異聞 『徳川家康』
徳川家康の妻
徳川家康の妻
松平元康が徳川家康は間違い
〈泰平年表〉には家康の母の事を次のように記されている。
「西郷弾左衛門清員の養女にて実は服部平太夫郷則の娘にて、実は竜泉院と諡し、
駿府の府中に竜泉寺を建立。これに葬る。のち寛永五年七月。従一位を贈位。宝台院と改謚す。俗名おあいの方さま。
西郷の局とも申しあげ、台徳院様(徳川秀忠)、薩摩守忠吉の御生母」とあり、
〈徳川実紀〉では「家康公正室」と明記されてある。
「西郷弾左衛門清員の養女にて実は服部平太夫郷則の娘にて、実は竜泉院と諡し、
駿府の府中に竜泉寺を建立。これに葬る。のち寛永五年七月。従一位を贈位。宝台院と改謚す。俗名おあいの方さま。
西郷の局とも申しあげ、台徳院様(徳川秀忠)、薩摩守忠吉の御生母」とあり、
〈徳川実紀〉では「家康公正室」と明記されてある。
この服部平太夫郷則というのは、家康の若い頃その一党と身を寄せていた鍛冶屋の事である。
もちろん、鍛冶屋の平太に、初からこんないかめしい名があるわけはなく、後からこしらえたものであるし、西郷村の弾左衛門というのは、
これは非違を糾す当時の役名のようなものが弾左衛門なのである。つまり小伝馬町牢屋敷の江戸の弾左衛門だけが有名で今でも名が伝わっているが、この時代には、
各地域ごとに弾左衛門を名のる者がいた。これは別所の長史の呼び名で、当時の村役人にも当っていた。
もちろん、鍛冶屋の平太に、初からこんないかめしい名があるわけはなく、後からこしらえたものであるし、西郷村の弾左衛門というのは、
これは非違を糾す当時の役名のようなものが弾左衛門なのである。つまり小伝馬町牢屋敷の江戸の弾左衛門だけが有名で今でも名が伝わっているが、この時代には、
各地域ごとに弾左衛門を名のる者がいた。これは別所の長史の呼び名で、当時の村役人にも当っていた。
もともとは天武帝の時に輸入された唐の「御史台」であるが、大宝令につぐ延暦十一年の「弾正例八十三年」から今日の刑法のように定まり、「弾正巡察」の制が設けられた。
やがて源頼朝の頃からは、この部族が逮捕権や警察権をもったから、織田信長の父備後守信秀などは、
江州八田別所の出身ゆえ「弾正弼」の官名を貰い、求刑の論告をする所を「弾正台」といい、後年は論難するような事をさして「弾劾」「糾弾」というのである。
やがて源頼朝の頃からは、この部族が逮捕権や警察権をもったから、織田信長の父備後守信秀などは、
江州八田別所の出身ゆえ「弾正弼」の官名を貰い、求刑の論告をする所を「弾正台」といい、後年は論難するような事をさして「弾劾」「糾弾」というのである。
こうした種類の官名には「掃部頭」もある。これは桜田門の変で名高い井伊大老の江州彦根の代々の世襲の名として知られているが「宮中でお掃除をする者共の束ね」から由来している。
さて〈泰平年表〉の記述は、鍛冶屋の平太を取締っている酉郷村の弾左衛門が、そのという身分から、平太の所の後家娘の「おあい」を自分の養女という体裁にしてやったものらしい。
なおこの戦国期というのは、軍事上の目的で、その命令を伝達する際に、ただの平太や吾平だけでは、同名が多くて紛らわしいから、間違いのないようにその出身地や居住地を、
名の上につけ「服部村の平太」とか「服部の平太」といったように、姓が一般化した。
つまり、これは天保期以降の博徒が「国定村の忠次」とか「清水の次郎長」といったように、何処々々の誰といった分類であったから、当時の正式の名のりは、
姓と名の間に「の」が入るのが正しいようである。しかし源平期などを扱った〈吾妻鏡〉や〈源平盛衰記〉の類では、はっきりと「熊谷の次郎」とか「仁田の四郎」と、
「の」の宇を入れているが、儒学が隆盛になってからは、中国風になってしまって、元禄期以降に書かれたものでは悉く「の」を抜かして棒読みになっているから、とかく仰々しくうっかりすると間違われやすい。
