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絆を生んだ姓のリズム
もちろん、この姓の方則には種本などはありません。いうなれば前人未踏の研究です。 そして先にも述べましたように、戦国の人名カード三千枚を作っているうちに必然的に出来上がってきたものを、さらに、裏付けを探し、それを立証し表にまとめたものなのであります。 それゆえここで、図の方則に関連した約束ごとを、もう一度整理してみましょう。
① 姓は、横に結びつく。
もちろん、この姓の方則には種本などはありません。いうなれば前人未踏の研究です。 そして先にも述べましたように、戦国の人名カード三千枚を作っているうちに必然的に出来上がってきたものを、さらに、裏付けを探し、それを立証し表にまとめたものなのであります。 それゆえここで、図の方則に関連した約束ごとを、もう一度整理してみましょう。
① 姓は、横に結びつく。
◆例えば、アカサタナハマヤラワのア姓列にしても、ウクスツヌフムユルウのウ姓列にしても、姓は横に結びあって、一つの集団。関連部族を形成していたということです。 これは、江戸時代までは、姓氏の横のつながりが、「同姓」と呼称され、それが相互扶助や縁組や仕官の取り持ちをしていたという実例によって解明できます。
(1)ア姓列の場合、アカサタナ・・・・・の横列のリズムに動く例証。
(1)ア姓列の場合、アカサタナ・・・・・の横列のリズムに動く例証。
<四代将軍家綱の生母於楽の弟に産まれ、のちに、三州西尾城主になった増山正利の≪増山家記≫という由緒書が伝わっているのを引用してみましょう> ◆姉妹の母は仙光院といい下野在の女で、丹冶比姓といい父親はアの青木源兵衛といったとある。そこでまず、アカサタナハマの増山姓を新設し正利に名乗らせた。 そして、その弟の資利は″ナの那須〟へ養子にゆき、那須遠江守と号すとでている。 さて、このアカサタナのリズムで、この列のカ、サ、ハが空いているが、この新しく作られた増山の親類 扱いにと台命で決められたのが、″カは加藤右衛門佐忠〟″サは酒井讃岐守忠勝〟″ハは林羅山〟と いう具合にして埋められています。
そして、増山が西尾城主になる迄の間これを幕命で面倒を見るよう指図された者も、ナのつく永井信濃 守尚政であって、まず初めに彼より五十人扶持を贈られ、そしてナの成瀬隼人正正虎が、その江戸邸を贈 っている。″正保四年十一月五日相州新戸の郷に新邑一万石を賜るまで愚す〟とあるように、同姓列が 面倒をみることに決まっていて、その生母が青木と離別後再嫁したのも″ナの七沢清宗〟という姓の家であった。が、そこで産んだ異父弟の清宗の四男だけは、リズムから外れた。そのため、 「他氏の女を娶る。よって尊重院に弟子入りす」ということも家記にでています。つまり、アカサタナハマヤラワ以外の発音のつく姓の女を嫁にしたために、罰としてお寺へ入れられたと いうのです。昔は姓列から外れると厳しかったようです。
(2)イ姓列の場合、イキシチニ・・・・・の横列のリズムに動く例証。
(2)イ姓列の場合、イキシチニ・・・・・の横列のリズムに動く例証。
<小笠原流とは別派な古式作法の水島流の水島伝弥について、享保十一年に伊藤甚右衛門が書き残した伝書≪享保十一年伊藤甚右衛門指出書≫から例を引用してみましょう> ◆大坂落城後・・城から逃げだし捕らえられたが、首代を払えば助命るといわれ、″イの池田武蔵 守〟家来の″ミの水島助佐衛門〟が実兄だといった処、銀子一貫匁なら助けようとなって使をだした。処が長く陣中に居て手許不如意ゆえ七百匁に負けろとの返事。
そこで三百匁は信用貸しにして後廻しになさんとの双方での話し合いになったが、どうあっても捕えた方は一貫匁というので、話はこじれて決裂。 そこで首を落とされる羽目になったが、″二の西尾主水正〟陣屋に駆けこみ訴えした処、武者奉行″ミの水野但馬〟が、同姓なればと掛け合ってくれ、前銀三百匁、後百匁ずつ五回払いの八百匁で、落とし前の話がき、身柄は西尾陣屋へ移された。 その後、八百匁のかたに奉公している内に、伝弥が産まれたのだが眉目麗しく、二百匁の仕度銀にて″ミの三浦主膳〟の仲立ちで、″イの井伊掃部頭〟へ小姓奉公した。 やがて小笠原右近太夫が井伊家出入りで、その作法をやがて伝弥は習得した。だが、右近太夫は「姓が異る」と小笠原流奥儀は許さなかった。 そこで、″キの木股仁太夫〟、″シの清水次郎助〟、″チの千葉五郎太〟ら同姓の肝入りで殿に願い出て御暇を頂戴して、″ヒの日野右膳〟の娘を妻とし、新しくミの水島流指南〟の一家を設立することがようやくできたのである。 といった経緯を門人の伊藤がしたためたものですが、イキシチニの発音をひっくるめ、″同姓〟と呼んでいる点に留意していただければ、すべて納得がいかれることでしょう。
