つぶやき城。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

瑞巌寺@宮城県

2023-10-29 15:00:00 | 
2023年10月29日

涌谷城の後は日本三景松島にやってきました。

大変な混み具合の松島。
今回、松島の目的は瑞巌寺です。

1609年に伊達政宗が建立。
仙台城築城の際に、市民の精神の拠り所として伊達政宗が縄張りを行なって造営。

前回、訪問したのは6年前くらい。
2008年からの10年間、平成の大修理中だった為、全てを見ることができなかったので、再びやってきました。



日本三景松島の海沿いを歩きながら瑞巌寺に向かいます。
最寄りの駅は松島海岸駅です。
松島駅もあるので注意です。



国宝瑞巌寺の入り口。



伊達家の竹に雀と三引両の家紋の提灯が門に掲げられています。



門を抜けると杉の木が本堂前まで広がります。
以前はもっと杉の間を抜けて行くような参道でしたが、杉の木が伐採され減ってしまいました。

それは東日本大震災の時、松島にも津波がきてこの瑞巌寺を襲いました。

奇跡的にこの杉の参道の先まで津波は到達したものの、本堂の前で止まりました。

この杉の伐採は悲しくも震災の爪痕なのです。



内側から見た総門。





参道の右手の道には洞窟遺跡群があります。



約200mに渡って、岩壁に洞窟や仏が彫られています。



松島は古来より「奥州の高野」と呼ばれていて、亡き人の供養が営まれた場所でもありました。




本堂には庫裡(くり)から入ります。
庫裡とは寺院の台所です。

こちらも国宝に指定されています。


寺内は撮影禁止のため、写真は外観のみ。



構造は切妻造の本瓦葺。
入母屋の上には煙出しがのっかります。

美しい曲線です。



上部には複雑に組んだ梁と束。
漆喰の壁に彫刻が施されています。

派手さはないものの、細かなところを見ると芸術が光ります。

内部も基本的にはシンプルな作りですが、天井などを見ると細かな箇所に彫刻なども見受けられました。



城の望楼型天守のミニチュア版みたいです。



庫裡の脇にあるこの建造物が個人的には気になってしまいました。

岩を掘ってスッポリ入れたような建物。

その先には非公開の大書院があります。



先ほどの庫裡から本堂に入りますが、本堂の外観はこちらの中門から入ると見ることができます。



寺内の写真を撮ることができないのが残念ですが、本堂内は平成の大修理を終えて伊達政宗が心血を注いで完成させた創建当時の姿に甦りました。



よく見ると金色に輝く部屋が見えます。

瑞巌寺の外部は非常にシンプルですが、寺内は各部屋によってテーマがあり、絵画や彫刻で豪華絢爛に装飾されています。

京都、根来の大工衆が集められ、金色の豪華な襖絵は狩野派。当時の最先端技術によって瑞巌寺は完成しました。



瑞巌寺入り口の銅像。



銅像の後ろのみが先行して赤く紅葉しています。とても不思議な光景。


派手好きな伊達政宗らしさが表現された寺院です。

仙台城の大広間も内部は豪華絢爛だったものの、現在は残っていません。

その片鱗をこの瑞巌寺で見ることができるので、仙台に来た際には是非行ってもらいたいスポットです。



瑞巌寺に行った際に併せて観覧したいのが伊達政宗歴史館。

伊達政宗の一生をロウ人形で再現しています。

ここも計4回くらい来ているのですが、歴史を学ぶ度に見方が変わるので、何度も来ています。

写真撮影可だったので、超簡単に紹介。



伊達政宗の初陣の様子。
ちなみに初陣は15歳です。



人取橋の戦いの様子。
19歳の政宗が7000人の兵で、兵力30000人の連合軍と渡り合った有名な戦い。

伊達政宗の勇名を轟かせることになった重要な戦いとなっています。



