板倉家の家紋 九曜巴紋
「板倉勝該はサンカ」
加賀騒動 大槻伝蔵
江戸城の刃傷史料として残されているのは七件となっている。 現代でも有名な浅野長矩が吉良義央に斬りつけ、殺人未遂となった事件は忠臣蔵として人口に膾炙されている。
時代順には以下のようになる。
寛永5(1628)年8月10日の豊島明重事件。→被害者:井上正就(老中)
貞享元(1684)年8月28日の稲葉正休事件。→被害者:堀田正俊(大老)
元禄14(1701)年3月14日の浅野長矩事件。→被害者:吉良義央(高家肝煎)
享保10(1725)年7月28日の水野忠恒事件。→被害者:毛利師就(長門長府藩主)
延享4(1747)年8月15日の板倉勝該事件。→被害者:細川宗孝(熊本藩主)
天明4(1784)年3月24日の佐野政言事件。→被害者:田沼意知(若年寄)
文政6(1823)年4月22日の松平外記事件。→被害者:旗本5名
さて、この中であまり知られて居ないが、徳川八代将軍吉宗が隠居してその子の紀州から入った家重が将軍となって三年目の延亨四年八月十五日の事。 旧暦では八月一日となる。 この日は「八朔」という祝いで、食料を作る八の民(海洋渡来系の民で、漁業や製塩造り)のための祝いで、当日は江戸城に総登城と定まっていた。 この行事は家康が江戸入部の時から、八の民が多く住む江戸の民の為に行われていた。
そして事件はこの日に起こった。
家康の古くからの家臣で板倉家というのがある。 この家は家康や秀忠の頃には、同じサンカ部族の出身ということで重用され、京の御所監視機関である京所司代を板倉勝重、息子の重宗と親子で勤めていた。
しかし家康、秀忠が歿し、三代家光の時代からは、徳川の血筋が仏教徒系に変わると彼らサンカ部族出身者は遠ざけられ、板倉家も例外ではなく、その領地三州吉田を国替えで、 武州岩槻、そこから翌年も又も信濃埴科の坂城へ移封となった。
ついで又も移封で、今度はサンカが多く住む陸奥信夫郡の福島三万石に半知減封となった。
これには当時の殿様だった板倉勝該も家臣団もおおいに憤慨した。
これはこの当時、徳川吉宗が全国的にサンカの弾圧政策を断行していて、この進言者が肥後の太守細川宗孝だと知れたから、板倉勝該としては含むところがあった。
だから千代田城内総登城の八朔の日を選び、細川宗孝を「おのれッ」と柄まで通れとばかりに突き刺し、刺殺してのけた。 徳川史観では、諸説在るも「刃傷理由は判明せず」となっている。
しかし、一国一城の主が、命を棄ててまで復仇したということは、尋常ではなく、徳川の政策が吉宗の子の代になっても過酷なサンカ弾圧が治まらなかったことへの覚悟の一刺しであった。
そしてこの板倉重宗の慶長年間からの家臣団はやはりサンカ集団だったので、福島城没収後は彼らは亡君の想いを継ぎ、東北各地へ散らばってサンカ集団の中に溶け込みとなった。
それゆえ、寛延元年三月には耶麻、小荒井。 翌二年には津軽大逃散。 三城潟三万人蜂起。 油井や白川35ケ村一揆。 信夫伊達67ケ村暴動。翌三年の耶麻から塙へかけての打ち壊しと、明治になるまで 溶け込み、居付きサンカの板倉浪人団が指揮する一揆が年中行事の如く毎年 繰返しては続き、板倉勝該の名をとって、勝該さま、「カッチャマ」の言葉を東北の山中では拝まれ語り継がれ、現代にも伝えている。 現在これらの反乱を百姓一揆と間違えているが、サンカの反乱なのである。
耐え忍ぶということが信条のサンカの歴史の中で、一身を投げ捨ててまで細川殺しを敢えてした板倉の遺霊が、今でも偲ばれているのは驚きである。
加賀騒動 大槻伝蔵
これは現在の歴史では、相変わらず改革派と守旧派の争いとなっているが全く違う。 真実は、朝鮮の血を引く吉宗将軍の子、家重の政策の問題なのである。 この当時朝鮮半島も大規模な旱魃で食糧不足が酷かった。
それゆえ、吉宗の血を引く家重が、幕府の収入増加を見込んで、二年前に加賀前田100万石を取り潰そうとしたが、 家臣である大槻伝蔵が、御家の為にと、一身に責めを負って、悪臣として処刑され、何とか取り潰しは免れた。
その時の、幕府への冥加金というかオトシマエの金額が壱万両だった。 家重は同じ朝鮮の血をひくために、この将軍御手元金を見舞金として朝鮮へ届けさせている。 記録では宝暦五年七月一日の事となっている。
そのくせ幕府では二年後の宝暦七年の、関八州大洪水、東北大飢饉に対して一文も出していない。
他国を厚遇し、自国民に対して冷酷な態度を取った家重を名君だ等と持ち上げている書物もあるが、とんでもない間違いである。 こういう棄民というか、棄て殺し政策がとられていた実態が判らないのだろう。
(注)竹内式部は日本史では以下のようになっているが何故に「幕府の忌憚にふれ」たのかの謎解きは出来ていない。
(勤王家。越後生。名は敬持。幕府の忌諱に触れ、明和四年八丈島に流されたが、船中病を発し、三宅島に歿す、54才。明治24年贈正四位。)
実際は、この幕府の態度を見かねた竹内式部が、
「将軍が朝鮮よりで、関東東北の餓死者を省みないのは不届きだ」と京の御所へ訴え出た。
この時聴聞していたというだけで、時の京所司代松平輝高によって正親町三条公積らの堂上公卿17人に咎を与え、全員を停官、隠居処分にした。
勿論、反体制ということで竹内は重追放にされ八丈島に流罪にされ、死なされてしまったのが実際のところである。 竹内はサンカを救うため命がけで頑張ったのでゆえ、同じサンカではないかと想う。 しかし皇国史観では竹内を勤皇の志士扱いで今は何も判らぬ。
竹内が始末された年には、山県大貳達も捕らえられ獄門首となってる。
日本史では江戸幕府に対する謀反などの罪で山県大貳、藤井右門、兄の昌樹らが捕えられ、処刑された倒幕思想の先駆けとなる事件。 幕府に対し最期まで大義名分を説き王政復古を唱えたとされる。となっているが、本当は山県もサンカで、徳川のサンカ狩りが酷いための倒幕運動で、江戸時代の家康、秀忠時代までのサンカは「やっと逃げ回る生活から解放される」と、 ホット安堵したのもつかの間で、仏教徒の血を引く家光以降は、毎年のようにサンカ狩が断行され、 その過酷さゆえに、各地の居付き、溶け込みサンカの隆起が多発したというのが、徳川300年の隠された歴史なのである。
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