真説 弥次喜多道中記
弥次喜多の二人は女遊びはしなかった
北条と書いてキタジョウと読ませる苗字は多い。
それ以外でもキタヤマ、キタガワと北を、「キタ」と読ませるしか無いような姓ばか りで、北をホと発音するのはこの家名しかない。
なにしろ唐の國の人間が持ち込んできたのに、故意に「漢」の時代に到来したものの如く錯覚を与えるような「漢字」という名称になっている。
それで押しつけられるように当用され出した用語で、今も日本列島は完全に支配されてしまっているが、何しろ逆説的にいっても諺にさえ、
「一見は百聞にしかず」というがごとくで、目で見る視覚の漢字が、耳から入って くる発音の百倍の威力がある。
焔のホが北条のホであって、拝火教を意味するのだと判っても「北」をキタと読んでしまうと、北帰行や北の宿のキタになり、
白山信仰の騎馬民族系の事に混同されてしまうのである。
それ以外でもキタヤマ、キタガワと北を、「キタ」と読ませるしか無いような姓ばか りで、北をホと発音するのはこの家名しかない。
なにしろ唐の國の人間が持ち込んできたのに、故意に「漢」の時代に到来したものの如く錯覚を与えるような「漢字」という名称になっている。
それで押しつけられるように当用され出した用語で、今も日本列島は完全に支配されてしまっているが、何しろ逆説的にいっても諺にさえ、
「一見は百聞にしかず」というがごとくで、目で見る視覚の漢字が、耳から入って くる発音の百倍の威力がある。
焔のホが北条のホであって、拝火教を意味するのだと判っても「北」をキタと読んでしまうと、北帰行や北の宿のキタになり、
白山信仰の騎馬民族系の事に混同されてしまうのである。
明治になって義務教育の世の中になり否応なしに、大陸渡来の象形文字を押しつけ られるまでは、我々の先祖は極端に漢字を嫌ったものである。
その証拠に「絵暦」と呼ぶカレンダーの数字さえ絵でのみこめるようなのが、今も東北に残っている。つまり、御先祖は江戸時代になってさえ、
視覚ではなく聴覚で全てを判断したのである。
十返舎一九の「弥次喜多道中記」を例に取ろう。
弥次郎兵衛と喜多八の二人が江戸を抜け出して京への旅行をする物語だが、血気ざかりでそそっかしい二人なのに、夜毎泊まる旅籠には当時のこと故、
飯盛り女とよぶ寝床へ来る女が何人も居たし、大きな宿場には遊廓があった。
旅の恥はかき棄てといって、当時の長旅の慰安は酒と女しかなかった。
なのに二人は一度も女を買っていないのである。それを怪しんで、彼らが五右衛門 風呂を知らずに、下駄履きで入った失敗談から連想したものか、
二人の関係を ホモとする考察もなされている。
その証拠に「絵暦」と呼ぶカレンダーの数字さえ絵でのみこめるようなのが、今も東北に残っている。つまり、御先祖は江戸時代になってさえ、
視覚ではなく聴覚で全てを判断したのである。
十返舎一九の「弥次喜多道中記」を例に取ろう。
弥次郎兵衛と喜多八の二人が江戸を抜け出して京への旅行をする物語だが、血気ざかりでそそっかしい二人なのに、夜毎泊まる旅籠には当時のこと故、
飯盛り女とよぶ寝床へ来る女が何人も居たし、大きな宿場には遊廓があった。
旅の恥はかき棄てといって、当時の長旅の慰安は酒と女しかなかった。
なのに二人は一度も女を買っていないのである。それを怪しんで、彼らが五右衛門 風呂を知らずに、下駄履きで入った失敗談から連想したものか、
二人の関係を ホモとする考察もなされている。
これは「月夜にカマを抜く」というイロハ歌留多からである。二人とも女房持ちで性的 不能者でもないのに、往復三十余日もの禁欲は不自然で、
きっと二人の間で有無 相通じていたからだろうという観察である。しかしである。 何故に二人が清潔だったかには訳がある。
今でこそ五右衛門風呂を知らなかった二人は滑稽だろうが、十返舎一九の生きていた時代は、街道の茶店のよしず張りの蔭には天水桶があって、太陽熱で温まったのに、
銭を払って飛び込むか、夏なら男も女も川で水浴びをするか、盥で行水をしていたものである。
