新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本民族「はち族」の考察

2019-06-05 21:05:29 | 新日本意外史 古代から現代まで
日本民族「はち族」の考察

日本民族「はち族」の考察
幕末に流行し、現在、誰でもが知っている十返舎一九の「東海道中膝栗毛」がある。
二人の主人公、弥次郎兵衛と、喜多八の名前は実に意味深で、このヤの意味は、「八」ヤで海洋民族を指し、喜多八のキは、北を意味し、つまり北方から来た騎馬民族を指す。
徳川体制で弾圧され、双方の民族が故意に対立させられていたのを、過去の怨念を捨て「日本原住民が団結して」新しい時代を作ろうとした革命運動が「明治維新」なのである。
明治維新の詳細は、2018年8月30日の記事が以下にあるので、併読して頂きたい。
https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%CC%EF%BC%A1%B4%EE%C2%BF%C6%BB%C3%E6%B5%AD&sk=1
鉢開きの意味
さて、今では文字通りに解釈して、頭の鉢ひらきの人頭とする。この「ハチ」は安国寺文書によく出てくる鉢ひらきという熟語ゆへ、(藤吉郎、さりとて八の者にて・・・が有名)
別に「これは間違いだ」と異議を唱える説もでていない。
だが鉢とは凹んだもので頭は凸である。
大陸人の藤原氏の人々が、片っ端から漢字をもってきて当て字にして、日本の真実の歴史を判らなくしてしまったこれも、その一例なのである。
鉢は名古屋でいう塩尻、伊勢ではアマジリという。つまり八とよばれ海を渡ってきて日本に住み着いた古代海人族のことなのである。
 その八をひらくとは、反仏派の彼らを転宗させて、改めて仏教徒にし、心をひらかせる事なのです。
 安国寺のある備後福山では、寺の下の谷一帯は今も「別所」の地名がその儘なのであります。
 つまり八の者たちが討伐されて連行され、奴隷市場で売りさばかれたり、寺へ寄進された者達を、安国寺では寺奴隷として崖下に住まわせていましたが、どうしても転宗しない者たちも居た。
だから転宗せざるは処刑してまで、片つ端から鉢ひらきしたのです。
だがやむなく仏教に転んでも、奴隷の末裔ゆえ、安国寺は今ではは衰微してしまったが、その別所の地名だけは変らず残っているのです。
 ここの県道をバスでおりると、黒潮がぶつかってきて鯛が水中から浮き上る鞆の浦なのです。
 人見山へ移るまで15代将軍足利義昭が仮御所にしていた古い寺もあり、水面には彩色された中華風の仏閣も見えます。関ヶ原役で安国寺が潰されるまでは仏教系租借地だったのでありましょう。
 「鉢叩き」といわれ、持った鉢を叩き喜捨を貰う者と説明する歴史書もありますが、大変な間違いで、王朝時代は鬼への豆まきみたいに、
鉢の者は頭を叩かれて、その代償に食物の施しをうけていたものなのです。なにしろ今と違い食物のないハングリーな時代でした。
 後年、これが鬼にボールを投げ、ウーウーとなかせる遊びとなります。
 岡山や広島は昔の「中ツ国」で黒住、つまり中国系が多く住んでいた土地だから、ここへ連れこまれ囲地収容され、徹底的に苛め抜かれた吾ら八の先祖は噫無情というしかない。





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