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〝女ならでは世も明けぬ国〟日本列島
それでは、かつて六世紀や七世紀から始った敵対する二つの部族の争い(すなわち、大陸から渡来してきた部族と日本に前から住んでいた部族)が、どのようにその反撥さを増長させたのか、ということを考えてみる必要がどうしてもありましょう。 しかしこのことに正確に答えるには、日本の原住民史をまず解明するしかないようです。
西暦4世紀までの日本列島は、「女ならでは世も明けぬ国」といわれるような〝女尊男卑の社会〟で、シャアマニズムとよぶ呪術をもつ神子(みこ)によって一集落ごとが海に近い山に分かれて住っていました。
それでは、かつて六世紀や七世紀から始った敵対する二つの部族の争い(すなわち、大陸から渡来してきた部族と日本に前から住んでいた部族)が、どのようにその反撥さを増長させたのか、ということを考えてみる必要がどうしてもありましょう。 しかしこのことに正確に答えるには、日本の原住民史をまず解明するしかないようです。
西暦4世紀までの日本列島は、「女ならでは世も明けぬ国」といわれるような〝女尊男卑の社会〟で、シャアマニズムとよぶ呪術をもつ神子(みこ)によって一集落ごとが海に近い山に分かれて住っていました。
耶馬台、耶馬台壱のヒミコらも火の御子で、そうした「ヤマノカミ」の一人だったのです。これを引き続いて統合しかけたのを天の朝といいます。 ところが、そこへ沿海州満州方面から、「元」をのちには建国するヂンギス汗の先祖みたいなのが、北鮮の羅津あたりから裏日本へ入ってきたものらしく、これが世にいう、「騎馬民族」で、馬に跨っている男にはかなわず、シャアマニズムの女の御子でも痺れてしまったのでしょう。これがやがて結合してしまったのは、騎馬民族の崇神帝の孫の景行帝と、天の朝の八坂姫が婚姻されたのでも判ります。詳しくは私の『日本原住民史』にも書いてありますけれど、やがて仁徳王朝の世になりますとこれは北鮮系の高句麗などとは仲の悪い南鮮系の百済系ゆえ、それまでの天の朝系と騎馬民族系は共に反体制的な立場におかれてしまうのです。
そして天の朝の最後の女帝を、故意に(イのつく)伊勢の(イのつく)五十鈴川の畔へ移し、 「さわらぬ神に祟りなし」と、怨念を恐れた彼らは祀ったのです。 ところが中国に隋を滅ぼした唐の国が勃興してきました。これが百済や高句麗を滅ぼして、いわばそれらの植民地であったと想像される当時の日本列島へもやがて進駐してきたのです。 その頃は風光明媚で人間は穏やかな日本は、彼らの目にはこの世の「桃源境」と見えたのでしょう。そこで渡来した彼らは、 「桃源」を名乗り、これが「藤原」となったのは前にも述べました。そうなると、それまでの百済系は、もはや戻りたくても祖国はないので、進駐軍にまっ先に降参してしまったのでこれを日本歴史では、「帰化人」として扱います。しかし、その頃、日本列島に立派な日本国があって、それに亡命してきて保護されたというのではありますまい。
つまり彼らは交替した権力者の藤原氏に対して帰化させて貰っただけのことです。ですから百済系は兵となり工人となったり、農耕民族ともなりました。 つまり藤原体制が確立して,陽成帝を、藤原基経が廃立してしまった時点において、征服者と被征服者に分けてしまえば、百済系もやはり原住系の中に入るのであります。しかし、それでも実際は、飛鳥朝や奈良朝を築いていた百済系はまだまだ潜勢力をもっていました。
◆この時代の歴史に登場する〝偉大な、日本臣民の鑑〟とされる和気清麻呂を、ひとつ例に引いてみましょう。
この日本臣民の鑑の和気清麻呂の和気姓を詳細に調べていきますと、≪続日本紀≫や≪新撰姓氏録≫では、百済国純陀太子の子孫が和気姓なり、となっているのです。 また、≪日本書記≫には、百済王族斯我君の裔となっているのです。そして、≪延喜式≫による平野祭神のうち、韓国系の和気氏の今木神が、<祝詞式>には「皇大御神」に変化するのだとさえ明記されてあります。 そして、この恒武帝の御代というのは、妃はみな百済王の姫教法、百済の永継姫と韓国系の女性ですし、後の嵯峨帝の御妃も、百済の姫の貴命であったとでています。 また、坂上田村磨や菅原道真の祖の菅原朝臣真道も、みな明白な百済系なのです。のち和気氏はイとは違うヰを用いるイの姓に変わりますのも、やはり藤原氏の圧迫によるからでありましょう。
結び合う姓、反撥し合う姓
結び合う姓、反撥し合う姓