小田原参陣に遅れたことで秀吉に討たれそうになるも、この死装束のパフォーマンスと、秀吉の好きな茶を最後に習いたいと申し出て乗り切ります。

小田原北条氏とは同盟関係だった伊達家にとっては難しい決断でした。



一揆を企てたことが秀吉にバレて再度討たれそうになります。

再び死装束に今度はキリストを彷彿とさせる、金色の十字架を持参して上洛します。

そして再び許されます。笑

しかし、山形の米沢から宮城の岩出山に移封となります。

結果的には現在の大都市仙台は、この移封があったから実現したといっても過言ではありません。



朝鮮出兵の様子。このシーンだけはミニチュア。

兵は500人の要請に対して、3000人を率いて参陣しました。

2月13日に入京した伊達勢は、3月17日に京都を出発し、肥前名護屋城に向かいます。
大軍の第一陣は前田利家。第二陣は徳川家康。第三陣が伊達政宗でした。

伊達軍の豪華な軍装は京都の人々を大いに驚かせたようです。



紺地に金の日の丸の幟が30本、それを持つ足軽は具足の下に無量の襦袢、黒の具足には金の星印。

さらに鉄砲100挺、弓50張、槍100本、それぞれの足軽は銀のし付の脇差し、朱鞘の太刀をはき、金のとんがり笠をかぶっていました。

さらに騎上侍30騎は、黒幌に金の半月のだし、黄金装の太刀をはき、馬鎧は豹や虎、熊の皮に孔雀の尾をつけていました。

さらに伊達政宗は華麗でした。

赤地の錦の直垂に、黒漆塗りの五枚銅の鎧。
黒ラッシャの地の裾に紅ラッシャの山形模様で金モールを放射型に走らせた陣羽織。

そんな派手な振る舞いをする人を「伊達者」と呼ぶようになったという説があります。

伊達勢の軍装の派手さは後世に語り継がれるほどのインパクトがあったということです。



伊達政宗は日本初となる西洋船をつくり、幕府公認で慶長遣欧使節をメキシコとスペインに送っています。

大工800人、鍛冶700人、雑役3000人で完成させた船は、西洋諸国からサン・ファン・バウティスタ号と呼ばれていました。



実際に渡航は成功してローマ法王にも会っています。

貿易を目的とした派遣でしたが、結果的には幕府のキリスト弾圧によって実現することはできませんでした。

この航海は7年にも及びました。

貿易を目的としていますが、真の目的は諸説言われています。

スペインと軍事同盟を結んで幕府を転覆させる計画があったというのが、昔からの説です。

近年ヴァチカン秘密文書館が所蔵する、使節に対するローマ教皇の回答が新たな史料として加わりました。
回答によれば、なんと政宗側から「政宗をカトリック王に叙任してほしい」「カトリック騎士団を創設したい」との要望があったというのです。

この辺りの話もロマンがあって個人的には好きですね。



大坂夏の陣で東軍についた伊達政宗。
領地を減封され、伊達家の所領の米沢を奪われ、三度殺されそうになった豊臣秀吉は、好かない相手だったかもしれません。

しかし天下を納めた秀吉の大阪城が、夏の陣の際に火の手で落城する姿を見て、伊達政宗は涙を流し忍んだと言われています。

その後、天下泰平の世になり伊達政宗は仙台市の発展のために生涯を尽くしました。


等身大のロウ人形で生涯を知れるので、非常に面白い資料館です。

是非、瑞巌寺と併せて訪問してもらいたいです。





震災で被災しても立ち上がり、歴史を伝え続けて頂いている地元の方々に感謝しかありません。


寺×食事
松島は食事も充実した観光スポット!



牡蠣が有名な松島。
ゴロっと入った牡蠣カレーパン。

昔からやっている路面店でホタテの串焼き。

やはり仙台は牛タン。
三陸産カキフライと牛タンの欲張りメニューは利久で頂きました。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

