何故に日本人は無宗教なのか
◆神君徳川家康
◆毛利元就の実像
◆デフォルメされている千利休の実像
以前の仁侠映画で、鶴田浩二主演の、『組長』という映画があった。関西の親分が、大政党の黒幕らしい政界実力者に札束の山をわたして政治工作をし、関東のてきやと、「愛国同志会」の結成式を橿原神宮社頭であげ、そこで各親分が、「七十年安保に際して、お国のために、左翼や新左翼を叩き殺す」と、宣誓してから、「君が代は千代に‥‥」と合唱しているところへ鶴田浩二が一人でドスを背中にかくし持ち、襲ってゆくのである。それが、「高倉健」だと、(死にたくなんかないが、これも義理だ仕方がない)といった感じを与えるし、「若山富三郎」だと(面倒くさい死んでこまそ。この阿ほんだら)というイメージだが、 「菅原文太」だと、やっと死場所がみつかった、死んでゆけるという穏やかさをみせる。
さて、「展望」に吉本隆明が、 「現在でも作家たちは、如何に文学者として死ぬかを自問する時機にきていると思います。みんな死に方が下手だなあという感想をもちます。死に方が本質的でないと、その文学が蘇るにも蘇えりようがあるまい、という問題を抱えこんでいるわけです」といっているが、鶴田浩二のものには、これに通ずる(死に場所を求めて死んでゆく男)の具象が的確に表現されている。これは三島由紀夫さんの死にも関連してくる。 だから、それはそれでよいのだが、君が代という国家があるがこれでは、やくざ行進曲に堕落する。 なにしろ『日本暗殺秘録』などの映画まで作られ、やがてそのうちにかけて起こるだろうテロの時代を予言するみたいに堂々と公開される世の中だから、また何をかいわんやだが、さてこの春、リスボンへ行っていたとき。
ひとりたびの気安さで観光バスにのったら、「日本語だ」というインターホンをガイドがかしてくれた。そこで説明をきくつもりでいたら、 「私は日本人で、無宗教な恥ずかしい人間でした。それが此方へきてから受洗して、一人前の人間にようやく立ち直れたのであります」 イントネーションが、はね上る口のきき方で録音テープがきこえてきた。現地案内のつもりでいたら若い日本女のザンゲ話である。アルジェリアの観光バスにのった時にも、
「異邦人である宗教のない、つまり魂のない女でした私が、今日こうして信仰に生きられるのは‥‥」というのをきいた覚えがある。 声帯が違うらしいから別の日本女性の吹きこみらしかったが、なんでこんなバカを吹きこむのか当人にきいてみたいものである。
リスボンから太陽海岸とよばれるエストリールへ行って、そこのリッツホテルに泊っていたとき、ホールに顔をだしていたらステージへあがってきたチョマ姿の姐ちゃんが歌う前に、客席を見廻して最敬礼し、 「私はコリアン。哀れな孤児でしたが、お情け深いアメリカの何とかの基金のおかげで面倒をみて頂き、こうして一人前の女になれましたことを、ここにあつくアメリカの皆様にお礼をいいます」とやっていた。すると客席からパチパチと拍手。はてと思って手を叩いている側へいったら、なんとアメリカのバアさん達の観光グループが国威発揚とばかり、かたまって喜んでいた。
つまりこういう単純な女性たちが、「朝鮮戦争は正義人道のため」 「ベトナム戦争も住民のため」と思いこんでタカ派となり、アメリカの銃後をまもって、「それ行け、つわものアメリカン男児」と、おおいに戦争に協力しているのだろう。