明治になるまでの鍛冶技術では多数が入れるような大きな風呂釜は無理だったからである。つまり一般には風呂と言えば、さくろ口で出入りを狭くした蒸し風呂で、
大桶は身体へ浴びる水を入れていた所が多い。だから、 美濃関で作られ、火を、たく釜で湯に浸かるのを、当時の庶民だった二人が知らずに失敗するのも変ではない。
また、読む側とて同じで格別おかしくはなかった。
きっと二人の間で有無 相通じていたからだろうという観察である。しかしである。 何故に二人が清潔だったかには訳がある。
今でこそ五右衛門風呂を知らなかった二人は滑稽だろうが、十返舎一九の生きていた時代は、街道の茶店のよしず張りの蔭には天水桶があって、太陽熱で温まったのに、
銭を払って飛び込むか、夏なら男も女も川で水浴びをするか、盥で行水をしていたものである。
明治になるまでの鍛冶技術では多数が入れるような大きな風呂釜は無理だったからである。つまり一般には風呂と言えば、さくろ口で出入りを狭くした蒸し風呂で、
大桶は身体へ浴びる水を入れていた所が多い。だから、 美濃関で作られ、火を、たく釜で湯に浸かるのを、当時の庶民だった二人が知らずに失敗するのも変ではない。
また、読む側とて同じで格別おかしくはなかった。
弥次喜多道中記は明治維新のバイブルだつた
幕末にこの本は貸本屋て゛ひっぱりだこで、広く庶民に読まれたのには、これも又深い訳があります。
この本は目で読まず発音で耳から読むとよく納得できます。 弥次さんのヤジは拝火教徒で俗に「その筋の者」と呼ばれるヤアサマ。
古代アラブ語の海神ヤマの信徒がヤジなのです(現代でも山本、山田、安田等の ヤのつく姓は海運、水産、漁業関係者に多い)
だから庶民の群衆を指す言葉に騎馬民族系をウマと呼び、双方をくっつけて「ヤジウマ」といった呼称も生まれた のです。
喜多さんのキタは、沿海州北鮮から出雲や新潟の白山島へ渡ってきた騎馬 民族の北方を指します。
つまり十返舎一九が書いたのは、滑稽物ではなく、徳川 体制に彼らの反乱防止のため、時には対立させられ、時には疎外された庶民の古代 海人族の末裔である、
拝火教徒と、その後から日本列島へ渡って来た騎馬民族と庶民を二分する平氏と源氏の後裔が、共に手を携えて伊勢へゆき、
アマの大神と二見が浦の松下神社に祀られている蘇民将来を、共に仲良く拝んで世の中の逆転を祈ったという風刺ものなのです。
つまり作者の意図が、世直し(革命)を求める啓蒙物ゆえ、双方の民族の代表選手であるヤジさんキタさんが、道中で一度も女に などふれずだったのはごく当然であって、
読む側も本当は何が書かれているか、そ こは心得ていたのでしょう。
滑稽本と決めつけてしまったのは、何も解らぬ田舎者の薩長人が東京政府を作ってからである。つまり書き綴られた文字づらからではとても日本史は表向きの俗史しか解りません。
が、目を閉じて聴覚に頼れば理解できます。いうなれば、アイヌのユーカラが、聴いていれば悲哀感が伝わってきて納得できるが、文字では訳が分からぬと同じなのです。
何しろ日本史学は、明治 時代に木村鷹太郎が騎馬民族渡来説を説くと、現在のマレーシアへ馬来半島の当て字をしてしまう。だから馬が来たのはマレーからかと思い込んでしまう。
この当て字の巧妙さは感嘆するばかりのもので、水は島国の英国(英語)の ウオーター以外は、仏国、独国、伊国でも古代アラブ語のアクバ(水)のアをとって
上につけています。
この本は目で読まず発音で耳から読むとよく納得できます。 弥次さんのヤジは拝火教徒で俗に「その筋の者」と呼ばれるヤアサマ。
古代アラブ語の海神ヤマの信徒がヤジなのです(現代でも山本、山田、安田等の ヤのつく姓は海運、水産、漁業関係者に多い)
だから庶民の群衆を指す言葉に騎馬民族系をウマと呼び、双方をくっつけて「ヤジウマ」といった呼称も生まれた のです。
喜多さんのキタは、沿海州北鮮から出雲や新潟の白山島へ渡ってきた騎馬 民族の北方を指します。
つまり十返舎一九が書いたのは、滑稽物ではなく、徳川 体制に彼らの反乱防止のため、時には対立させられ、時には疎外された庶民の古代 海人族の末裔である、
