つぶやき城。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

二本松城@福島県

2025-02-23 07:18:00 | 100名城
2025年2月23日

仙台で設計打ち合わせと実測のため、前乗りして二本松城に訪問。

二本松城は会津若松城、白河小峰城と並んで、福島県の日本100名城に選定されています。

歴史上では戊辰戦争時に壮絶な戦いをした、二本松藩の少年隊がとても有名です。

奥州管領の畠山氏から始まり、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏と有名な大名が納めてきた歴史もあります。

東京駅から東北新幹線で郡山駅まで行き、東北本線で二本松駅を目指します。



郡山駅のホームに向かうエスカレーターには会津の看板!

松平容保公の写真もあります。



郡山駅から磐越西線で会津に行けるので、プロモーションされています。

やはり会津はカッコいい!
この時点でテンションが上がります。



郡山駅から二本松駅までは5駅、25分程度。

「丹羽十万石の城下町にふさわしく、二本松城を型どった駅舎」として、東北の駅百選に選定されています。

左の石垣は天守台で、駅舎は多聞櫓をイメージしているのかな?

街が一体となった城下町造りの取り組みに非常に感心しました。



駅のロータリーには少年隊の像があります。
城に直接足を運んで行くということは、その地域の歴史に触れること。

そうして、歴史は守り語り継がれていきます。

二本松市の取り組みは、観光のモデルケースだと思います。



歩いて二本松城を目指します。

駅前には奥州街道があり、駅から割とすぐの場所に大手門跡があります。

Googleマップで二本松城を検索して向かうと本城に誘導されますが、大手門から本城の麓までは1km程あるので注意です。



江戸城や大阪城のように、隙間なく美しく加工された切込接の石垣。

石垣の2段だけ残っています。



反対側は私有地のため入ることはできませんが、立派な算木積みは確認できました。

初代二本松藩主、丹羽長重から大手門を築造することは悲願でしたが、財政状況もあり1832年に幕府から許可を得て普請。

本格的な櫓門が完成しました。

しかし僅か35年後の戊辰戦争後に、門前の堀は埋められ大手門は取り壊されました。



大手門跡の先は急な坂道になります。
両脇は民家が連なっており、安土城の大手道を彷彿とさせます。

民家には近世の石材を使われていますが、この辺りは石を使っている家が多いのが特徴。

私有地なので写真は控えたのですが、明らかに城の石垣だったと思われる矢穴の入った石材が、民家の花壇に使用されているのも発見。

個人的には二本松市に根付いた石文化を感じました。



急な上り坂を登って、そのまま主郭へと続くのかと思いきや、今度は急な下り坂になります。

この辺りには久保丁門という城門がありました。

アップダウンする珍しい城郭設計。
城全体を自然地形を利用して区画しているようです。



そして、何より気になったのは久保丁門があった場所は、山の頂が人工的にV字にカットして大手門から続く道が貫通していること。

見た目は完全に堀切。主郭への道を通しているので、切り通しですね。

石垣で有名な二本松城ですが、中世城郭の醍醐味、宝探しのようなワクワク感を味わいながら進みます。

二本松城の麓には情報館があるので、二本松城と二本松藩について改めて学び、パンフレットを持って登城開始です。



情報館を出ると二本松城の藩校だった敬学館の跡があります。

本来は文化観光施設が建設予定でしたが、絵図を元に発掘調査を行い、遺構が発掘されました。



大手門跡から続く山城テイストから一変して、情報館の前には三ノ丸下の巨大な石垣が出現!