また、このためにニューヨークあたりの芸能社は、東洋人のタレントにはこういう前演説を無理じいしているらしい。かつてラスベガスでも雪村いづみが、やはりこんなことをステージでやっていたのを、私はヒルトン・ホテルで聞いたことがある。 しかし日本人というのは、なにも、ここは地のはてのアルジェリアやリスボンへゆき、 「無宗教ですみません」とあやまる事はないのである。何故なら、いわゆる天孫民族は、「仏教」、騎馬民族系は、平野四神を主とする「カラの神々」そして土着先住民は、拝火教徒であるからして、「エビス、ダイコク七福神多神教」と立派に沢山の神々をもっていた。 もちろん当今の歴史辞典の類は、七福神や頭の大きな福助を、縁起ものとして扱うが、かつての彼らは原住民一般にとっての神さまだったのが本当。 つまり吾々も、かつては多神教とよばれるごとく、ありあまる程の神様をもっていたのである。
ところが、頃は元禄十一年九月六日。 「勅額火事」とよばれる大火が江戸中を総なめにした。すると、流言蜚語の類であろうか、これは原住系のつけ火からだと、故意か偶然か噂がひろまった。 ありていは関東大震災の時と同じで、(朝鮮人の暴動だ)という具合に、原住系の人間が叩き殺されるような弾圧が始まった。 といって、この時が発端ではなく、話は十八年前にさかのぼる。
四代将軍家綱が亡くなったとき、跡目がなかった。そこで実弟にあたる上州館林の綱吉をという声もあったが、時の大老酒井雅楽頭が綱吉を毛嫌いして、強硬に突っぱね、「有栖川宮親王をお迎えして」とまで、これに反対した。だから延宝八年[1680]八月二十三日付で、綱吉が五代将軍になると、 「憎っくきやつめ‥‥」と早速、大老の酒井をくびにしたが。が、それでも腹がいえぬとみえ、翌年正月十五日には、今の大手町にあった酒井の屋敷すらとりあげ、これを綱吉は気に入りの堀田正俊に与えた。この結果、「下馬将軍」とまであだ名され権勢をほしいままにしていた酒井も、ここに反体制とされてしまったのである。さて‥‥
酒井大老が「毛嫌いした」という意味は、綱吉の父は勿論三代将軍家光だが、綱吉を産んだのは側室の於玉の方で、この女の身元を調べると、何と朝鮮の済州島生まれと分かった。 従って、れっきとした原住民系葵族の血である家康の血統に、朝鮮人の血が混ざることになる。 それならいっそのこと、朝廷から英明の誉れ高い、有栖川宮家の幸仁親王様を、五代将軍に迎え、徳川家を継いで貰おうと計画したのである。
これは、三代将軍家光が征夷大将軍の宣下を受けに御所に伺った際、当時の後西天皇から「徳川の家も三代で五百万石ともなり安定した。ついては御所は僅か三万石で苦しい生活をしている。ついては目出度いこの際である、山城二十万石を御所に貰えないか」 と姉小路伝奏役から伝えられ、家光は咄嗟の事に狼狽え「ははっ」と返事をしてしまった。しかし幕閣ではこの事実を握り潰してしまったので、天皇は次々と徳川の違約を糾弾するため、倒幕の勅を出した。 これが島原の乱であり、別木庄左衛門、由井正雪の乱と続くのである。幕府は「乱」として政治的発表をしているが実際は討幕運動なのである。
何とか幕府はこれらの反乱ほ平定したが、これに危機感を持った大老酒井雅樂頭は、四海波静かに治めようと、将軍は有栖川親王にして、武家の代表として、家康の直系の血を引く水戸光圀を副将軍とする 計画だったのである。 しかしこれは、前記したように失敗し、光圀も生涯国元西山での蟄居を命じられ、其処で無念の生涯を閉じている。 この光圀についての真相は以下を参照されたい。低級テレビや小説に毒されている日本国民には是非呼んでもらいたいものである。 (タイトル) 水戸光圀は黄門ではない。 真説 水戸光圀。
神君徳川家康
徳川三百年の間に、家康は「神君」扱いされてしまったが、伝説のように、「松平蔵人元康」が改姓名して「徳川家康」になったのではない。 築山御前とよぶ今川の一門瀬名氏の娘をめとり、阿亀、阿鶴の姫たちや岡崎三郎信康をつくった松平蔵人元康と家康とは別人である。 もし家康が彼らの父だったら、まだ十九歳で、すでに三人の子持ちになっていたことになる。長女の阿亀は十三歳の時の子だから、十二歳で作ったことになるが、それではなんぼなんでもはやすぎる。