拝火教徒と、その後から日本列島へ渡って来た騎馬民族と庶民を二分する平氏と源氏の後裔が、共に手を携えて伊勢へゆき、
アマの大神と二見が浦の松下神社に祀られている蘇民将来を、共に仲良く拝んで世の中の逆転を祈ったという風刺ものなのです。
つまり作者の意図が、世直し(革命)を求める啓蒙物ゆえ、双方の民族の代表選手であるヤジさんキタさんが、道中で一度も女に などふれずだったのはごく当然であって、
読む側も本当は何が書かれているか、そ こは心得ていたのでしょう。
滑稽本と決めつけてしまったのは、何も解らぬ田舎者の薩長人が東京政府を作ってからである。つまり書き綴られた文字づらからではとても日本史は表向きの俗史しか解りません。
が、目を閉じて聴覚に頼れば理解できます。いうなれば、アイヌのユーカラが、聴いていれば悲哀感が伝わってきて納得できるが、文字では訳が分からぬと同じなのです。
何しろ日本史学は、明治 時代に木村鷹太郎が騎馬民族渡来説を説くと、現在のマレーシアへ馬来半島の当て字をしてしまう。だから馬が来たのはマレーからかと思い込んでしまう。
この当て字の巧妙さは感嘆するばかりのもので、水は島国の英国(英語)の ウオーター以外は、仏国、独国、伊国でも古代アラブ語のアクバ(水)のアをとって
上につけています。
しかし、日本では雨と、空からの水につけアマは天の当て字である。天と地の差と言うけれど、地面に当たる水と天とでは絶対に逆である。
前に述べたヤにしても当て字は野か、ヤマにしても山である。
海神が野や山では全く天地逆のはめ込みで ある。誤字を問題にするならば、現行の用字は語源からゆけば、これはことごとく意味を解らなくするための作為による嘘字ということになります。
海の嵐を鎮める嵐の神がアツタとあるが、これも漢字の当て字では「熱田」と なってしまう。怒濤を鎮めるのが本来のアツタなのに、
日本では草原の火を薙ぎ倒す宝剣(草薙)を祀る熱田神宮に変えられている。だから、視覚に重きはおけないのです。
「文字面にとらわれてはいけない」といった諺があるのもこのせいなのです。
さて、騎馬民族は絶対に農耕はしませんから、大陸系に追われると山の中に隠れ古代海人族のアマ系は江田島、江ノ島と当て字されて解らなくなっているものの、
エと発音される離れ小島や夷のイと発音される、当時は交通不便で舟等こない海浜に隠れ住んでいました。
前に述べたヤにしても当て字は野か、ヤマにしても山である。
海神が野や山では全く天地逆のはめ込みで ある。誤字を問題にするならば、現行の用字は語源からゆけば、これはことごとく意味を解らなくするための作為による嘘字ということになります。
海の嵐を鎮める嵐の神がアツタとあるが、これも漢字の当て字では「熱田」と なってしまう。怒濤を鎮めるのが本来のアツタなのに、
日本では草原の火を薙ぎ倒す宝剣(草薙)を祀る熱田神宮に変えられている。だから、視覚に重きはおけないのです。
「文字面にとらわれてはいけない」といった諺があるのもこのせいなのです。
さて、騎馬民族は絶対に農耕はしませんから、大陸系に追われると山の中に隠れ古代海人族のアマ系は江田島、江ノ島と当て字されて解らなくなっているものの、
エと発音される離れ小島や夷のイと発音される、当時は交通不便で舟等こない海浜に隠れ住んでいました。
白村江の戦いで日本列島が完全に大陸勢力の支配下になった のが7世紀のことですから、それから雌伏500年たった12世紀になつて北条政子の画策によつて、
海人族の平氏が武闘用にと山の騎馬系の子系を、頼朝という源氏の 目玉商品を囮にして呼び集め、隆起させ、日本原住民の基盤をなす源氏と平氏の大同団結を計った。
そして、大陸系政権の京から遠く離れた関東の鎌倉に騎馬民族の天幕(パオ)を意味する幕府をたてました。世にこれを「文治革命」という。
海人族の平氏が武闘用にと山の騎馬系の子系を、頼朝という源氏の 目玉商品を囮にして呼び集め、隆起させ、日本原住民の基盤をなす源氏と平氏の大同団結を計った。
そして、大陸系政権の京から遠く離れた関東の鎌倉に騎馬民族の天幕(パオ)を意味する幕府をたてました。世にこれを「文治革命」という。
