つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

宇都宮城@栃木県

2024-09-29 15:00:00 | その他城
岩手県に打合せがあるので、前乗りして東北新幹線を途中下車。

初めて栃木県の城を攻めたいと思います。
岩手に行くのなら盛岡城も行きたいと思ったのですが、盛岡城は間違いなく見て回るのに時間を要すると判断し、駅からの距離、規模、知名度等を考慮して宇都宮城に行くことにしました。

盛岡城は来年のゴールデンウィーク前後で改めて行く予定!

宇都宮城は関東7名城で平安時代からの歴史ある城。
幕末では戊辰戦争の主戦場となりほぼ焼失。

残った建築物も空襲で焼失。
最終的には堀も土塁も壊されてしまいました。

しかし、2007年に土塁を外観復元!宇都宮市の観光スポットそして市民の憩いの場として生まれ変わりました。


宇都宮の駅を降りると、川が流れています。
宇都宮は水に恵まれた街。

川は生活だけでなく水路としての役割も果たします。

水路は近世城郭において街の発展のファクターとなります。


豊臣秀吉や徳川家康も水路を造り、整えたことから、その重要度がわかります。



のどかで、景観も素晴らしい街でした。



駅から歩いて15分ほどで宇都宮城跡が見えてきます。

復元された櫓は清明台櫓と富士見櫓。そして、それを繋ぐ土塀です。

写真で見える櫓は清明台櫓。



この土塁は本丸を囲むように設けられていて、清明台櫓の脇には枡形の清水門がありました。



とにかく、土塁が高い!
この迫力に圧倒されます。



手前が清明台櫓。奥に小さく見えるのは富士見櫓。
外観復元とはいえ、この高さの土塁で本丸を囲んでいたと考えると、その姿を一度見てみたかったと思わずにはいられません。



