つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

掛川城【二回目】・掛川古城@静岡県

2025-02-08 09:30:00 | 100名城
2025年2月8日

掛川市で一泊し、本日も過密スケジュールで東海道本線で三つの城を巡る旅に出ます。

昨晩はライトアップの掛川城を楽しみましたが、今日は快晴の掛川城をホテルの部屋から見ることができました。



たまたまですが、素晴らしい部屋を用意して頂きました。



最高にかっこいい天守!
朝起きてこのロケーションを見ることができるとは、本当に贅沢でした。

ホテルの朝食を食べ、7時30分に出発。

個人的にはオープン前は人が少ないので、良い写真も撮れるの為、朝一の城が好みです。



ホテルを出て約10分程で大手門に到着。
天守に続いて復元された櫓門。

出入りする冠木門下が4.4mありますので、馬に乗ったまま入城できます。



昨晩もこの角度から写真を撮りましたが、このスポットはとても映えます。

現在の大手門は、当時の位置から50m程離れた場所に復元されています。

天守もカッコいいですが、やはりワタクシは城門も大好きですね。

威圧的な佇まいに、とても痺れます。



大手門のすぐ裏手には、江戸時代末期に建築された大手門番所があります。 

城内に出入りする人たちの監視や警備をする役人の詰所。



中には入ることはできませんが、覗くことができます。

大手門に付随した番所は全国でも珍しいそうです。

 

とてもシンプルな造り。

明治の廃藩により、藩士が居宅用として譲り受けたことで現存していました。

昭和に掛川市に寄与されたことで、現在は貴重な市の指定文化財に登録されています。



掛川城の前を流れる逆川は天然の要害で守られています。



逆川と天守。
春になると逆川の川沿いには桜が咲きます。

いつか桜の季節に訪れてみたい。



三の丸広場からの一枚。
左には現存の太鼓櫓。

三の丸広場は定番の撮影スポット。

掛川城を大改修したのは山内一豊。
山内一豊は後に土佐に移り、初代土佐藩主となります。

そして高知城を造りますが、高知城の天守はは掛川城をベースにしたそうです。



天守は高知城とやや似ていますが、高知城は総石垣の要塞。掛川城は土造りの美しい城郭です。



天守は1994年に日本初となる本格的な木造で復元された、望楼型三層四階の複合型天守。

以前は鉄筋コンクリートでの復元が多かったのですが、やはり外観だけでなく材質や工法など当時に近い形で復元するということは、次の世代に技術を継承していくことに繋がるので、とても大切なことだと感じます。



復元された四足門。

発掘調査では門の跡は見つかりませんでしたが、絵図に基づいて四つ足の薬医門を復元しました。



四足門の右手の三日月堀。
深さは8m。調査では堀南側で石垣も発見されました。

三日月堀は武田築城術でよく見られるスタイル。



三日月堀と天守。
やはり天守はどこから眺めても美しい。



三日月堀と並ぶように十露盤(そろばん)堀があります。

明治期に埋め立てられましたが、発掘調査によって復元されました。
しかし、本来の1/3程度の範囲で復元されたので、実際は本丸を守る大きな堀だったと思われます。



四足門の先には本丸門がありました。
現在は石垣のみが残ります。

左手の石垣の上には太鼓櫓が移築されています。



本丸門跡と天守。
復元模型を見ると、この場所には大きな櫓門が建っていました。



本丸から天守がある天守曲輪には曲がりくねった階段を登ります。

天守の前には天守下門がありました。



太鼓櫓は天守に続く階段からが一番綺麗に見えます。

本来、太鼓櫓がある場所には荒和布櫓という見張のための櫓が上がっていましたが、昭和30年に三の丸から太鼓櫓が移築されました。

太鼓櫓は城下に太鼓で時を知らせる為の櫓門であり、太鼓は二の丸御殿に移されています。



三の丸方面から見た太鼓櫓。
太鼓櫓には現在立ち入ることが出来ず、石垣下までしか近づくことが出来ません。

現地のスタッフさんに聞いたら、老朽化によってとても中に入れる状況ではないらしい。

太鼓櫓は貴重な現存建築なので、なんとか活かし続けて頂きたい。



二の丸御殿の入り口からのショット。
ここからなら写真も、風情があって映えます。



日本に現存の御殿建築は四城しか残っていません。
高知城、二条城、川越城、そして掛川城。

城は明治期には陸軍の駐屯地となった為、大きなスペースを要いる御殿建築は真っ先に解体されました。

掛川城の二の丸御殿は廃条例後は学校として使用、さらに町役場、消防署など役割を変えながら現存しました。



グッズ、御城印、日本100名城スタンプは二の丸御殿内にあります。

二の丸御殿は藩の政務や儀式や公式対面などで使われていました。



内部は書院造で20の部屋に分かれています。



御殿の縁側からのショット。



太鼓櫓で時を知らせていた太鼓は、市の文化財となっています。



掛川城は天守や御殿だけではありません。

裏側には竹の丸や茶屋などがあり、掛川城の魅力を引き立てます。

写真は竹の丸(旧松本邸)。
1590年に城主となった山内一豊は、城を拡張。その際に竹の丸が造成されました。



主郭部への通路上にあるので、防衛上重要な場所だったことから、重臣の屋敷地に割り当てられました。



掛川城に来たら、是非寄って頂きたいのが掛川古城!