さて〈泰平年表〉の記述は、鍛冶屋の平太を取締っている酉郷村の弾左衛門が、そのという身分から、平太の所の後家娘の「おあい」を自分の養女という体裁にしてやったものらしい。
なおこの戦国期というのは、軍事上の目的で、その命令を伝達する際に、ただの平太や吾平だけでは、同名が多くて紛らわしいから、間違いのないようにその出身地や居住地を、
名の上につけ「服部村の平太」とか「服部の平太」といったように、姓が一般化した。
つまり、これは天保期以降の博徒が「国定村の忠次」とか「清水の次郎長」といったように、何処々々の誰といった分類であったから、当時の正式の名のりは、
姓と名の間に「の」が入るのが正しいようである。しかし源平期などを扱った〈吾妻鏡〉や〈源平盛衰記〉の類では、はっきりと「熊谷の次郎」とか「仁田の四郎」と、
「の」の宇を入れているが、儒学が隆盛になってからは、中国風になってしまって、元禄期以降に書かれたものでは悉く「の」を抜かして棒読みになっているから、とかく仰々しくうっかりすると間違われやすい。
織田信長にしても、父の信秀の頃までは、はっきりと、「江州八田別所の織田の庄の出」という肩書のような名のりをつけていたもので、これが幕末の博徒全盛期に入ってからは、
「てまえ生国と発しまするは……」といった名のりの自己解説の「じんぎ(神祇)」に転化するのである。さて、〈大成記〉という徳川家の史料の中にも、原文の儘で引用すると、
「てまえ生国と発しまするは……」といった名のりの自己解説の「じんぎ(神祇)」に転化するのである。さて、〈大成記〉という徳川家の史料の中にも、原文の儘で引用すると、
「神君家康公は、その創業に当らせ給いて御苦心の程まことに筆舌に尽し難き程なりき。さる程に、三州設楽郡長篠村まで来られてからは、その地の郷民に頼まれて舟をもとめ、
これにて遠州へひとまず戻らされ、同地の鍛冶の家に落着かせ給う。この間の御辛苦、御艱難たるや、筆にも詞にもいいがたかりき」
と、服部村の平太といった名は出てこないが、遠州の鍛冶屋といった表現で、そこの家が、当時の家康の根拠地だったことは、これにも明白にされている。そして鍛冶屋というと、
これにて遠州へひとまず戻らされ、同地の鍛冶の家に落着かせ給う。この間の御辛苦、御艱難たるや、筆にも詞にもいいがたかりき」
と、服部村の平太といった名は出てこないが、遠州の鍛冶屋といった表現で、そこの家が、当時の家康の根拠地だったことは、これにも明白にされている。そして鍛冶屋というと、
「森の鍛冶屋」というポピュラー音楽が大正時代に輸入されたり、また尋常小学校の教科書にも「村の鍛冶屋がトッテンカン」と、のんびりした描写があったから、つい陽気に考えてしまうが、
この家康の創業期の鍛冶屋というのは、小規模とはいえ矢尻を作り、槍の穂先を鍛えていた当時の軍需工場なのである。
なにも、そこの家に「おあい」とよぶ出戻り娘がいたから、その色香に迷って若き日の家康が、入り浸りしていたというのではない。
恐らく実際はあべこべで、鍛冶屋にどんどん武具を生産させる為に、家康は、そこの出戻り娘を手なずけ、まるで、後家になったおあいの跡釜というか、
入り婿のような恰好で居坐って、おおいに利用していたものとも想える。
この家康の創業期の鍛冶屋というのは、小規模とはいえ矢尻を作り、槍の穂先を鍛えていた当時の軍需工場なのである。
なにも、そこの家に「おあい」とよぶ出戻り娘がいたから、その色香に迷って若き日の家康が、入り浸りしていたというのではない。
恐らく実際はあべこべで、鍛冶屋にどんどん武具を生産させる為に、家康は、そこの出戻り娘を手なずけ、まるで、後家になったおあいの跡釜というか、
入り婿のような恰好で居坐って、おおいに利用していたものとも想える。
