朝目覚めると、散歩に行く気満々状態です。
今は少し前のように1時とか2時とかに起床することはなく普通に6時とかに起きますし、今日は遠くに行くわけでもないので早朝から出掛けることに拘る必要はないです。
そんなわけで、9時過ぎに家を出ます。
高尾駅には全然人がいない!
日曜日の朝は、普通であれば高尾山やその他の山に行く人たちでごった返しているのですが、本当に気色悪い。
中央線に乗ると私の乗っている車両には他に誰もいないので、生まれて初めて中央線の車内で歌を歌ってみます。
これならギターも弾けますね。
あ、でも隣の西八王子で何人か乗ってきてしまいました。
10時に立川に到着し、探訪開始です。
南口を出て、モノレールの下を歩きます。
「立川柴崎町四」交差点の近くまで来ると前方の地形が落ちていることに気づきました。
この先には多摩川が流れ立日橋が架かっており、向こうから立川駅方面にはしょっちゅう車で来ていましたが、車で走っているときはこんな高低差は意識したことがありませんでした。
段丘があったんですね。
地形を堪能できるのも歴史歩きの楽しみの一つです。
ここで坂は下らずに右折します。
しかしすでに暑い。
上着を脱いで半袖になります。
住宅街を歩いていると、そろそろ古墳かなという場所で前方が落ちているのが確認できました。
先ほど見たのと同じく、多摩川の段丘崖です。
ここより少し上流の昭島市から下流の大田区まで、多摩川左岸の段丘縁には多少の濃淡はありますが、イメージ的にはズラーッと古墳が並んでいるのです。
ほとんどが「縁」か、それに近い場所です。
先日も八王子市内の古墳を少し歩きましたが、そのときも北浅川の段丘の縁に古墳が並んでいました。
最初に訪れる立川市No.13遺跡、通称「沢稲荷古墳」もそういった「崖っぷち」の古墳の一つです。
古墳にはその名の通り、稲荷神社が祀られているはずですが、古墳はどこかなあ・・・
あった!
墳丘の上に社殿が乗っかているタイプですね。
これが立川市内で唯一墳丘が残っている古墳なのです。
額には「沢稲荷講中」とあります。
今の地図には載っていませんが、戦前の地図を見るとこの辺の地名が「澤」であったことが分かります。
墳丘は一部分は直線的にカットされていますが、後世の改変でしょう。
墳丘の周囲には畑が広がっており、少し離れたところから全体像を見てみましょう。
いいねえ。
墳丘の周りは歩いて一周できるようになっています。
周溝跡と呼ぶには細いですが、どうやら古墳の周りには暗渠があるようです。
『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)によると、沢稲荷古墳は直径15mほどの円墳です。
また、同書が引く『立川市教育資料Ⅰ』には、ボーリング調査によって石室の存在が確認されているとあるそうです。
ボーリングといってもいちばん簡単なやり方は、鉄の長い棒を墳丘に差し込んで地中を突っつく方法です。
簡単といっても土が硬いとそんなに簡単には行きませんが、このときに何か硬いものに当たって、それがある程度の範囲に広がっていたら石室の可能性が高いと考えられるので、そういった調査をしたのでしょうか。
いずれ何かの折にでも発掘できると良いですが、神様が祀られている場所を発掘するのはかなり難しいです。
さて、ついでなので、この近くにある立川市No.16遺跡という湮滅した古墳跡へ行ってみましょう。
さきほど見た段丘の縁に来ました。
眼下には多摩川の支流の残堀川が流れていますが、流れは見えません。
南側の眺望。
少し東を向くと、モノレールの高架が見えます。
住宅街の中を歩き、「東京都遺跡地図」にマークされた場所に来てみましたが、ちょっと写真を撮るには憚られる場所ですね。
お庭やガレージに出てきて何かやっている人も多いですし、こういう時期ですから、余所者がウロウロしているのは喜ばれないでしょうから早々に退散します。
立川市No.16遺跡の場所がどんな感じか確認できたのでよいでしょう。
立川市内には他にもNo.12遺跡が古墳とされていますが、その位置は内陸に入りすぎているので、個人的には中世の塚か何かじゃなかったのかなと思います。
その古墳だか塚だか分からないものも今はすでに無いので何とも言えませんが、周溝の形跡のようなものが見つかっていれば古墳の可能性が高いですが、そういうものも見つかっていないようです。
ところで、ちょうどいま新しい立川市史が編纂されているところなので、それが刊行されたら立川の古代史について新しい知見も手に入るので楽しみです。
それでは、つづいて国立市方面へ向かいます。
⇒この続きはこちら
今は少し前のように1時とか2時とかに起床することはなく普通に6時とかに起きますし、今日は遠くに行くわけでもないので早朝から出掛けることに拘る必要はないです。
そんなわけで、9時過ぎに家を出ます。
高尾駅には全然人がいない!