さて、西暦七八〇年。オルレアンならぬ秋田から和製ジャンヌダルクのアタマロが立ちあがったのです。ときに三月三日、桃の花で馬の鞍を飾った彼女は、白山神の白旗を振り、白酒を飲み、藤原氏の坊主を宣教師とする軍勢に押しまくられて逃げてきた日本原住系の、諸部族の男をば叱咤激励し反撃を開始しました。このことは、≪日本書記≫に、三月二十二日ついに仏経側の東北司令官の百済系の武人紀広純、がこれに敗死した。ということで負け戦が記録されています。
さて、彼女は西へ西へと軍を進め。「神の啓示のもと討てや進め」と、剣をふるって陣頭にたち、箱根の山を越えて進撃したのです。 この、破竹の勢いで攻めこんでくる黒髪の女軍を防ぎかねた藤原氏の仏経政権は、ここに富士山頂をもって境界線となし、清見潟一帯に東と西に朝鮮の三十八度線みたいなラインを作り、日本列島を二分したのです。 このときに、大陸からの者の姓を、津、葛井、船方氏というように統合したのです。 これがつまり、ウ,ク,ス,ツ,ヌ,フ,ム,ユ,ルと渡来大陸人(藤原船舶系)の姓氏はここに一列となりました。
<したがって、例えば(ウ)植木、(ク)久里、(ス)須藤、(ツ)津田、(ヌ)沼井、(フ)舟橋、(ム)村上、(ユ)湯川、といった姓は、パリパリの男尊女卑の大陸からの人種で、男性も髭が少なくて美男系が多いのはこのためです>つまり、
西は、大陸からの外来の人種による〝男尊女卑国〟。 東は、日本原住民族による〝女尊男卑国〟と、ここに分かれたのです。 藤原政権が山背の国の天険の長岡へ、大戦中の松代本営のごとく疎開した八世紀のことであります。
さて、彼女は西へ西へと軍を進め。「神の啓示のもと討てや進め」と、剣をふるって陣頭にたち、箱根の山を越えて進撃したのです。 この、破竹の勢いで攻めこんでくる黒髪の女軍を防ぎかねた藤原氏の仏経政権は、ここに富士山頂をもって境界線となし、清見潟一帯に東と西に朝鮮の三十八度線みたいなラインを作り、日本列島を二分したのです。 このときに、大陸からの者の姓を、津、葛井、船方氏というように統合したのです。 これがつまり、ウ,ク,ス,ツ,ヌ,フ,ム,ユ,ルと渡来大陸人(藤原船舶系)の姓氏はここに一列となりました。
<したがって、例えば(ウ)植木、(ク)久里、(ス)須藤、(ツ)津田、(ヌ)沼井、(フ)舟橋、(ム)村上、(ユ)湯川、といった姓は、パリパリの男尊女卑の大陸からの人種で、男性も髭が少なくて美男系が多いのはこのためです>つまり、
西は、大陸からの外来の人種による〝男尊女卑国〟。 東は、日本原住民族による〝女尊男卑国〟と、ここに分かれたのです。 藤原政権が山背の国の天険の長岡へ、大戦中の松代本営のごとく疎開した八世紀のことであります。
さて、このため西側は、それまで動員してきた大陸人の外、新渡来の今来漢人らをも加えた大陸人を≪日本書記≫には、「弓月君、百二十県の人民及び軍夫を従えて来たる」とありますが、その他にも、進駐してきた人々に、宇佐、黒木、菅原、舟橋などといった姓を与え、これを後に「天武帝八色の姓」とも総括しています。 これに対して、東の土着原住日本系は、イ、アール、サン、スウなる唐の算数を用いるのを潔しとせず,各々の出身地別に並べた部族の地名をとって数える記号とし、それを上の名乗りにしたのが、原住側の姓の起源です。
つまり、秋田のアタマロが女将でしたから第一列軍団はア族。
つまり、秋田のアタマロが女将でしたから第一列軍団はア族。
次は白山神の本山の加賀の国から来たのが第二のカ族(これは加賀の金沢ですが今は石川県にされています)。サは、酒田のある今の山形県の部隊。といったように、アカサタナの出身地別に兵を順番に並べて「番号ッ」と号令をかけると、一、二、三、四の代りに、 「ア,カ、サ、タ、ナ」とやっていたのが、アイウエオの起源でありまして、関西では十進法だったのですが関東では、「五人組」とか「隊伍」とか「伍長」と五を一つの単位にしたのもこのわけであります。
アイウエオのまん中にウクスツヌが入るのも、彼らは藤原体制を倒し捕虜にするための呪いだったのかもしれません。ですから西では貨幣も、「銀何十何匁」とやはり今と同じに十進法ですのに、関東ではウクスを捕虜に仕損ねた怨念が、アイウエオから抜きにしますと四なので、世界でも珍しい四進法をもっていました。つまり、一両は四分で、一分は四朱という明治まで守られた勘定法です。
さて、どこの国でも一民族一字といわれていてその文字は形式化された華文字はあっても、一通りしかないものなのです。なのに、日本だけは、まったく違う真名書(漢字)、平仮名、片仮名の三通りがあります。もちろん判りきった事ですが、 「本字」と呼ばれていた漢字は、唐の国から入ってきたものです。それでは平仮名はといえば、これは印度文字からの転化とも、契丹文字の変型ともいわれています。
