新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

イロハ歌留多から見える「日本史」の真実 『のれんにもたれる』 「野火山火、三べん廻って見て廻れ」

2019-10-10 18:17:19 | 新日本意外史 古代から現代まで

イロハ歌留多から見える「日本史」の真実
『のれんにもたれる』

                                            
関西の商家から出たと想われる『のれんにもたれる』という唄が在る。
関西も商家が多く、その商家では、店の暖簾を守ることが、御店にとっては全生命であり、のれんを下ろすといえば倒産つまり潰れたことになるのである。
これはヤクザの代紋と一緒で、店主はじめ末の丁稚小僧に至るまで心身に沁みついた資質なのである。                                
 現代なら、うちの会社が倒産したのは、経常者が悪かったのだとする者さえもいる。
しか昔の大阪では、のれんを下した店の旧奉公人には、げんが悪いというか再就職先はなかったのである。
手代でも丁稚の一人でも、確り気張っていたら、お店が潰れるわけはないと連帯責任制だった。
だから、店員が新町あたりの安女郎を、我慢できずに買いに行くのを見つがったりすると、「御店の、のれんに傷がつく」と暇を出されても仕方がなかったくらいである。
つまり暖簾は店にとっては、単なる布きれではなくて「看板」だったのである。だから、跡取り息子でもその看板により掛るみたいに甘えて、
おたなの信用で、つけ遊びをするような者は商家の跡取りには失格とされた。
こんなのに店を継がせることは出来ないので、勘当して番頭か手代の中から気の利いたものを選んで、娘の連れ合いに身代をつがせねばならぬ。
またそうせねば暖簾は守ってゆけぬのである。
現代は、二代目で会社を潰すようなドラ息子は少なくなったが、昔は多かったので、こうした厳しい掟があったのである。

次にサンカ側で唄われていた面白いものが在る。今は全く聞いたこともないと思われるが、
「野火山火、三べん廻って見て廻れ」である。
サンカは、流水の多い川畔でセブっていることが多かった。
(せぶるというのは漢字にすると「勢振り」となるが、家族単位で鍋や寝具を持って、テント生活のように各地を転々として生活する事)
鉄鍋で外の焚火で煮たきする訳だが、その際、火が風に吹かれて飛び火しないでもない。
もし寝ている間や、セブをたたんだ後になって、残り火でも見逃し出立してしまったなら、草地なら野火、木のある処なら山火事となってしまい、
他へも迷惑をかけてしまう。そんな事になれば、もう自分らの誰もがセブを張りに近寄ることも出来なくなってしまう、という戒めなのである。
サンカがセブるのは、林の中でセぶることもあるが、樹と樹の間にハンモックみたいな吊り寝床はしない。
多くは、飲料や煮炊き、水浴ができる清流の側、即ち河原が多い。そこには「篠」という竹の一種が群生していて乾燥すると燃えやすい植物である。
(篠突く雨とか、篠笛というのも、この篠からきている)
だから河原の篠の生えている辺りに火が飛んでいないかと、篠火を見廻るのがシノビ仕事というのである。
映画、テレビ、劇画、小説で「忍びの者」が出てくるが、あんなものは全くのフィクションで、しのびとは、サンカ言葉なのである。
忍術にしても、差別され、虐げられていたサンカが、抵抗すれば殺されるという過酷な現実を、じっと耐え忍ぶという、生活の知恵なのである。
この忍術については、YAHOOブログにUPしたが、未読の人の為、後程UP致します。




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