日曜日の朝は、普通であれば高尾山やその他の山に行く人たちでごった返しているのですが、本当に気色悪い。
中央線に乗ると私の乗っている車両には他に誰もいないので、生まれて初めて中央線の車内で歌を歌ってみます。
これならギターも弾けますね。
あ、でも隣の西八王子で何人か乗ってきてしまいました。
10時に立川に到着し、探訪開始です。
南口を出て、モノレールの下を歩きます。
「立川柴崎町四」交差点の近くまで来ると前方の地形が落ちていることに気づきました。
この先には多摩川が流れ立日橋が架かっており、向こうから立川駅方面にはしょっちゅう車で来ていましたが、車で走っているときはこんな高低差は意識したことがありませんでした。
段丘があったんですね。
地形を堪能できるのも歴史歩きの楽しみの一つです。
ここで坂は下らずに右折します。
しかしすでに暑い。
上着を脱いで半袖になります。
住宅街を歩いていると、そろそろ古墳かなという場所で前方が落ちているのが確認できました。
先ほど見たのと同じく、多摩川の段丘崖です。
ここより少し上流の昭島市から下流の大田区まで、多摩川左岸の段丘縁には多少の濃淡はありますが、イメージ的にはズラーッと古墳が並んでいるのです。
ほとんどが「縁」か、それに近い場所です。
先日も八王子市内の古墳を少し歩きましたが、そのときも北浅川の段丘の縁に古墳が並んでいました。
最初に訪れる立川市No.13遺跡、通称「沢稲荷古墳」もそういった「崖っぷち」の古墳の一つです。
古墳にはその名の通り、稲荷神社が祀られているはずですが、古墳はどこかなあ・・・
あった!
墳丘の上に社殿が乗っかているタイプですね。
これが立川市内で唯一墳丘が残っている古墳なのです。
額には「沢稲荷講中」とあります。
今の地図には載っていませんが、戦前の地図を見るとこの辺の地名が「澤」であったことが分かります。
墳丘は一部分は直線的にカットされていますが、後世の改変でしょう。
墳丘の周囲には畑が広がっており、少し離れたところから全体像を見てみましょう。
いいねえ。
墳丘の周りは歩いて一周できるようになっています。
周溝跡と呼ぶには細いですが、どうやら古墳の周りには暗渠があるようです。
『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)によると、沢稲荷古墳は直径15mほどの円墳です。
また、同書が引く『立川市教育資料Ⅰ』には、ボーリング調査によって石室の存在が確認されているとあるそうです。
ボーリングといってもいちばん簡単なやり方は、鉄の長い棒を墳丘に差し込んで地中を突っつく方法です。
簡単といっても土が硬いとそんなに簡単には行きませんが、このときに何か硬いものに当たって、それがある程度の範囲に広がっていたら石室の可能性が高いと考えられるので、そういった調査をしたのでしょうか。
いずれ何かの折にでも発掘できると良いですが、神様が祀られている場所を発掘するのはかなり難しいです。
さて、ついでなので、この近くにある立川市No.16遺跡という湮滅した古墳跡へ行ってみましょう。
さきほど見た段丘の縁に来ました。
眼下には多摩川の支流の残堀川が流れていますが、流れは見えません。
南側の眺望。
少し東を向くと、モノレールの高架が見えます。
住宅街の中を歩き、「東京都遺跡地図」にマークされた場所に来てみましたが、ちょっと写真を撮るには憚られる場所ですね。
お庭やガレージに出てきて何かやっている人も多いですし、こういう時期ですから、余所者がウロウロしているのは喜ばれないでしょうから早々に退散します。
立川市No.16遺跡の場所がどんな感じか確認できたのでよいでしょう。
立川市内には他にもNo.12遺跡が古墳とされていますが、その位置は内陸に入りすぎているので、個人的には中世の塚か何かじゃなかったのかなと思います。
その古墳だか塚だか分からないものも今はすでに無いので何とも言えませんが、周溝の形跡のようなものが見つかっていれば古墳の可能性が高いですが、そういうものも見つかっていないようです。
ところで、ちょうどいま新しい立川市史が編纂されているところなので、それが刊行されたら立川の古代史について新しい知見も手に入るので楽しみです。
それでは、つづいて国立市方面へ向かいます。
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