首を落とされる前に金を払って話しをつけるのを「落とし前」というのも、この頃の名残りです。また、他の横列もそうですが、イキシチニの横のつながりが強固な例として、室町時代の守護職を、ついでにあげておきましょう。
イ 今川氏=駿河 伊勢氏=伊勢 一色氏=丹後 キ 吉良氏=三河 木曾氏=信濃 菊地氏=肥前 シ 斯波氏=尾張 島津氏=薩摩 チ 千葉氏=上総 長曽我部氏=土佐 二 仁科氏=信濃 蜷川氏=丹波 ヒ 日野氏=摂津 土岐氏=美濃 ミ 三好氏=阿波 三浦氏=下総 といった具合に、この系列にのみ限定されていたのをみても判ることです。
(3)ウ姓列は藤原氏が平家みたいにみな本姓を同じくさせてしまい、エ姓は元禄以降改姓されて例証をひきようがないので、最後に、オ姓列の場合、オコソトノ・・・・の横列のリズムに動く例証。
イ 今川氏=駿河 伊勢氏=伊勢 一色氏=丹後 キ 吉良氏=三河 木曾氏=信濃 菊地氏=肥前 シ 斯波氏=尾張 島津氏=薩摩 チ 千葉氏=上総 長曽我部氏=土佐 二 仁科氏=信濃 蜷川氏=丹波 ヒ 日野氏=摂津 土岐氏=美濃 ミ 三好氏=阿波 三浦氏=下総 といった具合に、この系列にのみ限定されていたのをみても判ることです。
(3)ウ姓列は藤原氏が平家みたいにみな本姓を同じくさせてしまい、エ姓は元禄以降改姓されて例証をひきようがないので、最後に、オ姓列の場合、オコソトノ・・・・の横列のリズムに動く例証。
<これには、江戸時代の儒学者荻生徂徠の例をあげてみましょう>
◆荻生徂徠は、これ参州(三河、のちの愛知県)の出身。曾祖父惣右衛門は〝オの大給城〟内に産まれ天正十七年没。 祖父元甫は医師の〝オの緒方元鑑〟の弟子となり、寛永十四年五月十日没。 父の荻生方庵法眼は、〝コの小島助左衛門〟の娘を嫁とし、私をもうけしものにて候。母の弟六右衛門は、〝ソの十河長保〟の口きき、肝いりにて、〝トの鳥居助衛門〟方に養子にゆき候尚、次の母の弟の又市は、常陸野田にて、〝ノの野田〟姓を有する農家に入婿仕り、〝ホの堀井〟 家へ縁組仕し伯父冨右衛門は、上総国の〝ヒの檜沢村〟に罷在候。尚ほ、同地、〝モの森村〟百姓罷成る兵助もてまえの伯父にて候。 従弟に当る者〝ヨの横井式部〟様御家中、並びに、〝オの小笠原将監〟様御家来にあり候。 正徳元年(一七一一年)卯年、荻生惣右衛門(花押)生年卯四十六歳と、檜沢のヒは前述のごとくホと同じですから、やはりオコソトノホモのリズムにのっていることを、徂徠の流れをくむ門人が書き綴っているのを見ましても明白であることが判ります。こうして十八世紀までの例証でこの方則を明らかにしてきましたが、十九世紀以後は、各自の家にある過去帳(死者の名前や戒名、命日などを書きしるしておく帳面)などをくって調べてみても、それぞれやはり一切がすぐ判るでしょう。不思議でしょうが本当なのです。
② ア姓列とオ姓列は緊密系列
これは何故かといいますと、前にもふれましたが徳川家康が天下をとるため、原住日本系を大同団結させるために、仏法僧で名高い三河の〝ホの鳳来寺〟に巣くっていた猿女部族の〝オの小野〟姓の女比丘たちを動員して、 「自分は薬師寺十二神将の一人の生れ変りであって、光は東にありという原住民達にとって素晴らしい政治を青空のもとに公約しよう」と触れまわさせたとき、彼はかねて徳川姓の他松平姓ももっていましたから、このオ姓列の徳川のトと、松平姓のマ、つまりアカサタナハマのア姓列を同一系列とし強化をはかったからなのです。 したがって、ア姓列とオ姓列は、江戸期から明治期、そして今も結ばれあっています。