また徳川の発祥の地が三河岡崎だったら、明治維新のときに、(汝、祖先の地へ戻れ)と明治政府に命令され、戻される際も、三河へやられるべきなのに、駿府へと十六代家達公は戻されている。将軍家光の頃の寛永年間に鋳造された駿州府城時鐘銘には、これまたはっきりと、 「駿河遠江は、東照大権現の生れさせ給うた地にして」とでているし、現在の静岡市伝馬町に今もある華陽院には、 「自分は十五歳まで当地にいたが永禄三年の桶狭間合戦によって、遠州浜松で義軍の旗上げをして成功し、今日の徳川家康になることができた」といった意味の自筆の額が堂々と掛けられていた。これではどんなに歴史屋が声高に叫んでも、松平元康が家康ではない。
つまり家康が、築山御前や岡崎三郎信康を、あっさり信長の命令として殺してしまえたのも、肉親でもなんでもないからであり、またそうすることによって三州岡崎の領地が、そっくり己が物になって儲かるからの処分らしい。 なにしろ、家康に一番こき使われた三河武士が、江戸時代になってから、みな大名になれず、旗本にしかして貰えなかったのも、謀叛を用心してのせいだろう。 つまり講談のようなものでは、判りやすく家康個人のバイタリティで天下をとったように説明するが、実際はそうではなく、今の選挙と同じで組織票をつかむつかまぬ かの問題があったらしい。仏法僧で有名な蓬莱寺にいたサルメとよばれる歩きミコの集団が、 「家康は薬師如来十二神将の生れ変りだ」 と口コミで薬師信者の許を宣伝して廻ったのは有名な話だが、酒井雅楽頭の先祖である酒井浄賢坊も、駿府の(鐘打ち七変化)とよばれるの出身で、家康創業の功臣なのである。
さて、この七変化という村里は、修験者が鉦を叩いて銭貰いをしたり、鋳かけ直し、茶の湯の茶筅売り、履物直しといった職業をごとで変化して営む集団なのである。つまり原住系のかたまったである。 家康もこうした所の出身なので、のち掃部頭を代々名乗る井伊とか、伊勢白子浦の榊原、伊賀者の服部半蔵たちが協力して原住系の総力をあげ、ついに天下をとったのである。
中でも浄賢坊は家康にとっては無二の親友であり随一の功臣なので、三州吉田(いまの豊橋)をとった時も、まっ先に彼を城主にした程である。しかし徳川の世も三代家光の頃から変ってきて、修験や薬師系に代って次第に仏教の勢力が、またもり返してきた。
酒井が大老だったとき、綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせいだが、酒井を排除して、邪魔者がいなくなると将軍はまず音羽の護国寺を建立している。
さて酒井一家のような原住系は、ビニールや擬革のなかった時代には、他に代用品とてない皮の専売をする部族を持っていて、これからの収入は莫大なものだった。このため大老の権力の座から酒井忠清を追い払っても、彼らの潜在勢力はすこしも衰えなかった。そこで、 (皮はぎの仕事を奪ってしまう)ということになったが、まさかそのものずばりに、「動物の皮をはぐことの禁止」との、ふれも出せないので、1678年正月に、 「生類憐れみの令」というのを発布した。つまり皮をとるには殺さなくてはならぬ。 それをしてはいけないというのでは、酒井一族にくっついている革屋も倒産の他はない。
このため、これら原住系はみな落ちぶれ、人に侮られるような極貧階級に転落した。
が、それでも幕府は追求の手は休めず、これまで茶筅や竹柄杓などを作っていたササラ衆をも圧迫するため、千宗易直系のいわゆる表千家の統率力を弱めようと、「千宗室」をもって今日の裏千家を、公儀が後押しして始めさせたのも、この時点にあたる。