清明台櫓と富士見櫓の間にある橋からのショット。

平成元年の1989年に発掘調査を開始。
堀の場所、深さ、門や櫓の場所を特定し、2007年に復元ですから、実に18年の歳月。



反対側には富士見櫓。
復元した櫓は2基。当時は土塁と土塀、5基の櫓で本丸を囲んで完全防備していました。

土塁は約1/3程の復元です。
しかしながら、完全に失われた宇都宮城は、一部ではあるものの復活を果たしています。



市の努力は素晴らしい。

何も残っていない城は日本に山ほどありますが、こうして可能な限り復元することで歴史に触れやすくなることは間違いありません。



本丸内側からの土塁。
今では広場になっていて、多くのファミリーがそれぞれの時間を探しています。



約10mの土塁を階段から登り清明台櫓を見物。

この櫓は当時、天守を持たない宇都宮城の天守代用とされていたそうです。



一階のみ見学可能。
木造復元というのが素晴らしい。

幅6.89m×5.91m。
高さ10.04mの二層二階。



櫓や門、天守などの建築物は、復元であってもこの先の世代に受け継ぐ大切なものだとワタクシは思っています。



2階は見ることができませんが、無料で開放しているあたりも、宇都宮市の素晴らしい取り組み。

宇都宮城というのが、より市民の皆さんにとって身近な存在になったいるはず。



土塁の至る所にシェルターみたいなのがいっぱいありましたが、これは見なかったことにしましょう。



やはり土塀があるだけでも、全く雰囲気が変わりますよね。

土塀だけでも復元してほしい城は山ほどありますが、これ一つ復元するだけでも根拠のある資料が必要だったりするので大変なのです。



狭間もあり、土塁が非常に良い高いので、縦長の狭間でないと狙う範囲が限定されてしまいます。

考えられた構造ですね。



土塁の上を進むと反対側には富士見櫓があります。



こちらも二層二階。
幅7.88m×5.91m、高さ10.04m。


こちはも一階のみ観覧可能。
本丸の土塁だけで、こんな櫓が5基も上がっていたと考えると、当時はかなり規模の要塞だったと想像します。



櫓内の狭間からは堀がよく見えます。
寺、神社など文化的な建築物は多くありますが、狭間は軍事的施設の城郭建築の特徴です。



櫓内には復元時の軸組の模型が展示してあります。



当時は現在広場になっている場所に本丸御殿があり、日光東照宮に参拝する徳川将軍の宿泊所として利用していたそうです。



富士見櫓からは当時、富士山が見えたことから富士見櫓とされたようです。
二重の櫓ですが、高い土塁と土塀があるとカッコいいですね。

この近世城郭に改修したのは、徳川家康の重臣であった本田正信の息子、本多正純。
交通の要所でもある宇都宮城は江戸幕府にとっても重要な拠点だったのではないでしょうか。

幕末の戊辰戦争によって、宇都宮城だけでなく多くの民家や寺院も街ごと焼失してしまいました。

悲しい歴史はありますが、こうして現代に蘇ったことで、ワタクシも現に宇都宮の歴史を学びました。

やはり歴史はカタチに残してこそ、生かしてこそ強い意味を持ちます。

そんなことを考えさせられた1日でした。



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名古屋城@愛知県

2024-09-16 10:00:00 | 100名城
昨日は国宝犬山城と岐阜城に行き、二日目は名古屋城に移動。

途中に小牧山城、墨俣城、清洲城など様々な城跡があるのですが、二日目は名古屋城一択と決めておりました。

名古屋城はそれだけ時間をかけてゆっくり周る価値があります。


岐阜羽島の駅近くに宿泊し、車で約50分程度で到着です。

今まで何度も行くチャンスはあったものの、利便性が良いから逆にいつでも行けると後回しにしていました。

しかし、近い内に天守は解体されて木造復元される予定。
現在、耐震の問題で既に天守内部には入ることができません。

城郭建築の最高到達地点と言われる名古屋城の現在の姿を、この目で焼き付けておきたいと思います。


場内には有料の駐車場があり、今回は三の丸の駐車場に停めました。

名古屋城の三の丸は跡形もなく駐車場となっています。



名古屋城正門から入城します。
元は藩主や一部の家臣しか通ることを許されなかった格式の高い門でした。

現在チケットはここで購入しますが、この門は枡形になっていて、本来は正面にもう一つ門があり、枡形虎口で折れ曲がってこの門を通過する構造でした。

明治に江戸城から移築して再現したものの、残念ながら空襲により焼失してしまいました。



しかし、昭和に天守と共に再建。
RC造での復元でしたが、名古屋城に訪れる方のテンションを上げる起爆剤となっています。



復興された門とはいえ、やはり城門があると無いとでは雰囲気が180度変わります!

天気にも恵まれ素晴らしい一日の予感。



正門を抜けるとすぐに本丸が斜め左手に現れます。

出だしから城郭建築の最高到達地点と呼ばれる所以を見せつけられます。

重要文化財の西南隅櫓と奥には名古屋城天守も見えます。

徳川家康が天下普請を命じて造らせ、以後尾張徳川家の居城だった名古屋城。

徳川の凄さを感じることができるでしょう。



天守の反対方向には表二之門も見えます。
まさに芸術というべき建築物と石垣。

華麗に加工された打込接。
隅の算木積みは昨日訪れた岐阜城とは全く異なります。

総石垣の城を日本で初めて造った織田信長の時代から、わずか40年で石垣の技術は急速に進化しました。



表二之門は天守に向かう門です。
1612年の建築物で、重要文化財に登録されています。



表ニ之門の先には東南隅櫓。
当然こちらも重要文化財で、1612年に表ニ之門と一緒に建築されました。

西南隅櫓と同様、二層三階で出窓の下には石落としがあり、唐破風も施された防御機能と美的センスに優れた櫓です。



表ニ之門の先には巨大な枡形虎口があります。
櫓や土塀などの建築物は残っておらず石垣のみが残っていますが、当時は四方を囲んで敵が侵入した際に十字砲火で迎え撃つことが可能です。

