新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

いろは歌留多から見える日本史の真実 「川中で、尻を剥ぐ」 、「ヨシの孔から天を覗く」

2020-06-07 11:26:12 | 新日本意外史 古代から現代まで


いろは歌留多
から見える日本史の真実
「川中で、尻を剥ぐ」

「カ」のつくものでは、一般では「蛙のつらに小便」といって、図々しい奴のことを言うのだが、
サンカ側では「川中で、尻を剥ぐ」となる。その意味は、
昔の尼さんというのは日本建国この方、舶来の方のみ、つまり仏教側だけが、男は坊主に、女は尼になれたのである。
これはれっきとした官僧とされ、権威があった。
それまで日本列島にいた先住民(原住民)の女たちは、説教されて尼さんになろうと願望する者がいても、髪を尼さんなみに、つるつる坊主には剃れないという掟があった。
それは「比丘尼(びくに)」と呼ばれ、髪は残しておかねばならぬのが掟であったのである。
江戸期になるとこの比丘尼たちも、本山へ上納金を納めねばならぬようになり、やむなく頭を布で包み隠して客をひき、「春比丘尼」とか「船饅頭」とも呼ばれて売春し、ひと突き百文、現代でいうショートタイムで体を開き、銭を集めては本山へ上納をさせられていたのが実態だった。
サンカ族にすれば、生活のためとはいえ、止む無く比丘尼となってまで仏教側へつくのは許せぬ事だが、更に許しがたきは「官僧」の肩書で彼女らに、売春までさせて、\強制的に銭集めする「庵主」さまとよぶ、ツルツル頭の本物の尼僧であった。
だから苛められている、尼さんになったサンカ娘を助けだしに行った連中が、邪魔して威丈高に威張る庵主を、後から告げ口されては厄介ゆえ、山あいの谷川へ担いでいって水漬けにして口封じに始末したのである。
 初めは水中に頭を浸け、騒がぬようにした位だが、生かしておけば、必ず官兵を仕返しに呼んでくるゆえ証拠になるクルクル首を肩からはずし、中国系の生薬屋へ六神丸の材料に売って銭にもしたらしい。
地方の目明しや下っ引きが見馴れぬ旅の者を捕えて抉り取るのが多くて、「河童に尻っ子玉lを抜かれた」との作り話が、各地方に今も伝わる程ゆえ、
殺しにしても、それで人助けになると思いこまれていたし、銀目で五十匁にもなって大変に儲かる仕事ゆえ罪悪感はなかったのである。
現在、尼さんには女ならば誰でもなれる。若い頃、さんざん男たちと浮名を流したので有名な女流作家も尼になって、健在で幸せである。

さて、明治になっても野口男三郎の「ああ世は夢か幻か」の唄で若き娘らの願望の的となったごとく、カッタイのレプラの特効薬は、肛門の菊花紋肉が生薬とされていたのは一般でも常識だったのである。
野口の「臀肉事件」で検索すれば、詳細が出ているが、真実は隠されている。何しろ近代国家を目指していた明治政府は「人間を殺して、脳味噌や内臓を薬にしていた」という事実は野蛮国並みで恥ずかしい。
だから、こうした風習があったことの裏付けとなる書物は全て焚書したのである。だから、野口の事件は世にも稀なる「猟奇事件」として処理されている。
しかし実態は、野口の恋人が業病のレプラになった。だから野口は愛する恋人の病気を治したい一心から、少年を殺し肛門の肉を抉り取ったが官憲に捕まり裁判にかけられた。
この事件は当時全国に知れ渡り、特に若い娘たちの涙を誘い、野口に同情する声が彷彿とした。
何故なら、「愛する人間を助けるための行為であって、それを殺人罪とは酷すぎる」というのが一般の感情だったからである。
だからこれが歌になり「江戸時代からさんざん行ってきた生薬が手に入らなくなるとは困るし、野口の行為が罪になるとは、嗚呼、この世は夢か幻のように変わってしまった」というのが真実なのである。
これから、生薬(きぐすり)は、ヤモリの黒焼き、熊の胃、などの動物の物に変わったのである。