アイウエオのまん中にウクスツヌが入るのも、彼らは藤原体制を倒し捕虜にするための呪いだったのかもしれません。ですから西では貨幣も、「銀何十何匁」とやはり今と同じに十進法ですのに、関東ではウクスを捕虜に仕損ねた怨念が、アイウエオから抜きにしますと四なので、世界でも珍しい四進法をもっていました。つまり、一両は四分で、一分は四朱という明治まで守られた勘定法です。
さて、どこの国でも一民族一字といわれていてその文字は形式化された華文字はあっても、一通りしかないものなのです。なのに、日本だけは、まったく違う真名書(漢字)、平仮名、片仮名の三通りがあります。もちろん判りきった事ですが、 「本字」と呼ばれていた漢字は、唐の国から入ってきたものです。それでは平仮名はといえば、これは印度文字からの転化とも、契丹文字の変型ともいわれています。
しかし片仮名だけは、何処から入ってきた文字というようなことはいわれていません。 それどころか、片仮名を使った場合は、 「金釘流をかく」とまで昔は蔑まれたものです。そして江戸時代のごときは、片仮名は白文とよばれる漢文への補助の送り仮名としてしか、正式に用いられず、まったく無視されてきたのであります。
しかし純日本系の団結を叫び、唐より輸入の銅金の茶杓子や茶匙を排撃し、素朴な日本の竹による道具によって、 「わびの茶」を提唱しだした千の宗易たちは、敢えて片仮名だけを用いて憚りませんでした。
なにしろ秀吉に殺された宗易のものだけでなく、やはり鼻を削られ耳をむしり取られて殺されたその門下の山下宗二の書き残したものや、本職が皮はぎだった松屋久政の「茶会記」なども、みな片仮名で綴られているのです。つまりこれをみても、片仮名こそ日本原住民系の文字であったことの裏付けでしょう。
姓を文字で現わせば、それさえ漢字、平仮名,片仮名と三通りもあるように、日本民族は複合し入りまじっているのです。 このように、姓には、「互いに固く同盟しあう姓」「不倶戴天の敵ともいえる反撥しあう姓」「あまり衝突し合わない無難な姓」というような、区別があって一定に方則で決まっていることが、これまで多くの実例や歴史考証によって,どうにかお判りいただけたことと思います。
註◆(しかしここで注意したいことは幕末までは、たとえば、土佐の国のように掛川城主山内一豊が入部し て、殿様がヤ姓になると、その領内地名から新しい家臣の姓までがアカサタナハマヤラワになってしまう土地柄もあるし、備前のように池田新太郎が殿様になると、イキシチ二ヒミイで家臣や住民の姓を統一してしまう地帯もあるのですから、幕末までの先祖が何処にいたかも一考を要します。
しかし純日本系の団結を叫び、唐より輸入の銅金の茶杓子や茶匙を排撃し、素朴な日本の竹による道具によって、 「わびの茶」を提唱しだした千の宗易たちは、敢えて片仮名だけを用いて憚りませんでした。
なにしろ秀吉に殺された宗易のものだけでなく、やはり鼻を削られ耳をむしり取られて殺されたその門下の山下宗二の書き残したものや、本職が皮はぎだった松屋久政の「茶会記」なども、みな片仮名で綴られているのです。つまりこれをみても、片仮名こそ日本原住民系の文字であったことの裏付けでしょう。
姓を文字で現わせば、それさえ漢字、平仮名,片仮名と三通りもあるように、日本民族は複合し入りまじっているのです。 このように、姓には、「互いに固く同盟しあう姓」「不倶戴天の敵ともいえる反撥しあう姓」「あまり衝突し合わない無難な姓」というような、区別があって一定に方則で決まっていることが、これまで多くの実例や歴史考証によって,どうにかお判りいただけたことと思います。
註◆(しかしここで注意したいことは幕末までは、たとえば、土佐の国のように掛川城主山内一豊が入部し て、殿様がヤ姓になると、その領内地名から新しい家臣の姓までがアカサタナハマヤラワになってしまう土地柄もあるし、備前のように池田新太郎が殿様になると、イキシチ二ヒミイで家臣や住民の姓を統一してしまう地帯もあるのですから、幕末までの先祖が何処にいたかも一考を要します。
しかし、寺にある墓でも判別はつきます。旧幕時代まで神徒系は火葬で、神棚に骨壷をまつって墓石は なかったのだから、もし江戸期の年号の墓があれば仏教徒系のイ姓列ウ姓列型。そうでなくて、もしお宅が「先祖代々の墓」というのが明治以降に建てられていたならば、その家系はかつては、そうではなかった、つまり非仏教徒派だったものと思えば間違いないのです。 何故かといえば、明治になって、急にひとまとめにして先祖代々を一つの墓にして祀ったということは、そ れまで貧しく墓石が購入できなかったのではないのでしょうから、急にお寺さん側へ転宗したことをそれは 意味しているからです。)
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