これも信長の安土城から始まり、ここが近世城郭の完成系と言えます。



枡形虎口の先には復元された本丸御殿があります。

中に入りたかったものの、ものすごい行列のため断念。

※写真に人が映り込まないように、いつも努力しています。
人がいなくなるのを待つために何十分もその場にいることもあります。
本当は名古屋城は、観光客の方でいっぱいです。



大天守と小天守、そして本丸御殿。
これが本来あるべき江戸期の名古屋城の姿。

本丸御殿は城郭建築で天守と共に国宝第一号になりましたが、残念ながら天守も本丸御殿も空襲で焼失。

しかし、名古屋城は大量の写真と資料が残っているので、本丸御殿は木造で復元されました。

本丸御殿は政治を行う場所であり、藩主の住居です。



現代の建築基準では耐震上問題があると判断された為、現在閉鎖中の大天守と小天守。



二層の小天守。
名古屋城は大天守だけでもかなりの迫力ですが、小天守と連結しているので、より重厚感が出ています。



青空に映える大天守と小天守。
現在、木造での復元プロジェクトが進行中。

ちなみに、復元プロジェクトの求人が以前に出ていたのでワタクシ応募しましたが、定員に達した為、夢実現ならず。



天守の東から北へ抜ける門は不明門。
調べたところ、大奥に繋がる門だったらしく、常に鍵がかけられていたそうです。

開かずの門だったとか。
なるほど。奇妙な門の名前の由来が何となく分かった気がします。



現在、石垣の修復工事も行われています。
伴って立ち入り禁止エリアもあります。

堀に並べられた石垣達。

修復個数はなんと4000個!
1日に多くても6個ずつのペースでしか積めないため、気の遠くなる地道な作業です。

しかし、過去の産物を未来に繋げる重要で誇り高き工事です。
本当に頭が下がります。



そして、これが大天守を支える石垣!
素晴らしい!の一言。

扇の勾配と呼ばれる、緩やかな傾斜から垂直に立ち上がっていく石垣は芸術です。

熊本城でも同様に見られるこのダイナミックな石垣。

熊本城を築城した加藤清正がこの天守の石垣を担当しました。

清正流と呼ばれる芸術的な石垣は遠い地の名古屋でも存分に発揮されています。



名古屋城天守の延べ床面積はなんと4564㎡。
姫路城の2倍!

五層五階の層塔型。天守の高さは35.85m。石垣を含めると48.27mのビックスケールな天守です。

高さもありますが横幅もあり、こんなに図体の大きな天守は現存、復元天守含めて他にないでしょう。

さらに軒唐破風や千鳥破風など建築物としても美的センスもがあり、金の鯱は権威も象徴でもあります。



どの角度から見ても美しい。

国内最大級ゆえ、江戸時代に自重に耐えきれず石垣がはらみ、天守が傾いてしまいました。

わずか2年数ヶ月で築城した名古屋城ですが、天守の修復には3年を要しました。

その際に、荷重のかかる本瓦葺きから銅瓦に変更されたと言われています。

屋根が緑色なのは、銅が時と共に変色したからで、もともとは黒色の瓦です、

年季が加わった緑色の銅瓦は名古屋城のイメージカラーとしても定着しています。



名古屋城は一回では周り足りず、もう一周しました。

現在の東二之門は元々二之丸にあったものを移築。
高麗門で1612年の貴重な門です。

現在この一帯は石垣工事中で立ち入り禁止も多いため、賑やかな名古屋城も時が止まったかのように静かで逆に落ち着くスポットでした。



門を抜けると清正石が現れます。


巨大な鏡石。
この石は加藤清正が運んだと言われてきましたが、黒田長政がこの門の担当だったことから、加藤清正が運んだ石ではないと現在は考えられています。

それでも、この石は清正石です!



