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異民族との争いは日本だけではない
(注)図については第一部を参照してください。
(注)図については第一部を参照してください。
ローマのテイトウス皇帝によってBC七十年に流浪の民とされたユダヤ民族も、その後二千有余年経った二十世紀においてさえ、神聖ローマ帝国の後継者と自負するナチスがドイツに現れてくるや、彼らユダヤ人はヒットラーの指揮のもとにドイツ国内だけでなくヨーロッパ全域の占領地のユダヤ人までも一人残らず収容所に強制的に集められました。そこで、女や子供までが、みな全裸にされてガス室へ入れて殺されたのは記録映画などでご存じでしょう。
つまり、このように、ゲルマン民族はゲルマン民族、ユダヤ民族はユダヤ民族でしかないといった厳然とした壁があったのは、なんといっても紀元前からゲルマンはゲルマンで婚姻して子や孫を作ってき、ユダヤはユダヤで同族で結婚してきたゆえ、二千年たっても、はっきり双方は、表面では肌の白い白人同士でも、まったく異質の部族だったことを、これは意味しているのでしょう。また岡本公三事件で有名になったアラブゲリラにしても、どうしてそこまでイスラエルと戦わねばならぬかといえば、ユダヤ教を信ずる民と、回教を信ずる者とは昔から互いにあい入れぬ宿命的な相互の民族間の憎しみがあるからです。
発見の緒口になった頭文字
さて、私がこの方則に気づいたのは、戦国時代を専門に解明するために、〝戦国武者〟なるものを約三千人ほど抜き出し、単語カードにイニシヤル別に整理したのが、そもそものきっかけだったといえます。
発見の緒口になった頭文字
さて、私がこの方則に気づいたのは、戦国時代を専門に解明するために、〝戦国武者〟なるものを約三千人ほど抜き出し、単語カードにイニシヤル別に整理したのが、そもそものきっかけだったといえます。
これまでは、日本の戦国時代というのは、 「東に強い豪族が現れてくると、それに味方して己が勢力を守り、西にまた強い豪族が現われてくると、そちらの方に加担して保身の術に浮き身をやつしていた」と歴史ではされてきました。 しかし、それならば戦国時代にあって、一族郎党が城を枕に討ち死にしてしまうような悲劇はないはずではありませんか。 ところが、実際には、あちらでもこちらでも、皆殺しになるまで戦ってのけているのです。
ですから、これはどう考えてもおかしいのではないかと疑問を持ち、それらの武将や武者の人名を、ローマ字で書き並べてみて、その関連性を調べだしたのが、この方則を発見した緒口だったといえます。
姓はなぜ横に結びつくか
例えば、織田信長の解明に取り組んで十五、六年目の時点だったと記憶していますが、繁雑な戦国武者名を、単語カードに分類していますと、美濃北方城主の安藤守就が《信長公記》では〝安東伊賀守〟ですし《美濃国誌》の〈諸旧記〉になりますと、〝案堂伊賀〟となるように、古書によってみな発音は同じでも、見た眼には違っているのです。 とはいうものの、これをローマ字や仮名で分類してしまいますと、
(Ando. Igano Kami アンドウ・イガノ・カミ)で統一されてしまいますし、こうして各古書別に抜き出した人名を片っ端から記入したカードを、今度は合戦の際の党派別に並べてみますと、「戦国時代というのは弱肉強食の世の中で、小さな領主は大きな武将に心ならずも従ったり、その勢力均衡に操られて、生き残るためには節操どころではなかった」とか、前述の「昨日東に強力な大名が現れれば、そちらに加担し、明日西に・・・・・」といった日本歴史の戦国時代の解明がまるで事実と違っていることも判ってきたのです。
つまり、戦国大名や戦国武者の動きには、一定のリズムがあり、五十音の横列アカサタナを音符とみればそれによって動向の旋律が定まっている、ということが判明してきたのです。
