※本稿も長文です。NHKの大河ドラマを本物と思い込んでいる方は、その違いに驚かれるだろう。どちらを信じるかは読者の自由です。
しかし、興味のある方はプリントアウトして熟読するのもよろしいかと。尚、誤字脱字はご容赦。
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嗚呼!! 大忠臣・明智光秀 【第一部】
光秀の母の名は


〈総見記〉は別名を〈織田軍記〉ともいうが、これに、こう言う話が載っている。
「明智光秀は天正七年の五月に丹波へ進攻し、八田、波多、八折の諸城を落した。だが八上城の波多野一族だけは、あくまでも反抗して手をやいてしまった。
当時、西丹波から攻めこんだ秀吉は、僅か二十日間で平定して既に播磨へ凱旋していたから、東を攻略できぬ光秀は焦った。
そこで、五月二十八日に、己れの老母を人質として八上城へ送り、波多野兄弟を、光秀は、自分の本目(もとめ)の陣へ招いた。
ところが信長から召連れるようにと沙汰があったから、安土へ伴ったところ、信長は、波多野兄弟を、慈恩寺の門前で張付にかけて虐殺した。この報復として八上城の者は、
人質にきていた光秀の母を殺した。そこで世間の者は『なにも手柄をたてたい為に、自分の母を棄て殺しにすることはあるまい』と、光秀のことを『親殺し』とよんだ。
そこで、こうなったのは、みな信長のせいであると、この時から光秀は逆意を抱くに到った」というのが、その荒ら筋である。
「明智光秀は天正七年の五月に丹波へ進攻し、八田、波多、八折の諸城を落した。だが八上城の波多野一族だけは、あくまでも反抗して手をやいてしまった。
当時、西丹波から攻めこんだ秀吉は、僅か二十日間で平定して既に播磨へ凱旋していたから、東を攻略できぬ光秀は焦った。
そこで、五月二十八日に、己れの老母を人質として八上城へ送り、波多野兄弟を、光秀は、自分の本目(もとめ)の陣へ招いた。
ところが信長から召連れるようにと沙汰があったから、安土へ伴ったところ、信長は、波多野兄弟を、慈恩寺の門前で張付にかけて虐殺した。この報復として八上城の者は、
人質にきていた光秀の母を殺した。そこで世間の者は『なにも手柄をたてたい為に、自分の母を棄て殺しにすることはあるまい』と、光秀のことを『親殺し』とよんだ。
そこで、こうなったのは、みな信長のせいであると、この時から光秀は逆意を抱くに到った」というのが、その荒ら筋である。
〈柏崎物語〉にも、これと同巧異曲の話がのっている。
(ということは、つまり、どちらかが書き移したのであろう)なにしろ「信長殺し」を「母の仇討」にすると、いかにも恰好がつくらしい。
だから光秀びいきの者によって、この話は、よく引用され、まことの実話みたいにされる。
これの史料の裏づけとしては、ただ、〈太田信長公記〉巻十二の、「丹波国の波多野兄弟の張り付けの事」に、
「さる程に惟任日向守が押しつめ取りまき、三里四方に堀をつくり塀をたてて攻めたてたゆえ、波多野の城中は食がなくなり、切羽詰って転げ出てくる者も、
みな切り殺したから(生き残りの城兵は、なんとかして助かろうとして)波多野の城主兄弟三人の者〈調略〉を以て召し謔り(これを光秀の許へと届け自分らの命乞いをした)」
とあるのを、どう筆がすべってしまったのか、「調略」という言葉を間違えてしまったらしい。と故高柳光寿先生は、
(波多野の家来が切羽詰って、我が身可愛さに、その主人兄弟を瞞して捕えた)というのが本筋なのに、主格を取り違えてしまった。光秀が調略をした事にしたのだと、
解明している。さすがに立派な学者である。
(ということは、つまり、どちらかが書き移したのであろう)なにしろ「信長殺し」を「母の仇討」にすると、いかにも恰好がつくらしい。