次は「よ」から始まるものには「良い内でも垣をしろ」というのがある。
つまり「親しき内にも礼儀あり」とは同義語である。
いくら心やすい親類付き合いの仲でも、隠す処は隠して見せず、ちゃんと一線を隔てて付き合わねば、互いにアラがみえてきて詰まらぬ仲違いの原囚になるから、垣をするようにしろとの意味。
 つまり、現在では団地などで、いくら明けっ広げな隣り付き合いをしていても、あまりオープンにしすぎていると、いったん仲違いすると気まずい結果にもなり、
巧くゆかなければ転居せねばならぬとの戒めである。
 昔のの長屋が、コンクリート造りになり、高級化したのが今の団地やマンションであるとみれば、やはり仲の良いどうしの家庭であっても、ある程度の仕切りを相互に持ち合わねば、甘えで交際は無理で不能である。
また、友達どうしだからといって、あまりアケスケに甘えたり、我儘勝手ばかりでは飽きられる。亭主の愚痴ばかり言いあっていると、しまいには「金曜日の妻たち」みたいになってしまう。

 西は「ヨシの孔から天を覗く」というのがある。
「ヨシのズイ(茎の穴)から」ともいう。
  が、これは下から覗きあげて、天つまり江戸の御政道の、ほんの一部しか判らないというのではない。その反対なのである。
大阪町民のヒガミと言ってもいいだろう、
つまり、徳川御政道からすれば、何年かで交替の人坂城代と大坂町奉行だけで大坂八百八橋の町を化切っているのはあまりに、軽視しすぎていまいかという不平不満を、
お咎めをうけぬように、逆の言いまわしでの訴えなのである。
 天の雲の上からの徳川家の立場で、昔の豊太閤の上地なのに、徳川が勝つたからと賊地扱いにして、
天界から広い視野をもって見てくれず、まるでヨシの孔から見下すみたいに、冷遇されているのは、あきしまへんといった庶民の不平不満の表れというか、関西人の恨みごとなのである。
こうした江戸屋大阪の庶民は、川柳や狂歌、芝居や歌留多などで、弾圧され苦しめられても体制批判の精神は素晴らしいものである。
一方、サンカ側の、クズシリのカミがムレコに伝えるためのものは(地方ごとのサンカ族の親方が、集団で住む者たちへ伝える)
「よめ遠目、かさの内」というのである。
処がこれが、後述するが、本来の意味が分からずに、トケコミしているサンカから、一般に広まりだすと、まったく意味が変ってきてしまう。
 「女を見るのには、夜の暗い時、そうでなければ遠くから、または雨ふりの時に傘をさしている時なら、ろくに顔がみえぬから、よく見えるものである。どうせ女は、一人ずつ顔が違うように、
肝心かなめの隠し処も誰もがそれぞれ違う」顔も良くて彼処も名器なら申し分がないが、「天は二物を与えず」というが、えてしてブスの女の方が、小股の切れ上った「上つき」の持主が多くて実川的である。
だから女は顔じゃない。といって心でもない。彼処が「下つき」では、後背位しか使い途がないゆえ、肝心な処こそ、その女の人柄と共に男には問題なのである。
というのが、「良い女を見分ける方法」として、夜目とか遠目というのではなく、まして傘などは、江戸後期に普及化の贅沢高級品で、一般庶民は殆んどが江戸でも「ミノ」「カサ」と、頭にのっける笠であったことを、現在誤られて伝わっているだけの間違いである事の訂正をここにしておきたい。
 さてサンカの方での「ヨメトオメ、 カサの内」まったく意味が遼う。
婚姻の戒めの厳しいハタムラ(掟)なのである。
「嫁トオメは、七世紀から、権力側に捕まって、強制的にカイト(開戸、海渡、と色々な当て字があるが)に、代々と入れられ、御種頂戴し(唐の血や韓人ら大陸国人と混血子孫)は、
カサ(梅毒)の血が流れていて、うっかりチャヅケ(肉体関係)すると、その腐ったカサの血が、仲間にまで皆うつってゆき、誰もが腐って鼻欠けになってしまう」
 十目(トオメ)とは、唐女の当て字で、両手をひろげ十本指で押し出す型でも批難もするが、サンカの誇りである、純日本人の体内の血の流れを保ってゆくために、
ハタムラとして村落にトケコミ暮しをしても、誤っても御種頂戴の女の娘と、一緒になってはならないというのである。
 昔はよく縁談の際に「血統調べ」というのを厳しくした。子供だった当時の私の頭では、(レプラとか、肺結核とかいった遺伝するかも知れぬ血統の調査をするもの)とばかり思っていた。
しかし、どうも、そうではなくて、体内に流れている祖先の血の伝統が純なものか?はたまた混血なのか?を明確にしたものである。
欧米とは違い、日本人は肌の色が、クダラも中国も先住民族も、みな黄色人種なので、「人は見かけによらぬもの」と、外見だけでは区別がつきかねることをいう。
それゆえ「日本人の血脈」や「姓で相手を選ぶ方法」で、相手の祖先を出来得る限り遡って血統調べをしたのである。
(注)現在では、小股の切れ上がったいい女、の意味を、足の小指と薬指の間と勘違いしている。大股を開いたその奥の秘所を指す。
  サンカの言い伝えは、生きるための必死の経験や知恵から出たものが多いのに、これが一般に広まると、好色で助平なものに転嫁され、困ったものである。