判りやすい例をあげれば、〝川中島合戦〟における信州更州の葛尾党の村上義清があります。これは、葛尾党のクはカキクケコのク、村上義清のムはマミムメモのムですから、上杉のウクスツヌフムのリズムに合っています。彼(村上義清)は、長尾為景の世代には、アカサタナの長尾や武田とは一歩も譲らず戦っていましたのに、同じリズム(系列)のウの上杉政虎が越後の当主になりますと、これと同盟して、クの蔵田五郎、スの水原越前、ヌの沼垂主膳らと共にあの執拗なまでの川中島合戦の中心人物になっているのです。そして長尾為景の血脈をひく信州上田城主長尾政景は、上杉謙信とよばれる政虎の姉の阿亀の夫ですのに越後へ謀叛して、アの穴山信友やハの馬場信勝、ヤの山縣昌景らに誘われ武田方に加担の志ありとされて、野沢で水底へ引きこまれて暗殺されてしまっているのです。
(Ando. Igano Kami アンドウ・イガノ・カミ)で統一されてしまいますし、こうして各古書別に抜き出した人名を片っ端から記入したカードを、今度は合戦の際の党派別に並べてみますと、「戦国時代というのは弱肉強食の世の中で、小さな領主は大きな武将に心ならずも従ったり、その勢力均衡に操られて、生き残るためには節操どころではなかった」とか、前述の「昨日東に強力な大名が現れれば、そちらに加担し、明日西に・・・・・」といった日本歴史の戦国時代の解明がまるで事実と違っていることも判ってきたのです。
つまり、戦国大名や戦国武者の動きには、一定のリズムがあり、五十音の横列アカサタナを音符とみればそれによって動向の旋律が定まっている、ということが判明してきたのです。
判りやすい例をあげれば、〝川中島合戦〟における信州更州の葛尾党の村上義清があります。これは、葛尾党のクはカキクケコのク、村上義清のムはマミムメモのムですから、上杉のウクスツヌフムのリズムに合っています。彼(村上義清)は、長尾為景の世代には、アカサタナの長尾や武田とは一歩も譲らず戦っていましたのに、同じリズム(系列)のウの上杉政虎が越後の当主になりますと、これと同盟して、クの蔵田五郎、スの水原越前、ヌの沼垂主膳らと共にあの執拗なまでの川中島合戦の中心人物になっているのです。そして長尾為景の血脈をひく信州上田城主長尾政景は、上杉謙信とよばれる政虎の姉の阿亀の夫ですのに越後へ謀叛して、アの穴山信友やハの馬場信勝、ヤの山縣昌景らに誘われ武田方に加担の志ありとされて、野沢で水底へ引きこまれて暗殺されてしまっているのです。
さて、遡って源平時代に例をとると《吾妻鏡》や《源平盛衰記》を見ますと、盛んに、 「われこそは、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実なり」と、しきりに前もって、名乗りを繰り返しあげ、それから敵中に突入する場合が多いのです。
しかし、どうして連呼してから敵に向かって飛び込むのだろう。もちろん、自己の存在の主張であり、相手方へ認識させる手段には違いないようだが、それは何故なのだろう〟という疑問がどうしても、まず起きます。しかし、これは後年の合戦における、
「一番乗りは何処々々の何某なり。後日において誤るな」といった恩賞を受ける資格を、確保するために叫ぶのとも違っているようです。
しかし、どうして連呼してから敵に向かって飛び込むのだろう。もちろん、自己の存在の主張であり、相手方へ認識させる手段には違いないようだが、それは何故なのだろう〟という疑問がどうしても、まず起きます。しかし、これは後年の合戦における、
「一番乗りは何処々々の何某なり。後日において誤るな」といった恩賞を受ける資格を、確保するために叫ぶのとも違っているようです。
なにしろ、今から敵中に攻め込もうというのですから、まだ何も結果は出ていないのに何故に、自分の名を連呼する必要があるのか?もちろん売名行為には相違ないとしても、それくらいの目的では生死の瀬戸際に立たされた人間のやれることではない。これは、常識的に考えると、火中に飛び込まなくてはならない人間が、頭から水を浴びたり、濡筵を頭からかぶるのにも似ているではありませんか。ということは、「武蔵の熊谷の者だ」という名乗りが、危険を予防するための必須条件に、それはなっているのだと考えられはしませんか?