だから光秀びいきの者によって、この話は、よく引用され、まことの実話みたいにされる。
これの史料の裏づけとしては、ただ、〈太田信長公記〉巻十二の、「丹波国の波多野兄弟の張り付けの事」に、
「さる程に惟任日向守が押しつめ取りまき、三里四方に堀をつくり塀をたてて攻めたてたゆえ、波多野の城中は食がなくなり、切羽詰って転げ出てくる者も、
みな切り殺したから(生き残りの城兵は、なんとかして助かろうとして)波多野の城主兄弟三人の者〈調略〉を以て召し謔り(これを光秀の許へと届け自分らの命乞いをした)」
とあるのを、どう筆がすべってしまったのか、「調略」という言葉を間違えてしまったらしい。と故高柳光寿先生は、
(波多野の家来が切羽詰って、我が身可愛さに、その主人兄弟を瞞して捕えた)というのが本筋なのに、主格を取り違えてしまった。光秀が調略をした事にしたのだと、
解明している。さすがに立派な学者である。
それなのに他は、「それなら母でも人質に出したことにしよう。波多野が殺されているから、その報復手段として人質の母も殺されよう。
そうなれば、光秀が無念に想って、母の敵討ちに本能寺へ押しかけたことになって判りやすいだろう」と、こしらえてしまったようである。
さて、これは、この問題とは無関係かも知れないが、「光秀の母」は誰であろうかということも、考えてみる必要がある。といって、なにしろ光秀の父の方も皆目判らない。
もちろん「系図」は色々ある。父の名は、〈続群書類従本〉の〈土岐系図〉は、監物助光国〈明智宮城家〉の〈相伝系図書〉は、玄蕃頭光綱〈鈴木叢書〉の〈明智系図〉は
玄蕃頭光隆〈系図纂要〉の〈明智一族〉は安芸守光綱となっている。このように各種によって皆相違している。
だがこんなにたくさんの父がいるということは、結局は、一人もいなかったに、ひとしい。
もし光秀の生母が、性業でも営んでいたのなら、一晩に何人もの男を順ぐりに送り迎えしたから、多分、この中の一人か、又は複合体かも知れないと言えるが、
そんな事はありえないから、これはその名を明らかにできない父ということになる。勿論母の方も不明である。
だが、双方がいなくては、まあ産れてくる筈はない。だから、初めは居たこと自体に間違いあるまい。
ただ判ることは、いやしくも「明智姓」を名のらせ、明智城内で育てられたからには、侍女や下女の子ではなく、これは明智一族の女の一人が、この世へ産み落した児らしいと言うことである。
この当時の東美濃可児郡明智城主は、「明智駿河守光継」という者である。彼には、娘が三人いた。どうも、この中の一人が生母ではあるまいかと想われる。
さて、これから私の推定であって、もちろん正確な引用は何も残っていない。しかし、「光秀」が、もし五十五歳で死んだものなら、その生れた年は、享禄元年となる。
すると、この時点では、光継の娘は一人は死に、一人は他へ嫁いで、明智城にいたのは三女しかいない。そして当時の結婚年齢は現代と違って、きわめて早い。
普通は十四、五歳で嫁いでいる。ところが、その享禄元年に、三女は既に十六歳になっていた。この時代なら、すでに嫁入りして赤児の一人や二人はいても可笑しくない年齢である。
それなのにこの三女は、何処へも嫁に行っていない。天文二年二月一日になって、ようやく二十一歳という当時では婚期を逸した年齢になってから、彼女はようやく稲葉山の井の口城へ行く。
この当時の東美濃可児郡明智城主は、「明智駿河守光継」という者である。彼には、娘が三人いた。どうも、この中の一人が生母ではあるまいかと想われる。
さて、これから私の推定であって、もちろん正確な引用は何も残っていない。しかし、「光秀」が、もし五十五歳で死んだものなら、その生れた年は、享禄元年となる。
