豊臣秀吉の馬印
千成瓢箪の由来
千成瓢箪の由来
戦国時代大名達はそれぞれ皆、馬印を立て戦場に臨んでいた。 この馬印というものは、その軍勢の大将の居場所を示す、個性的で、遠方からも一目で判る立派なものである。 少し有名なもので例を挙げると、
徳川家康 金扇の大馬印 織田信長 金色傘 福島正則 銀の捻り芭蕉 真田幸村 紺地五幅に白抜六門銭 これらは現在「関が原合戦屏風図」などに明白に描かれている。 そして豊臣秀吉はかの有名な金の千成瓢箪の大馬印である。 だがこの由来は余り知られていないのでここで考究してみたい。
織田信長、斉藤道三と対面
天文二十年三月、信長の実父、織田信秀、四十二歳にて急死する。この時信長十八歳、美濃から嫁いで来た、信長の妻奇蝶は一つ違いの十七歳。 さて、信長二十歳の時、妻の父で美濃の太守斉藤山城守道三が「奇蝶を嫁にやってからは信長には逢ってもいない。久しぶりに改めて舅と婿の対面をしたい」と使者をよこした。この頃信長の評判は芳しくなく、「尾張の愚直者(ウツケ)」だとか「タワケ(馬鹿)」と、信長の母方(八重)の実家、平手親子が撒き散らした噂が美濃にまで広まっていた。だから信長としては、道三入道までが本気にして、とっくり自分を品定めし直す気だろうと、すっかり信長は堪らなく不快になっていた。
だが美濃には、尾張の跡目争いの時に金を出してもらい兵を送って貰って、それで相続できた。つまり厄介をかけた義理もある。 それに妻の奇蝶の母である美濃明智城から嫁いで居た、小見御前の三周忌の法要もついでに営むのだと申し添えられては、これは婿としての立場では断ることはできかねた。というのは信長は道三を非常に畏れていて、対面を口実に殺されるかもしれないと疑っていたからである。 だから、美濃と尾張の境目にある正徳寺へ行くことを渋々ながら承諾した。 なにしろ道三は、日蓮宗の、京妙覚寺で、法連坊と呼ばれ長年にわたって坊主をしていたことがある。だから、いま河内長島にたて籠る服部の「門徒構え」の一門ともかねて気脈を通じているらしい。おまけに東隣の三河の松平党も一向門徒が多い。 だからもし道三が信長を捕らえ残り僅かな尾張を併呑したところで、そこは同じ仏信心の仲間同士の誼で、隣接した地域からの苦情の出ようも無い。 多少の宗派の違いはあっても、駿遠三から尾張、美濃の東海道五カ国が、一向門徒の、即ち仏教徒共の天下になるということは、かっては北陸を支配していたこともある彼らにとっては果報な話だからである。
だから信長はいよいよ出立という日が近づくにつれてますます不安が大きくなった。そして「俺に、もし不所存な真似を道三がしかけたら、奇蝶は嫁とはいえ、道三の娘でいわば人質だからこれを殺してしまえ」と秘かに家臣どもへ厳しく伝えた。しかし信長が騒ぐほどには家臣どもは心配しておらず、先代からの佐久間大学や一番家老の林新五郎などは全く役に立たずだった。
しかし信長にすれば(俺にもしもの事があった後でなら、奇蝶に手を出せば、もし殺り損じたにしろ、たちどころに美濃衆に殺されるだろう。かりに首尾よくし止めたとしても、恩賞など何処からも出ない。これでは利口な奴が引き受けることではないかもしれん。といってどいつもこいつも利口者揃いでは、とてもじゃないがこっちは心許ない。家来には損得ばかり考えない主命通りに働いてくれるような実直で馬鹿者が欲しいものだ)と、信長はすっかり考え込んでしまった。
ひえ吉(後の秀吉)織田信長に小者として召抱えられる
そこで考えたあげく、織田家は神信心だから、白鳥神社、白山神社といった白の字を冠せた社の神官どもへ回覧をまわし、新規に人集めをした。 この、禰宜に伴われて集まってきた者達の中に、当時十八歳だった貧相な小男が混じっていて、これが後の豊臣秀吉になる。 彼は(ひえ吉)当時在所の中村から出てきたが、ここは当時山口左馬助の支配地で今川領になっていた。今川は仏教側だったため、神徒側の信長について出世を狙ったのである。そしてひえ吉は採用され、藤蔓織の仕着衣を貰ったところ、すっかり喜んで有頂天になり「藤よし」と自分から名乗りをつけた。 そして何処で耳に入れたか、この藤よしは信長に「鹿角に入れた火薬を私めに二つか三つお貸し下され。それを抱え御前様の座所の縁の下に潜り込み、もしもの時には火をつけ、吹っ飛ばしてしまいまする」と考えてきたところを一気にまくしたてた。 新参者の小者が・・・・と信長は聴きながら思ったが、これは名案というものじゃと、すぐさま承諾しかねた。 この時は出発を二日後に控えた信長は、今となっては留守の事よりも、これから出かけてゆく自分の身の守りで精一杯のところだった。この時信長が考案したのが、「擲げ瓢箪(ふくべ)」で、これをどんどん作らせているところだった。