つまり、危険とはこの場合は、矢を射かけられたり、長巻きや大太刀で斬りかけられ傷を負う時には殺されることです。
つまり、危険とはこの場合は、矢を射かけられたり、長巻きや大太刀で斬りかけられ傷を負う時には殺されることです。
それが名乗りをあげることによって免除されるというのは、例えば、〝自分は、やむなく源氏方の敵の中には入っているけれど、もとを正せば源氏の系列には入らない部族だ〟と、何処そこの誰と名乗ることによって敵方へ周知宣伝しているのに他ならない、ということなのです。
すると、敵の平家方でも「クマガイジローと名乗っているから、クはカキクケコのク、三字目の部族だ」ということを当然知ることになり、その系列姓は第三横列の藤原船舶系に入る相手ゆえ、「では親類みたいものだから矢留めをして射るのをよそう」といったようになって、彼の生命は保証されたのではなかろうかと推理されます。
これを裏づける例証としては、まず第一に熊谷の次郎直実が源氏方の武者として出陣しながら、敵の平家方へ何度突入しても、いつも安全で、矢一筋も射かけられず擦り傷一つ負っていなかった事実。また、第二に、一の谷の合戦では、敵方の平の敦盛を美少年とはいえ反対に助けようとしていること。そして、第三には戦の後で、源氏の部族は八幡や白山の神徒系なのに彼はそれを無視して仏経に身を投じ、出家していること。
すると、敵の平家方でも「クマガイジローと名乗っているから、クはカキクケコのク、三字目の部族だ」ということを当然知ることになり、その系列姓は第三横列の藤原船舶系に入る相手ゆえ、「では親類みたいものだから矢留めをして射るのをよそう」といったようになって、彼の生命は保証されたのではなかろうかと推理されます。
これを裏づける例証としては、まず第一に熊谷の次郎直実が源氏方の武者として出陣しながら、敵の平家方へ何度突入しても、いつも安全で、矢一筋も射かけられず擦り傷一つ負っていなかった事実。また、第二に、一の谷の合戦では、敵方の平の敦盛を美少年とはいえ反対に助けようとしていること。そして、第三には戦の後で、源氏の部族は八幡や白山の神徒系なのに彼はそれを無視して仏経に身を投じ、出家していること。
つまり、源平時代にあっては、埼玉県の熊谷を受領していたのは平氏の同族であったということ。それなのに熊谷の直実は、たまたま源氏に加わってしまって、東国勢として西征してきたに過ぎないのを、しきりに弁解するみたいに叫んで突入したからして、彼は、いつも先陣を命じられながら、それでも姓を連呼したからこそ無傷で助かったわけらしいのです。
あなたは、どの部族に属するか
さて、姓は横列に結びつくということが一応理解していただけたと思います。そこで、この第一横列から第五横列までを判りやすく図にまとめ、各々の姓列の発生過程と簡単な裏付け、及びその特徴を姓列別に述べることにします。
解説 この中の第一横列(ア姓列)と第五列(オ姓列)を「原住東北騎馬民族系」とするのは,第一横列 のマと第五横列のトを、つまり松平と徳川の上下列を政治上併用した家康の政治目的によるもので、『本朝垂跡考』にこの由縁はでています。
また第二横列(イ姓列)のイキシチニを編戸の民(稲束を渡され田夷となって穴居の入り口に目印に筵をはっていた民)とする根本資料は、『延喜式』の授苗腸表及び、太田南畝編『杏花園随筆』及び『寛政家伝指出史料』を参考として、もっとも早く農耕部族となった「原住農耕系」とみなすものです。
第三横列(ウ姓列)のウクスツヌは、高松塚古墳が作られた頃の天武天皇の代に「八色の姓」として外来者優遇のために制定されたもので「藤原船舶系」とされるものです。