すると、この時点では、光継の娘は一人は死に、一人は他へ嫁いで、明智城にいたのは三女しかいない。そして当時の結婚年齢は現代と違って、きわめて早い。
普通は十四、五歳で嫁いでいる。ところが、その享禄元年に、三女は既に十六歳になっていた。この時代なら、すでに嫁入りして赤児の一人や二人はいても可笑しくない年齢である。
それなのにこの三女は、何処へも嫁に行っていない。天文二年二月一日になって、ようやく二十一歳という当時では婚期を逸した年齢になってから、彼女はようやく稲葉山の井の口城へ行く。
斎藤道三の後添えである。「小見の方」という名であったと〈諸旧記〉にはある。
が、ふつうは当時の慣習で、「明智御前」とよばれていたのだろう。もちろん、彼女は自ら進んで嫁入りをしたのではない。
当時の美濃の国主の土岐頼芸が、まだ長井新九郎秀竜と名のっていた道三に、彼女を無理やり強制的に押しつけたのである。
ということは、そうした命令をされなければ、二十一になって平均嫁入り年齢を、すでに六、七年たっていたのに、小見の方には、他へ嫁ぐ気がなかったということになる。
つまり明智城に何かが在ったのか。当時の言葉でいえば「嫁にゆけない躰」になっていて「行かず後家」で生涯をおえる覚悟だったらしい。
が、ふつうは当時の慣習で、「明智御前」とよばれていたのだろう。もちろん、彼女は自ら進んで嫁入りをしたのではない。
当時の美濃の国主の土岐頼芸が、まだ長井新九郎秀竜と名のっていた道三に、彼女を無理やり強制的に押しつけたのである。
ということは、そうした命令をされなければ、二十一になって平均嫁入り年齢を、すでに六、七年たっていたのに、小見の方には、他へ嫁ぐ気がなかったということになる。
つまり明智城に何かが在ったのか。当時の言葉でいえば「嫁にゆけない躰」になっていて「行かず後家」で生涯をおえる覚悟だったらしい。
この発想は、蜂須賀家所蔵の光秀の短歌、「咲つづく花の梢を眺むれば、さながら雪の山かぜぞ吹(く)」によるものである。
この短冊は伝えられる処によると、同じ物が、まだ二、三残っているそうである。と言うことは、光秀が気に入っていて、所望されるたびに、この歌ばかりを、あちらこちらへ書き残したことになる。
が、この歌はたいして感心する程の叙景歌でもない。しかし当人にしてみれば、余程、印象が深かった情景に相違ない。
そうなると、人間が一番感受性にとむ年頃といえば、これは、やはり幼年期であろう。すると光秀少年の五、六歳位からの年代において、印象づけられるような出来事で、
しかも、山の雪風が、まだ吹いてくる花の季節といえば、これは天文二年の二月。現今の新暦ならば三月の、小見の方の嫁入りしかない。
この短冊は伝えられる処によると、同じ物が、まだ二、三残っているそうである。と言うことは、光秀が気に入っていて、所望されるたびに、この歌ばかりを、あちらこちらへ書き残したことになる。
が、この歌はたいして感心する程の叙景歌でもない。しかし当人にしてみれば、余程、印象が深かった情景に相違ない。
そうなると、人間が一番感受性にとむ年頃といえば、これは、やはり幼年期であろう。すると光秀少年の五、六歳位からの年代において、印象づけられるような出来事で、
しかも、山の雪風が、まだ吹いてくる花の季節といえば、これは天文二年の二月。現今の新暦ならば三月の、小見の方の嫁入りしかない。
だか、六歳の幼児にとって、小見の方が他所へ行ってしまうのか、何故、そこまで傷心のできごとで、大人になってからも、その追憶の歌ばかり書いていたのだろうか。
さて、小見の方は嫁して二年目に一女をうんだ。〈武将感状記〉にいう「濃姫」である。のち信長にとっいだ、奇蝶姫である。
