、実はなかったのだという、新説だと思い込み購入した。
一次史料が伝える"通説を根底から覆す"真実とはの見出しにも魅かれた。
読み進むうち、読み切る気力がなくなったが、我慢して最後まで読んだ。何故なら、文中に、戦国時代に剣豪という言葉が出てくるし、
秀吉の妻、ねねを杉原氏の出身としての間違いがある。さらに家康には天下取りの野望がなかったと断定している。
こうした細かな間違いが至る所に散見される。
五大老と五奉行の関係、毛利氏と家康の関係、合戦の詳細などは、よく調べてはいる点は努力の跡は窺える。
だが、通説を否定しながら、通説を引用して自説を補強しているのも頂けない。
真実は、後述するが、大阪夏冬の陣は、豊臣の血脈を断つ最後の「掃討戦」に過ぎないし、関ヶ原合戦は、家康が、京、蜷川財閥の銀で、神徒系大名を味方につけていて、勝負はすでに決まっていたのである。その証拠に家康が江戸幕府を開くと、江戸は箱根の山を境に「金本位制」にし、西は九州の果てまで「銀本位制」にしたことでも判る。
この本の終章に「本書は万能完全の正解を提示するものではなく、新しい歴史解釈へと踏み出してもらうための手引きとしてご用意申し上げる」
とある如く、真実を探求した書では無いことが判った。
結局、衝撃的な見出しで釣って、読者を困惑させただけの「売らんが為の」通俗歴史小説といえる。

さて、以前にUPした記事だが、関連するので再掲載しておきます。

       山崎合戦はなかった
日本史解説  何でこんなに嘘ばかりなのか。
   日本史の読み方


歴史には「事実として存在する歴史」と「後世の人間が勝手に思い込んでいる歴史」がある。事日本史に関しては後者の歴史が蔓延している。

日本人は何か書かれたもの、即ち本でも写本でも古文書にしても、文字の繋がったものを見ると、すぐ頭ごなしに、
自分の常識や判断を棚上げしてしまって、つまり己を無にしてしまって、
 「何々の本に書いてある」とか「文章として残されている」といとも単純に惑わされてしまい信頼したがる。
大事なことは「誰が何の為に書いたのか」「何故に書く必要があって、これが伝わっているのか?そして本にされているのか?」
ここを考えることが大切なのである。

 本屋に並んでいるものなら「売らんがため」といった刊行目的も判るし、自費出版センター刊行のものなら 「己が生きていた証に石碑代わりのもの」と納得もし得る。
「何々社業史」となれば、得意先へ配布する宣伝ものだとは、いかに現社長が社業に尽くし立派な人格者で会社の成長に尽力した功績は数え切れぬかは、頁を開かなくとも判りうる。

処が江戸時代に失業武士が再就職(仕官)したさに祖先の名を尤もらしく出して「先祖は強かった、豪かった」と言いたい為に、実際は在りもしなかった合戦噺を書き、さらに版木本にまでしてしまったのが貸本として多くの人に読まれた。

「洞ヶ峠を決め込む」と、日和見主義者の代名詞に筒井順慶の名が流布した迄はまあまあだが、
「陸軍省参謀本部偏」と箔をつけられた「日本戦史」の中の一巻にまでも、秀吉が明智光秀を打ち破ったという起きもしなかった「山崎合戦」が堂々と秀吉の圧勝ぶりで出ている。
 これが嘘から出た誠であるのは、歴史学会会長をされていた故高柳光寿氏の本にもはっきり嘘だと指摘されている。
これは戦でも合戦でもない有体は全くの騙まし討ちでしかない。

本当のところは、山崎円明寺川畔の勝竜寺城を築いた長岡藤孝が兵を隠していて、その長男の、後の細川忠興が明智光秀の女婿だったことを利用して安心させて光秀を招き、
騙まし討ちに襲って殺しただけの話で、もし秀吉が通説のように織田信孝を名代に立てて共に戦ったものなら、詳しい戦況書面を、信孝の家老の斉藤玄蕃介や城代の岡本へ送り届ける筈は無いのである。
処が明治史学御用学者共は、何故に書かれて木版刷りにまでされたのか、その利用目的を考える能力が無く、文字として文章として残存するからには史実だろうと、これを信用してしまった。

 だから「寡にして大敵に勝つ奇襲戦法」のテキスト版として、裏付けも探求せずに一冊にした。
「日本の合戦シリーズ」の一巻として今度は参謀本部偏の重みで其の儘に刊行される。

