私の雷電號(マツダのデミオ)は電気自動車ではありませんが、ディーゼルエンジン(軽油使用)でなおかつ高速道路での燃費がすごく良いので、遠くに行くときはほとんど燃料代を気にしません。
ただ、やはり高速道路代はネックになりますね。
とくに我が家は圏央道の高尾山ICまで10分かからない場所なので、圏央道に乗ることが多く、圏央道は結構高いのです。
例えば、本日降りる予定の北関東道の壬生ICまでは、休日のETC料金で3,600円掛かります。
平日だとさらに高くなり4,060円になり、これを少しでも節約したいので、今日は3時半に家を出ますよ。
というのも、4時までにICに入れば、深夜割引が適用され、平日料金の3割引の2,840円になるからです。
富裕な方にとっては些細な金額かも知れませんが、とにかくカツカツで活動している私にとっては簡単な労力あるいは努力で削れるものは少しでも削りたいのです。
将来はこんなみみっちいことをせずに、もっと心に余裕をもって歴史めぐりをしたいなあと思いつつ、3時半に出陣。
実は今回行きたい場所は漠然とは考えているのですが、細かいことをまだ決めていないので、ひとまず圏央道の狭山の駅家(IC)で朝ご飯を食べつつ考えようと思います。
早朝、というか深夜の高速道路は本当に快適ですね。
今日は走りませんが、空いている時間帯の首都高はとくに面白いです。
4時に狭山の駅家に到着。
駅家のコンビニは深夜はやっていないので、パンやおにぎりが売っている自販機で朝ご飯を買って、最初の目的地を決めます。
栃木県壬生町の古墳を見たいので、予定通り北関東道の壬生駅家で降りることにします。
というわけで進軍。
いやー、本当に快適。
壬生駅家には5時半に着到しました。
真冬なので外は当然真っ暗です。
この時期は7時くらいからようやく写真がちゃんと撮れるようになりますので、もうしばらく神武號(ノートPC)を開いて事前調査をします。
昨日の講座の前の日は1時間半しか睡眠をとっておらず(講座の前日は資料作成の追い込みのためいつもこんな感じで下手すると徹夜になります)、昨夜も5時間くらいだったのでここで仮眠を取ってもいいのですが、なぜか眠くありません。
ただし、いつものことで昼くらいには睡魔に襲われることが予想されるでしょう。
6時20分、気づけは東の空が明るくなってきていました。
じゃあ、そろそろ行こうかな。
壬生駅家から壬生ICはほんの数分です。
下道に降りて、初めは羽生田の古墳群を目指します。
※主要古墳の位置と周辺地形は下図の通り
今回の栃木の古墳めぐりで使用する資料は、栃木県内の博物館などで無料配布されているこちらの地域の古墳について簡単に説明したパンフレットのみです。
そのパンフレットには大雑把な地図しか載っていないのですが、古墳めぐりも経験を積むと、KKD(経験・勘・度胸)で場所を見つけ出すことができるようになるので、その辺は心配していません。
さて、羽生田の古墳群は鹿沼市との境に近い場所で、黒川が西側を流れています。
県道を注意深く走っていると、古墳の名前の書かれた標識を路傍に確認しました。
国指定史跡だったりすると、大きな看板が道路に出ていることが多いですが、マイナー史跡の場合は、地元の有志の方が作ってくださった標識や案内板が立っていることがあります。
そういった手作りの標識を車内から視認したわけです。
というわけで、普通は軽トラしか行かないような畑の中の細い道に侵入し、本日の一発目の長塚古墳がある場所に近いと思われる場所まで来ました。
雷電號より大きい普通車では入ってこれない場所です。
雷電號はオフロード仕様の車ではないのであまり無理はできないのですが、今までも結構デンジャラスな道に突入してきました。
将来はポルシェが欲しいなあと思っていますが、ポルシェでは古墳めぐりは難しそうですね。
高級車はお金の無駄遣いの最たるものだと言われることもありますが(資産価値は無いし購入額にくらべて売却額が異様に低い)、幼少の頃の「スーパーカーブーム」の影響で、やはりランボルギーニとかマセラティとか、あるいはロータスとかそういった車に憧れてしまうんです。
あ、でも私はAT限定免許だった。
お、おそらく遠くに見えるあれが長塚古墳でしょう。
近接してみます。
おー、墳丘の形が分かる。
はい、着きました!
この現況だと、夏に来たら藪が酷くて墳丘に登れないかもしれません。
古墳めぐりは山城めぐりと一緒で、真冬が一番いいですね。
しかも今日は暖かいですし、日中も晴れそうなので楽しみです。
まず一段目のテラスに登りました。
この地域の古墳の特徴は、1段目が「基壇」と呼ばれることがあるほど、かなり広々としているところです。
長塚古墳は2段築成の前方後円墳で、今は後円部に取り付いています。
後円部から前方部方向を見ます。
前方部方面の1段目テラスが狭小になっているので改変されてしまったのでしょう。
1段目から2段目を見上げます。
では墳頂へ登りましょう。
墳頂は細尾根のようですね。
1段目のテラスが広い分、墳頂の面積が狭いんですよね。
長塚古墳は前方部の底辺が黒川の方向へ向いていることから、川からの景観はそれほど意識してないです。
横腹は南側と北側の平野に向けて晒してあり、墳頂から南の眺めはこんな感じ。
こちら方面からの景観を重視ているほか、北側は墓域の中心部ですので、北側からの景観も当然ながら気にしていますね。
前方部へ行ってみましょう。
後期古墳なので前方部も高いです。
鞍部から後円部を振り返ります。
前方部の墳頂へ来ました。
お、下に説明板らしきものがある!
