日本埋蔵金考察 甲州埋蔵金は無い
テレビでは毎年恒例の「埋蔵金探し」番組をやっている。 にぎやかしのつもりか、馬鹿タレントを呼び、三流歴史屋の解説で相変わらず金が出るか出るかと、視聴者を引き付けながらの低俗番組である。 こんなことはもう二十年も前からの繰り返しで、結局金が出たためしはない。 先日も某局で、幕末、徳川の勘定奉行だった小栗上野介が、三百五十万両を赤城山中に隠したと、怪しげな古文書を元に探している民間人の健闘ぶりが放映された。 大体、常識で考えても判ることだが、列強に開国を迫られ弱体化していた幕府が、当時金はいくら在っても足りない状況なのに、隠すほど在ったと思う方が可笑しい。 隠したのではなく、掘り出したと見るのが正しい歴史観である。
日本の埋蔵金 甲州埋蔵金
徳川時代の270年間が、徳川慶喜の政治献金で有耶無耶にされ、現在に至っているのは周知の事実である。 だから維新後、 <民友社>を設立し<近世国民史>を刊行し、徳川時代の歴史を発掘しようとした、徳富蘇峯もこれには弱ったらしい。又、村岡素一郎は「史疑徳川家康事蹟」を同社から出した処、 華族会の強い要請で宮内庁より弾圧を受け、紙型もろとも在庫を買い上げられ、自発的に絶版にせざるを得なかった。 何故なら、それには、徳川家康はサンカ族、即ちの生まれであったと暴露したのである。 追いかけて村岡は執筆禁止処分にされ、五年後になると村岡の著書発表の年月に遡らせて「東京帝国大学版」と麗々しく大書された「松平記」が世に出された。
これを元に大河小説「徳川家康」を山岡荘八が書き、現代この本が歴史と誤られながらも定着している。
皇室の藩屏とされた、華族会長徳川家の先祖がエタでは困るから、国家予算で丸抱えの東大に明治政府が命令したのだろう。
皇室の藩屏とされた、華族会長徳川家の先祖がエタでは困るから、国家予算で丸抱えの東大に明治政府が命令したのだろう。
これの被害を蒙っているのは、岐阜城館長を勤めた、郷浩氏である。 信長美濃攻略は永禄七年と立証しても、天下の東大で認められぬとの回答である、と、県教育部に反対されて、岐阜県史は従来通りの永禄十年説なのである。 これは東大蔵版「松平記」の中の挿入の一章に、斉藤竜興が戦ったとする狂句があるからである。 永禄七年に三年掛かりで、しかも妻奇蝶の協力で美濃三人衆を味方引き入れやっと占領したのは事実である。 当時はまだ井の口城と呼んでいたのを二の丸にして信長は新たに岐阜城を建築中だった。この時竜興は長島へ逃げていたが普請中なのに目を付け一向宗長島門徒の力を借り、舟を連ねて長良川へ攻め込んで来たから、 中州の墨俣に砦を築き、これを織田方が食い止めたのである。 山岡荘八の種本となった松平記を作った、当時の東大史学科のしゃれっ気のある一人がさも尤もらしく書き加えた戯れ唄のために、郷浩は失意のうちに職を失い、それでも自費出版で刊行し”真実はこうだ”と提唱しても誰も相手にしない。 常識で考えても、ドイツから招聘された長州お抱え教師アドルフ・リースに作らせた開明学校が、後に明治政府の親衛隊とも言うべき官使養成のための東京帝国大学になったのゆえ、考えれば判る筈である。 さて、明治の文明開化と言っても、貿易は輸入がほとんどだった。
当時貿易決済は金だったが、急ごしらえの薩長政府に金などあるはずもない。 かっての日本には金が溢れていたのだが、この当時は底をついていた。 だから新政府は金に困っていたのである。 さて、水戸頼房は家康の十三男だが、資質を見込まれて御三家となった。そして大久保長安の隠匿金や、甲斐金の一切を託され、代わりに 「江戸定府」として、小石川の水戸屋敷に生涯詰めるようになっていて、 隠居すると後楽園で暮らすよう定まっていた。 だから、慶喜の父水戸斉昭は、その莫大な埋蔵金をもって、自分が将軍になろうとして、水戸京屋敷の鵜飼吉之助に勅旨を入手させた。 これが水戸の密勅事件である。後、安政の大獄となる。