不明門の先には、広場に石材が転がっています。

皆さん天守に夢中でスルーしていますが、この石材達は凄く価値あるもの。

名古屋城は空襲で焼失して、現在鉄筋コンクリート造で復元されています。

その際に天守の礎石を全く同じ位置でこちらに移動したそうです。

あの巨大で高層の木造建築物を何百年と支え続けた石材。

よく見るとちゃんと木材が建っていた形跡も残っています。

この礎石の数には驚かされました。


最後は西北隅櫓。1619年に建てられた現存の櫓。
見た瞬間、櫓とは思えないほど大きさを感じることができますが、本丸からでは裏の姿しか見ることができません。



西北隅櫓を見るために、名古屋城を一度退城して水堀の周りを歩きました。

快晴だったので、水面にも綺麗に映っています。

水堀の幅が広いので、これでは敵も攻め辛いこと間違いなしです。



非の打ち所がないほど綺麗な櫓。
品があり、尚且つ重厚感もある素晴らしい現存の建築物です。

西北隅櫓は高さ16.3m。
桁行、梁間方向それぞれ8間×7間。

他の城の天守を凌ぐほどの大きさ!



こちらも石垣修復中です。
はらんでしまったらしく、足場を組んでの作業。



デジカメを拡大すると隅石も石垣内部の構造もよく見えました。

これはこれで貴重なシーンを見れた気がします。

名古屋城があってこその、名古屋の街。

空襲で焼失したものの、復元して元の姿を取り戻しました。
そして、近いうちに江戸期と同じ木造天守に生まれ変わります。

戦うための城から、政治のための城となり、今では市民や観光のための城へと変化してきました。
我が国の文化の象徴となる城は、次の世代に受け継がれていきます。

そんな努力も見ることができました。


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岐阜城@岐阜県

2024-09-15 15:00:00 | 100名城
犬山城の後は車で45分の岐阜城にやってきました。
岐阜城は岐阜市の金華山にある城で、鎌倉時代からの長い歴史があります。

1567年に稲葉山城の戦いで織田信長が斎藤龍興に勝利したことで、稲葉山城から岐阜城に変えて居城にしました。

まさに天下統一への足がかりとなった城ですね。

100名城にも認定されています。

この界隈は名城の密集地帯なので、セレクトするのが本当に難しい。


岐阜城の入り口に到着です。
若かりし織田信長の銅像もあります。



麓から岐阜城の天守が小さく見えます。
標高は329m!今回はロープウェイを使うことにしました。



麓は現在発掘調査が進められています。
歴史上、超重要人物でもある織田信長の城ですから、積極的に調査して頂けるのはありがたいです。



岐阜城ゆかりの武将は、戦国の中心となったスター集団。



ロープウェイを降りて、天守までは約10分。

安土城をイメージさせる石畳の階段です。



天守への道中、天然の巨大な岩なども多く見ることができました。

岐阜城が石垣の城になった所以は、この恵まれた岩にあると言えます。


見事な堀切を発見!
これぞ戦国時代真っ只中の中世の城です。
当時は木の橋が架かっていたそうです。

尾根を切ることで進行を防ぐ役割があります。
また万が一敵が進行してきた際は、橋を落とすことで、敵を阻みつつ上から攻撃します。

中世の城ではよく見られるスタイル。



さらに先には食い違いの虎口、二の丸門。
石垣で形成されていて、安土城の天主入り口の食い違いのような風貌。



ロープウェイを乗るまでは土砂降りだったのに、またしても天守を前にして一部青空が。

最高のプレゼント再び!



