新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

七夕祭り異聞 古代アラブのメソポタミアのウルク城の別名をイミン(七)と呼んだ

2019-07-07 09:03:44 | 新日本意外史 古代から現代まで

現在七夕はウイキペデアに拠ると以下のような説明になっている。  七夕(たなばた、しちせき)は、日本、台湾、中国、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。  旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。五節句の一つにも数えられる。    古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、  精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。   元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。    そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)  ・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある。

 

   しかし本当の所は違う。 

古代アラブのメソポタミアのウルク城の別名をイミン(七)と呼び、七と七を重ねるのはシュメール(スメラ)の 洪水伝説粘土板ににも、七七の奇蹟で助かったと書いてある。   つまり 7月7月の七夕祭りの神話は、ユーフラテス河の左右に分かれた敵同士だったウルク城の姫が、 ラガンシュヤ城の王子と年に一回だけの逢瀬を密かに、七七の奇蹟の日だけに、長く延びる青竹につかまって、双方より渡って来て、河の中洲で逢えて寄り添ったというアラブ伝説がその起源なのである。    つまり日本史は海洋潮流学を全く無視して、単一民族説だが、古来よりアラブ方面からはマレーシア経由で 多くのアラブ系拝火宗徒が日本列島に住み着いていて、 彼らが京勢力(大陸の唐)に追われ、住みついていた坂東八ケ国で、  又苛められ差別された者たちが、さらに東北へと追いやられ、逃げ込んだり隔離され、エビスと呼ばれていたのが今の東北地方なのである。    だから宮城県の仙台で市をあげての華々しい七夕祭りを催すのも、こうした訳合いがあるからである。  ちなみに漢字は当て字だから、仙台の元の意味は先台で、日本先住民、即ち先台、「先に住んでいた場所」の意味。 もう一つ賤しい原住民共が住んでいる土地、即ち賤台ともした。 さらに青森となると、大陸系の偉い様たちは、言うことを聞かぬ日本原住民を下に見て蔑視し「あお」と呼んでいたから、まつろわず、抵抗を続けるアオの連中が森のごとくに多く住んでいる処として「青森」とつけて現代に到っている。
 


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