高さ10mから13mの圧巻の石垣が三の丸を囲みます。
加藤氏時代に積まれた石垣と確定しています。



高い石垣に土塀があるだけでも雰囲気がガラリと変わります。



石を切り出す際にできる打ち込みの証、矢穴も至る所で確認できます。



三ノ丸の左手の石垣には排水口らしき穴を見ることができます。



直下にある巨石は排水した水の受け材でしょうか。



少年隊像と登城口。

詳しく書くと長くなるので割愛しますが、少年隊は13歳から17歳の少年を含んだ二本松藩の藩兵で、戊辰戦争時に戦場へと出兵します。

新政府軍の総攻撃に二本松城は陥落し、少年隊も多くの命が失われました。

会津藩の白虎隊と並んで、悲劇として現代でも語り継がれています。

12歳って小学6年生か中学1年生ですよ。

少年が国を守る為に戦う精神。武士道を感じると、ワタクシなんてまだまだ甘いと戒められます。


像があるあたりは、広大な広場と駐車場になっていますが、千人溜という藩兵が集まる場所とされていました。

戊辰戦争時は少年隊兵もここから出陣していきました。



二本松城は標高345mの平山城。

いよいよ枡形になっている麓の三ノ丸正面より入城です。
とても絵になるショット!



高石垣に囲まれた枡形は、異常なほど威圧感があります。



右は二重櫓、正面は箕輪門、右は多聞櫓となります。

二重櫓は当時は存在していなく、模擬で建築されました。

古い絵図を見ると、箕輪門の櫓門が二重櫓の位置まで伸びているように見えました。

戊辰戦争時に新政府軍によって、箕輪門は焼き払われましたが、昭和に復元。



軒丸瓦や鬼瓦は丹羽氏の家紋。

江戸時代は初代藩主丹羽長重から幕末まで、10代に渡って丹羽氏が納めました。

二本松市はやはり礎を築いた丹羽氏推しです。


箕輪門を抜けると石垣の枡形虎口を通過して三ノ丸下段に入ることができます。

この枡形虎口には建築物は建造されなかったようです。



上からのショット。

確かに建築物を築造するには、やや土台が細いようにも感じますが、土塀くらいはあったのでしょうか。

三ノ丸に続く重要な門なので、箕輪門から連続して折れ曲がる設計。

三ノ丸は城郭の平城の部分にあたり、御殿が並びました。



三ノ丸下段の狭間から見た、箕輪門前の枡形。

敵の動きがよく見えます。



本坂御殿跡と石垣。
スルーされてしまいそうな、三ノ丸の脇にある御殿跡。

今は使われているのか不明な倉庫が建っています。


三ノ丸から主郭に向かう途中には、二本松藩士の自刃の石碑があります。

この他、二本松城には幾つもの悲しい歴史の足跡が残っています。



主郭に向かう道中には至る所に中世城郭の遺構らしきものが広がります。

空堀かなと思って撮った一枚は、畠山氏時代の虎口と推測されています。



日影の井戸は日本三大井戸の一つ。

深さは16mで、さらに岩盤を通して北に14mも伸びています。

中を覗いてみると、水が今だに溜まっていました。
※湧き出ているのかは不明。



本丸下南面大石垣。