三の丸から周りを眺めた時に、竹の丸方面に小高い山があります。

出城とかに最適そうな山だったので何気なく行ってみると掛川古城の案内がありました。

山一帯は切岸で急な土手になっています。



下には小学校があり、元は三の丸でした。校庭との高低差が結構あるので、中世の城らしさを感じることができます。



切岸の先には立派な大堀切があり、曲輪が分断されています。



まさか中世城郭の遺構を見れると思わなかったので驚きました。



堀切になっている本曲輪に行ってみると、全体が土塁になっています。



現在の本曲輪跡には、江戸時代の1656年に、当時の藩主北条氏重が幕府に願い出て、徳川三代将軍「徳川家光」の霊牌を祀るために建てた「龍華院大猷院(りゅうげいんたいゆういん)霊屋」が建ちます。

この建物は火災に会いましたが、1822年に藩主「太田資始」によって再建されたものです。



美しい装飾が施された霊屋。

何気なく行った場所がまさかの凄いスポットでした。

現在の掛川城からも歩いて10分程度なのでオススメです。



掛川古城から竹の丸あたりで見る天守が個人的には一番お気に入り。

本丸側から見る天守は、1Fが大きく横に張出して、ややゴツっとした望楼型天守らしい姿をしているのに対して、裏側から見ると完全に層塔型の姿をしています。

この角度から見る天守は、とてもシャープです。

昨年訪城した時には見ることのできなかった発見がとても多かったので、充実した時間を過ごすことができました。



掛川古城の存在を後から知ってしまった為、予定よりやや時間がオーバー。
9時30分に城を出て掛川駅に向かい、次の城を目指します!



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掛川城【ライトアップVer】@静岡県

2025-02-07 20:00:00 | 100名城
2025年2月8日

大垣城に行った後は新幹線で掛川市に移動。

岐阜や名古屋に宿泊して、その周辺の城を攻めることも検討したのですが、寒波が到来していたので、事前に天気予報を見まくって掛川市に泊まることを決めていました。

そして、次の日は掛川城→諏訪原城→興国寺城を東海道本線で巡る計画です。

ちなみに掛川城は二回目。

そして、忘れてならないのは掛川城のライトアップを見に行くこと!

ホテルに着いたのは18時。

ホテル選びにも一つのプランがありました。

掛川城方面のビジネスホテルはいくつかありますが、掛川城が一望できそうなビジネスホテルをチョイス。

何階のどっち向きの部屋になるかは運次第。

チェックインを済ませると部屋は10階!
部屋に入って窓を見ると



見事に掛川城方面の部屋でした!
テンションが上がったので、チェックインして荷物を整理して18時30分に掛川城へと向かいます。



大手門とライトアップされた天守。
本来の位置から50m程離れた場所に移築されたので、大手門は天守から少し離れていています。

しかし、ここから見える天守は映えるので、是非大手門を見てから天守に向かって欲しいですね。



大手門の先には逆川が流れていて、川に架かった橋からも幻想的で素晴らしい写真を撮ることができます。

春には川沿いに桜が咲きます。ワタクシはまだ春の掛川城を見たことがないのですが、とても素敵な景色になると思います。

今年は厳しいかもしれませんが、桜の季節にまた来たいですね。



三の丸広場から見た四足門と天守。
やはりライトアップされた城は特別感があります。 

天守は1994年に日本初となる本格的な木造で復元された、望楼型三層四階の複合型天守。



ほぼお客さんがいなかったので、独り占め状態!

何度も降りたり登ったりして、満足するまで角度を変えたりして写真を撮影しまくります。



天守内部には入れませんが、冠木門の前まで観覧できます。

白漆喰の壁は夜になると、闇に浮き出してカッコいいです。

日中に行く城は当然ながら好きですが、夜はちょっとしたスリルとワクワク感があるので、冒険しているような気分になります。



暗くて見えにくいですが、太鼓櫓が鎮座する石垣。

時を知らせる太鼓櫓は本来は三の丸にありましたが、昭和に本丸の荒和布櫓跡に移築されました。

ここは本丸に入る為の、最後の門となりますので、立派な櫓門だったようですが、現在は石垣のみが残ります。



二の丸御殿あたりからのショット。
掛川城天守の珍しいポイントとしては、1Fの左右が張り出している点。

少しでも天守を大きく見せる工夫なのだとか。

このアングルからだと分かりやすいです。

夜の掛川城を存分に楽しみました。

掛川市は城下の雰囲気も素晴らしく、更に観光マップの種類も他の地域に比べると圧倒的に多いです。

街全体が力を入れて盛り上げているのを感じます。

ビジネスホテルで一泊したら、明日は朝一から改めて掛川城を見てまわります!