こういう事は現代でも別に珍らしくはない。女の縁で立身出世の土台を作るのは、今でも利口な男の生活の知恵とされている。
だから家康が、そういう処世術をとったとしてもこれまた止むを得なかったろう。
当時の鍛冶屋の武具生産価格は、槍の穗や打ち刀までは詳細に判明しないが、矢尻だけは、
「八木(こめ)一升にて三個」という相場が明確に〈弾左衛門資料〉の中にでている。
この頃は一般に粟や稗を常食にしていた時代なので、米価は現今と違って、〈お湯どの上日記〉や〈鹿苑目録〉によれば、今の換算率ならば一升が約千五百円位にもなる。
すると矢竹にはめる矢尻が一個で五百円の勘定である。だからして、若き日の家康が男の貞操を当てたとしても頷けるものがある。
だから家康が、そういう処世術をとったとしてもこれまた止むを得なかったろう。
当時の鍛冶屋の武具生産価格は、槍の穗や打ち刀までは詳細に判明しないが、矢尻だけは、
「八木(こめ)一升にて三個」という相場が明確に〈弾左衛門資料〉の中にでている。
この頃は一般に粟や稗を常食にしていた時代なので、米価は現今と違って、〈お湯どの上日記〉や〈鹿苑目録〉によれば、今の換算率ならば一升が約千五百円位にもなる。
すると矢竹にはめる矢尻が一個で五百円の勘定である。だからして、若き日の家康が男の貞操を当てたとしても頷けるものがある。
山岡荘八の「徳川家康」は借信しがたい
ここまで読んだ読者は、現在流布されている「松平記」を底本にした山岡荘八の「徳川家康」を信じている人は奇異に思うだろう。
しかし、秀忠の産土神(うぶかな神)の五社明神も、もとは遠州佐野の西郷村から移転しているのである。
二代将軍の母親というは、もとは遠州の鍛冶屋の娘で、そこに巣喰っていた若き日の家康が産ませたのである。
世にも奇怪な噺だが、家康の元の名が松平元康だとするならその家康とは、「石ヶ瀬」で、互いに激しい合戦をしている事実が在る。
(村岡素一郎「史疑」)なにしろ鍛冶屋の家を溜り場にし矢尻を鍛えさせ、刀や槍をうたせて武具をととのえ、さて人集めした若き日の家康は、
この天下の争乱の時に一旗あげようとしたが、今川義元なきあとの今川氏真は出て戦わず、尾張の織田も勝って兜の緒をしめよと、清洲城から動かない有様だった。
しかし、秀忠の産土神(うぶかな神)の五社明神も、もとは遠州佐野の西郷村から移転しているのである。
二代将軍の母親というは、もとは遠州の鍛冶屋の娘で、そこに巣喰っていた若き日の家康が産ませたのである。
世にも奇怪な噺だが、家康の元の名が松平元康だとするならその家康とは、「石ヶ瀬」で、互いに激しい合戦をしている事実が在る。
(村岡素一郎「史疑」)なにしろ鍛冶屋の家を溜り場にし矢尻を鍛えさせ、刀や槍をうたせて武具をととのえ、さて人集めした若き日の家康は、
この天下の争乱の時に一旗あげようとしたが、今川義元なきあとの今川氏真は出て戦わず、尾張の織田も勝って兜の緒をしめよと、清洲城から動かない有様だった。
そこで業をにやした家康は、中に挾まれた弱体の三河を乗っ取ろうとして、遠洲から矢矧川の上流を渡って攻めこんだので、
松平信康の実父の松平蔵人元康も放ってはおけず、これを石ヶ瀬の原っぱにて迎えうったのである。
しかし何んといっても、松平党は長年にわたって父祖の代よりの君臣の間柄。
しかし家康の方は云わば一旗あげようといった程の野伏り共の烏合の衆。正面衝突をしては、とても松平党の敵ではなかったのである。
よって家康は、その志は大、血気も盛んであったが、ものの見事に負け戦となって降参してしまった。
ところが家康は、本物の松平元康の家来になったのかというとそうではない。
松平信康の実父の松平蔵人元康も放ってはおけず、これを石ヶ瀬の原っぱにて迎えうったのである。
しかし何んといっても、松平党は長年にわたって父祖の代よりの君臣の間柄。