二本松城における最も古い石垣の一つが、本丸下に残っています。

約13mの高石垣は、慶長初期に蒲生氏郷の時代に、全国各地で名城の石垣を積んだ穴太衆によって築かれました。

自然石で芸術的に積まれた野面積みの石垣。



本丸東櫓台の石垣。
石垣の折れ方が鋭角なのが特徴的。



本丸の石垣は崩壊して、原型を留めていない状態でした。

平成3年の発掘調査によって、本丸の形状と規模が判明し、学術調査と合わせて全面修築、復元を果たしました。



奥には天守台。
発掘調査で江戸初期の野面積みの石垣が発掘されましたが、隅部は後世に積み直されて算木積みだったそうです。



北側からのショット。
張り出している石垣は天守台。

右側に写っている石垣は、発掘調査で発見された野面積みの本丸石垣を、後世に残すために移築したもの。



本丸には枡形の食い違いの虎口を通過します。



虎口の右手は本丸東櫓台。



本丸のレベルから少し高く積まれた石垣は本丸東櫓台の頂部。



本丸東櫓台の上から見た枡形虎口



本丸東櫓台から見た天守台。
本丸を囲む石垣の中で、天守台だけは少し外側へせり出しています。

多聞櫓で繋がっていたとされていますが、実際に天守が上がっていたかは、謎に包まれています。



天守台からの景色。

山頂は雲で隠れていますが、標高1700mの安達太良山を望むことができます。



天守台から見た本丸西櫓台方面。
こちらにも多聞櫓が繋がっていたと想定されています。

本丸の構造を見ても、個人的にはどこかの時代には天守があったのではないかと思っています。



天守台から登城してきた道を見ると、現在は駐車場になっていますが、本丸下から飛び出すように円形の曲輪を見ることができます。



帰りに謎の円形の曲輪を調査。

人工的に切り落とされたかなり高めの土手。
この土手が一周囲んで独立した曲輪になっています。

こちらは乙森という曲輪で、東西27m・南北42m・四方150mを塀で囲んでおり、本丸東側を補完する重要な施設であったと考えられています。

中世に造られた曲輪なのか謎ですが、上から見ると丸型の馬出に見えます。

最近、諏訪原城で丸馬出を見過ぎた為か、思考がどうしてもその方向へ進んでしまいます。



本丸の北側、西側には中世の二本松城の遺構が残っているので、登ってきた逆側から一度下ります。

天守台下には蒲生氏時代の2段の石垣を見ることができます。



本丸天守台と併せて3段の石垣は芸術的。

穴太衆の石垣を東北の地で見られるのは感動です。この時代にはまだ石垣の勾配が緩めなのも特徴。

土造りの城から石垣の城へと変化する過程で、石垣技術は数十年で飛躍的に進化を遂げます。

石垣造の城が少ない東方の地では、特に貴重な遺構です。



本丸の北側の茂みの中に入ると堀切のように尾根を分断した遺構がありました。



形状の美しい空堀が残っています。



この辺りは完全に中世の山城らしさを見ることができます。

見事な石垣に目が行きがちですが、テイストの異なった山城の遺構も同時に見れるのが、二本松城の魅力の一つ!