信長の考案した「投げ瓢箪(ふくべ)」
乾燥した瓢箪を六つ割に縦に裂いて、これに湿気の無い木灰を一杯に入れ、上から薄い雁皮紙で継ぎ目を貼り、栓には消炭をはめ込んだ物である。 これを力任せに叩きつければ濛々と灰神楽の立つ目潰しであった。これを信長は考え、頭からひねり出したのは、五、六千は出向いてくるであろう美濃勢の真っ只中へ、たった数百の供廻りだけで押しかける信長の立場では、もしもの事があっても、とても戦などしても勝てる見通しなどあるわけも無いから、そこで考えに考えたあげく、「如何にして血路を開き、何とか逃げてこられる方法は無いか」とこれを作ったのである。 つまり、逃げる時の用意に、敵に目潰しをくれる投擲兵器を考え、これを新募の兵達に秘かに多量に作らせていたのである。 (注)俗説ではこの時、信長は鉄砲五百丁を担がせて、富田の正徳寺へ行ったから、道中で変装して隙見していた道三入道が仰天して、のち嘆息して、 「わが倅共は将来、信長の門に馬を繋ぐだろう」つまり家来にされてしまう、といったとかの話が伝わっている。だが常識的にこれは嘘だろう。
鉄砲が種子島に伝来したのが天文十二年で、僅かこの十年前である。本場の九州の大友義鑑でさえ、天文十九年二月に殺された時でさえ、鉄砲は数丁しかなかったと「大友記」に書かれているくらいなのに、その三年後とはいえ、九州から離れた尾張で、しかも当時は落ち目で財政も苦しかった信長が五百梃も揃えていたと言うのは作り話とはいえ大袈裟すぎる。こういう与太話を信じてはいけない。 まあ、鉄砲などは全然なく、原始的な目潰しが精一杯だったろう。
同行して伴って行く者に、仏信仰の者が混じっていたら(後生安楽)を願って、道三方に裏切りしかねず、事は大変である。そこで信長は新募の神社の氏子を行列の中核にした。皆に白衣を着せ信長自身も白装束にした。瓢箪造りに追われ、青竹を切り出して水筒を揃えている暇がなかったので、喉の渇きを防ぐために、皆んな、生の大根を一本ずつ背に差し込ませて出陣した。勿論この時信長も、尾張名物の巨大な大根を背につけて馬を進めたのである。 さて、大根を名古屋では今でも「でえこん」というが、関西では、男の一物を「だえこん」という土地が多い。だからそれからの間違いでもあろうか、信長が、 (男根の絵柄を背につけた帷子を着ていった)などと面白おかしく綴る講談もあるが、こうした俗説は、投げ瓢箪を知らないから、 「信長は腰に瓢箪をいくつもつけて、奇妙な恰好をしていて、人目を驚かせた」というが、いくら冗談にしても、そんなふざけたまねをする余裕などこの時の信長にあるはずとてない情勢だった。
斉藤道三、信長を試す
わざわざ会見場所を僧院の正徳寺と指定してやったのに、それに悪びれもせずに白衣の神信心の装束で、背には御幣までさしたてて押しかけてきた信長に、斉藤道三は先ず舌をまいて驚いた。そこで六十歳のこの男は、孫のような二十歳の信長を、なんとかからかってみたくなった。 そこで「古来、人の噂では尾張の者は、他所着に気張ってよい衣服を使うが、平素は煮しめの様な粗衣をつけ、とんと身なりには構わんそうじゃが、いまもお見受けしたところ、むさい布子に御幣を立て、しかも注連縄まで、いくら神信心とは申せ、帯代わりにしめて御座るはちいとばかり、こりゃ異様じゃなかろうか」 わざと信長に聞こえよがしに、脇に居た美濃武者に声高に話しかけた。
すると信長も、伴ってきた白衣の家臣に、 「われらは、美濃の道三入道殿は吾が妻奇蝶の親父の殿ゆえ、自分の父親も同然と考え、分け隔てなしの心積もりで平素と同じ身支度のまま拝謁しようとしたところ、舅の殿は他人行儀にわれらに他所行きの支度をせいと、いっとられるは」 と含み笑いをしながら、すうっと隣の控部屋へ引き込んでしまった。そこで呆気にとられた道三入道が目をぱちくりしていると、そこへ信長が現れ、その恰好たるや、流石の道三も目を飛び出させた。