涌谷城@宮城県

2023-10-29 13:00:00 | その他城
2023年10月29日

東北城巡り三城目は、宮城県遠田郡涌谷町にある涌谷城です。

涌谷城は岩出山城と港でもある石巻の中間に位置しています。

仙台城からは高速道路で約1時間ほど。

ちなみに涌谷と書いてワクヤと読みます。

涌谷城は室町時代から戦国時代にかけて、大崎氏が支配しており涌谷氏が築いた城とされています。

小田原合戦に参陣しなかった大崎氏と涌谷氏は滅亡。

葛西・大崎一向一揆を平定した伊達政宗が、米沢城から岩出山城に移封されたことで、この一帯は伊達家が支配することになりました。

その後、亘理氏が居城し伊達一門に入ったことで、亘理伊達家が誕生し仙台藩の要害として涌谷城は明治まで残り続けました。



江合川沿いに涌谷城はあり、川沿いは模擬の土塀があり城に近づくにつれて雰囲気を出してます。



長い模擬土塀の先には天守閣と櫓が見えてきます。
この天守閣は模擬天守で、実際に涌谷城には天守閣がありませんでした。



天守の脇を車で通り、先に涌谷神社があり車を無料で停めることができます。



涌谷城は細長い平城。丘のような高台に城があったのですが、現在は神社と公園として整備されている為、土塁の遺構などは見受けることはできません。



模擬天守の中は現在、資料館となっています。
この辺りは二の丸や邸宅風建築が並んでいたようです。

明治維新で奥羽越列藩同盟軍だった仙台藩は、敗戦して減封。
明治に入ってこの涌谷城は土浦藩のものとなり最終的には廃藩置県と共に取り壊されました。

模擬天守の中で御城印が貰えるので、資料館の観覧と併せて入場です。



こちらは衣類や道具などを入れる長持。
ばっちり伊達家の家紋が金色に輝いています。

伊達家の「竹と雀」の仙台笹と、三引両。
三引両は政宗以前から代々伊達家に伝わる家紋です。



陣羽織と駕籠。



中は狭いながらも、畳が敷かれ一つの部屋のようです。



当時の火縄銃。



当時の器も多く展示されています。



こちらにも、しっかりと伊達家の家紋が輝いています。



涌谷伊達家が所用していた刀。



こちらも涌谷伊達家によって所用されてきた甲冑。
黒漆塗りの五枚銅具足。



2003年に宮城県北部連続地震が発生し、県北エリアは被害がありました。

その際、この涌谷城も石垣の崩落と歪みが発生。
伝統工法で復旧したそうです。



最上階からのショット。
今は住宅地も多いですが、昔は川と広大な平野が広がっていたと思います。



模擬天守の前には、太鼓堂が現存しています。

一国一城令が発令された後も、仙台藩は要害という名前で幾つも城を持っていました。

しかし、あくまで城ではなく要害だった為、太鼓櫓ではなく太鼓堂という名前だったとも言われています。



仙台藩は仙台城、白石城、若林城の三城に加えて、涌谷城も含めた21もの要害を持っていました。

しかし、62万石の巨大な藩でありながら現存の建築物が残っていません。



これほど素朴な櫓であっても、仙台藩の貴重な現存建築物なのです。
以前は中にも入れたようですが、中に入ることはできません。

伊達家一門の証として、鯱が屋根に掲げられています。



こちらが地震で崩落した石垣。
復旧の際は櫓を一時的に移動させて修復したようです。



変わった形状の石垣です。
残念ながらこの一部の石垣の他は、石垣の遺構も残っていません。

それ故に貴重な石垣となります。





櫓とは逆側の二の丸跡の先には、涌谷神社があります。

階段で上がって行くのですが、二の丸から一段高いこの神社が本丸跡となります。





ちゃんとお参りして、涌谷城を後にしました。

仙台市中心部からは少し遠く、遺構が少なくても貴重な太鼓堂は必見かもしれません。

また、歴史などの観光産業に消極的な仙台市に比べて、何とかこの涌谷の地の歴史を知ってもらおうとする地域努力を感じて良かったです。

実は宮城県の人でも涌谷城を知らない方が多くいます。

しかし、そこには仙台藩の確かな足跡が残っていました。



にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村


岩出山城@宮城県

2023-10-22 14:00:00 | その他城
さ2023年10月22日

東北城巡り二城目は宮城県大崎市にある、岩出山城に向かいました。

仙台藩初代藩主、伊達政宗は仙台城を作り城下町を整備し発展しました。

宮城県の方も知らない方がいるのですが、元々伊達家は山形県米沢市の武将です。

戦国の乱世の中様々な経緯があり、豊臣秀吉による二度の仕置きにより最終的には伊達家は米沢城からこの岩出山城へ移封されました。
当時は岩手沢城でしたが、伊達政宗が改名。岩手沢から岩出山へと改名。