L字型の空堀。
この辺りは畠山氏時代のものと思われる遺構が多く残っています。

室町時代に奥州管領に任ぜられた畠山氏は、二本松城を築城。

戦国時代の1585年、1586年に伊達政宗の攻撃により二本松城は開城され畠山氏は滅亡。

1591年に伊達家は米沢城から岩出山城に転封された為、二本松城は会津若松城の支城として蒲生氏郷の拠点となり改修が進められます。



空堀脇の土塁。

空堀内部からは、あまり大きさを感じなかった土塁ですが、外側から見ると大きな土塁であることが分かります。



まだまだ二本松城の石垣は終わりません。

山城の遺構を堪能していると搦手門が出現。

中世城郭と近世城郭がMIXされた面白い城ですね。



打込接の綺麗な石垣。



この石垣の脇に門が置かれていました。
前には当時の礎石が残っています。

蒲生氏時代の冠木門と思われる掘立柱の門があり、加藤氏時代に礎石を用いて改修されました。
その際に搦手門の石垣も造ったと思われます。

この石垣の反対側にも石垣がありましたが、現在はほぼ原型が残らない状態です。

一度本丸に戻って、登ってきた道から下山します。



箕輪門の枡形を正面に見て左側は、死闘を繰り返した城郭のテイストから一変して、平和な江戸期らしさが残ります。

池が2段で連なっていて、上段が「るり池」。

初代二本松藩主、丹羽長重の造園の姿が残っています。



下段は霞ヶ池。



るり池、霞ヶ池の間の道を進むと洗心亭があります。
二本松城内の茶亭。色々ありながらも元の今の位置に再移築された現存建築。

かや葺屋根が素晴らしい雰囲気を出しています。

るり池や霞ヶ池を見ながら、茶を楽しんでいたのでしょう。

洗う心と書いて洗心亭という名前も素敵です。



城という軍事施設の中での、穏やかな時間。

城主もこの場所で同じ空間を過ごしたと考えると、エモーショナルゾーンに突入したのでセルフタイマーで自撮り。笑



洗心亭の裏手から登ると本宮館跡があります。
尾根上に平場を築いて、建物が建築されていました。

畠山氏に仕えていた氏家新兵衛と遊佐丹波守の居館と推測されています。



本宮館跡には現在、丹羽霊神社があります。
お参りをして下山です。



帰りも同じルートで帰り、駅前の二本松神社脇の裏手に何やら石垣らしきものを発見。

下段は近世っぽいのですが、奥の竹藪にある石垣は城郭っぽい感じもします。

ここは大手門と同じライン上にあるので、可能性はあるのかなと。

山全体、町全体を城郭化しているので、二本松城は領域が広い為、見て周るのに3時間半は費やしました。

それでも全ては見れなかったので、次回の宿題です。

今年の5月は会津若松城に行く予定なので、福島の歴史に触れる良い機会でした。


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興国寺城@静岡県

2025-02-08 15:30:00 | 続100名城
2025年2月8日

東海道本線で巡る城の三城目は静岡県沼津市にある興国寺城に向かいます。

2月7日:清洲城→大垣城→掛川城ライトアップ
2月8日:掛川城→諏訪原城→興国寺城

諏訪原城で長く滞在したので、やや時間は押していましたが、ほぼ計画通り。

興国寺城は北条氏旗揚げの城として有名です。

戦国時代の小田原北条氏の祖となる伊勢盛時(北条早雲)が今川氏より与えられて城主となったので、小田原北条氏はここから始まったとされています。

北条と名乗ったのは二代目氏綱からです。よって、小田原を拠点とした北条氏の祖は北条早雲ということになります。

鎌倉幕府の北条氏とは別のルーツですが、実際は全く関係が無かったというわけでは無いようです。

北条早雲と興国寺城の関係については、専門家は疑問を呈していますが、事実として興国寺城は今川・北条・武田・豊臣・徳川など領地争いの境界となった城であるということ。

この一帯を勢力下に納めるには必要不可欠な城であったと思われます。



東海道本線からの富士山。
諏訪原城がある金谷駅から、興国寺城の最寄りとなる原駅までは約1時間20分。

知らない街並みを見ながら電車で旅をするのも良き。

原駅に到着したのは13時半頃。

原駅から興国寺城までは約2.7km。歩くと40分以上かかります。
バスが運行していますが、今回は時間の都合上、行きはタクシーを利用しました。

駅前にはタクシー乗り場もあるので、すぐに乗車できます。



タクシーだと10分も掛からないで、興国寺城の登城口に到着です。

国の指定史跡で続日本100名城に選定されています。



あたり一面は広大な敷地で、登城口あたりは三の丸跡になります。

立ち入りはできませんが、土塁が残っています。



三の丸と一段高くなっている曲輪が二の丸。

三の丸には柱穴群が発掘調査で見つかっているので、いくつかの建築物が並んでいました。



二の丸と本丸。
広大な空き地が広がりますが、こちらも中に入ることはできません。

二の丸と本丸の境目となる段差の中央あたりには本丸虎口跡が発見されました。



本丸の巨大な土塁。
まずはこの土塁の大きさに衝撃を受けます。

土塁は本丸をコの字で囲んでいます。



特に本丸の正面にあたる土塁は、推定14mの巨大な土塁です

本丸には穂見神社があり、続日本100名城スタンプはここで押すことができ、パンフレットもここにあるので、見ながら周るのがお勧めです。

穂見神社の脇から土塁の上に登る道が整備されています。



一際高い本丸正面の土塁の上には天守台があり、石垣の一部を見ることができます。

令和2年、令和5年に天守台石垣の発掘調査が行われ、幅20mで高さ5mと確定されました!