いろは歌留多から見える日本史の真実 笑う門には福きたる ワラ束ねても男

2020-06-02 10:50:49 | 新日本意外史 古代から現代まで

いろは歌留多から見える日本史の真実

 西歌留多には「笑う門には福きたる」という、これも有名な唄がある。

家の門の前でアハハと大口開けて笑っていたら、口の中ヘアブや蚊が入ってきて厄介なことになる。とても、福どころの騒ぎではない。
この笑うというのは、ワラウの事で、江戸時代の「笑い絵」と同じで、春画、即ちポルノ画像のことである。
 「門」もカドではなく、女体の秘所のことである。カはカカア、つまり奥さんのことである。
女権の強い地方では「オッカド」とも云い、おっかあ、つまり奥さんの奴隷のように、よく尽くせという意味でにもなる。だからこの「ド」は奴隷のドなのである。
つまり夫が女房へ、夫の義務であるSEXをよくはたして満足させている処は、夫婦円満で(七)福が訪れるとされ、今も信州の野沢の旧家では、昔から正月には玄関の入口に、
大きなカと、小さなドの丸い札を貼り、後は神棚に納めて祀っている。
いろは歌留多のサンカ物には、SEXがらみのものが多くみられる。しかしこれは、前述のように、彼らが好色だとか、SEX好きの特殊な民族なのではない。
この唄は、文化人類学的見地からも、現代の本質的な夫婦のあり方を、唄っているもので、夫婦関係が希薄になって、SEXもせず、子供も産まず、お互いに好き勝手なことをしている夫婦が多い現代、
改めて考えて見なければならないのではあるまいか。
男と男、女と女の変態的結婚も多くなった昨今である。しかし、夫婦とはお互いに好きあい一緒になり、子を産み育てる生活が基本なのである。人間も動物の一種なのだから、
複雑化された現代社会といえども、この普遍の法則は守るべきである。少子化が激しい今の日本はこの唄の意味を改めて噛み締めて貰いたい。

