新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

新選組と芹沢鴨 「新選組史録」

2021-05-24 17:54:37 | 新日本意外史 古代から現代まで




新選組と芹沢鴨




「新選組史録」



さて、「新選組史録」という本が刊行されている。
 平尾道雄は今を去る1928年に『新選組史』を出し、その後二十五年後に、その改訂版を出し、またまたその改訂版を出しだのがこれである。


 私蔵の二回目のものに比べると、さすが四分の一世紀かけただげあって、これは完ぺきに図版から名鑑表まで揃っている。
 研究書としては、一人の人間が四十年の余うちこんだ精魂こめた労作として、これは認められるべきであろう。
 とまず敬意は表するが、おかしい点はすこしも直っていない。


「文久三年に殺される芹沢鴨」が、翌元治元年年六月に、はじめて世にあらわれてくる天狗党のくずれなどとでているのは、ご本人はどう思っているのだろうか。
このため映画の「新選組」までが、「天狗党くずれの芹沢鴨」とやってしまっている。
 
芹沢鴨というのは「長岡屯集党くずれの木村継次」が、安政の大獄で水戸烈公一派と目されて、駿河町奉行を追われた鵜殿民部小輔(追放隠居後は鳩翁)の率いる浪士組に、
水戸の山国・武田の激派の命令で変名加入し、京都で水戸の別動隊を作ろうとしたのが、文久三年の政変で長州が追われたとばっちりで彼らも、
会津の指令をうけた近藤勇らに粛清されてしまったのが真相である。


 といって何故、一年も前に死んだ芹沢鴨が、天狗党くずれにみられたかというと、芹沢の持っていた「尽忠報国」の鉄扇を持って逃げた同志が、水戸の田中隊に加わって、
その鉄扇を旗印にして転戦していたから、「本村継次こと京で名をはせた芹沢鴨が生きていて天狗党に加わっている」といったデマがとんだものらしく、
これは「波山記事」にはでていないが、『水戸激鎮史』にはその風評がでている。


 また芹沢の実兄は那珂湊の文武館で元取といっか師範木村三穂之介で、そちらの曽孫は現存しているし、尽忠の士であったのに、大衆小説や映画で悪役にされてしまった先祖のことを憤慨している。
 つまり新選組を解明するならば、これは先に水戸史料から調べてゆかなければ、こうした近藤勇中心の歪められた研究になってしまう。


 つまりノーベル・ベリテ(真実の文学)を主張する私には旧套にすぎるが、好事家には喜ばれそうに部分的改訂は苦労を重ねているが、その発想自体ぱ変化がない。
ものたらないから、これに加えるが、この執筆の観点たるや昭和初期の「勤王か佐幕か」といったチャンバラ映画以外の何物でもないのではないか。
 「尊王攘夷」といった発想は明治の中頃からのものであって、新選組時代には存在しなかった考えなのである。
つまり、後年の創作でしかない。もし史録めいたものがあれば、それは偽作なのである。
 これは、まだ明治十八年の時点においても、ときの伊藤博文の内閣の松方正義や東大の内藤歇脱までが、今日では「尊王攘夷の志士」として扱われている水戸の天狗党をもって、
「流賊」「奸賊」とはっきり指摘した堂々たる石碑が、いまでも茨城県太子町の永源寺には現存している。
つまり、封建時代当時の「攘夷」とは、「征夷大将軍の江戸幕府」に代わって、「自分ら殿さまを征夷大将軍にかえ、自分が陪臣の身分から直参になりたいため」の、
家臣団のテーゼなのである。
 下関で長州が四カ国の連合艦隊を向うへまわした馬関戦争。鹿児島を焦土と化した薩摩の対英戦争もこれは「攘夷の実績」をつくって、おのれらの殿を、
 「征夷大将軍」にするための御奉公である。有体に言ってしまえば、殿をダシに使って、貧乏な下級武士が楽な生活をしたい為の「金看板」なのである。
その証拠に、維新の元勲と持ち上げられている連中に、千石以上の「武士」は一人も居ない。


現に栃木の太平山神社が三光神社といわれた頃、そこに立てこもった田丸稲之右衛門らは、「水戸幕府」という六尺板の大看板をかけ、明治の末まで別院に保管されていた事実がある。
つまり「尊王」と「攘夷」とは、まったく異質のもので、これは明治三十年代の「三国干渉」の時点からの「国民を戦争目的にかりたてる軍部のスローガン」でしかなかったようである。
 つまり「夷」とは、その頃は露国であり昭和に入っては米英をさしたのである。この事実を把握して、「真実とは何か」をつかまないと労多くして功すくない結果になってしまう。
なお新選組を解明するならば、彈左衛門家との関係を徹底的に探査し、元禄十一年の弾圧時代にさかのぼらないと、この真相は捉えられないものである。


次回から芹沢鴨と近藤勇の実像を掲載するつもりです。




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