失業武士が、仕官したい一心で金をつぎ込んで身上書に添付する際に、筆書きよりは真実味と重みがあると、木版本にしただけの作り話とは、現在の歴史屋共が神様扱いの明治史学の連中は、
金欲しさだけで考えもしなかったのである。
「何かの理由で、何かに利用される目的で、何かの力で支援されて本は刊行されている」といった基礎的な事を読んで引きずり込まれて訳が判らなくなる前に、先ず考えて欲しい。
これまでの日本列島では明治以降も 真実を書き残したいと本にしたのは、獄死した阿部弘蔵の「日本奴隷史事典」と「木村鷹太郎著作集」や 「日本部落史料」の数冊しかない。

 昔から日本では口伝ではあるが「文字づらに捉われるな」とか「文字通り額面通りには受け取ってはならぬ」といった戒めが、各地方の差別されていたごとに守られていたのはこの為なのである。

 しかし、今では義務教育法といった法律で、学校で教わった教科書の文字通りになんら考えることなく丸暗記させられテストに書かねば落ちこぼれにされてしまう。
「物証」として、本や書かれたものは、裁判の係争でも最重要視される。

これは当時の国学者塙保己一が、寛政五年に幕府お抱えとなってしまい、和漢講談所なる御用団体にされた際、
「同一文章が複数に存在するものに限って、他を裏付けとなす証拠として筆写採録を許可す」と制約され、 「群書類従」及び「続郡書類従」を編したのに始まるといってよい。
「類従」の文字は公儀へのせめてもの抵抗であって、其の儘の「類に従う」の意味合いで、
同種が何種類もあるものは、その必要性が在ったからこそ複写されたのだろうという認定で、他は焼却処分されてしまった。

今も現存する「楠木合戦注文」という史料等も、南朝志向の明治史学の歴史屋は、敵の足利方も湊川対陣の時の楠木側の天皇に対して殉忠善戦に感動して、彼らの名を列記して、
これを感激の賜物とするが、実際は大間違いである。
楠木一族は足利幕府創業を邪魔した「反体制一族」として、それに繋がる妻子や縁者まで捕らえて、
各地の収容所へ放り込む為の、今で言えば「指名手配書」だったから何十通も写され配布していたゆえ複数に残っていただけの話なのである。
 近頃ではテレビや時代小説さえ歴史だと思い込んでいる頭の軽い手合いも多い。

   「関が原合戦、西軍が負けたのは雨が原因」
 現在の通説として、関が原の戦いは徳川家康の東軍が、岐阜の大垣城から出てきた西軍の石田三成らを九月十五日に撃破したとなっている。
 その為に豊臣秀頼は摂津河内和泉で僅か六十万石の大名に成り下がってしまった。
その後大阪夏の陣でも負け、豊臣家は滅亡してしまう。このことは史実としては正しい。
 但し戦略的には、家康は京の蜷川より多額献金を受け、西国大名に与え、裏切りや積極的に戦わなかった事が大きい。
まあ勝負は戦う前から決まっていたといえる。だから後に江戸幕府を開いた家康は
 蜷川に遠慮し、箱根以東は金本位制、西は九州の果てまで銀本位制と定めたのである。
 このことは学校歴史では教えないが、詳細は以下にある。
 
 しかし戦は水物。戦術的な西軍の敗戦は「雨」なのである。
 

 現代では、関が原でせっかく美濃大垣城に西軍の兵を入れていた石田三成が、
何故に前日は篠突く大雨だったといわれる悪天候の中、折角城に篭っている兵を連れ出し徳川方が布陣している関が原へと討って出たのは何故なのかと怪しまれ、
 