調査後に埋め戻されていますが、この石垣の下にもさらに石垣が積まれています。

時代としては豊臣秀吉が天下統一した以降のものと推測されています。



天守石垣の脇を通って土塁の上に向かいます。



天守跡では礎石が見つかり、建築物が2棟建っていました。

しかし、瓦が出土しなかったことから、イメージする壮麗な天守閣は無かったそうです。



天守台からの景色。

手前から本丸、二の丸、三の丸と連郭式になっていて、奥に立ち並ぶ住宅の先には駿河湾が広がります。

当時は三の丸あたりは水濠があり、水堀の役割を果たしていました。

海と山、そして東海道という交通を掌握できる恵まれた立地もあってか、土造りの中世城郭ながら1607年まで興国寺城は存続します。



大土塁の隅は西櫓台跡となっており、そこから眺める本丸西側の土塁もまた良き。



本丸正面の大土塁の上は整備されているので、安全に散策することができます。



本丸東側の土塁。
上から見ると完全に山の尾根の様になっています。

地形の高低差を利用せずに、平地にこれだけの大規模な土塁を形成した城は、初めて見ました



本丸東側土塁の裏側は細い道になっていて、間近で巨大な土塁を眺めることができます。



北曲輪と天守台を分断する大空堀。

驚愕の規模を誇る大空堀は堀幅20〜30m。高さも本丸側は20mは超えているであろう巨大な空堀になっています。



堀底を歩くことができます。
左側が本丸、右側は北曲輪。

左側奥のメタボリックのお腹のように張り出していますが、その上が伝天守台です。

堀底はクネクネと食い違いになっています。



堀底の西側は絶壁になっており、再び食い違いになります。

そして、写真ではニつしか見えませんが三つの謎の洞窟があります。

戦時中の防空壕なのでしょうか。
何の説明書きもない洞窟なので、やや不気味ではあります。



洞窟のある食い違いを進むと、巨大な空堀は岩盤を切り崩した、切り通しとなって空堀の出入口となります。

是非、堀底を歩いた際は見て頂きたいポイント。

空堀を抜けると一般道に出るので、北曲輪を目指して右に進みます。



東海道新幹線が低い位置を走っていて、橋が架かっているので、興国寺城は新幹線の線路によって分断されているのではないかと思われます。

線路沿いを道なりに登ると、北曲輪の入口があります。

北曲輪でも空堀が発掘調査で発見されていますが、復元せず埋め戻されているのかな。
確認はできませんでした。



北曲輪から見た天守台!
やはり大きい!



北曲輪から見た大空堀。
こちらから見た方が、より空堀の規模が分かりやすいですね。

大空堀は堀底がV字の薬研堀。


再度大空堀に戻り、少し気になった場所に向かいます。

本丸東側の土塁裏から階段で下って大空堀の堀底に行けるのですが、大空堀が薬研堀に対して、降りてすぐの場所は箱堀のように底が広がっています。

空堀はそのまま斜面に沿って三の丸方面に続いているのですが、堅堀のようになっていたので、気になって写真を撮りました。


上からのショット。

2列並んだ堀が下まで続いています。
立ち入ることができないのですが、堅堀のようにも思えます。

自分の知識不足か、もしくはそもそも遺構なのかも不明ですが、興国寺城はこれからも発掘調査次第では、まだまだ新しい発見がありそうなポテンシャルを感じる城でした。


最後は御城印を購入しに行きます。
興国寺城を出たのは15時半頃。

興国寺城にはガイダンス施設などが無いので、御城印は地元の幾つかのお店で販売されています。

ワタクシは興国寺城から歩いて5分ほどの、お茶屋の野崎園さんで購入しました。



御城印ついでに、大寒波到来の日でしたが抹茶のモナカを購入!