しかし家康の方は云わば一旗あげようといった程の野伏り共の烏合の衆。正面衝突をしては、とても松平党の敵ではなかったのである。
よって家康は、その志は大、血気も盛んであったが、ものの見事に負け戦となって降参してしまった。
ところが家康は、本物の松平元康の家来になったのかというとそうではない。
降人したときは、そういう話だったらしかったが、抜目のない家康は直ちに山中城へ向って、そこを攻めとってしまい、当時の三河山中城主の松平権兵衛重弘を追って、
自分が代って城主となってからは、もう元康の家来ではなく、合力衆のような形になったのである。そして、
刈谷城の水野信元を攻めたときなど、岡崎勢の先手となって、十八町畷まで押しよせて戰った。
自分が代って城主となってからは、もう元康の家来ではなく、合力衆のような形になったのである。そして、
刈谷城の水野信元を攻めたときなど、岡崎勢の先手となって、十八町畷まで押しよせて戰った。
ついで家康は、元康に協力して、野伏り衆を放って、挙母の砦、梅ヶ坪の砦と火をつけて廻ったから、三河党の士気もおおいに振い、
元康も『この分ならば織田信長を攻め滅して、人質に横取りされてしまっている吾児の信康を奪還しよう』と桶狭間のあった翌年の十二月四日に、
合力の家康や三河党をもって尾張領に入り、岩崎から翌日は森山へと兵をすすめ本陣を移した。
ところが、その陣中で、粗忽な家臣のために、元康公は討たれてしまった。それで仕方なく、陣をひきはらって、ひとまず退却ということになった。
これが史上有名な「森山崩れ」といわれている。
この『森山くずれ』で討ちはたされたのは、その永禄三年より二十六年前にあたる天文四年のことで、討たれた元康のが祖父の清康の方である。
元康も『この分ならば織田信長を攻め滅して、人質に横取りされてしまっている吾児の信康を奪還しよう』と桶狭間のあった翌年の十二月四日に、
合力の家康や三河党をもって尾張領に入り、岩崎から翌日は森山へと兵をすすめ本陣を移した。
ところが、その陣中で、粗忽な家臣のために、元康公は討たれてしまった。それで仕方なく、陣をひきはらって、ひとまず退却ということになった。
これが史上有名な「森山崩れ」といわれている。
この『森山くずれ』で討ちはたされたのは、その永禄三年より二十六年前にあたる天文四年のことで、討たれた元康のが祖父の清康の方である。
天文三年の頃は、信長の父の織田信秀が、岡崎城と目と鼻の安祥の城まで確保していて、三河の半分は織田方の勢力に入っていた頃だから、
どうしても、岡崎衆が入りこんできて森山へ陣取りなどできる筈はなかった。
天文四年の頃なら、織田信秀が、小豆坂合戦で今川や松平を撃破していたころである。
だから、それまで互いに戦までしあった事もある二人が、合併してその時から一人になる……つまり松平元康が俄かに亡くなったゆえ、当座しのぎの恰好で、
家康が、後始末をするため元康の後釜に入ったのである。
おそらく、当時は尾張の熱田にいた信康を取返すため、家康が元康の死を匿して、まんまと自分が化けて代りに乗りこみ、
清洲城で織田信長と談合をなし、起請文でもいれて和平を誓い、それで信康を返してもらったものだろう。
それで、その手柄をかわれ松平の家来共の衆望を担い、如才なく家康は立ち廻って、幼ない信康の後見人の恰好になり、やがてはまんまと松平党を、その属にした。
この証拠に江戸時代になっても徳川姓は主とし、松平姓を属として、薩摩の島津にまで松平姓を与えている。
どうしても、岡崎衆が入りこんできて森山へ陣取りなどできる筈はなかった。
天文四年の頃なら、織田信秀が、小豆坂合戦で今川や松平を撃破していたころである。
だから、それまで互いに戦までしあった事もある二人が、合併してその時から一人になる……つまり松平元康が俄かに亡くなったゆえ、当座しのぎの恰好で、