そして12年間もの間、岩出山城を居城としていました。

伊達政宗は関ヶ原の合戦後に仙台城を築城。
岩出山城は四男の宗泰が岩出山伊達家として十代に渡ってこの地を納めました。

現在は公園となっていて、現存や復元の建物は何も残っていません。

しかし立地として、標高108mの独立した丘陵の上にある山城なので、天然の崖や土塁、おおよその城の形状が見えてきます。

また城下には有備館という仙台藩の学問所が残っており、国の史跡及び名勝に指定されています。



まずは元大手門とされていた場所から入城し、本丸跡まで登っていきます。

ちなみに、車の際は上まで上がると無料駐車場があります。



急な坂道を登り本丸跡を目指します。

現在は整備されていますが、至る所が絶壁です。







登っている道の下も急な崖になっています。
天然の防御機能が非常に高い城です。



こちらは内門跡。
現代チックに整備されていて、どこまでが遺構なのかは不明ですが、枡形の虎口になっていたのでしょうか。



二の丸に繋がる道。
しかし、この先は通行止めになっていました。




坂道を上がると本丸下の土堀があります。



本丸下の坂道を振り返っての一枚。
道を挟んで二重の堀となっていて防御を固めます。

右側の堀の上には本丸があります。
左側の堀下には機関車SLが置かれています。


左手に本丸跡が見えてきました。
今は公園なので道路も整備され、かなり歩きやすくなっています。



このエリアらしい看板なので写真に納めます。



登り切ると岩出山市を一望できます。



山頂には岩出山城の簡単な縄張りの案内があります。



本丸跡。奥には売店があったようですが、おそらくもう閉店している様子。

伊達政宗の居城だったので、もう少し整備されていたら素晴らしい観光地になるのになと思ってしまいます。



伊達政宗が居城する前、豊臣秀吉の命によって、後の天下人の徳川家康が岩出山城にやってきて縄張りや、改修、修繕を行うために40日間滞在したとされています。

その後、伊達政宗に引渡しを行いました。

ちゃんと深い歴史に関わった城なので、やはりもう少し整備して観光PRしてもらいたいと切に願います。



本丸から西の腰廊に抜ける道には土塁があり、道が貫通しています。

ここに門があったと推測されます。



先ほどの門跡右手の土塁に登って見ると、下は崖になっていました。

おそらくこの急勾配では登ることは不可能かと思います。


西の腰廊には伊達政宗の像が置かれています。



伊達政宗の像といえば、仙台城にもある騎馬の上での勇ましい姿が有名ですが、岩出山城の伊達政宗像は甲冑さえ着ていません。

元は仙台城にあったらしいのですが、仙台市の寄贈によって岩出山城にやってきました。

平服を着ていることから平和像と呼ばれているそうです。



西の腰廊からの景色。



本丸からニの丸に降る階段がまさかの通行止め。本来はここから二の丸と三の丸跡を見たかったのですが、今回はここで断念です。


下山して有備館に向かいます。
岩出山城の麓には綺麗な水路があります。

写真の先に見える、山の上が先ほどいた岩出山城でガードレールが見えます。


有備館は岩出山城の麓にあります。
隣には大きな公園があります。



公園の先にある、山の上が岩出山城です。
こちらから見ると城全体の地形が、なんとなく見えてきます。



ものすごい天然の要害です。
地形そのものをフルに活かした山城です。



断崖絶壁!





岩出山城に行った際は、ここからのスポットは是非押さえて頂きたいです。



JR陸羽東線、有備館駅には伊達政宗像が飾られています。





駅前に旧有備館があります。



昔はもっと大きかったようですが、仙台藩の学問所として貴重な存在です。

明治維新後は岩出山伊達家が管理していましたが、昭和45年に現大崎市が譲り受けて一般公開されました。



茅葺屋根が美しい建物です。

建物の中に入ることもできます。







中からは素敵な庭園を眺めることができます。

時が止まったかのような空間。
江戸時代の平和な世の中を象徴しているようです。



江戸時代の教科書。



実際に手に取って見ることも可能です。
こんな貴重なもの触っても良いの?って若干衝撃を受けました。







庭園の中には茶室もあります。






現存する有備館は元々、岩出山伊達家の二代目当主、伊達宗敏の隠居所として1667年に建てられた可能性が高いとされる貴重な建物です。

岩出山城と併せて訪れてほしいスポット。

岩出山城の二の丸、三の丸に行けなかったのは残念ですが、充実した時間でした。

ちなみに、岩出山城には管理事務所なども無いので、御城印は城近くのサラダ館か花山太右衛門商店で売っていますので注意。


城×食事
富士屋


古川駅近くの老舗ラーメン店
行列のできる人気店。昔ながらのチャーシューワンタンメンを頂きました!