さて元禄十一年の大火の折の大虐殺に端を発したのが、三年後の松の廊下事件であり、翌年は赤穂浪士のゲバ騒ぎにまで発展した。塩田というのはアマとよばれる原住系の限定職業だったのを、吉良家が手をのばし、反発されたのが事の起こりというのは合っているが、通説の忠臣蔵はあれは芝居であり、浪花節でしかない。 さて治安維持と仏教政策のために、神仏混合が赤穂事件のあと断行された。 しかし、この真相は秘密のままだから、現代でも京都市立芸大某教授のごときは、 「諏訪明神や宇佐八幡、丹生郡比売神といった神々が揃って『人間と同じ神も煩悩をもつ衆生であるから、仏法をきいて喜び、仏道に入って仏を守護したい』と神宣を出されたのが、この神仏混合の原因であった」などと説く。てんで何も知らぬとはこれまた愉快なもので、軍事目的の衛星が、秘密裡に頭上をとびかう時代に、神さまがボンノウに悩まされてなどと、あまりにも人間臭いことを平気で書いている。 こんなのが助教授では学生も可哀想だ。 さて、この神仏混合は、やがて明治政府が天皇さまの神権的権威の確立の目的のために、分離政策をとってしまい、いわゆる、「廃仏毀釈」の世となった。さて、ここで注釈がいるが、歴史家とか大衆作家の書く、「神仏を念じ」といった戦国時代の武将像はみなデフォルメである。何故なら、『加越闘争記』にも、 「仏法は武門の敵にして、仏門はわれらの悪魔なり、うち滅しやまむ」とあるように、信長の時代までは、坊主と武者は仇敵同士だった。 中世期のヨーロッパが宗教戦争の時代だったように日本でも、御弊を振り榊を立てる武将と、数珠をまさぐる僧兵とは戦にあけくれしていた。だから、くそとみそをごったにするような神仏を共に拝むなどというのは、創価学会の信者が教会で洗礼をうけるみたいなばかばかしいミステイクである。
また話は戻るが吉良上野の実子で上杉へ養子にいった義英が、高野山は女人禁制ゆえやむなく、今日伝わるオッサン姿の謙信像を画かせ、真言宗の高野山に納めた。だがそれは、(元禄十五年事件のとばっちりで、先祖の百万石が米沢転封で三十万石に減ったのが、またしても十五万石になったので、なんとかして、あの世から守ってほしい)と、家老の一色を代参させた時なのである。つまり空想の画でしかなかった。
高野山の無量光院が、上杉家と縁ができたのは、この元禄癸未の年つまり討入りの翌元禄十六年からの事であり、それまでの無量光院は、三河吉良氏の代々菩提寺だったのである。 真言宗と謙信の結びつきは、確定資料においてはその死後一世紀半後のことだったのである。
さて、元禄時代に、強制的に神社は仏寺の下へ入れられてしまい、明治になると(正確には慶応四年三月)また分離して、神と仏は別個にされ、それまで拝んでいた仏像が薪にされてしまう有様では、信仰心も薄れてしまうのが当然である。そこで今は、 「生れるまでの安産、そして七五三。ついでに交通安全、家内安全」までが神さまの係。 「死んで火葬になってからのアフターサービス。つまり一周忌、何年忌」がお寺さん。 このように神仏は分業になっていて、この他アルバイトに幼稚園や貸しガレージもしている。これでは「宗教は」ときかれても、首をふる日本人が多いのは仕方がない。しかし私は「神道」や「仏教」の信仰は薄れても、「天朝教」といったものは有ると信ずる。 即ち天皇陛下を崇め、皇室を愛しんで、国民が一致団結して日本国を守るという強烈な意志である。
以前 マクルーハンの「点的思考」というのが流行したと思ったら、デボノの、「視点の転換」が今度は現われてきて、これが、「常識を破った着想で思考せよ」と叫ばれ、「マンパワーを話す為には、これまでの固定観念をふり棄て、そうした教育によって、つちかわれた月なみな垂直的なものの考えをすて、水平思考にきりかえねば、この情報化社会にはたち遅れる」という世の中になり、すべてが混乱しきっている。