しかし、である。このままゆけば我々日本原住民は大陸系の圧力を跳ね返して12 世紀以降は捲土重来すこぶる安穏だったでしょう。しかし月にむら雲花に風の諺とうり、
北条政子が女人だつたために誠に取り返しのつかぬことをしてしまいまし た。
利用して戦をさせたのだから源氏はそのままにしておくべきでした。
なのに政子はもう用なしと考えたか、現今の言葉で言えば革命の中の反革命を
警戒してか、源氏の主立った者たちを殺戮してしまった。
つまり西暦1180年の段階では同志と呼び合って共闘態勢をとっていた二つの提携民族か゜20年後には頼朝の死を契機に梶原景時惨殺の1200年からは
圧迫者と被圧迫者とに分かれてしまい、北条政権は騎馬系を白旗党と呼び現今の反体制側のごとく取り締まり弾圧しつづけた。
圧迫者と被圧迫者とに分かれてしまい、北条政権は騎馬系を白旗党と呼び現今の反体制側のごとく取り締まり弾圧しつづけた。
【註】
紅白歌合戦や運動会と日本人は何かと赤白にわかれるのも無理ないことで、これは民族の色で源氏は白。平氏は赤、 大陸の仏教系は黒と決まっているからです。
維新戦争の時、薩長の官軍が頭に被った紗熊を赤白に統一したのも訳ありで、源氏系の多く住む地域には白の部隊を先頭にたてて進み、平氏系の多い名古屋当たりは赤を先発とし、
源氏と平氏の子孫の庶民の支持と協力を得て維新を成し遂げたのです。というのは彼らには《同族は撃たず》という民族の不文律があったからで、西南系の薩長に巧く利用されたのです。
紅白歌合戦や運動会と日本人は何かと赤白にわかれるのも無理ないことで、これは民族の色で源氏は白。平氏は赤、 大陸の仏教系は黒と決まっているからです。
維新戦争の時、薩長の官軍が頭に被った紗熊を赤白に統一したのも訳ありで、源氏系の多く住む地域には白の部隊を先頭にたてて進み、平氏系の多い名古屋当たりは赤を先発とし、
源氏と平氏の子孫の庶民の支持と協力を得て維新を成し遂げたのです。というのは彼らには《同族は撃たず》という民族の不文律があったからで、西南系の薩長に巧く利用されたのです。
ここで日本史についての考察を少し
海外の日本評には『権力が勝手気儘に歴史をデフォルメしている点において、日本はまこと万国無比らしい。現在の時点に立脚し、もし極言すれば信頼に値する程の ものは希有である』
とさえ極言するものすらあります。『Random(でたらめ)な ことを教えるのは良くないと思った。そこで日本における歴史教育を廃止した』と、
GHQの教育局長として来日していた米国人でさえ、はつきり明言して憚らなかった という言い伝えさえもあります。
とさえ極言するものすらあります。『Random(でたらめ)な ことを教えるのは良くないと思った。そこで日本における歴史教育を廃止した』と、
GHQの教育局長として来日していた米国人でさえ、はつきり明言して憚らなかった という言い伝えさえもあります。
日本史が何故かくも出鱈目かというと、これは対比史料がなく、いくらでも偽造できたからだと戦後は言われています。
ドイツあたりなら、カイゼルやビスマルクがいくら歴史を贋作しても、周囲の仏、白、和、波、瑞、丁の国々の歴史を参照すれば、すぐ化けの皮がはがれるが、
周囲を海で隔離された日本列島には、比べるべき隣国の歴史が皆無のせいらしい。
朝鮮にあつた史料も『日韓合併』のおりに、明治政府が握り潰し、証拠を湮滅した から『漢書地理志』にある「楽浪の海中に倭人あり」とか「邪馬台国あり、
女王にて卑弥呼」ぐらいな頼りないものしか現存しない。
ドイツあたりなら、カイゼルやビスマルクがいくら歴史を贋作しても、周囲の仏、白、和、波、瑞、丁の国々の歴史を参照すれば、すぐ化けの皮がはがれるが、
周囲を海で隔離された日本列島には、比べるべき隣国の歴史が皆無のせいらしい。
朝鮮にあつた史料も『日韓合併』のおりに、明治政府が握り潰し、証拠を湮滅した から『漢書地理志』にある「楽浪の海中に倭人あり」とか「邪馬台国あり、
女王にて卑弥呼」ぐらいな頼りないものしか現存しない。