家康が、後始末をするため元康の後釜に入ったのである。
おそらく、当時は尾張の熱田にいた信康を取返すため、家康が元康の死を匿して、まんまと自分が化けて代りに乗りこみ、
清洲城で織田信長と談合をなし、起請文でもいれて和平を誓い、それで信康を返してもらったものだろう。
それで、その手柄をかわれ松平の家来共の衆望を担い、如才なく家康は立ち廻って、幼ない信康の後見人の恰好になり、やがてはまんまと松平党を、その属にした。
この証拠に江戸時代になっても徳川姓は主とし、松平姓を属として、薩摩の島津にまで松平姓を与えている。
殿さまの松平蔵人元康が誤って家来の安部弥七郎の手に掛かって急死した三州岡崎城では、跡目の信康がいないから話にならない。
そのとき、三州山中城を自力で乗っとり、次々と放火して手柄をたてた家康が「和子を尾張から奪い返す計略として、俺を亡き殿さまの身代りに仕立てい」といえば、
松平党の面々は、「これは殿の喪を表沙汰にし、他から攻め込まれなくとも済む安全な上策である」とすぐ賛成してしまったものと考えられる。
そのとき、三州山中城を自力で乗っとり、次々と放火して手柄をたてた家康が「和子を尾張から奪い返す計略として、俺を亡き殿さまの身代りに仕立てい」といえば、
松平党の面々は、「これは殿の喪を表沙汰にし、他から攻め込まれなくとも済む安全な上策である」とすぐ賛成してしまったものと考えられる。
そこで、まんまと松平蔵人元康に化けてしまった家康は、恐れ気もなく永禄五年三月には清洲城へのりこみ、三州と尾張の攻守同盟を結んで、
熱田にいたか、清洲城内にいたか(大須万松寺天王坊という説もある)はっきりせぬが、当時は四歳になっていた信康を貰い受け、岡崎へ戻ってきた。
この手柄は大きいし、それに山中城主になっていた家康自身が、もうその時は既に何百と私兵をもっだ大勢力だったから「この儘で、信康さまが成人の時までは、後見人」という事にもなったのだろう。
その時は家康は二十一歳だから、その年齢で四歳の子持ちというのはすこし早いが、なにしろませた風采をしていたのだろう。だから、さすがの織田信長も、このときは、
永禄四年から毎年のように美濃へ攻めこんでは破れていた矢先であるし、まんまと、尋ねてきた松平蔵人元康を本物と思ってしまって、美濃攻めに後顧の憂いのないようにと、
東隣の三河と和平をしたのだろう。そして足かけ三年も尾張に居たのだから、信康がすっかり可愛くなっていて、自分の伜らと仲よく遊んでいるのを思いだし、
その頃、うまれた女の子に「信忠、信雄、信孝、信康をも加え、五人で五徳のごとく輪になって確かり地に立てや」と、初手から嫁にやる気で五徳と名づけ、
その縁談も信康を返す条件として家康に持ちかけたものであろう。
そのときは一時の便法で、まんまと信長を欺き、家康は元康に化けてしまったものの、どうせ信長など、たいした事はない。その内には誰かに滅ぼされてしまおうと、
高をくくっていたが、これがなんともならなかった。
熱田にいたか、清洲城内にいたか(大須万松寺天王坊という説もある)はっきりせぬが、当時は四歳になっていた信康を貰い受け、岡崎へ戻ってきた。
この手柄は大きいし、それに山中城主になっていた家康自身が、もうその時は既に何百と私兵をもっだ大勢力だったから「この儘で、信康さまが成人の時までは、後見人」という事にもなったのだろう。
その時は家康は二十一歳だから、その年齢で四歳の子持ちというのはすこし早いが、なにしろませた風采をしていたのだろう。だから、さすがの織田信長も、このときは、
永禄四年から毎年のように美濃へ攻めこんでは破れていた矢先であるし、まんまと、尋ねてきた松平蔵人元康を本物と思ってしまって、美濃攻めに後顧の憂いのないようにと、
東隣の三河と和平をしたのだろう。そして足かけ三年も尾張に居たのだから、信康がすっかり可愛くなっていて、自分の伜らと仲よく遊んでいるのを思いだし、