そして天文二十年三月に、三十九歳で小見の方は死んでしまい、二十三歳の光秀は瓢然と当てもない流浪の旅に出てしまうのである。もちろん、
〈明智軍記〉では、その五年後の「弘治二年に斎藤竜興が明智城を攻めたから、城主明智宗宿が、わが子弥平次光春の前途を頼み光秀を、落城の寸前に逃がしてやる」事になっているが、
弥平次は秀満のことで、実父の三宅氏は別にいたのだし、斎藤竜興の名も、父親の義竜と間違えている。この俗書は、ついてゆけない。
さて、小見の方は嫁して二年目に一女をうんだ。〈武将感状記〉にいう「濃姫」である。のち信長にとっいだ、奇蝶姫である。
そして天文二十年三月に、三十九歳で小見の方は死んでしまい、二十三歳の光秀は瓢然と当てもない流浪の旅に出てしまうのである。もちろん、
〈明智軍記〉では、その五年後の「弘治二年に斎藤竜興が明智城を攻めたから、城主明智宗宿が、わが子弥平次光春の前途を頼み光秀を、落城の寸前に逃がしてやる」事になっているが、
弥平次は秀満のことで、実父の三宅氏は別にいたのだし、斎藤竜興の名も、父親の義竜と間違えている。この俗書は、ついてゆけない。
まだ、これよりは、〈細川家記〉の、「光秀は、自分は信長の室家(奥方)に縁があって、しきりに招かれているか、大禄を与えようとの誘いに、かえって躊躇している」
といった一節のほうが本当らしい。なにしろ美濃を併呑した信長は、占領政策として、東美濃の可児の豪族の血をひく、その室の奇蝶を岐阜へ伴った。
占領地には訴訟が多い。双方から多額の銀や銭が、奇蝶の許へ届けられたであろう。そう判ってくると、牢人していた光秀が、この時分から俄かに、いきなり金持になってしまって、
家来を沢山召し抱えたり、大邸宅を京にもうけ、信長を泊めて、対等の交際を始めだしたのかという謎も、これで、いくらか、とけてくるというものである。
前記したように、小見の方は光秀の母だが、斎藤道三に嫁いで帰蝶を生んだのだから、光秀と帰蝶は父親違いの兄妹ということになる。
さて、頼山陽の詩に、
「本能寺ノ溝ノ深サ幾尺ナルゾ。吾レ大事ニツクハ今タニアリ。チマキヲ手ニアリ皮ヲ併セテハムというのがある。〈日本外史〉
といった一節のほうが本当らしい。なにしろ美濃を併呑した信長は、占領政策として、東美濃の可児の豪族の血をひく、その室の奇蝶を岐阜へ伴った。
占領地には訴訟が多い。双方から多額の銀や銭が、奇蝶の許へ届けられたであろう。そう判ってくると、牢人していた光秀が、この時分から俄かに、いきなり金持になってしまって、
家来を沢山召し抱えたり、大邸宅を京にもうけ、信長を泊めて、対等の交際を始めだしたのかという謎も、これで、いくらか、とけてくるというものである。
前記したように、小見の方は光秀の母だが、斎藤道三に嫁いで帰蝶を生んだのだから、光秀と帰蝶は父親違いの兄妹ということになる。
さて、頼山陽の詩に、
「本能寺ノ溝ノ深サ幾尺ナルゾ。吾レ大事ニツクハ今タニアリ。チマキヲ手ニアリ皮ヲ併セテハムというのがある。〈日本外史〉
光秀が天正十年五月二十七日に亀山から愛宕山へ登って、その 夜は、そこに参籠し二度も三度も、神籤をひき、翌二十八日、山頂西ノ坊において、
連歌師里村紹巴らと百首つくる会をひらき、その席で光秀は、まず、「時は今、あめが下しる五月かな」と第一句をつくって、クーデターの決意を示したというのが、動かぬ証拠として、
「光秀謀叛計画説」の裏書きになる話で、太田牛一〈信長公記〉巻十五にも出ているから〈原文〉を参考に前に出しておいた。
つまり美濃は土岐管領(ひじきの旧名か正しい)の治めていた国だから、明智も土岐の支流であろう。だから、その(とき)が今こそ(天下)を握る五月であると、これは