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大垣城【二回目】@岐阜県

2025-02-07 16:00:00 | 続100名城
2025年2月7日

清洲城に行った後は岐阜駅に移動。
今年竣工となる新築ビルの設計打ち合わせにやってきました。



岐阜駅前にある黄金の織田信長像が、めちゃくちゃカッコよかった!
「夢幻の如くなり」と「天下布武」の大きな幟旗が痺れます。

織田信長に縁のある地に足を踏み入れたのだと改めて実感。

やはり織田信長はかっこいい。

打ち合わせが終わったのが14時30分。
急いで大垣城に向かいます。

前回訪城したのが昨年の6月。

数ある城の中で大垣城をセレクトした理由は、前回行った時に訪問時間が早すぎた為に、続日本100名城スタンプを押せなかったこと。

さらに、勉強不足によって大垣城の見どころの一つでもある石垣の化石を、まさかの見ないで帰るという失態を取り戻すためです。



乾隅櫓脇の水之手門跡から入城します。
乾隅櫓は本丸曲輪の北西に位置した二重の櫓。

廃条令で明治に破却されましたが、2010年に鉄筋コンクリートで外観復元されました。


天守は廃城令後も残され、旧国宝に指定されていました。
しかし、残念ながら1945年の7月29日に空襲で焼失。

あと半月で終戦だったのに悔しい限りです。

現在の天守は鉄筋コンクリートで昭和34年に外観復元されました。
内部は資料館となっていて、続日本100名城スタンプもこちらで押すことができます。



天守台の石垣には明治29年の大洪水時に、水が上がった最高浸水点が示されています。

天守台の1mくらいまで水が上がっています。

大変な災害を今に伝える貴重な刻印となります。



天守台石垣。
手前側は築城時に積まれた石垣がそのまま生かされています。

天守直下の石垣は、昭和期に積み直されたそうです。



石階段を登れば天守に到着です。

今ではとても簡単に天守に到着しますが、改修を重ねて江戸時代には三重の堀で囲まれた壮大な総構えの城でした。

その名残として、大垣市内には今でも水路が多く残っています。



天守入り口からのショット。

天守はL字になっていて、左側は天主南附多聞、右側は天主東附多聞。
天守と接合した複合型天守となっています。

石垣の化石を見つけるのが難しかったので、館内のスタッフさんに聞いたところ、わざわざ一緒に歩きながら教えてくださいました。

大垣城の石材は、大垣城から近い金生山の石材を使用していて、水路で運ばれたそうです。



およそ2億5000万年前のウニやヒトデの仲間のウミユリ。



化石は白っぽい石灰岩に多く、よく見てみると沢山見つけることができます。


こちらも、はっきりとした形のウミユリの化石!



ベレロフォンという平巻きタイプの巻貝の化石で、こちらも2億5000万年前のもの。

天守台、西門、西門を出たあたりの石垣で特に多く見ることができました。

これも親切なスタッフさんのおかけです。



大垣城の鬼瓦には桃の模様を見ることができます。

桃には邪気を払う力があるとされていることから、珍しい桃の形が採用されています。



そして更に珍しいのは、西広場側の天守3層目の鬼瓦。
瓦の先端にはまるでカエルみたいなのが鬼に潰されているのが分かります。

これは邪気と鬼と言われ、鬼が邪気を抑えつけているシーン。

大垣城にとってこの方角が鬼門の方角だったので、この1箇所のみ邪気を抑える珍しい鬼瓦なっています。

これもスタッフさんが丁寧に教えてくださったので発見できました。

肉眼で見るのは難しいので、デジカメでズームをして見るのが一番分かりやすいと思います。



そして、東門には刻印石があります。
何から何までありがとうございました。

やはりスタッフさんに聞いて大正解でした!



天守は四重四階の層塔型。

日本では昔から四という数字は敬遠されていましたので、四重の天守は大変珍しいタイプ。

大垣城は関ヶ原の合戦の際に石田三成が陣を置いていた城です。

そして、この大垣城から決戦の関ヶ原へと向かいました。



初代藩主は戸田氏。
大垣藩10万石の礎を築き、明治までの230年間も大垣市を納めました。

昔の絵図を見ると城全体が水で囲まれています。中心部の本丸と二の丸は水に浮かぶ島のようになっています。



今では天守一帯の一部しか当時の面影を残していませんが、当時は美しい景色だったに違いありません。



今回大垣城に来た時から思ったのですが、昨年来た時よりすごく見やすくなった気がするのは、気のせいでしょうか。

以前は天守の前に木が生えていて、なかなか良い写真を撮ることが出来なかった記憶があるのですが、今回は全てがスッキリ見えます。

葉が生えていない季節のせい?

