怪談から見える日本史の真実
「日本の幽霊」
四谷怪談 番町皿屋敷
薩長に利用された源平民族
東海道中膝栗毛
弥次喜多道中記は明治維新のバイブルだった
江戸時代から権力に虐げられた庶民は怨みつらみをはらすのには呪うしかなく、それが怪談として夏芝居では流行しますが、それはそれなりに江戸期では庶民が権力に対する対抗的な仕組みでした。今や新宿や池袋は副都心で高層ビルが立ち並んでいます。しかし江戸時代までは、池袋が特殊地扱いされていたのです。 それは民俗学の大家といわれる、柳田国男の著書にも、池袋からきた下女を無理やりに手ごめにしたら、夜ごと雨戸へ石の雨がふってきたとさえあります。
新宿にしても、昔の内藤新宿は馬喰の町でした。「四谷」という地名にしても四ツ(騎馬民族)とヤ(海洋民族)のタウンでした。前述のごとく新宿遊廓があったり、 青線地域だったのは、そうした訳からであり、非農耕で遊牧民族だった騎馬民族の末裔は農耕をしない、即ち非生産民族だから、役立たずとされ、「飼戸」とよばれ、そこで生まれた子供は「飼子」と侮称され、 シシ舞いに売られたり、「しし女」とされた少女は湯女や飯盛り女郎に叩き売られたので、その怨みつらみが、 飛騨地方あたりでは、「ごんぼう種(棍棒つまり六尺棒をもたされ野良荒しを防ぐ、死んでも差支えない四ッの徒輩)」と土地の百姓から差別されていた。 だから百姓たちは、彼らに睨まれると、怨念で病になると怖れられ、「お化け」扱いまでされたものであります。
今でも睨みをもって憎い相手を呪い殺せるものと思いこんでいる人がいますが、こうした源氏系の血をひく末孫なのでありましょう。 ですからして、「東海道四谷怪談」として、江戸府内ゆえ東海道五十三次の一つには入っていませんが、わざと「四ツ」とか「四ツや」とよぶ地名は各地に除 地としてありましたから、こうした芝居の外題で客が納得して観にきたのです。そして夕のつく田宮伊右衛門つまり「八ッ」の氏姓をもつのが仇敵となるのであります。 さてこうなると、「八ッ」の連中も負けてはいられませんから、初めは「八むら」のち家康入府後は、「番町」となって旗本屋敷となった地名をとりましたのがアのつく青山の、 「番町皿屋敷」という、おきくが皿を一枚二枚とかぞえて古井戸から迷いでる怨念の芝居となるのであります。 これは、海洋民族と騎馬民族をお互い対立させ、団結して反乱を怖れた為の徳川幕府の過酷な政策でした。
徳川は体制維持の為、四つと呼ばれる騎馬民族系の弾左衛門の下に、八つと呼ばれる海洋渡来系の南方民族(天の朝系)の車善七を、その下に、四谷者、又その下に八津者と交互に組み込んでいた。 これは相互に牽制しあって夷をもって夷を制させる、大陸より藤原氏の持ち込んだ戦略であり、これによって治安維持を図ってきた。 幕末になって、「八=弥次」「四=北=喜多」今では簡単に弥次馬と呼ぶが、反目しあう日本原住民どうしの、両者の融合を狙ったのが、弥次喜多道中記で、 東海道膝栗毛の題名で、貸本屋の大ベストセラーとなり、明治維新の大衆動員の起爆剤になったのは今ではあまり知られていない。
幕末になっても限定地の居付きに入れられ、界化のと差別されていた庶民が全人口の半分は超えていた。 貞享年間からこれらのを抜け出して、町人別や寺人別を銭で購って町人になっていた者を加えれば、総人口の八割以上はヤジとキタの日本原住民の末裔だったと考えられる。 両親が認知すれば嫡子だが、父親だけしか認めねば庶子という。つまり庶民とはテレビの「ルーツ」のように、白人の旦那が奴隷女に産ませたのは、やはり奴隷として売っていたが、 日本では一握りの藤原進駐軍の他は、徹底して全部が奴隷だったのである。
騎馬民族系の頭目は・・・・・弾左、弾正と呼び、人頭税で年に二朱の納入。(年一両の説もある) 八の海洋渡来系の頭目は・・・博士(ばくし)、小太夫、と称するアー元様。
弥次喜多道中記
維新後「御一新は弥次喜多のおかげだった」と板垣退助さえもが言っていたという革命啓蒙だった「東海道中膝栗毛」の真実。