後は16世紀の織田信長の頃に日本へ来ていた宣教師がジャワへ送っていた通信文の『バタビヤ資料』がオランダの図書館に残っているくらいである。そして幕末になっても『ゴンチャロフ旅行記』や、
『サトー日記』など、好奇心による報告書の一部が伝わっているにすぎない。
そして、目隠しをされたままで歴史屋と呼ぶべき商売人のものを読まされている。
それに幕末に天下を取った薩長政府も無茶をしている。薩摩隼人というが隼人族は源氏でも平氏とも違う南西方系だったことと、彼らが軽輩上がりで無知だったせいも あるが、
「反徳川だから秀吉は勤王であったろう」といった考えから、それまでは禁じられていた豊国神社の再建を許し正一位にしてしまったりしている。
だから、故黒板博士もしきりに「秀吉勤王説」をといた。しかし、秀吉の最大の勤王の事績とは、己の建てた聚楽第へ時の「後陽成天皇」をお迎え申し奉仕したことだが、
こんな人を食った話もない。
京の中心地の5条から4条にかけて広大な面積をとって寺や民家を追い払って秀吉が建てたそれは何かというと、自分が帝位を継ぐために造営した己の御所だつたからである。
当時の奈良興福寺の多聞院和尚の日記によると当時の秀吉たるや「正親町帝に対して、自分は持萩大納言の娘の子で、まこと先帝の遺孤である」と言いがかりをつけて譲位を迫り、
皇太子誠仁親王を害して自分が即位しょうとした事実がある。
『サトー日記』など、好奇心による報告書の一部が伝わっているにすぎない。
そして、目隠しをされたままで歴史屋と呼ぶべき商売人のものを読まされている。
それに幕末に天下を取った薩長政府も無茶をしている。薩摩隼人というが隼人族は源氏でも平氏とも違う南西方系だったことと、彼らが軽輩上がりで無知だったせいも あるが、
「反徳川だから秀吉は勤王であったろう」といった考えから、それまでは禁じられていた豊国神社の再建を許し正一位にしてしまったりしている。
だから、故黒板博士もしきりに「秀吉勤王説」をといた。しかし、秀吉の最大の勤王の事績とは、己の建てた聚楽第へ時の「後陽成天皇」をお迎え申し奉仕したことだが、
こんな人を食った話もない。
京の中心地の5条から4条にかけて広大な面積をとって寺や民家を追い払って秀吉が建てたそれは何かというと、自分が帝位を継ぐために造営した己の御所だつたからである。
当時の奈良興福寺の多聞院和尚の日記によると当時の秀吉たるや「正親町帝に対して、自分は持萩大納言の娘の子で、まこと先帝の遺孤である」と言いがかりをつけて譲位を迫り、
皇太子誠仁親王を害して自分が即位しょうとした事実がある。
結局、後陽成帝をたてるが後にこの帝もじゃまになり皇室と公家をそっくり大陸に移そうとまでしている。
そして北京周辺10ケ国を彼らの知行地にするため、征韓の役さえおこしている。自分が日本の新皇帝になる ためである。
そして北京周辺10ケ国を彼らの知行地にするため、征韓の役さえおこしている。自分が日本の新皇帝になる ためである。
こういうのが勤王であるといったより作成されたフイクションをその まま教えこまれ、それを鵜呑みにしてきたのだから堪らない。
講談や浪花節までが歴史として扱われるのです。近頃では「テレビでやっている」のを歴史と間違えて いる人も多くなってます。
誰の言葉か忘れましたが、愚民教育は3っのS(セックス、スポーツ、スクリーン)だといいますから今の日本では無理からぬことです。
講談や浪花節までが歴史として扱われるのです。近頃では「テレビでやっている」のを歴史と間違えて いる人も多くなってます。
誰の言葉か忘れましたが、愚民教育は3っのS(セックス、スポーツ、スクリーン)だといいますから今の日本では無理からぬことです。
戦後、世界教育会議に出席した人たちに聞き合わせてみると「歴史を丸暗記式に教えたのは日本だけ」といいます。つまり他国ではPolish study(検討)すべき なのに、
この国では(研究されては不可ぬから)と頭ごなしに暗記させてしまったものらしい。
明治維新から百数十年が過ぎましたが、今の時点では、もう幕末の真相さえも霧の彼方です。昭和の教育を受けた者でも
