明治政府の大陰謀
仇討の奨励は明治から
仇討の奨励は明治から
維新後、明治政府は、近代化を図るため、欧米に追い付けとばかりに、富国強兵政策をとった。
そして、徳川三百年の惰眠をむさぼって、平和ボケの国民に対して、政府は国民改良政策を図った。
だが、国民思想向上を難しく説いても判るまいと、銭儲けにだけは血眼な愚民大衆に対する啓蒙というか、煽動というべきか、
明治三十年には「(明治)金儲け三十箇条」なる本を明治軍部が黒幕になって、多く広める為に、定価十銭で刊行した。
「十銭で、金儲けが出来るのなら」と、当時としては大変なベストセラーになった。
もちろん、本当の狙いは、明治二十七、二十八年の日清戦争で、国民の多くを召集して戦死させてしまい、
国民の問に反戦気分が広がり、それが反戦運動へと発展するのを警戒して、国民の意気昂上を狙い、
「あれから二年たつ、戦時下の苦しさなどいつまでも続くものではない。そんな事にこだわって何時までもグチグチしていては貧乏からは立ちヒれぬ。
御国が儲かれば結果的に国民も富裕になってゆくのだから、日清戦争で家族が戦死して滅入っている者も、ここで褌をしめ直して国益に結びつくような金儲けを考えて、
皆が努力して専心せねばならないのである」とした。
この際、イロハ歌留多の「喉元過ぎれば、熱さを忘れる」を引用して、どんな苦しみも一時だけなのだと、大いに喧伝した。
もちろん、本当の狙いは、明治二十七、二十八年の日清戦争で、国民の多くを召集して戦死させてしまい、
国民の問に反戦気分が広がり、それが反戦運動へと発展するのを警戒して、国民の意気昂上を狙い、
「あれから二年たつ、戦時下の苦しさなどいつまでも続くものではない。そんな事にこだわって何時までもグチグチしていては貧乏からは立ちヒれぬ。
御国が儲かれば結果的に国民も富裕になってゆくのだから、日清戦争で家族が戦死して滅入っている者も、ここで褌をしめ直して国益に結びつくような金儲けを考えて、
皆が努力して専心せねばならないのである」とした。
この際、イロハ歌留多の「喉元過ぎれば、熱さを忘れる」を引用して、どんな苦しみも一時だけなのだと、大いに喧伝した。
浪花節の由来
この明治三十年というのは、せっかく日清戦争に勝って、遼束半島まで李鴻章に割譲させて、
「大連を、香港なみの国際自由港の都市にして、しこたま外貨を稼ぎ、世界の強国となろう」と軍部は計画していたのである。
何しろ、この日本国は、七世紀から事実上のオカミだった中国と対等の関係となりえて、今後は目の上の夕ンコブがとれたから、アジアに雄飛しようと目論んでいたのである。
処が「三国干渉」となって、ロシア、フランス、ドイツから「遼東半島は中国へ宜しく返すべきである」と藪から棒に指図してきたのである。
「そんな莫迦なことは出来ない」と交渉したが駄目だった。といって三国相手に戦う国力はなかった。
泣きの泪で、やむなく明治軍部は、泣く子と世界の三大強国に勝てぬから、承諾せざるをえなかった。
「大連を、香港なみの国際自由港の都市にして、しこたま外貨を稼ぎ、世界の強国となろう」と軍部は計画していたのである。
何しろ、この日本国は、七世紀から事実上のオカミだった中国と対等の関係となりえて、今後は目の上の夕ンコブがとれたから、アジアに雄飛しようと目論んでいたのである。
処が「三国干渉」となって、ロシア、フランス、ドイツから「遼東半島は中国へ宜しく返すべきである」と藪から棒に指図してきたのである。
「そんな莫迦なことは出来ない」と交渉したが駄目だった。といって三国相手に戦う国力はなかった。
泣きの泪で、やむなく明治軍部は、泣く子と世界の三大強国に勝てぬから、承諾せざるをえなかった。
しかし、この怨み、いかで晴らさでおくべきかと、明治軍部は決心をした。だが困った事に七世紀に建国の統一をなし、それまでの先住原住民共を奴隷にして、
絶対に反抗せぬように治安維持のために、「復仇心」というものを徹底的に抑圧してきて千二百年もたってしまっている。
他の国に、取り戻されたからには、なにがなんでも奪い返せといっても駄目である。
そこで金儲けしたければ、なんでもかんでも、御国の利益、つまり国益に結びつくことをやるべしと、