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

白河小峰城@福島県

2023-10-20 14:00:00 | 100名城
2023年10月20日

東北城巡りの一城目は福島県白河市の小峰城。日本100名城です。

東北新幹線の新白河駅で降り、白河駅に向かいますが電車のタイミングを逃して1時間待ち。

約3kmの距離を歩いて行くことにしました。

小峰城が表舞台となったのは幕末。

南北朝時代に結城親朝によって築かれ、江戸時代の初代藩主丹羽長重によって、石垣の近世城郭に改修されました。

幕末の戊辰戦争で本丸やシンボルの三重櫓が焼失して落城。



30分以上歩くと石垣と水堀が見えてきました。
なかなか立派な石垣が見えてきます。

当時は11基の櫓と18の門があったとされているので、規模としては大きめの城だったと考えられます。



早速、入城です
入城したら会津門があり、その先に二の丸があります。

現在、二の丸には茶屋と資料館があります。



月見櫓跡の石垣です。
打込接の布積み。



水堀前の石垣。
ここには一つの魅力があります。



場所によって石垣の積まれ方が違います。
半円を描くような積み方で、芸術性を感じます。



さすが11基の櫓があっただけあって、櫓台の跡が至る所にあります。


復元はされていないものの、入城の際の正面入り口は清水門。
現在復元プロジェクトが進行中。

いつか復元される可能性が高いです。



東日本大地震によって、小峰城も石垣が倒壊し大きなダメージを受けました。
しかし、震災から8年後に修復が完了。

二の丸の資料館に修復の軌跡を見ることができます。

石垣一つ一つを調べて元の位置に戻す作業。
気の遠くなるような作業ですが、こうして現代にも遺産が残っているのは、人の手によって大事に守られてきたからだと実感。



本丸には桜ノ門より入りました。
コンパクトな城ながら、見事な虎口もあります。

今は門がありませんが、当時は相当な圧迫感がある門だったと想像できます。



石垣の距離感が近いので、攻め入る際は気持ち的に圧迫され怯んでしまいそうです。



桜ノ門を抜けると本丸と三重櫓が見えてきます。

二の丸のさらに高台にそびえ立っているので、櫓というより天守閣にみえます。



本丸の正面にあたる前御門。
1994年に復元されました。

本丸よりも一段低くなった虎口となっています。



三重櫓下からのショット。三階が極度に狭くなっていて、綺麗な層を描いています。

付櫓があるので複合式の層塔型になりますかね。
三重櫓自体は三重三階。



三重櫓脇からのショット。
白河市の街並みも綺麗に見えます。



彦根城同様、窓は三角の縦格子。部屋内側を三角に施すことで可動範囲が広がることで、銃や弓矢の狙える範囲が広がります。



狭間もあり、防御力を高めます。



石落としもあります。
まさに三重櫓は小峰城最後の砦。



三重櫓は1993年に復元されました。
素晴らしき木造での復元。

コンクリート復元が多い中、木造復元は櫓でも貴重です。


建物全体の歪みを防ぐブレース(火打ち材)も入れてます。

現代では天井の導水板や天井下地を吊るしたりするときに用いる吊りボルトも、ちゃんと木材で吊り下げてます。



階段はやはり急勾配。


外の前御門側から見ると分かるのですが、三重櫓にの二階部分に一重の櫓が付いたような変わった作り。



櫓の張り出した箇所は一つのスペースとして
石落としや狭間が設けられています。



最上階はかなりコンパクト。天井の複雑な作りも間近で見ることができました。





帰りは正面入り口となる前御門から帰ります。



前御門と三重櫓が繋がっているので、とても櫓とは思えないほど迫力ある建物に見えますね。



角度によって見え方がすごく変わる美しい城です。



そして、先ほど内部で見た二階の張り出した部分を見ると、他ではなかなか見ることのできない程前に出ています。

櫓の上に櫓を付けたように見えます。



本丸の石垣は高さ約10m。石垣だけでも見どころ満載の名城です。



二の丸からの三重櫓。

小峰城は奥羽街道の要となっていて、幕末には奥羽越列藩同盟軍と新政府軍の熾烈な戦いが繰り広げられた舞台となりました。

白河口の戦いです。

会津攻略を阻止するために、同盟軍としては何としても突破させるわけにはいかない最重要拠点だったんですね。

会津藩に加え、新撰組隊長の斎藤一が130名の隊員を率いて合流。次々と攻略して北上してくる新政府軍を迎え撃つために、守りを固めました。

一度は新政府軍を退けるも、最終的には陥落。
そして、小峰城は石垣のみが残る状態で全て消失。

その後、奪還作戦も実らず同盟軍は退却。河口の戦いは幕を閉じます。
この時点で戊辰戦争の大勢は決したと言われています。