また第四横列(エ姓列)と第五横列(オ姓列)は、エビス大黒七福神信仰系の蘇(我)民将来来福を信仰する人々で戦国時代まで地家の者とか、地下侍といった扱いで相当に多かった、が元禄時代に弾圧があって改姓した者や山中に逃げこんだりして「土着西南系」と「騎馬民族系」との結合がこの四と五の列に当るのです。
あなたは、どの部族に属するか
さて、姓は横列に結びつくということが一応理解していただけたと思います。そこで、この第一横列から第五横列までを判りやすく図にまとめ、各々の姓列の発生過程と簡単な裏付け、及びその特徴を姓列別に述べることにします。
解説 この中の第一横列(ア姓列)と第五列(オ姓列)を「原住東北騎馬民族系」とするのは,第一横列 のマと第五横列のトを、つまり松平と徳川の上下列を政治上併用した家康の政治目的によるもので、『本朝垂跡考』にこの由縁はでています。
また第二横列(イ姓列)のイキシチニを編戸の民(稲束を渡され田夷となって穴居の入り口に目印に筵をはっていた民)とする根本資料は、『延喜式』の授苗腸表及び、太田南畝編『杏花園随筆』及び『寛政家伝指出史料』を参考として、もっとも早く農耕部族となった「原住農耕系」とみなすものです。
第三横列(ウ姓列)のウクスツヌは、高松塚古墳が作られた頃の天武天皇の代に「八色の姓」として外来者優遇のために制定されたもので「藤原船舶系」とされるものです。
また第四横列(エ姓列)と第五横列(オ姓列)は、エビス大黒七福神信仰系の蘇(我)民将来来福を信仰する人々で戦国時代まで地家の者とか、地下侍といった扱いで相当に多かった、が元禄時代に弾圧があって改姓した者や山中に逃げこんだりして「土着西南系」と「騎馬民族系」との結合がこの四と五の列に当るのです。
① 原住東北系(八幡国群・天<海>の朝系)─ア姓列
神話にでてくる天ノ何々のミコトというのが今日の天野さんと呼ばれる人の先祖です。 ですから現在でも天野さんという姓が学校の先生や宗教関係に多いのもこのためです。 紀元前九十七年頃に、現在の沿海州から満州を抜け、北鮮の羅津あたりから、裏日本へ入ってきた扶余族が、騎馬民族として入ってきたとき、「仲よくしよう」と結びついたのは、崇神帝の御孫の景行帝の妃になられたのがこの系統の八坂姫だったことでも判ります。
神話にでてくる天ノ何々のミコトというのが今日の天野さんと呼ばれる人の先祖です。 ですから現在でも天野さんという姓が学校の先生や宗教関係に多いのもこのためです。 紀元前九十七年頃に、現在の沿海州から満州を抜け、北鮮の羅津あたりから、裏日本へ入ってきた扶余族が、騎馬民族として入ってきたとき、「仲よくしよう」と結びついたのは、崇神帝の御孫の景行帝の妃になられたのがこの系統の八坂姫だったことでも判ります。
今日でも生まれつき肉食できないという人がいますが、それがこの流れの末孫なのです。 そして毎年四月から五月に初鰹を祝う風習を、この人たちは「目に青葉山ほととぎす初鰹」と部族の祝いとして江戸時代まで伝えていた魚食人種だったのです。
つまり、明治まで日本橋にあった魚河岸のことを「あま店」と呼んだり、≪万葉集≫などで漁師のことを「あま」と呼び、今も海女を、「アマ」というのもこのためです。 しかし六世紀の継体王朝成立の後からは、次第に彼らは唐ぶりの藤原氏から蕃人扱いをされ、捕えられた者は、防人にされたり守戸にされ差別されだしたのです。
それゆえ、その時からの怨念が体内に脈うっているせいか、いくら日本史が、「天の朝→天孫民族」といった扱いをしても、北海道のユーカラにも似た親から子への口伝で、天照大神の直系の彼らの末孫には体制に順応を示したくないという人が今でもいます。