ですから、あなたの御両親が、自分らで勝手に結びつきあったものでないならば、もしあなたの父方がアカサタナハマヤの一つの姓なら、母方の旧姓も同じか、必ずオコソトノホモヨの一つのどれかであるわけです。 どうです。ぴったり当っているでしょう。 これは徳川時代から、ア姓列に対しては、オ姓列は絶対緊密の掟があったからであり、その反対も、また同じだったからであります。 <たとえば〝忠臣蔵〟を例にとってみましょう>
◆元禄十四年三月十四日に千代田城内松の廊下における浅野内匠頭の刃傷事件に関して、 「吉良上野の怪我軽微なるを以って、浅野の処分保留方を願わしゅう」と申しでたのは、同じア姓の老中職の阿部豊後守正成と、秋元但馬守喬朝でした。そして、オ姓の小笠原佐渡守も、「てまえも同然、 よしなに願いまする」と、ア姓の老中に従っていることが、≪徳川実紀≫にも詳しくでています。 つまり、オ姓はこの時代では同じ老中職として肩を並べていても、まだアの浅野を処罰するなどということは、姓の序列が厳しくて思いもよらなかったもののようです。
ところが、このとき朝鮮系の生母於玉の方をもつ五代将軍綱吉は、こうした因習を打破してア姓列を潰そうとする意思があったゆえ、閣議を無視し、即日浅野内匠頭を切腹にさせました。この結果が翌年 翌年十二月の本所松坂町への討入りですが、その、赤穂義士討入事件で切腹したものの中から、オのつく姓を拾いだしてみまと、
<細川越中邸にて屠腹の者>大石良雄、小野寺十内、奥田孫太夫、大石瀬左衛門。 <松平隠岐守邸にて屠腹の者>小野寺幸右衛門、岡島八十右衛門。 <水野監物邸にて屠腹の者> 奥田貞右衛門。
この他に大石と江戸へきたが、病気や事故などで当日の討入に参加できなかった者。小山田庄左衛門、岡本次郎左衛門、奥野将監、小山弥六,奥野源五、小山源五右衛門、これだけでもオのつく姓の者は十六名もいるのです。 僅か五万石の浅野家では、≪赤穂分限侍名帖≫によりますと、士分百二十八名、卒族二百四十三名と、書き出しがでていますが、そこから数えだしても、オのつく姓は百近くもいるのです。だからこそ討入も決行できたのでしょう。 つまり、アのつく大名には、オのつく家臣がずらりと並んでいたという、これは切っても切れないアとオの緊密関係の姓の絆を示す一例だったともいえるでしょう。
③ 関東生まれの人のイ姓は、ア姓と同一にみる。 これは、本辞と修辞の関係で、関東では、「イケマセン」が関西になると「アキマヘン」、同じく「イカン」が「アカン」となるように変わるのは前述しましたが、発音を基準とする昔にあっては、姓も同様に、関東のイ姓はア姓と同一に扱わなくてはならないのです。 つまり下北半島の恐山のイタコ信仰が西へゆけば、「愛宕信仰」となったのと同じなのです。
④ 第二横列<イ姓列>の中のヒ及びシの白とキの北は例外として扱うこと。 これは原住系に多い拝火教の関係で、第二横列のヒが火であり、炎に通じるゆえ、ハヒフヘホの第五列系とみなされるのです。またシが白の場合に限って、シロと読んでも、これはハクの音をとり、ハヒフヘホの第一横列の扱いになります。白山信仰のためにそうした扱いになったのです。キの中の北のつく姓も、東北の北を意味する字ですから、原住系の者の姓ということになり他のキとは別になるのです。
◆この例証を近代にとってみましょう。作家の故三島由紀夫氏は、森田必勝、古賀浩靖、小賀正義、 小川正洋君らと共に、市ヶ谷の自衛隊基地に乗り込み自決しました。 この三島由紀夫氏の本姓は平岡ですから、ヒは第五横列のホに入り、オコソトノホモヨロヲのオ姓列となります。 三島由紀夫(本姓平岡→第五横列) 森田 必勝 ( 同 )古賀 浩靖( 同 ) 小賀 正義 ( 同 )小川 正洋 ( 同 )
と一目りょう然といった形で各頭文字のイニシャルの発音が同一姓列に入ってしまいます。つまり、まさしく同族の血の流れをひいていることからくるところの、かたい団結行動だったといえるのではないでしょうか。
と一目りょう然といった形で各頭文字のイニシャルの発音が同一姓列に入ってしまいます。つまり、まさしく同族の血の流れをひいていることからくるところの、かたい団結行動だったといえるのではないでしょうか。
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