なにしろ信長のいでたちたるや、神主みたいに白麻の直垂を着て、手に杓まで捧げていた。これには道三入道も面食らって、すっかり毒気を抜かれてしまったらしく 暫く呆然としていた。しかし白けた座を取り持つように、急いで膳を運ばせ酒を勧めた。 そして気になると見え、おもむろに声を落として不振そうに、 「つかぬ事を聴くが・・・・皆の者の腰に提げている瓢箪は、いったいあれは何じゃ・・・・」すると信長は「ごろうじめされたか・・・もし美濃衆が慮外な事を謀られた節は、われらはてんでにこれを投げつけ、槍をふるって屍山血河となし、道三入道様のおん首とって退転いる覚悟でごさった」 これを道三はどうとったのか、瓢箪の中には灰ばかりでなく、近頃噂に聞く煙硝ともいう、恐ろしい火薬などが詰っていると勘違いしたか、ほとほと感心して、 「怖い婿殿を持ったもの・・・・見ると聞くとでは大違い。こりゃ出来すぎた男じゃ」すっかり感に堪えていた。
命懸けで信長の命令を守った藤よし
信長から投げ瓢箪を貰う
こうして無事に会見が終わり、信長は木曽川を渡り帰城した。すると転がるように信長を出迎えたのは、蜘蛛の巣だらけの様子の藤よしだた。 「火薬は温めておかねばならぬと聞き、胸に抱いて、じっと御前様の居間の縁の下に潜んでおりました」これには信長も驚き、 「するとうぬは、もしこの俺に異変があったと知らされたら、懐中に蔵った火薬角の栓をあけ、自分の体ごと爆発させる気で、づっと肌身につけて暖めていたのか」 と、うわずった声をかけてしまった。
「はい、愚図つき仕損じてはなりませぬ・・・・それに信長の殿を失うてしまえば、尾張もこれ全土が神の法敵、坊主共の天下となりましょう。そうなれば、最早そのようになった土地に生き延びるよりも、こりゃいっそ死ぬが分別かと心得ました」 まだ二十歳で、素直だったから信長は二つ下の小者の行為に感激し、 「そうだったか、それではなんぞ呉れてやる。これでもよいか」と信長が腰に提げていたのは投げ瓢箪ばかりだから聞いてみた。 すると藤よしは「頂ける物なら何でも有難く・・・・・」如才なく両手をさし伸ばした。だから信長は笑ってしまい、「これは六つ割にしてあって水も汲めん。それでも良いのだな」断りを言いながら下げ渡してやったところ、 「構いませぬ。おん大将よりの最初の拝領物・・・末永く家宝として大切にし、この小者が行く末ひとかどの者になれた節は、この瓢箪を馬印に致しまする」 「・・・・・瓢箪を馬印にか」びっくりして信長が聞き返せば、 「はい、もし豪うなりましたらその節はこの拝領物に金箔を張って金成瓢箪の馬印にしまする」とまで言った。が、それを聴くと信長はさすがに顔色を変え、 (詰まらん物を承知で貰って、それを故意に大袈裟に喜び、あまつさえ大言壮語し己を売り込もうとは、新参者のくせに油断のならぬ者め) すっかり不快になってきた。 (注)こうした経緯から藤よしは、小者から足軽になり、木下家の出戻り娘の寧々と結婚し、士分となり、木下藤吉郎から羽柴秀吉と出世して、豊臣秀吉となる。ここに金成瓢箪の大馬印が誕生するのである。
投げ瓢箪の後日談
投げ瓢箪は油屋の消火器具
信長は帰城後、妻の奇蝶へ「俺が目潰し用に沢山作ら持たせて行った『投げ瓢箪』をまさか中身が木灰とは気づかず、火薬と思うて度肝を抜かされ、桑原々 々とばかりに盛んに題目をあげてござったぞ」 何時も道三入道の娘というのを鼻にかけ威張っているのをへこますのは、この時とばかり、大きな口を開け信長はカラカラと笑った。 だが奇蝶は「・・・・投げ瓢箪の思いつきを信長殿はご自分の考案と思うてござっしゃるが、あれは昔からある京の山崎男八幡さまの御符瓢箪(まもりふくべ)と同じこと・・・・・えごまやひごまの油を商う処では出火が多く、というて油火事に水を掛ければ広がるばかり、それかというて砂をひっ掛けるよう叺に入れておけばこれは直ぐに湿って塊となりますゆえ、油屋では、火消し用に乾砂を割瓢箪に入れ、湿気止めに消炭で栓をして柱にたんと掛けておくのが慣わしとの由・・・・わが父の道三は若い頃ずっと松浪屋とか申すその油屋渡世をしておりましたのじゃえ」 「信長殿が得意満面になって、投げ瓢箪をたんと持っていかれたので、さぞ父道三も当惑して、おとぼけするのに、きつく苦労したで御座りましょうな・・・・」 と、さも可笑しそうにケタケタと笑い続けた。 これを聴いた信長は(笑い事ではない)と目をむき(俺を庇ってくれたのかも知れんが、さてさて道三は恐ろしい奴)と思い、何とか処置せねばなるまい・・・・信長はそんな風に考え込んでしまった。この一件が原因で、後、美濃の内紛で道三が信長に援軍を求めたが、妻奇蝶のたっての懇請で渋々国境まで軍勢を率いて出陣したが、戦わず見殺しにしている。そして最後には美濃を占領してしまうのである。
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