つまり、明治まで日本橋にあった魚河岸のことを「あま店」と呼んだり、≪万葉集≫などで漁師のことを「あま」と呼び、今も海女を、「アマ」というのもこのためです。 しかし六世紀の継体王朝成立の後からは、次第に彼らは唐ぶりの藤原氏から蕃人扱いをされ、捕えられた者は、防人にされたり守戸にされ差別されだしたのです。
それゆえ、その時からの怨念が体内に脈うっているせいか、いくら日本史が、「天の朝→天孫民族」といった扱いをしても、北海道のユーカラにも似た親から子への口伝で、天照大神の直系の彼らの末孫には体制に順応を示したくないという人が今でもいます。
特に、アカサタナハマヤラワの中で、カとヤとマの三つの姓を上につけた人には、「天の邪気」というか、その傾向が今でも強く伝わっています。しかし、人口比率はそれでも多くて、現在でも三千万人以上の多数を占めていることからして、これを、「庶民」と呼ぶのです。が、一般庶民といっても、大衆といったような意味ではありません。 現行法で摘出子でない、つまり父親だけが認めた子を「庶民」と区別するのと、それは同じことで、つまり 一般庶民とは被占領地の末裔の意味なのです。
② 原住農耕系(仁徳王朝系)─イ姓列
関東では「イカン」「イケマセン」というのを、関西では「アカン」「アキマヘン」といいます。本辞と修辞の差といいますが、これはやはり民族別の発音の違いなのです。 つまり、イが上についても、茨城県の水郷地帯のイタコから以東のイ姓はアと同じなのです。また、拝火教の末裔が多い関係でヒは炎のホと結びつきますので、第五横列(オ姓列)に入ります。また北と白という文字の場合はキとシでもこの列から外します。(北は第五横列、白は第一横列に昔は入れていたからです)
何故この姓列はそんなにややこしいのかといいますと、もともとは原住民なのですが彼らは西部劇にでてくる騎馬隊の軍属のインディアンのごとく、早いとこ藤原氏に降伏してしまった要領のよい連中。それと、藤原基経に廃立させられ上州のハルナ系の山中へ連合赤軍のごとく逃げ込まれた陽成帝のお供をして山中アジトへ逃亡し、あくまで公家に対してレジスタンスを続けたものとに分かれるからなのです。
反抗派は、第一横列(ア姓列)や第五横列(オ姓列)とその血を混ぜて今日に至っていますから、それらと同じことですが、いち早く藤原側について、種米のモミの束を与えられて、「田夷」と呼ばれ、編戸の民となった方の彼らは、江戸時代になっても寺百姓と呼ばれて、各壇那寺に人別帖なる戸口簿で総括取締りをうけていたので、昔は軽くみられ、 「奴百姓」とも呼ばれました。
しかし、唐から渡ってきた連中のだらっとした弁髪をみて、「長いものには捲かれろ」と、いち早く転向した目先のきく先祖の血をひいた彼らは、「百姓は滑稽だ」といわれつつも明治まで逞しく生き抜き、今では土地成金になった人も多く、その要領のよさでは他に肩を並べる者はなく、現代のエリートがこの姓をもつ人々なのです。
関東では「イカン」「イケマセン」というのを、関西では「アカン」「アキマヘン」といいます。本辞と修辞の差といいますが、これはやはり民族別の発音の違いなのです。 つまり、イが上についても、茨城県の水郷地帯のイタコから以東のイ姓はアと同じなのです。また、拝火教の末裔が多い関係でヒは炎のホと結びつきますので、第五横列(オ姓列)に入ります。また北と白という文字の場合はキとシでもこの列から外します。(北は第五横列、白は第一横列に昔は入れていたからです)
何故この姓列はそんなにややこしいのかといいますと、もともとは原住民なのですが彼らは西部劇にでてくる騎馬隊の軍属のインディアンのごとく、早いとこ藤原氏に降伏してしまった要領のよい連中。それと、藤原基経に廃立させられ上州のハルナ系の山中へ連合赤軍のごとく逃げ込まれた陽成帝のお供をして山中アジトへ逃亡し、あくまで公家に対してレジスタンスを続けたものとに分かれるからなのです。