三十箇条によって国民の意識改革に、十の処で倍はむりでも、十五ぐらいは努力すれば儲かるとしたのである。
これが明治軍部より富国強兵策として、日本国民大衆に与える書だった。しかし、それくらいでは駄目だと考え「仇討精神」をこれまでなかったものだけに、おおいに普及宣伝した。
絶対に反抗せぬように治安維持のために、「復仇心」というものを徹底的に抑圧してきて千二百年もたってしまっている。
他の国に、取り戻されたからには、なにがなんでも奪い返せといっても駄目である。
そこで金儲けしたければ、なんでもかんでも、御国の利益、つまり国益に結びつくことをやるべしと、
三十箇条によって国民の意識改革に、十の処で倍はむりでも、十五ぐらいは努力すれば儲かるとしたのである。
これが明治軍部より富国強兵策として、日本国民大衆に与える書だった。しかし、それくらいでは駄目だと考え「仇討精神」をこれまでなかったものだけに、おおいに普及宣伝した。
のちに大衆作家として令名のでた直木三十五に、関東よりは関西にそうした復讐の怨みつらみの下地があるのではないかと、
大阪でプラトン社を後に創立させ、試みに「仇討十種」という舞文曲筆のものを面白くかかせるのに、破格の稿料をオカミから補助したのは知られている。
「一富士、二鷹」の仇討讃美ものも作り「仇討番付」というのも相撲番付の真似で石版刷で何万枚と刷らせ、単なる果し合いを「仇討免許状」という、
殺しのライセンスに美化したようなものまで作らせた。
これが元になって現在でも映画やテレビの仇討時代劇が放映されているのである。
封建時代は、主命によってのみ、抜刀や殺しは出来なかった厳しい掟が在ったので、他は復仇禁止の国民性変革のため明治軍部は苦慮したのである。
大阪でプラトン社を後に創立させ、試みに「仇討十種」という舞文曲筆のものを面白くかかせるのに、破格の稿料をオカミから補助したのは知られている。
「一富士、二鷹」の仇討讃美ものも作り「仇討番付」というのも相撲番付の真似で石版刷で何万枚と刷らせ、単なる果し合いを「仇討免許状」という、
殺しのライセンスに美化したようなものまで作らせた。
これが元になって現在でも映画やテレビの仇討時代劇が放映されているのである。
封建時代は、主命によってのみ、抜刀や殺しは出来なかった厳しい掟が在ったので、他は復仇禁止の国民性変革のため明治軍部は苦慮したのである。
しかし明治時代ゆえ本をよむような大衆はあまりいない。そこで憂国の志士の頭山満翁が考えて、筆のたつ連中や講談速記の作家をあつめ[赤穂義士銘々伝]を作らせ、
当時はチョボクレといって門付の乞食芸人だったデロレンに、節まわしや啖呵を入れて勇壮に語らせた。
どうしても復讐心のある関西からがよかろうとなって、みっちりと大阪で、大道芸から脱却するよう修業させ、一年間の猛稽古をさせてから改名させて東京へよぶと、
当時は大劇場だった日本橋浜町の明治座で蓋をあけ、西からというので、新しく『浪花節』と命名して宣伝した。
しかし、馴染がない朿京人にしては、落語のように色気もないし面白くないと、誰も行かずだった。
当時はチョボクレといって門付の乞食芸人だったデロレンに、節まわしや啖呵を入れて勇壮に語らせた。
どうしても復讐心のある関西からがよかろうとなって、みっちりと大阪で、大道芸から脱却するよう修業させ、一年間の猛稽古をさせてから改名させて東京へよぶと、
当時は大劇場だった日本橋浜町の明治座で蓋をあけ、西からというので、新しく『浪花節』と命名して宣伝した。
しかし、馴染がない朿京人にしては、落語のように色気もないし面白くないと、誰も行かずだった。
これではいかぬと明治軍部は周章てて軍の機密費から大金をだして、在京の各新聞に「大入り満員」の広告を出した。
それも新聞紙半頁大桃中軒雲右衛門の総髪紋付姿の人きな写真を掲載しての派手さだった。
現在のアイドル新人売込み作戦の元祖は、頭山満先生と明治軍部なのである。
数人しか客がいないまばらな客席に向かって熱演する桃中軒雲右衛門も辛かっだろうが、半面大の各紙の広告が連日でると、物見高いのは江戸の常。