「メーデー歌」の草分けだと、その謀叛の確固たる物証にされている。
もちろん、これには、まことしやかな挿話さえもっいている。光秀の死亡後、秀吉が、その証拠物件の懐紙を持参させたところ、里村紹巴は、
「御覧の通り、初めは(天が下なる)とありましたものを、後で(天が下しる)と、しに直されていましたので、私とても気付きませなんだ」と、自分は無関係であると弁解し、事なきを得たと伝わっている。
連歌師里村紹巴らと百首つくる会をひらき、その席で光秀は、まず、「時は今、あめが下しる五月かな」と第一句をつくって、クーデターの決意を示したというのが、動かぬ証拠として、
「光秀謀叛計画説」の裏書きになる話で、太田牛一〈信長公記〉巻十五にも出ているから〈原文〉を参考に前に出しておいた。
つまり美濃は土岐管領(ひじきの旧名か正しい)の治めていた国だから、明智も土岐の支流であろう。だから、その(とき)が今こそ(天下)を握る五月であると、これは
「メーデー歌」の草分けだと、その謀叛の確固たる物証にされている。
もちろん、これには、まことしやかな挿話さえもっいている。光秀の死亡後、秀吉が、その証拠物件の懐紙を持参させたところ、里村紹巴は、
「御覧の通り、初めは(天が下なる)とありましたものを、後で(天が下しる)と、しに直されていましたので、私とても気付きませなんだ」と、自分は無関係であると弁解し、事なきを得たと伝わっている。
しかし、不思議なことに、その里村紹巴は、その二日後つまり六月二日に二条御所にいた。まるで攻撃軍がくるのを予知していたように、彼は早朝からいたのである。
そして荷輿をもって誠仁親王を東口から避難させ、自分も同行している。これは、〈言経卿記〉にも記載されてある。偶然の一致だろうか。
なんだか、巡り合せが、できすぎている。それに、この連歌興行の日は、二十八日と二十九日の二説がある。
〈林鍾談〉などは二十八日から始めて、この夜一巡を終り、明朝また続けたと、二十九日説で、このとき名物だからと笹ちまきを出されたのを、光秀は放心状態で、
がぶりとやってしまい、おおいに赤面したというのが、転じて、〈頼山陽〉の「われ大事につくは今夕にあり」と、なるのである。
だが、この年は五月二十九日の翌日が、六月一日になるのだから、なんぼなんでも最終日に、「五月かな」と強調するのは訝しい。
どうしても月を入れたかったら、「六月かな」にしないと意味が通じない。
そして荷輿をもって誠仁親王を東口から避難させ、自分も同行している。これは、〈言経卿記〉にも記載されてある。偶然の一致だろうか。
なんだか、巡り合せが、できすぎている。それに、この連歌興行の日は、二十八日と二十九日の二説がある。
〈林鍾談〉などは二十八日から始めて、この夜一巡を終り、明朝また続けたと、二十九日説で、このとき名物だからと笹ちまきを出されたのを、光秀は放心状態で、
がぶりとやってしまい、おおいに赤面したというのが、転じて、〈頼山陽〉の「われ大事につくは今夕にあり」と、なるのである。
だが、この年は五月二十九日の翌日が、六月一日になるのだから、なんぼなんでも最終日に、「五月かな」と強調するのは訝しい。
どうしても月を入れたかったら、「六月かな」にしないと意味が通じない。
それに、もう一つ、虚心坦懐に、〈言経卿記〉の五月二十九日の天候をみると、この日は土砂降りである。五月雨というのがあるが、
この頃は陰暦だから、初夏の本降りである。「車軸を流すような」とか「天地が入れ換ったような」と表現される大雨なのである。
すると、のっけの発句に、「ときは今、まだ五月だというのに、天が下に逆になったような、えらい雨降りよなあ」と、よんだところで、これは自然なスケッチではなかろうか。