反抗派は、第一横列(ア姓列)や第五横列(オ姓列)とその血を混ぜて今日に至っていますから、それらと同じことですが、いち早く藤原側について、種米のモミの束を与えられて、「田夷」と呼ばれ、編戸の民となった方の彼らは、江戸時代になっても寺百姓と呼ばれて、各壇那寺に人別帖なる戸口簿で総括取締りをうけていたので、昔は軽くみられ、 「奴百姓」とも呼ばれました。
しかし、唐から渡ってきた連中のだらっとした弁髪をみて、「長いものには捲かれろ」と、いち早く転向した目先のきく先祖の血をひいた彼らは、「百姓は滑稽だ」といわれつつも明治まで逞しく生き抜き、今では土地成金になった人も多く、その要領のよさでは他に肩を並べる者はなく、現代のエリートがこの姓をもつ人々なのです。
③ 藤原船舶系(公家・継体王朝系)─ウ姓列
ペルシャ、東南アジアから漂着してきた土民の弱小国家群を、馬に乗ってきた北鮮系の崇神王朝系が統合したあと、文化の高い南鮮系の仁徳王朝系が取って代ったあと、やがて、北鮮の高句麗や、南鮮の新羅、百済をも降した隋に代った唐の新勢力が、日本へ入ってきて「藤原氏」をたてたのは、七世紀の初頭なのです。 そして、朝鮮語での国家を意味する「ナラ」を主都名にしていた奈良朝に代って、彼らは藤原京を新しく造営したのです。 高松塚古墳の壁画の美人画が唐美人の顔なのも、当事としては、それが最高の美だったからなのでしょう。
さて、彼らは北鮮系は斥けたが、南鮮系の百済人はそのまま重用したり表面には立てました。が、壬申の乱(六七二年)から宝亀の変(七七二年)をへて、次第にその勢力の基盤をかためてくると、やがて完全にすべてを己が手中におさめだしたのです。
ペルシャ、東南アジアから漂着してきた土民の弱小国家群を、馬に乗ってきた北鮮系の崇神王朝系が統合したあと、文化の高い南鮮系の仁徳王朝系が取って代ったあと、やがて、北鮮の高句麗や、南鮮の新羅、百済をも降した隋に代った唐の新勢力が、日本へ入ってきて「藤原氏」をたてたのは、七世紀の初頭なのです。 そして、朝鮮語での国家を意味する「ナラ」を主都名にしていた奈良朝に代って、彼らは藤原京を新しく造営したのです。 高松塚古墳の壁画の美人画が唐美人の顔なのも、当事としては、それが最高の美だったからなのでしょう。
さて、彼らは北鮮系は斥けたが、南鮮系の百済人はそのまま重用したり表面には立てました。が、壬申の乱(六七二年)から宝亀の変(七七二年)をへて、次第にその勢力の基盤をかためてくると、やがて完全にすべてを己が手中におさめだしたのです。
藤原良房が八五七年に太政大臣となってから、二十七年後には、とうとう廃帝さえ敢えて行ない、九八六年にもまたも花山帝をも廃し、 藤原の血をひかれる一条帝をたてたりして、 「この世をば己が世とぞ思うもち月の、欠けたることのなしと思えば」という藤原道長の世の中としてしまったのです。つまり、「公家」と呼ばれるものを確立したフを中心とするウクスツヌユムの姓列がこれなのです。 日本人は先祖を遡れば、天の朝系、崇神王朝系、仁徳王朝系とみなつながってゆきますが、それらを一斉にしめ出して反体制化して遠ざけてしまったのが、この姓列であって、かつては一番権威があったのです
④ 土着西南系(耶馬台国群・ヒミコ系)─エ姓列
神話の中に、天の浮橋に立てられた女神が、 「エな男や」と見そめた男神に声をかけたところ、男神も、 「エな女や」と寄ってきて、そこで立ったまままぐわれた際のしたたり落ちた雫が日本列島になったとされていますが、この姓列の人は、