織田信長が築いた石垣。
信長が入城したのは1567年。安土城が築城されたのは1579年。

やはり、岐阜城をモデルケースにして日本初の総石垣の安土城を完成させたと考えて良さそうですね。



現在の天守は昭和に復興天守として再建。
信長の時代は望楼型の四層五階だったそうです。



石垣は野面積み。
使っている石材は信長時代のものとされているが、天守を再建の際に一回り小さな天守台にするため積み直したそうです。

今では考えられませんが、もったいない。



天守内からのショット。

辿ってきた道を上から見ると、尾根の両側を削ぎ落として極度に狭い道にしているのが分かります。

大軍勢が攻めてきても、一列か二列でしか並んで進行できません。しかも後退することもできないので、一網打尽にされてしまいます。

堀切も含めて、こういった山城らしさも兼ね備えているのが岐阜城の魅力だと思います。

まさに城郭建築の転換期の起点となる城です。



岐阜城の周囲は長良川があるため、より堅牢な城になっています。



山と川に囲まれた城。 



ロープウェイで下山し、隣にある信長公居館跡に向かいます。

観光の方でいっぱいの岐阜城ですが、皆さん天守閣以外はあまり行かないようですね。



史実とは異なる天守閣と、新しく積み直した天守台の石垣よりも、麓の信長の館跡の方が歴史的には貴重かと思っています。

あれだけ大勢の観光客がいても、信長公居館跡を散策する人はワタクシ1人しかいませんでした。



入り口の前の階段を登ると、巨石で形成された食い違いがあります



館跡はロープウェイの乗り口の真隣です
石垣も積まれていて、宣教師ルイス・フロイスはこの館を宮殿と評しています。

それを裏付けるように、発掘調査では金箔瓦が出土しています。

安土城は豪華絢爛な城だっと言われているが、やはり岐阜城で既に試みていたと言えます。



巨大な岩壁。
金華山の石は各所の城で使用されています。



岐阜城は目まぐるしく城主が変わり、最後は織田秀信が城主でしたが、関ヶ原の戦いで西軍についた織田信秀は、徳川東軍先鋒隊と戦いますが敗戦。

岐阜城は開城され、後に廃城となります。

こうして、織田信長が創った歴史の中心にあった天下布武の名城、岐阜城は表舞台から姿を消すこととなりました。

岐阜城は歴史的価値が改めて見直され、2011年に金華山一帯を国指定史跡となりました。

今後の発展が十分見込めます。
いつか、この館も復元されることを願っています。

久々の城巡りは、充実した時間となりました。


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犬山城@愛知県

2024-09-15 11:00:00 | 100名城
最近仕事が多忙すぎて、城に行くことができていなかった為、一泊二日で愛知と岐阜に行くことに!

深夜2時に車で出発。
朝7時半に犬山城に到着です。

江戸時代以前より建築された城で、現代に残っている天守閣は残念ながら12城しかありません。
その内の一つが犬山城です。
そして、現存天守の中で国宝に指定されているのは5城のみ。