 現在様々な諸説が氾濫している。曰く
「一気に雌雄を決する為ではなかったか」
「石田三成が若かったから焦った」等など。
 勿論戦術を有利にするためには沛然と降りそそぐ雨の中を厭わず、折角大会戦のため食料や武器弾薬を集積していた城を出て関が原へ向かったのだということは頷ける。
 だが問題は、現在では全く知られていないが『雨』なのである。
 つまり、戦国時代から江戸時代でさえも合戦という行動は雨の日は休みだったのである。
即ち「雨天順延」で、現代の運動会のようなものだった。後段でこの訳は解き明かすが、
 ここのところをよく理解しておかなければこの謎は解けない。
当時は今のようにビニールやレザーの無い時代だから、武者達の鎧は金具や糸布を使っていたが、
陣羽織は「紙衣」(かみこという)だったし、武者が背に指す旗指物や馬印さえもが、
 こうぞから作られる紙、即ち和紙だったのである。だから雨に濡れるとべとべとと解けてしまい目印が判らなくなってしまうのである。
 当時木綿も貴重品で絹布などは高嶺の花。大将ともなれば流石に純綿を使ったが、
一般の武者共は紙製の旗指物だったのである。このことは<兵法雄鑑>や<雑兵物語>に明確に記述されている。
 原文は難解だから次に平文に訳しておく。
 「もののふは名こそ惜しむ。よって雨が降りきたれば、折角の己の目印の
  旗指物も濡れ、印も文字も滲みて見えなくなり、何の為に働き高名を
  たつるや判らず、よって皆樹陰に入り、雨の晴れるのを待ち、互いに
   戦は共に休みになして、左右に別れ去るものぞ」と、明確に書かれている。
 さらに「空を仰ぎ見て、今日は曇りにて雨になるらんと、戦は休みなるべしゆえと
     朝飯は抜き、しもじゅうて、皆は早く晴れたらええと、腹が臍くくりになり
      ひもじさに皆ぶうぶう言い合う」等とも書かれている。
 江戸中期の兵法家大道寺遊山は「落穂集」で有名だが、「武道初心集」も書いていて、これは現代岩波文庫で刊行されているが、その「岩淵夜話」の本の中にも、
 「雨天休戦は武士の相身たがいの為なり」とある。
 また武士たるものは「忠臣は二君に仕えず」などと現代は言うが、これは奉公先の大名が徳川の施政方針のため次々と取り潰され、武士の就職難の江戸時代からの話で、
戦国時代は全く逆で、槍の才蔵と謳われた有名な可児才蔵のごときは、生涯戦場を駆け回り死ぬまでに十余回も主君を変えている。
さて「瀬戸際」という言葉がある。
 この言葉の語源は、関が原合戦で雨中で三成の軍勢に包囲され、
切羽詰った家康が必死猛死に脱出して、合戦の勝敗を逆転させたわけだが、こういう状況の場合に使ったものなのである。
 さて、可児才蔵の如く、戦場で己を大いに宣伝し、今までより扶持、即ち給料を多く出してくれる奉公先が見つかれば、直ちに条件次第で其方へ移る。
これを武士言葉で「鞍替え」という。
 この言葉は後には武士の多くは源氏系だったから、源氏の女しか遊女になれなかった江戸時代になると、これが転用され遊女や芸者が借金を多くさせてくれる方へ住み替えることにも
この鞍替えという言葉が使われた。始まりは武家言葉なのである。
  
  さて話を戻すが、戦国期の合戦で、武者達は今日で言う条件のよいところへスカウトされるためには、
遠くからでも見分けが付く旗指物は前記したように紙だから、それゆえ雨が降ってきたら濡れ、
使い物にならない訳である。だから「これでは鞍替えの機会が無い」と武士は戦わず、したがって戦は休みだったのである。
 現代ではこれは奇異に思われるだろうが、この行動は江戸時代の幕末になっても、慶応二年五月は大振りで上野戦争の際の彰義隊(幕臣の次男三男を募集して作られた武士の部隊)は
 「今日は雨だから薩摩(官軍)の奴らも攻めて来んだろう」と、上野の山から近くの湯島や神田明神や吉原に女買いに繰り出し当日は部隊の半数も残っていなかった。
 これを見てとった周防人で武士ではなく、医者上がりの大村益次郎は、そんな古い武士の不文律など知りもしないから、「この機会だからやってしまえ」と各藩の官軍に命令を出した。
 しかし「こんなに雨が降っているのに、古来武士は雨戦はせぬものぞ」
「まさか間違いであろう」となかなか兵が集まらず、止む無く薩摩の西郷隆盛が、蓑をつけ草鞋履きで先頭に立って出かけていったぐらいのものなのである。
 維新の志士などという美名を奉られている明治期の薩長の大物は、医者や身分の低い武士ともいえない郷士上がりが多く、正規の武士の習慣も知らず、従って慣習に捕われない発想が逆に功を奏したのであろう。
 つまり、関が原の話に戻るが、「この大雨では明日も戦になるまい、だったらその前に今の内に東軍の退路を絶っておこう」と石田三成が秘かにタブーを破って大垣城を出てきたところを
桃配り山東軍本陣の徳川家康が、雨の中を濡れぬように、旗も幟も仕舞って迫ってくる石田方を、物見の者から報告されると、家康はすぐさま大きく合点して包囲に任せた。
そして家康は「この雨では、敵の武者共も紙旗が濡れるゆえ、働いても損だと目覚しい戦いはしないぞ」
 と、先に開戦命令を出したのである。
 そして渋紙塗り(油塗り)の金色の幟に「五」の字を捺した徳川本体の使番を各陣営へ出し、まさかと思っていた三成の西軍へ不意打ちをして合戦に勝ったのである。