変にコジツケをするより遙かに、この方がシリアスである。それに光秀が、もし土岐氏を自称したいならば、この当時、前の美濃国主の土岐頼芸が流浪し、
美濃三人衆の稲葉一鉄が面倒をみているのだから、それを光秀が引取ってもよい筈である。ところが光秀は、差入れ一つしていない。
すこしも土岐氏といった古い家名に気をひかれていないのは、彼が土岐を名のった形跡が絶無なのでも判る。だから、これも訝しい。
それに「どき」とよむのは棒よみで、足利時代は「ひじき」といっている。次に「おみくじ」を何度もひいたから怪しいという説だって、何も現行のように一回につき十円ずつ払うわけではない。
おみくじの木筒を持ってこられたら、ガラガラと一回では愛想もないから、自分の外に、妻子の分も、ついでにひいたのかも知れない。
この頃は陰暦だから、初夏の本降りである。「車軸を流すような」とか「天地が入れ換ったような」と表現される大雨なのである。
すると、のっけの発句に、「ときは今、まだ五月だというのに、天が下に逆になったような、えらい雨降りよなあ」と、よんだところで、これは自然なスケッチではなかろうか。
変にコジツケをするより遙かに、この方がシリアスである。それに光秀が、もし土岐氏を自称したいならば、この当時、前の美濃国主の土岐頼芸が流浪し、
美濃三人衆の稲葉一鉄が面倒をみているのだから、それを光秀が引取ってもよい筈である。ところが光秀は、差入れ一つしていない。
すこしも土岐氏といった古い家名に気をひかれていないのは、彼が土岐を名のった形跡が絶無なのでも判る。だから、これも訝しい。
それに「どき」とよむのは棒よみで、足利時代は「ひじき」といっている。次に「おみくじ」を何度もひいたから怪しいという説だって、何も現行のように一回につき十円ずつ払うわけではない。
おみくじの木筒を持ってこられたら、ガラガラと一回では愛想もないから、自分の外に、妻子の分も、ついでにひいたのかも知れない。
笹ちまきを、笹ごと喰ったのが謀叛心のあった証拠だというか、現在のように大きく見せようと何枚も笹をまくような事は、当時はしていない。ただ一枚の青笹をまくきりである。
そして、これは延宝年間の、〈本朝和漢薬集成〉に、「眼疾、または腎虚に、笹の精を用う。刻みて餅につくか、これをまいて服す」とある。
腎虚つまり精力減退の方は、光秀の身体のそこは判らないが、〈曲直瀬道三の治療日誌〉の、「天正四年六月二十三日」に、「眼労、惟任日向守」という記載もあるし、
〈多聞院日記〉の「天正九年八月二十一日」には、
「去る七、八日に、惟任の妻の妹死す。惟任昨年来、眼疾治療のため当地に灸に通う」とも出ている。だから愛宕山でも、眼疾にきくという熊笹を攤いてこねたか、
又は喰べやすいように細く裂いたものを、巻きつけて、光秀には出したのであろう。だったら当時いうところの「薬喰い」で笹の葉の一枚ぐらいむしゃむしゃやったとしても当然の振舞いではなかろうか。
そして、これは延宝年間の、〈本朝和漢薬集成〉に、「眼疾、または腎虚に、笹の精を用う。刻みて餅につくか、これをまいて服す」とある。
腎虚つまり精力減退の方は、光秀の身体のそこは判らないが、〈曲直瀬道三の治療日誌〉の、「天正四年六月二十三日」に、「眼労、惟任日向守」という記載もあるし、
〈多聞院日記〉の「天正九年八月二十一日」には、
「去る七、八日に、惟任の妻の妹死す。惟任昨年来、眼疾治療のため当地に灸に通う」とも出ている。だから愛宕山でも、眼疾にきくという熊笹を攤いてこねたか、
又は喰べやすいように細く裂いたものを、巻きつけて、光秀には出したのであろう。だったら当時いうところの「薬喰い」で笹の葉の一枚ぐらいむしゃむしゃやったとしても当然の振舞いではなかろうか。
第二部へ続く。