北条と書いてキタジョウと読ませる苗字は多い。 それ以外でもキタヤマ、キタガワと北を、「キタ」と読ませるしか無いような姓ばか りで、北をホと発音するのはこの家名しかない。 なにしろ唐の國の人間が持ち込んできたのに、故意に「漢」の時代に到来したものの如く錯覚を与えるような「漢字」という名称になっている。 それで押しつけられるように当用され出した用語で、今も日本列島は完全に支配されてしまっているが、何しろ逆説的にいっても諺にさえ、 「一見は百聞にしかず」というがごとくで、目で見る視覚の漢字が、耳から入って くる発音の百倍の威力がある。焔のホが北条のホであって、拝火教を意味するのだと判っても、 「北」をキタと読んでしまうと、北帰行や北の宿のキタになり、白山信仰の騎馬民族系の事に混同されてしまうのである。
明治になって義務教育の世の中になり否応なしに、大陸渡来の象形文字を押しつけ られるまでは、我々の先祖は極端に漢字を嫌ったものである。 「絵暦」と呼ぶカレンダーの数字さえ絵でのみこめるようなのが、今も東北に残っている。つまり、御先祖は江戸時代になってさえ、視覚ではなく聴覚で全てを判断したのである。
十返舎一九の「弥次喜多道中記」を例に取ろう。
弥次郎兵衛と喜多八の二人が江戸を抜け出して京への旅行をする物語だが、血気ざかりでそそっかしい二人なのに、夜毎泊まる旅籠には当時のこと故、飯盛り女(売春婦)とよぶ、 寝床へ来る女が何人も居たし、大きな宿場には遊廓があった。 旅の恥はかき棄てといって、当時の長旅の慰安は酒と女しかなかった。 なのに二人は一度も女を買っていないのである。それを怪しんで、彼らが五右衛門 風呂を知らずに、下駄履きで入った失敗談から連想したものか、二人の関係を ホモとする考察もなされている。
「月夜にカマを抜く」というイロハ歌留多からである。二人とも女房持ちで性的 不能者でもないのに、往復三十余日もの禁欲は不自然で、きっと二人の間で有無 相通じていたからだろうという観察である。 しかしである。 何故に二人が清潔だったかには訳がある。
今でこそ五右衛門風呂を知らなかった二人は滑稽だろうが、十返舎一九の生きていた時代は、街道の茶店のよしず張りの蔭には天水桶があって、太陽熱で温まったのに、 銭を払って飛び込むか、夏なら男も女も川で水浴びをするか、盥で行水をしていた ものである。 明治になるまでの鍛冶技術では多数が入れるような大きな風呂釜は無理だったからで ある。つまり一般には風呂と言えば、さくろ口で出入りを狭くした蒸し風呂で、 大桶は身体へ浴びる水を入れていた所が多い。だから、 美濃関で作られ、火を、たく釜で湯に浸かるのを、当時の庶民だった二人が知らずに失敗するのも変ではない。 また、読む側とて同じで格別おかしくはなかった。
幕末にこの本は貸本屋て゛ひっぱりだこで、広く庶民に読まれたのには、これも又深い訳があります。 この本は目で読まず発音で耳から読むとよく納得できます。 弥次さんのヤジは拝火教徒で俗に「その筋の者」と呼ばれるヤアサマなのである。
古代アラブ語の海神ヤマの信徒がヤジなのです(現代でも山本、山田、安田等の ヤのつく姓は海運、水産、漁業関係者に多い)。だから庶民の群衆を指す言葉に騎馬民族系をウマと呼び、 双方をくっつけて「ヤジウマ」といった呼称も生まれた のです。
喜多さんのキタは、沿海州北鮮から出雲や新潟の白山島へ渡ってきた騎馬 民族の北方を指します。 つまり十返舎一九が書いたのは、滑稽物ではなく、徳川 体制に彼らの反乱防止のため、時には対立させられ、時には疎外された庶民の古代 海人族の末裔である、拝火教徒と、 その後から日本列島へ渡って来た騎馬民族と庶民を二分する平氏と源氏の後裔が、共に手を携えて伊勢へゆき、アマの大神と二見が浦の松下神社に祀られている蘇民将来を、 共に仲良く拝んで世の中の逆転を祈ったという風刺ものなのです。