降りてみましょう。
おや、パンフレット入れが設置してありますよ。
こういったものはたまにあるのですが、中が空なんてこともよくあるんですよね・・・
パカッ!
入ってる!
よし、ゲット!
あ、このパフレットはすでに持っていました。
でも昨年末の引っ越しの混乱がまだ収拾しておらず、資料の整理整頓がまだできていないため、今回はこのパンフレットを見つけることができず持ってきていなかったのです。
良かった、助かった。
というわけで、長塚古墳の説明。
説明板にも書かれている通り、羽生田地域での首長墓の中で前方後円形としては最後のもので、築造時期はもしかすると7世紀にかかるかもしれません。
中央では大型前方後円墳の築造が終焉しているその時期に77mという大きな規模の前方後円墳を造っているのは興味深いです。
※上の説明板では77mとありますが、手元のパンフレットには82mとあるので、上の地図を作成するときは82mにしました
こちらの平面図は推定復元図であって、さきほど後円部の1段目テラスから前方部方面を見たとおり、現況はとくに南側が改変されています。
周溝の跡は表面からは分かりませんでした。
前方部から西側の黒川方面を見ます。
150mも行かずに地形は川に落ち込んでいますよ。
黒川はここから直線距離で9㎞ほど下流にて思川と合流し、思川は途中姿川を合わせた後、黒川との合流地点からさらに22㎞ほど下流にて渡良瀬川に合流します。
古代から中世の頃は、渡良瀬川の下流は今の江戸川(当時は太日川と呼ばれていました)で東京湾に注いでいたわけなので、荒川・利根川の上流域である上毛野地方と同様、こちらの下毛野地方にも古墳時代なってから濃尾勢力が遡上してきた可能性が考えられます。
ただし、上毛野地方では3世紀中葉には濃尾の勢力が支配者となって高崎市の元島名将軍塚古墳などの大型の前方後方墳を築造していますが、こちら方面にはそれと同時期の大型前方後方墳は認められません。
では、長塚古墳さようなら。
つづいて桃花原(とうかばら)古墳を見つけてみますよ。
⇒この続きはこちら
ただ、やはり高速道路代はネックになりますね。
とくに我が家は圏央道の高尾山ICまで10分かからない場所なので、圏央道に乗ることが多く、圏央道は結構高いのです。
例えば、本日降りる予定の北関東道の壬生ICまでは、休日のETC料金で3,600円掛かります。
平日だとさらに高くなり4,060円になり、これを少しでも節約したいので、今日は3時半に家を出ますよ。
というのも、4時までにICに入れば、深夜割引が適用され、平日料金の3割引の2,840円になるからです。
富裕な方にとっては些細な金額かも知れませんが、とにかくカツカツで活動している私にとっては簡単な労力あるいは努力で削れるものは少しでも削りたいのです。
将来はこんなみみっちいことをせずに、もっと心に余裕をもって歴史めぐりをしたいなあと思いつつ、3時半に出陣。
実は今回行きたい場所は漠然とは考えているのですが、細かいことをまだ決めていないので、ひとまず圏央道の狭山の駅家(IC)で朝ご飯を食べつつ考えようと思います。
早朝、というか深夜の高速道路は本当に快適ですね。
今日は走りませんが、空いている時間帯の首都高はとくに面白いです。
4時に狭山の駅家に到着。
駅家のコンビニは深夜はやっていないので、パンやおにぎりが売っている自販機で朝ご飯を買って、最初の目的地を決めます。
栃木県壬生町の古墳を見たいので、予定通り北関東道の壬生駅家で降りることにします。
というわけで進軍。
いやー、本当に快適。
壬生駅家には5時半に着到しました。
真冬なので外は当然真っ暗です。
この時期は7時くらいからようやく写真がちゃんと撮れるようになりますので、もうしばらく神武號(ノートPC)を開いて事前調査をします。
昨日の講座の前の日は1時間半しか睡眠をとっておらず(講座の前日は資料作成の追い込みのためいつもこんな感じで下手すると徹夜になります)、昨夜も5時間くらいだったのでここで仮眠を取ってもいいのですが、なぜか眠くありません。
ただし、いつものことで昼くらいには睡魔に襲われることが予想されるでしょう。
6時20分、気づけは東の空が明るくなってきていました。
じゃあ、そろそろ行こうかな。
壬生駅家から壬生ICはほんの数分です。
下道に降りて、初めは羽生田の古墳群を目指します。
※主要古墳の位置と周辺地形は下図の通り
今回の栃木の古墳めぐりで使用する資料は、栃木県内の博物館などで無料配布されているこちらの地域の古墳について簡単に説明したパンフレットのみです。
そのパンフレットには大雑把な地図しか載っていないのですが、古墳めぐりも経験を積むと、KKD(経験・勘・度胸)で場所を見つけ出すことができるようになるので、その辺は心配していません。