中はアイスなのに抹茶の苦味があって、サッパリしたモナカ。

もしろ、カロリーゼロ。
美味しいモナカを食べながら、帰りは歩いて原駅に戻ります。



広がる草原。
ひんやりとした気温ですが、空気が澄んでいて素晴らしい時間を過ごしました。

帰りは時間に余裕があるので、原駅まで歩いて戻ります。

歩きながら改めて感じたのは、道がひたすら真っ直ぐなこと。 

原駅までバイパスが横切っていますが、それ以外は真っ直ぐに進むことができる道ばかり。

これが当時の街割とは限りませんが、左右綺麗に道が交差するので、当時の名残の可能性もあるのかなと感じました。

戦うために造られ、実際に戦いを繰り返してきた中世の城というのは、造りの工夫全てに意味があり、生死を分ける緊張感もあります。

残された遺構からメッセージを読み解き、イメージしながら城を歩くのが中世城郭の楽しみ方。



大雪の影響で帰りの新幹線は50分ほど遅れていましたが、天気も含めて全てが、ほぼ計画通りに進んだ二日間でした。

計画通りいくと達成感があります。
これもまた楽しみ方の一つ。



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諏訪原城@静岡県

2025-02-08 11:30:00 | 続100名城
2025年2月8日

掛川城を9時30分に出て、東海道本線で掛川駅から金谷駅に移動。
二駅乗って約15分ほどで到着します。

東海道本線で巡る城、二城目は静岡県島田市の諏訪原城を目指します。

Googleマップでは金谷駅から歩いて約20分くらいで到着となっていましたが、30分以上は歩きました。



駅から諏訪原城に向かう途中は、かなり急な坂が続きます。



空き家が多い住宅の道をひたすら進みます。



山の上は諏訪原城の出丸跡。
登城ルートが分からずでしたが、下から写真を撮っておきました。

諏訪原城に向かうには、主に二つのルートがあります。
一つは旧東海道を通るルートと、県道島田岡部線を通るルート。

ワタクシはまずこの出丸を目指したので県道島田岡部線のルートで向かいました。

こちらは本丸など主郭の下をグルっと周るルート。

しかし、山道を容赦なく車が飛ばしてくる上に、歩道がないのでかなり注意が必要です。



途中には諏訪原城に向かう細い獣道のようなルートがありますが、まずはパンフレットも欲しいのでスルーして、ガイダンス施設を目指します。

ちなみに、このかなり険しいルートで入城すると本曲輪に直結します。



ガイダンス施設あたりから撮影。

諏訪原城は山々に囲まれていて、ロケーションが素晴らしい。
およそ標高220mまで歩いて登りました。



静岡県らしく、広大な茶畑が広がります。
日本列島には大寒波が到来していましたが、静岡県をチョイスして正解でした。

とても寒かったですが、天気には幸い恵まれました。



ガイダンス施設内では、続100名城スタンプや御城印もこちらで購入することができます。
模型もあるのでイメージを持つことができます。

諏訪原城は見どころが多い中世の山城ですので、ガイダンス施設でパンフレットをもらってから攻城をオススメします。

国の指定史跡で、続100名城にも選ばれています。

武田勝頼が馬場信春に命じて築城しました。

歴史の背景としては既に駿河を抑えた武田勝頼は、徳川領の遠江に進出するための足掛かりとして築城しました。

ちなみに馬場信春は武田四天王の1人で、不敗の名将と称された有力な武将。