その頃、うまれた女の子に「信忠、信雄、信孝、信康をも加え、五人で五徳のごとく輪になって確かり地に立てや」と、初手から嫁にやる気で五徳と名づけ、
その縁談も信康を返す条件として家康に持ちかけたものであろう。
そのときは一時の便法で、まんまと信長を欺き、家康は元康に化けてしまったものの、どうせ信長など、たいした事はない。その内には誰かに滅ぼされてしまおうと、
高をくくっていたが、これがなんともならなかった。
というのは、先代織田信秀の代には、尾張八郡の他に、三河の小豆坂から安祥までも占領していた強剛だったのが、
桶狭間合戦の始まる頃には、戦場で用いる武器が鉄砲に一変した為に、○に二引きの旗をたてた今川の水軍は、
どんどん鉄砲を上方より取りよせ次第に勢力をはるのに反し、信長の方は水軍がないから、鉄砲や火薬が入手できない。
そこで今川に追われ那古屋の城も危うくなって清洲へ逃げこんでいた程で、尾張八郡の内、鳴海から中村までは今川に取られてしまい残りは半分の四郡。
しかもその内の一郡の長島郡は、服部右京之允という一向門徒に押えられて正味は三郡という惨めさだった。
それをよく見知っている家康は、桶狭間合戦も、まぐれ当りの勝ちとみていたし、その翌年から連年開始した美濃攻略の連戦連敗も知っていたから
まあ早くいえば舐めてかかって居たものとみえる。
桶狭間合戦の始まる頃には、戦場で用いる武器が鉄砲に一変した為に、○に二引きの旗をたてた今川の水軍は、
どんどん鉄砲を上方より取りよせ次第に勢力をはるのに反し、信長の方は水軍がないから、鉄砲や火薬が入手できない。
そこで今川に追われ那古屋の城も危うくなって清洲へ逃げこんでいた程で、尾張八郡の内、鳴海から中村までは今川に取られてしまい残りは半分の四郡。
しかもその内の一郡の長島郡は、服部右京之允という一向門徒に押えられて正味は三郡という惨めさだった。
それをよく見知っている家康は、桶狭間合戦も、まぐれ当りの勝ちとみていたし、その翌年から連年開始した美濃攻略の連戦連敗も知っていたから
まあ早くいえば舐めてかかって居たものとみえる。
しかし手玉にとったつもりの信長が、中々もって思ったよりも頑張りやで、美濃も四年目には、まんまと攻略して、ついに稲葉山の井の口の城をとって、これを大普請し、
岐阜城と改名した。こうなると、家康たるもの、化けの皮が剥れて瞞していたことが判ったら、どうしようかと戦々兢々としてしまった。
だから、元康と家康が別人であったなどという証拠は、これ、ことごとく湮滅させてしまっだのである。
だから有名な三河の一向門徒の騒動というも、所詮は、元康に家康がなり切ったが為に起った守門争いなのである。
それまでの三州岡崎衆は、尾張長島の一向門徒と手をくんでいたところなのに、もともと野州二荒別所から、駿府の久能別所に居た家康は、その家来とても、
大久保党のように七福神信仰系や、本田一族は白山信仰系、榊原康政は伊勢白子の松下神社の氏子である。
酒井一族は修験者あがりといったようにどれもが神信心の集団だった。
岐阜城と改名した。こうなると、家康たるもの、化けの皮が剥れて瞞していたことが判ったら、どうしようかと戦々兢々としてしまった。
だから、元康と家康が別人であったなどという証拠は、これ、ことごとく湮滅させてしまっだのである。
だから有名な三河の一向門徒の騒動というも、所詮は、元康に家康がなり切ったが為に起った守門争いなのである。
それまでの三州岡崎衆は、尾張長島の一向門徒と手をくんでいたところなのに、もともと野州二荒別所から、駿府の久能別所に居た家康は、その家来とても、
大久保党のように七福神信仰系や、本田一族は白山信仰系、榊原康政は伊勢白子の松下神社の氏子である。
酒井一族は修験者あがりといったようにどれもが神信心の集団だった。