それに五千枚からの大きなビラを製作である。それには「ビラ下」という青札、つまり無料入場券を二枚から三枚も陸軍軍務局がつけたから、
三日目からは無料の客ばかりだが、文字通り大入りとなって立見まで出る有様となった。
まだ明治三十年には流行歌もあまりなかった。そこで、ビラ下で無料で入場した連中が通っている内に、「何が何してなんとやら~」といった唄の節廻しに語りかけの啖呵が入っているのにひかれて、
出前持ちまでが口ずさむようになり、呑み屋などでは酔うと、銘銘伝を次々と唸り出すようになってきた。
それも新聞紙半頁大桃中軒雲右衛門の総髪紋付姿の人きな写真を掲載しての派手さだった。
現在のアイドル新人売込み作戦の元祖は、頭山満先生と明治軍部なのである。
数人しか客がいないまばらな客席に向かって熱演する桃中軒雲右衛門も辛かっだろうが、半面大の各紙の広告が連日でると、物見高いのは江戸の常。
それに五千枚からの大きなビラを製作である。それには「ビラ下」という青札、つまり無料入場券を二枚から三枚も陸軍軍務局がつけたから、
三日目からは無料の客ばかりだが、文字通り大入りとなって立見まで出る有様となった。
まだ明治三十年には流行歌もあまりなかった。そこで、ビラ下で無料で入場した連中が通っている内に、「何が何してなんとやら~」といった唄の節廻しに語りかけの啖呵が入っているのにひかれて、
出前持ちまでが口ずさむようになり、呑み屋などでは酔うと、銘銘伝を次々と唸り出すようになってきた。
赤穂浪士だけでなく、芝居も五郎十郎の曾我の仇討ちものを上演した。
「岩見重太郎の狒々の仇討」とか「田宮坊太郎の仇討」と、当時は、文庫本ではなく「豆本」と呼んだが、これがみな節婦の仇討、孝子の敵討もので極彩色の表紙で夜店の本屋にも並んだ。
まるで昔から仇討ばやりみたいに錯党させる有様で、親兄弟が討たれたら仕返しするのが武士道とされ、オカミの軍と官が一致協力して、義務教育で学校でも叩きこんで教えこんだから、
僅か七年で、それまで千余年もの長きにわたって、どんな目に逢わされ苛酷に扱われても、
「恨みに想ってはいけない」「仕返ししようなどと、不逞な野心を抱くだけでも死罪である」と徹底的な被征服民弾圧をされ続けてきて、
復讐などとは思いもよらない国民体質に飼い馴らされていた日本人が、「臥薪嘗胆」の義務教育をされ、国中あげて復讐の鬼のごとくに変わったのである。
「岩見重太郎の狒々の仇討」とか「田宮坊太郎の仇討」と、当時は、文庫本ではなく「豆本」と呼んだが、これがみな節婦の仇討、孝子の敵討もので極彩色の表紙で夜店の本屋にも並んだ。
まるで昔から仇討ばやりみたいに錯党させる有様で、親兄弟が討たれたら仕返しするのが武士道とされ、オカミの軍と官が一致協力して、義務教育で学校でも叩きこんで教えこんだから、
僅か七年で、それまで千余年もの長きにわたって、どんな目に逢わされ苛酷に扱われても、
「恨みに想ってはいけない」「仕返ししようなどと、不逞な野心を抱くだけでも死罪である」と徹底的な被征服民弾圧をされ続けてきて、
復讐などとは思いもよらない国民体質に飼い馴らされていた日本人が、「臥薪嘗胆」の義務教育をされ、国中あげて復讐の鬼のごとくに変わったのである。
なにしろ十二世紀もの問、何処へも逃げられぬ島国なのである。だから屈するか殺されるかの、どっちかでしかない。
ゆえ恭順を装って紛らわすしかない先住民ゆえ、やむなく奴隷として差別され続けできて、仇討ちとか復仇とは芝居か講談の絵空事としか思っていない明治の哀れな人民共である。
それを僅かたったの七年だけで、ロシアに仕返しするために仇討ちに死んでゆけと叩きこんでしまったのは、義務でさせた教育にしろ怖ろしい力があったものである。
ゆえ恭順を装って紛らわすしかない先住民ゆえ、やむなく奴隷として差別され続けできて、仇討ちとか復仇とは芝居か講談の絵空事としか思っていない明治の哀れな人民共である。
それを僅かたったの七年だけで、ロシアに仕返しするために仇討ちに死んでゆけと叩きこんでしまったのは、義務でさせた教育にしろ怖ろしい力があったものである。
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