日本史の謎ときの鍵というか、真相隠しの日本歴史のベールの謎解きの一つは、蜷川家系図にて判る。 これは『蜷川家古文書借抄蜷川親常家』(寛政六年甲寅十月吉日写之杏花園)に書かれている。
信長殺しも、「謀叛随一」と山科言経記に出ている信長直臣丹波目付斎藤内蔵介が、丹江大江山老いの坂に並んでいた長岡番所の前を、一万三千の兵をつれて無事に通れたかの秘密も、長岡が後に細川幽斎と姓も名も変えていても、その娘によって蜷川に結びついているのでわかる。 足利時代に黄金を明へ送りビタ銭とよばれた鉄銭や鉄を輸入し、銀本位制を幕末ま、京に本拠を置いて、続けてきた蜷川の外孫阿福こと春日局の産んだ家光が三代将軍になってゆくのはこれで良く判る。
京の公卿、吉田兼見系図
細川幽斎女 ・ 桑山加賀守(但馬竹田三万石) _兼 治 ・ ・ __女 吉田兼見___・ ・ _兼知・女 _道輪__・ ・ ・ ・__道裕__喜左ヱ門道春 ・ ・ (春日局家老並) ・__道標__・ ・ ・ _道 斎 ・_女 ・ ・ ・ 近藤登之助 ・ ・ 角倉宋輪 ・ ・ ・ ・__七郎兵衛ヱ__角倉了意 蜷川大和守__・ ・ ・__道哉__女 ・ ・ ・ ・ ・ ・_美濃守__市正__稲葉佐渡守 ・ ・ ・_女 ・ ・ ・________ ・ ・ ・ 斎藤伊豆守__内蔵介 ・ ・ ・ ・ ・ ・______於福(春日局) ・ ・ ・ 稲葉一鉄____姪 ・ ・ _______________________________ ・ ・ _丹後守正勝__美濃守正則(小田原十万石) ・ ・ ・__・_内記正利___石見守正休(石見守正吉養子若年寄) ・ ・_七之丞正定__女 ・ ・__堀田正俊(大老・春日局跡目) ・ 堀田正盛
毛利元就の実像
「毛利は三つ矢」という通説があるが、あれはフィクションで元就には十一人の子がある事から始まっている。つまり、上の三人だけピックアップしたのでは、残りの八人の子が可哀想ではないか。 しかも四番目の元清は、山口毛利家の始祖の父なのに何故それを、毛利家史料は隠し通すのか。 それに昔の文部省の修身や国語の本では、「毛利元就は、まじめ人間」と教えたから、今でも第三チャンネルの歴史座談会などでは、 「生涯一人しか妻をもたぬ毛利元就は清潔な人間で、戦国時代にはこうしたケッペキ型が多く、上杉謙信もはやりその一人だった」などと堂々という、まったく歴史を知らない歴史屋さんもいるのだが、「元就が一人の妻だけを守り、それに十一人も子をうませた」 というような事はなく、吉川御前の私死後、孫のような十五歳の花嫁をもらい、別に、三吉御前という女性も第三夫人にして、これらにせっせと八人の子を作らせ、七十歳になってもガマの聖談みたいな精力ゼツリンぶりを示し、若い女をはらませてい たのである。
しかし、何もそれが悪いというのではない。
そういう目的でもないことには、僅か三百貫の猿掛(さるがけ)の小城から、中国地方十カ国百万国にまで出世できるものではない。男が、「一人の妻を生涯いつまでも守り、マイホーム主義に徹するため」に、仕事にうちこんで立身、などというのは今も昔も考えられもしないからである。 いつの世でも豪くなるやつは悪いやつに決まっている。なのに、学校で教えられたように清潔なマジメ人間が、どうして自力で百万石まで切りとってゆけたかの謎ときを、したのである。つまり、「神さまが、オマエハマジメダカラ」といって、百万石 をぽんと恵んでくれたという話ではない。彼は尼子勢と戦い大内八郎と戦い散々苦労して、今でなら同族会社だが大成功をなしとげ、神にまでまつられたのである。
つまり、これまで神格化され賞められこそすれ、けなされたことなどない毛利元就を、手に入るだけの資料を集め先入観念を零にしてもう一度、その人間像や、すばらしすぎる立身出世コースの再検討をしてみたのである。するとである。可笑しなこと が多すぎる。