つまり作者の意図が、世直し(革命)を求める啓蒙物ゆえ、双方の民族の代表選手であるヤジさんキタさんが、道中で一度も女に などふれずだったのはごく当然であって、 読む側も本当は何が書かれているか、そこは心得ていたのでしょう。 滑稽本と決めつけてしまったのは、何も解らぬ田舎者の薩長人が東京政府を作ってからである。つまり書き綴られた文字づらからでは とても日本史は表向きの俗史しか解からなという事なのである。
が、目を閉じて聴覚に頼れば理解できます。いうなれば、アイヌのユーカラが、聴いていれば悲哀感が伝わってきて納得できるが、文字では訳が分からぬと同じなのです。 何しろ日本史学は、明治 時代に木村鷹太郎が騎馬民族渡来説を説くと、現在のマレーシアへ馬来半島の当て字をしてしまう。だから馬が来たのはマレーからかと思い込んでしまう。 この当て字の巧妙さは感嘆するばかりのもので、水は島国の英国(英語)の ウオーター以外は、仏国、独国、伊国でも古代アラブ語のアクバ(水)のアをとって上につけています。
しかし、日本では雨と、空からの水につけアマは天の当て字である。天と地の差と言うけれど、地面に当たる水と天とでは絶対に逆である。 前に述べたヤにしても当て字は野か、ヤマにしても山である。 海神が野や山では全く天地逆のはめ込みで ある。誤字を問題にするならば、現行の用字は語源からゆけば、これはことごとく意味を解らなくするための作為による嘘字ということになります。 海の凪を鎮める凪の神はアツタとあるが、これも漢字の当て字では「熱田」と なってしまう。怒濤を鎮めるのが本来のアツタなのに、日本では草原の火を薙ぎ倒す宝剣を祀る熱田神宮に変えられている。 だから、視覚に重きはおけないのです。 「文字面にとらわれてはいけない」といった諺があるのもこのせいなのです。 さて、騎馬民族は絶対に農耕はしませんから、大陸系に追われると山の中に隠れ古代海人族のアマ系は江田島、江ノ島と当て字されて解らなくなっているものの エと発音される離れ小島や、 夷のイと発音される、当時は交通不便で舟等こない海浜に隠れ住んでいました。
白村江の戦いで日本列島が完全に大陸勢力の支配下になった のが7世紀のことですから、それから雌伏500年たった12世紀になつて北条政子の画策によつて、 海人族の平氏が武闘用にと山の騎馬系の子系を、頼朝という源氏の 目玉商品を囮にして呼び集め、隆起させ、日本原住民の基盤をなす源氏と平氏の大同団結を計った。 そして、大陸系政権の京から遠く離れた関東の鎌倉に騎馬民族の天幕(パオ)を意味する幕府をたてました。世にこれを「文治革命」という。
しかし、である。このままゆけば我々日本原住民は大陸系の圧力を跳ね返して12 世紀以降は捲土重来すこぶる安穏だったでしょう。 しかし月にむら雲花に風の諺どうり、北条政子が女人だつたために誠に取り返しのつかぬことをしてしまいまし た。
利用して戦をさせたのだから源氏はそのままにしておくべきでした。 なのに政子はもう用なしと考えたか、現今の言葉で言えば革命の中の反革命を警戒してか、源氏の主立った者たちを殺戮してしまった。
つまり西暦1180年の段階では同志と呼び合って共闘態勢をとっていた二つの提携民族が20年後には頼朝の死を契機に梶原景時惨殺の1200年からは圧迫者と被圧迫者とに分かれてしまい、 北条政権は騎馬系を白旗党と呼び現今の反体制側のごとく取り締まり弾圧しつづけた。
紅白歌合戦や運動会と日本人は何かと赤白にわかれるのも無理ないことで、これは民族の色で源氏は白。平氏は赤 大陸の仏教系は黒と決まっているからです。 維新戦争の時、薩長の官軍が頭に被った紗熊を赤白に統一したのも訳ありで、源氏系の多く住む地域には白の部隊を先頭に たてて進み、平氏系の多い名古屋当たりは赤を先発とし、 源氏と平氏の子孫の庶民の支持と協力を得て維新を成し遂げたのです。というのは彼らには《同族は撃たず》という民族の不文律があったからで、西南系の薩長に巧く利用されたのです。
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