 サンカ側では「ワラ束ねても男」という。
ワラは軽い物ゆえ女でも束ねて運べはする。だが居付きサンカの者らは村の乾しワラの管理をして、脱穀後のワラ朿を駄員に貰ってから、
「ワラジ」とか「縄」に縒って作り、茶店で売って貰い、銭にしていた。
だからこれは、生計をたてる大切な仕事で、「男のくせに屑ワラを大切そうに抱えているぞ」と村の百姓たちに嘲られるのに対して、ムツとして答える時の返事なのである。
 地方によっては、「ワラ家の雨は外で聴け」というのも有るそうである。ワラ葺きの屋根に住むのは大百姓の、庄屋か名主さまゆえ羨しかってはならないぞ。
ワラに雨が滲みこむように密かに足音を忍ばせ通りすぎぬ事には、見つかると作男や庭子に咎めをうけ殴られるとの教え。
「かったいの、かさ恨み」これはサンカ物とは違い、一般の男の悲哀的な恨み唄といえる。
この文句は式亭三馬の「浮世風呂」から広まり、「癩病(カッタイ)の瘡うらみよ」の一節から世に広まって、いろはかるたになったものと想われる。
 今でこそレプラは伝染病とみられて適当な処置法も研究されているが、昔は江戸期に長崎出島へ送りこまれる丸山女郎衆が、オランダ人に移されて持ち帰ったのが、
次々と国内に広まったスピロヘーター梅毒を、カサとよび、群馬には「カサ護り」祈願の、カサがササに転嫁して、笠森イナリすら現存する。
種子島への鉄砲伝来から、日本では全く産出されぬ、火薬原料の硝石を持ち込んできたイエズス派関係の死の商人というべき男達に、
進物として人身御供にされた、若い娘たちが次々に伝染させられた。
これは戦国時代からの事で、このため家康の伜の結城秀康も梅毒で鼻が落ち、木鼻を括りつけていたという。
 当時は606号とか水銀剤も抗生物質もなく、薬といえば煎じ薬だけだったから、好漢坂本竜馬でさえ、長崎の丸山遊廓で感染している。
若者のやることは今も昔も変わっていなく、酒と女だから、竜馬とて普通の男に過ぎない。
だから二十六歳からは脳毒で苦しみ続け、今のエイズより広まっていたという恐ろしい病気である。
どちらも病原菌が判っていなかったので、レプラ(現在のハンセン病、癩病)と梅毒は、カッタイとカサとに症状で分類したようだが、業病という点では混同され、
もし罹患したら死ぬしかないと恐れられていたのである。
「逆恨み(さかうらみ)」をもじって、カッタイがカサから感染したのではあるまいかと、五十歩百歩なのに意趣晴らしに取り返しのつかぬことをと、自分が女と遊び、
病気を移されたことを棚に上げて、逆に恨んだという。
余談になるが、ヨーロッパでも梅毒が猖獗を極めた時期があり、各国社交界でもこの病気は恐れられた。何しろ貴族や、金持ち連中は、不倫や乱行は日常茶飯事の乱れた
SEXが横行していた時代である。男どもはSEXしたくてもまさか「貴女は梅毒にかかってませんか」と聞くわけにもいかない。
そこで女たちは、梅毒になれば、皮膚にできものや、背中には「バラ疹」という赤いぶつぶつの湿疹ができる。
そのため、SEX安全証明用衣服として、背中が広くあいたドレスを着用するようになったのである。現在の夜会(イブニング)ドレスの原型はこの時出来上がったのである。
さて、余談ついでに「色の白いは七難除ける」という女性専用の言い伝えがある。男で色白なのは軟弱そうに見え、気色が悪いだけだが、女にとっての色白は、武器の一つでもある。
七難というのは、前述したが「七福神の敵」、つまり「男が一歩家を出れば七人の敵がいる」も同義語で、仏教側のことである。
色白女であれば、敵の仏教側の助べえな男共をたらしこんで、楽な生活ができる。
白いもち肌とか、練り絹のような肌、白蝋のような肌、と表現されるが、ぬめる様に輝き、指で触れればとろけそうで、透明感さえ在り、男の官能を刺激し虜にする。
近年は食物のせいか、生活習慣のせいか、理由は定かでないが実際日本女の美肌は少なくなった。が、昔はもっと居たものである。
昭和になっても有名なインドネシア大統領の二号になった女がいて当時は「シンデレラガール」として大出世だった。
自国の色黒で骨太な女と比べれば、当時彼女は若く可愛らしく、その白い肌に感動した大統領は大いに満足しただろう。
ちなみに彼女は健在で、八十歳になっても連日テレビでその顔を晒している。