「高砂や、この浦舟に帆をあげて‥‥」というのは江戸時代から目出度がって祝言用にしているが、それにしてはあの歌詞の文句が、後の方はきわめて怪しすぎるのである。 それに弾左衛門家でこれを忌み嫌って、能の狂言として初演した際は、時の老中が臨席なのに弾左衛門みずから槍をもち五十名を率い、「高砂フンサイ」を叫んで封鎖を敢行した謎は何なのか?そして高砂にも進駐してい た元就の四男元清が、その名さえ、<毛利家記>から抹消されてしまった事に、これまた関連してくるのではなかろうかという命題を、「ランケル」のミラノに現存する当時の原本によって解明しようとしたものである。 つまり、この謎は毛利が対織田信長総力戦にすべてをかけ、火薬輸入のために後年匿さねばならぬことをしていたのではないかと告発したもので、「大敵を少数で破るには、狭小な地域に誘導する奇襲作戦に限る」 といった迷信を軍部に与え、インパールや南太平洋で多くの同胞を殺してしまった厳島合戦のインチキ性の謎も解明されていない。
デフォルメされている千利休の実像
「利休」というのは正親町帝より千宗易とよぶ茶聖が賜った名であるという、これまでの通説をひっくり返してしまったのである。 歴史では、天正十三年(1585)九月に、「利休」の名は初めて下賜となっている。 ところが古渓宗陳が賛をしている有名な、<千利休画像>には、その二年前の物だが、「利休宗易禅人幻容」と最初に文字がある。 正親町帝のご賜姓より早い天正十一年の物に、すでに利休の名があるのは変である。 また柴野大徳寺第九十二代の春屋宗園の「一黙稿」とよぶその語録の中に、 「利休号」というのがあって、それには賜姓されたのは、 「利休という号は宗易禅人の雅称で、これは先師大林和尚の号さ(名づけられ)たものである」 とあるが、大徳寺記では、その先代の大林和尚というのは、利休の賜姓に先だつこと十七年前の永禄十一年(1568)に死んでいる。
これではどうして故人が、利休に、 「利休」などと名づける事ができたろうか。幽霊が出てきたのだろうか。 それに春屋和尚は宗易とはゆききがあり、その大徳寺の山門に彼の木像をたてた人物だけに、こんな奇怪な話はない。後の作り話だろう。 さて何故そんな変なものが、もっともらしく伝わっているかというと、慶長十年(1605)に利休とされている宗易の長男道安が、 「利休とは、なんでっか」と聞きにいったから、それに対し春屋和尚が答えたものが、「一黙稿」に採録されているこれだというので、信用されているのゆえ常識では判らない。 また、元禄十一年の原住系弾圧のモップのあった前年に、体制側の都合で新設された、<今日庵裏千家>には、やはり仙岳宗洞が、道案の異父弟で宗恩の連れ子の少庵から、 「利休でなんどっしゃろ」とききにこられたゆえ、その意味を説明してやったという、「利休号頌」なる一軸も別個にある。 ところが、利休なる者が天正十九年に殺されたとき、すでに七十歳だったのである。 すると、その時点で、長男の道安は三十七、八歳であり、宗恩が連れ子してきた次男の少庵もやはり三十代になっていたと思われる。一説では共に四十代であったともい う。
もし、利休の名を正親町帝より頂いて父親が感激していたものならば、その天正十三年から死ぬまでは六年も間があったのである。だったら三十代の二人の倅は、せめて、その名ぐらいは知っていてもよいはずである。 なのに長男は飛騨の高山の白川郷へ逃げ、次男は召捕られ会津へ流罪にされ、それぞれ共に三十年後に京へたち戻ってきて、「利休てなんやね」 と、二人とも別々のところへ聞きに行ったというのは、これは阿保か精神薄弱精白と思わざるを得ない。しかしバカなら三十年も逃げていたり、捕らえられ流されることもなかろうと思う。