さて、羽生田の古墳群は鹿沼市との境に近い場所で、黒川が西側を流れています。
県道を注意深く走っていると、古墳の名前の書かれた標識を路傍に確認しました。
国指定史跡だったりすると、大きな看板が道路に出ていることが多いですが、マイナー史跡の場合は、地元の有志の方が作ってくださった標識や案内板が立っていることがあります。
そういった手作りの標識を車内から視認したわけです。
というわけで、普通は軽トラしか行かないような畑の中の細い道に侵入し、本日の一発目の長塚古墳がある場所に近いと思われる場所まで来ました。
雷電號より大きい普通車では入ってこれない場所です。
雷電號はオフロード仕様の車ではないのであまり無理はできないのですが、今までも結構デンジャラスな道に突入してきました。
将来はポルシェが欲しいなあと思っていますが、ポルシェでは古墳めぐりは難しそうですね。
高級車はお金の無駄遣いの最たるものだと言われることもありますが(資産価値は無いし購入額にくらべて売却額が異様に低い)、幼少の頃の「スーパーカーブーム」の影響で、やはりランボルギーニとかマセラティとか、あるいはロータスとかそういった車に憧れてしまうんです。
あ、でも私はAT限定免許だった。
お、おそらく遠くに見えるあれが長塚古墳でしょう。
近接してみます。
おー、墳丘の形が分かる。
はい、着きました!
この現況だと、夏に来たら藪が酷くて墳丘に登れないかもしれません。
古墳めぐりは山城めぐりと一緒で、真冬が一番いいですね。
しかも今日は暖かいですし、日中も晴れそうなので楽しみです。
まず一段目のテラスに登りました。
この地域の古墳の特徴は、1段目が「基壇」と呼ばれることがあるほど、かなり広々としているところです。
長塚古墳は2段築成の前方後円墳で、今は後円部に取り付いています。
後円部から前方部方向を見ます。
前方部方面の1段目テラスが狭小になっているので改変されてしまったのでしょう。
1段目から2段目を見上げます。
では墳頂へ登りましょう。
墳頂は細尾根のようですね。
1段目のテラスが広い分、墳頂の面積が狭いんですよね。
長塚古墳は前方部の底辺が黒川の方向へ向いていることから、川からの景観はそれほど意識してないです。
横腹は南側と北側の平野に向けて晒してあり、墳頂から南の眺めはこんな感じ。
こちら方面からの景観を重視ているほか、北側は墓域の中心部ですので、北側からの景観も当然ながら気にしていますね。
前方部へ行ってみましょう。
後期古墳なので前方部も高いです。
鞍部から後円部を振り返ります。
前方部の墳頂へ来ました。
お、下に説明板らしきものがある!
降りてみましょう。
おや、パンフレット入れが設置してありますよ。
こういったものはたまにあるのですが、中が空なんてこともよくあるんですよね・・・
パカッ!
入ってる!
よし、ゲット!
あ、このパフレットはすでに持っていました。
でも昨年末の引っ越しの混乱がまだ収拾しておらず、資料の整理整頓がまだできていないため、今回はこのパンフレットを見つけることができず持ってきていなかったのです。
良かった、助かった。
というわけで、長塚古墳の説明。
説明板にも書かれている通り、羽生田地域での首長墓の中で前方後円形としては最後のもので、築造時期はもしかすると7世紀にかかるかもしれません。
中央では大型前方後円墳の築造が終焉しているその時期に77mという大きな規模の前方後円墳を造っているのは興味深いです。
※上の説明板では77mとありますが、手元のパンフレットには82mとあるので、上の地図を作成するときは82mにしました
こちらの平面図は推定復元図であって、さきほど後円部の1段目テラスから前方部方面を見たとおり、現況はとくに南側が改変されています。
周溝の跡は表面からは分かりませんでした。
前方部から西側の黒川方面を見ます。
150mも行かずに地形は川に落ち込んでいますよ。
黒川はここから直線距離で9㎞ほど下流にて思川と合流し、思川は途中姿川を合わせた後、黒川との合流地点からさらに22㎞ほど下流にて渡良瀬川に合流します。
古代から中世の頃は、渡良瀬川の下流は今の江戸川(当時は太日川と呼ばれていました)で東京湾に注いでいたわけなので、荒川・利根川の上流域である上毛野地方と同様、こちらの下毛野地方にも古墳時代なってから濃尾勢力が遡上してきた可能性が考えられます。
ただし、上毛野地方では3世紀中葉には濃尾の勢力が支配者となって高崎市の元島名将軍塚古墳などの大型の前方後方墳を築造していますが、こちら方面にはそれと同時期の大型前方後方墳は認められません。
では、長塚古墳さようなら。
つづいて桃花原(とうかばら)古墳を見つけてみますよ。
⇒この続きはこちら