その時のエな男やエな女の直系なのであります。今でも、゛エエな〟とか、゛エエこっちゃ〟というが、この言葉はマレー語で、グットの意味だし、ヒンズー語でもエは可、エンは不可と昔は用いられていました。言語学的にも西南から漂着し土着したのでしょう。 考古学的には、日本では弥生人と呼ばれる種族ゆえ、今でも赤ん坊が生まれてくるときに一緒にでてくるのを、胞衣というのもその頃からの伝承なのです。
したがって、われら日本人の大先輩である彼らは、余程優遇されていたとみたいのですが、現実は厳しく冷たかったようです。あっさり降参した者はよかったが、そうでない連中は次々と圧迫されて東へ北へと寒冷地へ追われ、北海道へ渡ったのはアイヌの毒矢で殺され樺太や千島へまで逃げています。
(つまり、これまでの、穴居生活をせず弥生式土器も持たなかったアイヌ部族を日本原住民とする学説は誤りなのです)日本列島に残った者も、孤島や川の州や、不便な所へ入れられたので江の島とか江田島といった地名も残っています。
神話の中に、天の浮橋に立てられた女神が、 「エな男や」と見そめた男神に声をかけたところ、男神も、 「エな女や」と寄ってきて、そこで立ったまままぐわれた際のしたたり落ちた雫が日本列島になったとされていますが、この姓列の人は、
その時のエな男やエな女の直系なのであります。今でも、゛エエな〟とか、゛エエこっちゃ〟というが、この言葉はマレー語で、グットの意味だし、ヒンズー語でもエは可、エンは不可と昔は用いられていました。言語学的にも西南から漂着し土着したのでしょう。 考古学的には、日本では弥生人と呼ばれる種族ゆえ、今でも赤ん坊が生まれてくるときに一緒にでてくるのを、胞衣というのもその頃からの伝承なのです。
したがって、われら日本人の大先輩である彼らは、余程優遇されていたとみたいのですが、現実は厳しく冷たかったようです。あっさり降参した者はよかったが、そうでない連中は次々と圧迫されて東へ北へと寒冷地へ追われ、北海道へ渡ったのはアイヌの毒矢で殺され樺太や千島へまで逃げています。
(つまり、これまでの、穴居生活をせず弥生式土器も持たなかったアイヌ部族を日本原住民とする学説は誤りなのです)日本列島に残った者も、孤島や川の州や、不便な所へ入れられたので江の島とか江田島といった地名も残っています。
そして彼らは限定区域へ入れられ苛め抜かれたので、この姓列は今では日本人口の3%もいません。 しかし、不撓不屈のど根性をもっているといえますから、タレントや宗教家としては、かなり有名な人が昔からこの姓には多くいます。 なにくそと頑張って自己主張する血の流れがそうさせるのではないでしょうか、いわゆる女傑型にも多い姓の発音です。かつてのヒミコもこの御先祖だったのですから血の流れでしょう。
⑤ 騎馬民族系(崇神王朝・蘇民系)─オ姓列
エビス、ダイコク、ビシャモンといった七福神は、今では単なる縁起物扱いされていますが、かつては、それらは蘇我氏人の奉ずる多神教の神々だったのです。 徳川家康が天下をとる際、徳川だけではオコソトノの姓列しか統合できないので、アカサタナハマのマのつく松平姓をも、二倍でゆこうと併称してからというもの、⑤と①の姓列は公然と混合させられてしまい、今ではごっちゃになってしまっているのです。
しかし厳密にいえば、騎馬民族系は頭蓋骨が小さいのが特徴ですが、この蘇民将来系や白山神信仰、土俗八幡信心の人達は、大頭だったりフクロクジュのごとき長頭なのです。 彼らは、戦国時代には勇ましく戦ったものの、その後、武士から脱落した者が商人になっていったので、「番頭」「手代」といった武者言葉をそのまま商家でも用いています。
が、なにしろ商人は殆どといってよいくらい出自が蘇民将来系ゆえ、大阪あたりでは、現在でも「十日えびす」とか「えびす講」といった売出しをやりますが、堺や昔の佐渡などはかつてはエビス島と呼ばれたものでした。そしてエケセテネの④列が、このオコソトノの⑤列に入ってしまっているのは吸収合併されてしまったからの所為なのです。