そこでお寺とお社は仇同志の世の中である。反目しあっている内に……まず岡崎城内にあって、亡き松平元康の家老でもあった酒井将監が、
松平一族を糾合して家康に叛心を抱いたが失敗して、猿投山中へ逃れてしまった。
ついで昔は城代までをしていた三木の領主の松平信孝も、その他出中に三木の館を徳川党に襲われ、戻ってきてから安祥の敵兵力をかり謀叛を企てたが、
明大寺村合戦にて一族もろとも家康に皆殺しにされた。
松平一族を糾合して家康に叛心を抱いたが失敗して、猿投山中へ逃れてしまった。
ついで昔は城代までをしていた三木の領主の松平信孝も、その他出中に三木の館を徳川党に襲われ、戻ってきてから安祥の敵兵力をかり謀叛を企てたが、
明大寺村合戦にて一族もろとも家康に皆殺しにされた。
この後、松平大炊助好景も、幡豆郡長良の善明丹宮で家康側に包囲されてあえなく全滅。
そこで堪りかねた松平党の三河武者が、浜松や伊勢からきている他所者の徳川党と戦ったが独力では無理なので、とうとう岡崎の松平衆は一向宗の力をかりたゆえ、
よって表むきは一向騒動となったのである。
そこで、その後は、三州岡崎城内においては、もはや家康に楯つく松平衆もいなくなったのである。
そこで堪りかねた松平党の三河武者が、浜松や伊勢からきている他所者の徳川党と戦ったが独力では無理なので、とうとう岡崎の松平衆は一向宗の力をかりたゆえ、
よって表むきは一向騒動となったのである。
そこで、その後は、三州岡崎城内においては、もはや家康に楯つく松平衆もいなくなったのである。
そして徳川家康に忠誠を誓うものは、松平姓でも、そのままにさし許され懐柔策はとられていた。
しかし合戦のときには徳川衆は『東三河衆』とよばせてこれを酒井忠次に率いさせ、旧三河武士の松平の残党はこれを『西三向衆』と呼ばせ仏門の石川数正に率いさせ区別した。
そして何時も危険な所や先陣はこの石川の西三河衆にさせていた。
だから堪り兼ねた石川数正は、小笠原秀政らを伴って、豊臣秀吉の許へ走ってしまった。
しかし合戦のときには徳川衆は『東三河衆』とよばせてこれを酒井忠次に率いさせ、旧三河武士の松平の残党はこれを『西三向衆』と呼ばせ仏門の石川数正に率いさせ区別した。
そして何時も危険な所や先陣はこの石川の西三河衆にさせていた。
だから堪り兼ねた石川数正は、小笠原秀政らを伴って、豊臣秀吉の許へ走ってしまった。
石川数正にしろ小笠原も、これらはみな亡き松平元康の家人ゆえ、その遺孤の岡崎三郎信康の成人を願って、心ならずも家康に仕え、
戦ともなれば、まっさきにいつも人間の楯や仕寄せのように用いられながら、それでも辛抱して奉公していた者たちである。
信康の武功が世の評判になり「これにて三河松平覚の御家も万々歳だ」とみな吻っと喜びあったのも東の間のこと。
やがて世に、信康が高名になったのを妬とんだ家康は、かねて当初よりの約定にて三州岡崎城を、三河一国と共に信康に戻してしまっては、
『これでは損をするし、それに自分の正体も、うかうかすれば露見すねかもしれない』と苦慮したか。
作を弄した家康は、天正七年九月十五日に遠州二股城にて、信康は、家康の奸計に陥し入れられて、殺された。
戦ともなれば、まっさきにいつも人間の楯や仕寄せのように用いられながら、それでも辛抱して奉公していた者たちである。
信康の武功が世の評判になり「これにて三河松平覚の御家も万々歳だ」とみな吻っと喜びあったのも東の間のこと。
やがて世に、信康が高名になったのを妬とんだ家康は、かねて当初よりの約定にて三州岡崎城を、三河一国と共に信康に戻してしまっては、
『これでは損をするし、それに自分の正体も、うかうかすれば露見すねかもしれない』と苦慮したか。
作を弄した家康は、天正七年九月十五日に遠州二股城にて、信康は、家康の奸計に陥し入れられて、殺された。