長篠の戦いで武田勝頼を退却させるために、殿(しんがり)を務めて戦死。

武田家三代に仕えていました。



ガイダンス施設の脇から主郭を目指します。
裏手すぐには復元された大手南外堀があります。

本来は幅は5m、深さ3.3mの薬研堀で、現在よりも深い堀でした。
大半が茶畑になっている為、全容を見ることはできません。

発掘調査では土塁の形跡が発見されなかったことから、城柵で囲んでいたと考えられています。



大手南外堀の近くには、二の曲輪大手馬出があります。

まずは、この巨大な空堀に衝撃を受けます。

写真の左側が馬出。
一際高くなっており、丸型の馬出なので三日月のような湾曲した堀になっています。

死角が少なく攻撃をしやすいのが特徴。



二の曲輪大手馬出の空堀の先には、外堀と馬出しの空堀に架かる土橋があります。



土橋から見た左側の外堀。
写真の右が二の曲輪となり、土塁を形成しているので、かなりの高さのある空堀となっています。



土橋から見た右側の三日月堀と二の曲輪大手馬出。

正直、諏訪原城は掛川市と近かったので、掛川城に行った後に行きやすい城と思い、セレクトした部分もありました。

しかし、序盤から圧倒的なスケールの空堀を見せられ、二の曲輪南馬出と外堀を見ただけで既に満足度が高いです。



土橋を渡り外堀沿いを歩くと、二の曲輪に繋がる新たな土橋に接続されます。

かなり分かりやすい土橋の形状。



土橋から見た右側の外堀は、より一層深さがあり、恐怖を感じるほどの見事な空堀が永遠に続きます。



こちらは土橋から見た左側の外堀。

写真の左がワタクシが歩いてきた二の曲輪南馬出、右が二の曲輪。



渡って振り返っての土橋を撮影。
傑作といえる程、美しく整った土橋。



二の曲輪南馬出と外堀に架けられた土橋。
城の南西端に位置する小規模な馬出。



南馬出の右側は巨大な空堀。

最初に周った二の曲輪大手馬出と横並びになっているので、かなり防御力が高い造りになっています。



左側の空堀。

小さな曲輪でありますが、曲輪内部の貼り床面直上で27点の鉄砲玉が集中して出土したことを考えると、小さな曲輪ながら幾度も戦をした諏訪原城において重要な曲輪だった可能性があります。



こちらは先ほどよりも、大きめの二の曲輪東内馬出。

城の南東側は三つの小規模な馬出が連なって配置されています。

東海道に沿うように馬出を連続させているのがポイント。

また興味深いのは、二の曲輪との境となる堀は、武田氏時代にはV字の薬研堀でしたが、後の徳川時代に箱堀に改修されたことが発掘調査で明らかになっています。



二の曲輪南馬出と横に並んで、二の曲輪東馬出があります。

密集した全ての馬出が、非常に深い堀で分断されつつ土橋で繋がれているので、巧妙で複雑な配置となっています。



曲輪入口には門と思われる礎石が発見されており、やはり武田氏時代の鉄砲玉も出土しています。

調査で空堀の幅9.3m、深さ6.7mと判明し、最南端を防備するには十分な軍事拠点といえます。

来た道を戻り、城の中央〜北側を目指します。


大手北外堀。

諏訪原城大地側全面に突き出していて、先ほどの空堀に比べると、やや迫力に欠けますが、発掘調査で大手北外堀は幅5m、深さ6mの立派な空堀であったことが判明しています。



諏訪原城といえば、二の曲輪中馬出が代名詞です。

日本に幾つもある丸馬出の中で、最大級となるのがこの諏訪原城の二の曲輪中馬出になります。



本当に見事な三日月堀!