「明治維新とは、勤王の志士によるクーデターで、王政復古の革命だった」式に教え込まれている。さらに維新は外圧により、力の衰えた徳川幕府を薩長が主軸となり、
西郷、大久保、竜馬 勝海舟らが大活躍して、日本の民主主義の黎明を迎えたとこれも定説化されて います。しかしこれもちがいます。
維新の元勲などと言ったところで、彼らは皆その藩の下級武士や郷士上がりです。そして江戸初期と幕末とでは物価が250 倍になっていた超インフレの時代。
そして武士の扶持(給与)たるや現代のように個人に与えるのではなく、その家門に代々付与されるものです。
だから30俵2人扶持くらいの彼らの生活たるや悲惨なものでした。
当時の「攘夷」とは今日考え られているような挙国一致で外敵を追い払うのではなく、江戸公儀の「征夷大将軍 幕府」に代わって、自分たちの殿様を将軍にして、
己が陪臣の身分から直参になり生活苦から逃れたいためのテーゼだったのです。
又、土佐柚原村の庄屋の倅の天誅組首領の吉村寅太郎は生産を全くしない武士階級を廃止し、天皇を頂点に諸侯と百姓の合議制をテーゼにしている。
つまり幕末維新というのは、当初は被 圧迫階級の源住民(神徒系)が、その蓄積した金融資本によって、政治体系を変革する目的で始めたものが、
終局において西南勢力と東北勢力の武力衝突になっ た、とみるべきです。そしてこの原因はアメリカの南北戦争なのです。
今も昔も アメリカと日本は政治、経済、文化と切っても切れない縁があるようです。
つまり幕末維新というのは、当初は被 圧迫階級の源住民(神徒系)が、その蓄積した金融資本によって、政治体系を変革する目的で始めたものが、
終局において西南勢力と東北勢力の武力衝突になっ た、とみるべきです。そしてこの原因はアメリカの南北戦争なのです。
今も昔も アメリカと日本は政治、経済、文化と切っても切れない縁があるようです。
昭和初期は今の田村高広のオヤジさんの阪妻や、新国劇の沢田正次郎が、いつも勤王の志士に扮して立ち廻りをしていた。
テレビのなかった当時のこと、この感化 力たるや凄まじいものがありました。「春雨じゃ濡れてゆこう」と詩情を 見せる月形半平太が、愛する雛菊、千代菊を残し、
憎むべき新撰組の刃をうけ「勤皇尽忠」と寺の唐紙に己の血潮で指で書きながら絶命する壮烈なシーンを見せ られては(これこそ崇高なモラル)と、
かつての青少年は誰もが昔は感激したでしょう。
今日のスーパーマンにあたる「鞍馬天狗」が、杉作少年と共に、勤皇の志士を助け「正義の味方だ」と叫べば、幼児でも「勤皇は正義」と思い込んでしま
います。 終いには「勤皇か佐幕か」なんて映画まで出てきて、チャンバラ映画が国民道徳精神を振興させた。だから昭和11年から20年までの10年間に、
この教育を受けた年代は、自分も(勤皇の志士)になったつもりで皆水漬く屍になったり、草むす髑髏にされてしまつた。今いうマインドコントロールというやつです。
います。 終いには「勤皇か佐幕か」なんて映画まで出てきて、チャンバラ映画が国民道徳精神を振興させた。だから昭和11年から20年までの10年間に、
この教育を受けた年代は、自分も(勤皇の志士)になったつもりで皆水漬く屍になったり、草むす髑髏にされてしまつた。今いうマインドコントロールというやつです。
革命とは、大衆の支持と参加なくしては、成しえないことは歴史が証明しています。
結局、明治維新は源住系庶民が薩長に巧く利用されたことになります。何しろ太政官と並んで神祇省を設置し、「我が世がきた」と喜んだのもつかの間、
全国の仏教勢力が、金のない東京政府に膨大な政治献金をし、勢力巻き返しを計った。
裏切った薩長は、彼らの反乱を恐れ、移民は表向きで、内実は棄民政策で報いた。
女は性業婦としてサンダカンやベンゲネットへ、他は樺太やブラジルと何万人も海外へ放り出したのです。「明日が来るを信じ」て一身を捨てた名もなき草奔も
多かったのです。
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