そんな幕末の主戦場となった小峰城ですが、門も櫓も木造で復元され、現代に歴史は語り継がれている。
今では美しい城郭として、歴史と共に守られています。


城×食事
新幹線新白河駅の改札を出てすぐにある、麺処 新白河。サクッと食べるには丁度いい!
白河といえばやはり白河ラーメン。


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

川越城@埼玉県

2023-10-01 14:00:00 | 100名城
2023年10月1日

小江戸として観光客に大人気の川越市。
江戸時代にタイムスリップしたような、蔵の街並みを楽しむ事ができます。

オシャレなお店なども多いので若い方にも大人気のエリアです。

しかし、忘れていけないのは城下町という事。

当然、川越市には城がありました。
城好きの人なら皆知っていますが、小江戸というワードが先走って、城の存在を知らない方が多くいます。

城あっての城下町。

川越城は日本100名城になっていますので、城好きの方なら絶対に抑えておきたい城。

当時から天守閣は無く、江戸幕府の重臣達が代々居城としていて、北の守りとなる重要拠点でした。

江戸時代の主な城主は酒井家、松平氏。

現在は本丸御殿の一部が現存しています。日本で本丸の現存は、高知城と川越城の二棟のみ。

貴重な城跡になります。



川越城は本川越駅から、ゆっくり歩いて15分ほど。

街並みを楽しんで歩けばあっという間の時間です。


蔵づくりの町並み、大正ロマン通りが小江戸と呼ばれるメイン通りです。

ワタクシは行きはメイン通りを外して一本隣の筋から川越城を目指しました。



メイン通りを外しても蔵づくりの建物が数多く存在しています。

むしろ、メイン通りは人が多すぎるのでこちらの方が、じっくり見る事ができて良いかもしれないです。



お店もレトロな感じで、雰囲気がいいんですよね。



浴衣で歩きたい街並み。

中央図書館前の、細く住宅街の路地から向かいます。


川越高校の近くに曲輪門跡があります。
目の前の林には御嶽神社があり、昔はそこが富士見櫓がありました。



こちらが櫓跡地。
富士見櫓の規模は不明ですが、三重で15m×14mと言われています。

天守閣のなかった城なので、おそらくこの富士見櫓が天守の代わりだったと思われます。

三重の富士見櫓という名前だと、江戸城の富士見櫓を連想します。

江戸城も天守が焼失してからは富士見櫓が天守代用でした。



富士見櫓跡からの景色。
昔は富士山も一望できるほどだったらしい。



続いて本丸御殿に到着です。
玄関の大きな唐破風。
まるで寺院の入り口のような造り。



玄関の間口は13間(23m)もあります。


彫刻も彫られており、重厚感のある唐破風。特別な意味合いを持つ建物だったことが見てとれます。

そして各所、垂木の小口が白く塗られています。

これはデザイン製なのかと思っていましたが、後から調べたら浸水や木材の割れを防ぐ役割があるそうです。



川越城の縄張り。
今ある本丸の御殿はほんの一部であって、実際はかなり大きな城郭だった事がわかります。

明治期に川越城は取り壊され、堀は埋められ今では当時の1/8の面積しか残っていません。



中は大広間、家老の詰め所などを見る事ができます。


 






美しい日本庭園もあり、平和な時代を象徴しています。



御殿の中には小さな展示室があり、瓦も飾られています。

徳川家の家紋がカッコいいですね。



昔ながらの木造の内装を見ると、祖父の家を思い出します。



武蔵国の中心にあった川越城。
藩庁も置かれて、政治の中心地でした。

こんな感じで政治が行われていたんですね。





釘隠。
長押や扉に打った鍵を隠す目的で使われていた装飾。
よく天守閣にも使われています。






現存の大広間は36畳!



立派な襖絵も残っています。



堀も埋められたので現在はその姿を見る事ができません。
唯一、中ノ門堀がほんの一部のみ残っています。







堀がしっかりと残っています。
残念ながら堀の遺構が残っているのは全体でこの一部のみ。

堀の上には狭間を設けた土塀が張り巡らせていたそうです。



メインの蔵通りは観光客で大混雑。
歩道も狭い為、立ち止まって写真を撮るのは難しいですね。



川越市のシンボル時の鐘。
創建された江戸時代初期から、暮らしに欠かせない時を知らせてきました。


川越城は天守閣や櫓が残っていないので、やや寂しい部分も感じますが、本丸が残っているのはやはり貴重です。

城下町の小江戸と併せて楽しむのがやはり良さそうですね。


城×食事!

昭和通りにあるレトロな食堂、シブヤ。
中華〜洋食まで揃う老舗。

昔ながらのオムライス。
このオムライスが食べたくなるんです!ステンレスの皿も最高です。

詳しくは↓↓