いずれにしても、前回来た時よりもはるかに知識を得ることができました。

そして、お気に入りの写真も撮ることができたので大満足でした。

縄張りなどは前回のブログを見て頂けると幸いです。

大垣城@岐阜県 - つぶやき城ー。のブログ

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2024年6月25日仕事で視察のために岐阜県に初上陸。岐阜県の有名な城といえば、岐阜城、郡上八幡城、岩村城、苗木城、墨俣城、美濃金山城など多くの名城が存在します。時代を...

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清洲城@愛知県

2025-02-07 11:00:00 | その他城
2025年2月7日

今日は設計打ち合わせがあった為、岐阜県へ!

打ち合わせが13時からだったので、朝6時半に家を出て岐阜駅に向かう東海道本線を途中下車。

清洲城を訪城しました。

個人的に清洲城のイメージと言えば、織田信長の居城だった。そして、織田信長が本能寺の変で討たれた後、家老が集まって織田家の後継ぎ問題と領地配分を決めた清洲会議かな。

あとは東海道新幹線からも見える天守としても有名ですね。

清洲駅で下車し、歩いて約15分ほど。



看板通りに歩くと清洲公園の駐車場が現れ、そこから天守方面に向かいます。


 
やはり清洲城と言えば、この撮影スポット。



朱色の橋と天守がとても映えます



橋の下を流れるのは五条川。
清洲城は五条川が天然の堀となっていました。



城造り、城下町に水は欠かせません。

川は城の守りの要にもなりますし、物資運搬にも使えるので、この辺りは城を造るには適していたのかもしれないですね。



城郭をを囲む塀には信長塀の説明がありました。

信長が桶狭間に出陣の途中、熱田神宮に戦勝を祈願して勝利したので、そのお礼に奉納したと言われる塀をモデルに造られています。



こちらは清洲城の模擬天守。
織田信長の時代には天守はありませんでした。

清洲会議で織田信雄が清洲城を相続して、天守が建てられました。

ちなみに、当時の天守はこの場所ではなく先ほど歩いてきた川の反対側にありました。



清洲城は残念ながら遺構がほぼ残っていません。
しかし、当時の石垣が調査で見つかっており、川沿いに復元展示されています。

橋の手前にあり、ついつい天守に気を取られてしまい、行く時は完全に見逃しておりました。



本丸南側の石垣と考えられており、河川事業に伴う遺跡調査で発見されました。

かなり無骨な野面済み。
石材一つ一つは大きめで丸み帯びています。

川の軟弱地盤に対応するために、梯子胴木という木材の組み方で、石材の下に木を敷いています。

電車のレールみないな感じ。



石垣が発見されたのは、線路の高架を抜けた公園のあたりです。


 
復元石垣のあたりは本丸だった場所になり、清洲古城跡の石碑があります。



清洲古城跡はちょっとした広場になっています。



広場の中央には織田信長を祀った小社があります。



その脇にある織田信長の石碑。
右大臣織田信長公古城跡と書かれています。



線路を抜けて右手は公園になっていて、この辺りが本丸の南側となります。

つまり本来の清洲城の本丸は、現在は線路によって完全に分断されていることになります。



公園内にはたくさんの石碑が置かれています。



そして、織田信長と正室の帰蝶の銅像もあります。


ここから天下への道のりが始まりました。



本来の本丸南側あたりからのショット。
模擬天守には賛否がありますが、この建築物があることで人が集まるのは確か。

そして、足を運んで学ぶことが歴史もあるので、歴史に触れるキッカケとして個人的には模擬天守は有りなのかなと思っています。

建築物自体の価値は無くても、やはり天守はカッコいいですしね。



帰りは来た道を戻って清洲駅に向かいます。
駐車場あたりから撮った写真。

奥には模擬天守、手前の木々が生い茂った場所が清洲古城跡で織田信長の石碑があった場所。

家に帰って写真を見ていたら、空から古城に向けて光の柱が!

縁起のいい一枚になりました。


清洲城は徳川家康が関ヶ原の合戦後に、名古屋城を築城したことで、城下町ごと名古屋に遷都しました。

これを清洲移しと呼ばれています。

尾張の中心は清洲から名古屋へと移動したことで清洲城は廃城。

遺構はほぼ残って無いに等しい城ですが、確実に織田信長の息吹を感じることができました。