姫路城、松本城、彦根城、松江城、犬山城。
犬山城はそんな貴重でありがたいお城なのです。

城の麓にある駐車場に車を停めて、9時開城まで近くを散策です。



まさかの土砂降りです!
それでも行かないわけにはいかないのです。



駐車場からも美しいロケーションを堪能することができます。

天気が悪くても、やはり城を目の前にしてしまうと、自然とテンションが上がってしまいます。



天守に向かう大手道。
櫓があった場所には、現在神社の社務所が建っています。



続いて黒門跡。
防御性を高めた食い違いというクランクになっています。

敵はここでスピードを落とさなければならず、そこを脇の櫓から攻撃されます。



黒門には薬医門があったそうです。

現在でも礎石だけが残ります。
ちなみに、この黒門は徳林寺というところに移築されているそうです。

明治の廃藩置県と廃条令によって、犬山城は残念ながら天守以外は解体されてしまいました。


黒門を抜けるとガッチリとした石垣が出てきます。

野面積みの隅石を見る限りでは、織豊系でまだ石垣技術の発展途上なのかなと感じました。

また、この石垣の前にも岩坂門があったとされています。



本丸を囲む石垣。
上には小銃櫓があります。

ついに本丸手前まで攻めてきた敵を倒すための、最終砦。
木が生えていてよく見えないのが残念。

個人的な注目は石垣です。
隅石が先ほどと明らかに異なることがわかります。

ちゃんと算木積になっているので、荷重が分散することから高く、急な勾配を形成することができます。



本丸を囲む石垣と小銃櫓。
石垣の出隅も素晴らしいのですが、入隅の石垣も素晴らしいと個人的に思っています。

違った曲線美を楽しむことができます。


本丸鉄門。
防御力を高める為に、当時は鉄板を貼ったことから鉄門と呼ばれていました。

本丸鉄門は復興城門の為、当時の形を再現したわけではありませんが、雰囲気は伝わります。

ちなみに、現在は管理事務所となっていて、100名城スタンプはこの櫓門の二階で押すことができます。



ワタクシは復興城門よりも、脇にあるこの石垣の方が気になってしまいます。

高さは無いものの、熊本城のように上部が垂直に立ち上がる石垣。

なんとも美しいシルエット。


現存天守では最も古い天守閣が見えてきます。

雨もなんとかやみした。



城内の入り口は石垣の中となり、まるで探検しているようで、大人でありながら無邪気にワクワクしてしまいます。



階段を上がると半地下のようになっていて、少し広めな踊り場です。


小さなスペースにも関わらず、とても魅了されるところが多い空間です。

石垣を貫通して複雑に梁が取り合っていて、じっくりと観察すると非常に興味深い造りをしています。



さらに上にあがると一階となります。



やはり現存の木造は素晴らしいと改めて実感!
天井高があり、下り壁などは現代建築の鉄骨造と同じ構造。



犬山城には上段の間があります。



羽出した屋根の垂木。
考えたらこの屋根となる天井部をこんな間近で見れるのは、なかなか無いかもしれないですね。



やはり木造は時が経つほど味が出て、より魅力的な建築物となります。



内部から見た破風。



最上階。
現存12天守の中で、廻縁と呼ばれるバルコニーがあるのは、ここ犬山城と高知城のみ!

手すりを高欄と呼びますが、建築基準法で手すりの高さが1100mm以上とされていますが、歴史ある建築物の為手すりり高さが低いので、高所恐怖症の方は怖いかもしれないですね。



犬山城は木曽川を背にして造られた堅牢な城です。



下から眺める天守も素晴らしいですが、高欄から眺める街並みも最高です。

はるか400年以上の時が経ち街並みは変わっても、ここから見る木曽川は今も昔も変わらない。

同じ景色を見ている。
そんなことを考えてしまいます。



最上階から見た本丸の広場。
左手の小銃櫓もここからならよく見ることができます。



下に降りると、驚くほど快晴になりました!
青空と天守閣はやはり映えます!

仕事で忙殺される日々が続いたワタクシへのご褒美と言わんばかりの晴天!
信じられません。



犬山城は複合式天守のジャンルに属していて、写真のように天守と付櫓が接続されています。

また天守には層塔型と望楼型があり、犬山城は望楼型天守になります。

織田信長の時代に広まった造りで、寺院のような建築物の上に別の建築物をくっつけたような造りを望楼型と呼びます。



令和の改修が終わり、漆喰を塗り直したことで、白と黒のコントラストがよりハッキリして美しく生まれ変わりました。

こうして日本の大事な文化は守られ、先に受け継がれています。

犬山城は織田信長の叔父にあたる、織田信康が築城したと言われています。

現在の天守が築城された年は議論され続けていましたが、柱の年輪などの調査から1590年と発表したことで、現存天守の中で最も古い城というのが確定しました。



場内でのんびりと見てまわった後は城下町に繰り出します。

また雲行きが怪しくなり、土砂降りになりました。
しかし、先ほどの晴天はやはり格別なご褒美でした。

城下町からも天守を見ることができます。



犬山城に来た際は城下町も是非行ってほしいスポット。

食べ歩きもできる素敵な城下町です。



メンチカツとキュウリの一本漬けがめちゃくちゃ美味しかった!