慶喜も大目付滝川土佐と勘定奉行小栗上野介に命じて、実際にどれぐらいあるか検分させた。 荷駄に実物を積んで滝川土佐は江戸に運んだ。 慶喜はこれを見て、勝算有り。とふんだから、「討薩表」をかかげて 鳥羽伏見で開戦。 だが、関西では黄金は金として通用しないことを忘れたか、 幕府軍はあっさり敗北した。 目端の利く慶喜は さっさと脱走して、江戸へ帰ってしまう。 敗戦のもう一つの原因は、大阪天満に備蓄されてた、火薬の硝石が古く 湿気っていて、不発弾が多かったことである。
維新後新政府が金欠で難渋すると、 「世変わりすると、とかく前代のこと色々と批判され、素っ破ぬきされます。御仁慈をもって一切の暴露はきっと固く御停止されたく、謹んでこの段お縋り申し上げます」 と、参議岩倉具視と民部卿大木喬仁に陳情して約束を取り付けた。 慶喜は側室の父親で護衛をかっていた、火消しの親分新門辰五郎に埋蔵金掘り出しと献納を命じた。というのも、水戸人には天狗党を棄て殺しにして見放して居たため、恨まれていたし、旧幕臣も勝安房守以下全く 当てにならなかったので、江戸の火消しに頼ったのである。 辰五郎は慶喜の側の静岡を離れられないから、子分で帳面方の八助にいろは四十八組を引率させた。 この八助が大福帳の小さなのに詳しく日誌みたいなのを 書き付けていたのが、令孫の屋島伝助氏より貸与されたので、 この謎解きが出来たのである。 それによると 第一回は明治五年五月末に掘り出して搬入。
よって新政府は旱天の慈雨のごとく喜び、その礼に同年八月二十八日付けで、権現様の出自を隠すための<エタの称号廃止令> を布告しているのである。 第二回は明治九年十月二八日となっているから、神風連や萩の乱の時で、この時の献金で購入した鉄砲が、翌年の西南の役に使われたのだろう。勿論慶喜はこの時も、内務卿伊藤博文や司法卿大木喬任より 江戸期の一切に触れないと、政府誓書をとっている。 第三回は明治十五年七月の京城事件。 明治九年に、日朝修好条規という不平等条約を朝鮮に押しつけた。これは日本からの輸入品に課税できない、というものである。
ためにやむなく、朝鮮政府は日本商品を扱う業者に課税した。 これに日本は軍隊を送って、その課税処置を撤回させた。 こうした背景があり、朝鮮国内で半日感情が強くなり、兵士や市民による暴動が勃発し、日本は軍艦四隻、輸送船三隻で軍隊を京城に派遣した。 この時、清国と米国の仲裁で大事には至らなかったものの、後の日清戦争の火種となった。 だから、この時の軍事費に当てられたものと思われる。
第四回は日清戦争の軍艦購入に使われた。明治二十五年九月と続いて、その度に引き換えみたいに次々と新政府誓書を慶喜は受け取っていた。 だから徳川時代の一切が、慶喜の次々の献金で明治政府は一切を沈黙。江戸時代の暴露物は「幕末確定史料」に挿入の錦絵のごとく悪書として摘発没収焚書されている。 徳川時代は言うに及ばず、それ以前の物まで巡邏に押収され、ことごとく焼かれているから、日本史は隠匿の儘何も判らなくなってしまい、講談や芝居でしか伝承されず、謎の儘で今に到っている。 そして未だに埋蔵金を探している人がいるが、上記のごとく悉く掘り出しているので徒労に終わるしかない。令和の世に在るのは、国民の生き血を吸って肥え太っている蛭のような霞が関の官僚たちが隠している埋蔵金なのである。
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