今日でこそ、「なんである、愛である」というが、倅が二人とも三十年前に死んだ父を慕って、そ れぞれ、「何である」とききにいったという伝承たるや、これは愛ではなく、こじつけでしかない。 では、本当はどんな名だったかというと、これは宗易と仲のよかった吉田神道の、「兼見卿記」の天正十三年九月六日の条に、 「理休居士(堺宗易のことなり)」とでてきて、その後もやはり「理休」と記入されているから、これが正真正銘の本物だろう。 なにしろ吉田兼見はお公卿さんとして宮中へ伺候している人間だから、恐れ多くも帝の下し賜うた文字を誤るわけがない。
つまり倅二人は、 「理休」が、知らぬ間に「利休」に変わっているから不思議がって、「なんや?」と聞きにったのだろう。 だからして、当人が生前まったく知りもせぬ利休という名は、宗易には関係なく、「利休の手紙」などという類は後年の、手づくりの歴史に他ならないだろう。そして、 「何故そんな厄介なことをしたのか」といえば、これは代々、何人かの儲けのための仕業だろう。 ロンドン塔にゆけば、エリザベス一世の王冠とか王杯。ルーブルへ行っても、マリー・アントワネットの玉杯が今もある。 しかし、そういったカップは誰が使用したかという有難味もあるが、それよりもルビーとか、何十カラットものダイヤがはめこまれているからこそ、今でも通用する価値がそのものにある。 ところが日本では、ダイヤどころか金や銀も使われていない。つまり普遍的価値のなんら見出せなぬ土くれの碗や道具が、「某文学博士鑑定、利休の何々の碗」という箱書で何十万円。 「KK書房発行何々の本の第何頁に、その名が記載されている」となると、活字に弱い日本人にはケンイをもつこととなって何百万とはねあがる。 「ノリタケチャイナといった硬質陶器のなかった頃のものが、地震の多いニッポン国でよくも四世紀もの間、割れもしないで保存されてきたものだ。自分の家なんかオバァサンの頃の茶碗さえ、とっくにこわれて残ってもいないのに変だ」 というのが、この利休の謎にとっくんだ私の発想だが、では彼の実体は何かというと、「当時の堺を今でいう開放地区にした彼は、天正時代のゲバラではなかったか」と想う。
とんでもないと驚かれるかも知れぬが、これが真実である。もちろん空想でも思いつきでもこれはない。当時の状況を丹念に拾いだし、 再現して並べ帰納してゆくとそうなるのである。 また、利休が殺された真相は、その後家娘の吟に秀吉がほれたせいだという俗説もある。
しかし吟女は夫の万代(もず)屋宗安も当時は生きていて、後家ではなく三十八歳で三人の子持ちである。これに秀吉が惚れて、この恋の遺恨では、忠臣蔵の顔見世御前にほれた高師直が、塩谷判官を殺すアイデアの借りものでしかないだろう。一年後に対外戦争(朝鮮征伐)を控えていた当時の体制側の総帥である秀吉が、彼を殺したのは、その時代の破暴法か騒乱罪適用としか考えられぬ。だから、 その当時の鈴木文書には、その処分を、「八付」にされたと書かれている。
これは、縛りつけて刺す張付とは違うのである。原住系の八に対しては、当時ふつうの磔刑とは違う、釘をもって打ちつけて、じわじわ殺す極刑が課せられていたのである。 つまり宗易は、「八族」といわれる原住系の民のボスで、あの頃のゲバラであったため、秀吉が対外戦争遂行上邪魔だから、これに難癖をつけ処分してしまったのだろう。 だから今でも岡山から広島地方へゆくと、「ちゃせん」「ささら(竹作り)」とよぶ橋のない川の区域がある。ご想像つくと思うが、弾圧され隔離された利休の残党である。 その後、彼らがなんとか体制側のとり入ろうとして、御用や牢役人をやっていたのは、幕末の詩人菅茶人の旅行記にもくわしい。
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