そして、その結果、④列の女性上位の感化をうけ、相当に女人から苛め抜かれてきましたので、今でもその子孫は、恐妻家とか愛妻家と呼ばれる人には、このオコソトノの姓を上へつけている人が多いようであります。しかし、復讐のために反動的になって、女性の敵ともなります。例えば、オのつく大久保清とか、コのつく 小平義雄といった例です。
そしてアカサタナの第一横列とオコソトノの第五横列が、ともすると過激に走るのは、「連合赤軍事件」や、 アラブゲリラの関係者の名前を羅列しても一目瞭然です。これをみましても、この方則には感心させられましょう。
<連合赤軍関係者一覧> ア青砥幹夫 カ金子みちよ、加藤能敬、加藤順子、 サ坂口弘、酒井隆樹 タ ナ中村愛子、永田洋子 ハ坂東国男 マ前沢虎義 ヤ山本順一、山崎順、山田孝。 オ大槻節子、尾崎充男、太田直己 コ小島和子、近藤有司 ソ ト遠山美枝子 ノ野津和寿恵 ホ モ森恒夫、持原好子 ヨ吉野雅邦。
<アラブゲリラ事件> ヤ安田安之 オ岡本公三、奥平剛司 ヒ(ホ)檜森孝雄・・・・・といったあんばいです。
エビス、ダイコク、ビシャモンといった七福神は、今では単なる縁起物扱いされていますが、かつては、それらは蘇我氏人の奉ずる多神教の神々だったのです。 徳川家康が天下をとる際、徳川だけではオコソトノの姓列しか統合できないので、アカサタナハマのマのつく松平姓をも、二倍でゆこうと併称してからというもの、⑤と①の姓列は公然と混合させられてしまい、今ではごっちゃになってしまっているのです。
しかし厳密にいえば、騎馬民族系は頭蓋骨が小さいのが特徴ですが、この蘇民将来系や白山神信仰、土俗八幡信心の人達は、大頭だったりフクロクジュのごとき長頭なのです。 彼らは、戦国時代には勇ましく戦ったものの、その後、武士から脱落した者が商人になっていったので、「番頭」「手代」といった武者言葉をそのまま商家でも用いています。
が、なにしろ商人は殆どといってよいくらい出自が蘇民将来系ゆえ、大阪あたりでは、現在でも「十日えびす」とか「えびす講」といった売出しをやりますが、堺や昔の佐渡などはかつてはエビス島と呼ばれたものでした。そしてエケセテネの④列が、このオコソトノの⑤列に入ってしまっているのは吸収合併されてしまったからの所為なのです。
そして、その結果、④列の女性上位の感化をうけ、相当に女人から苛め抜かれてきましたので、今でもその子孫は、恐妻家とか愛妻家と呼ばれる人には、このオコソトノの姓を上へつけている人が多いようであります。しかし、復讐のために反動的になって、女性の敵ともなります。例えば、オのつく大久保清とか、コのつく 小平義雄といった例です。
そしてアカサタナの第一横列とオコソトノの第五横列が、ともすると過激に走るのは、「連合赤軍事件」や、 アラブゲリラの関係者の名前を羅列しても一目瞭然です。これをみましても、この方則には感心させられましょう。
<連合赤軍関係者一覧> ア青砥幹夫 カ金子みちよ、加藤能敬、加藤順子、 サ坂口弘、酒井隆樹 タ ナ中村愛子、永田洋子 ハ坂東国男 マ前沢虎義 ヤ山本順一、山崎順、山田孝。 オ大槻節子、尾崎充男、太田直己 コ小島和子、近藤有司 ソ ト遠山美枝子 ノ野津和寿恵 ホ モ森恒夫、持原好子 ヨ吉野雅邦。
<アラブゲリラ事件> ヤ安田安之 オ岡本公三、奥平剛司 ヒ(ホ)檜森孝雄・・・・・といったあんばいです。
絆を生んだ姓のリズム 以下第三部に続く
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