二の曲輪中馬出は本曲輪へ向かう二の曲輪の虎口前に配置。

この先には絶対に進ませないと意気込みを感じる強力な造り。

生と死をかけた当時の防御システムは、現在はアートとして人々を魅了し続けます。



三日月堀は二の曲輪北馬出に繋がります。
素晴らしい遺構の保存状態。

諏訪原城全体が、木を綺麗に伐採して整備されているので、より本来の姿に近い形で見ることができます。



中馬出から北馬出に繋がりますが、北側の空堀はV字の薬研堀。


発掘調査で礎石が確認されたことで、二の曲輪北馬出には薬医門が復元されています。


二の曲輪の土橋。
その先には発掘調査で虎口跡が発見されています。



土橋から見た左側、北の外堀。
草が生えていてハッキリとは見えませんが、規模が大きい空堀です。

右側が二の曲輪で、土塁で囲んでいるため、かなり高さのある空堀となっています。

この外堀と二の曲輪中馬出は、完全に二の曲輪を防備しており、この城が軍事施設であることを最も感じるポイント。



二の曲輪には広大な敷地が広がります。



二の曲輪の次はいよいよ本曲輪なので、外側は土塁で防備し中央部には曲輪を仕切る土塁があります。



二の曲輪と本曲輪も土橋で繋がっており、本曲輪は内堀と土塁で囲まれています。



土橋から見た左側の内堀。
二の曲輪と本曲輪を分断する空堀。

どこを見てもスケールの大きい空堀を見ることができます。



土橋から見た右側、二の曲輪との本曲輪の空堀。左側が本曲輪となり、二の曲輪よりも高低差が大きいのが分かります。

二の曲輪を突破されたされた場合、最後は本曲輪のこの空堀から迎撃するので、攻撃しやすいように本曲輪だけ土塁で二の曲輪よりも高くしています。



土橋を渡り切ると本曲輪虎口跡があります。

中世のお墓の一部を門の礎石の根固めに使用されているのが発見されました。


逆光で見えにくいですが、本曲輪の石積みの通路跡。

丸型の石材が積まれていて区画されています。



本曲輪は断崖絶壁。
下に少しだけ見えている道路は、最初に歩いて登ってきた県道島田岡部線。

ここから攻めるのは不可能。
木は死角になるので当時は生えていなかったことを考えると、「攻めるに難く守るに容易い」という戦国中世城郭のセオリーそのままを感じます。

本曲輪からは手に取るように敵の動きが丸見えです。


本曲輪 東側からの絶景。
左側には富士山が綺麗に見えます。

奥には大井川、街を一望できる素晴らしい景色に、興奮していた気持ちが一度落ち着き、しばらく静かに眺めていました。



しかし、絶景のロケーションを眺めた下は、写真のように切岸となっていて、急斜面に切り落とされています。

落ち着いた気持ちも再び沸騰!



本曲輪から内堀の底に降りることができます。

内堀にはカンカン井戸があり、石積みの井戸跡が残ります。

今は埋まって浅くなっていますが、以前はかなり深い井戸だったらしく、石を投げたらカンカンと音が鳴ることから、この名称になったとも言われていますし、武田軍の軍師山本勘助が由来とも言われています。



カンカン井戸から順路に進むと、水の手曲輪に向かうことができます。

割と足が疲れてきていましたが、坂を下ってみます。



疲れが一瞬で吹き飛ぶほどの切岸。

元々このあたりの山は河原が隆起した土地の為、岩盤のように強固なためこれだけの遺構が状態よく残っています。



右側が本曲輪。左側は二の曲輪。

空堀なのか、堀切なのか、切岸なのかもはや分かりません。

ただ、物凄い高さで曲輪が分断してあるのは確か。

どこまでが自然地形で、どこまでが人工的に山を削ったのかとても気になります。



本曲輪は全面的にこのような急斜面の絶壁で囲まれているので、かなり防御力が高いと感じます。

数々の馬出も圧巻でしたが、個人的には水の手曲輪の登城ルートあたりが、壮大で臨場感があり感動しました。


小田原北条氏の築城術は角馬出、武田氏の築城術は丸馬出という通説の中で、諏訪原城は、武田氏の築城術によって築かれたとされていました。

しかし、近年の調査では武田氏が造った諏訪原城をベースに徳川家康が大改修したことが判明しました。

特に巨大な中馬出や大手馬出は完全に徳川家康が築いたとされています。

遠江は徳川と武田が奪い合った場所で、高天神城奪還の為に徳川家康が改修したというのが、発掘調査による現在の考察のようです。

この考察が正しいのであれば、徳川家康は武田氏の築城術を、より大規模にして取り入れたことになります。

そして、最終的には徳川家康は1591年に高天神城を攻略。翌年、武田氏は滅亡。

諏訪原城はその後、徳川家康が江戸へ転封したことを機に廃城になりました。

まだ諏訪原城の全容は未知数ではあるが、これだけの巨大な堀を巡らせているので大土木事業だったのは間違いありません。

それを重機もない当時の人力で造り上げたことに凄さを感じます。


 
帰りは旧東海道を通って金谷駅に向かいます。



旧東海道の石畳。
現在、街道の石畳で当時の面影を残すのは箱根峠と中山道十曲峠、そして東海道の金谷坂のみ。

30m程しか現存していませんでしたが、町民600名の平成道普請によって430mが復元された素晴らしい道です。

諏訪原城が予想を超えて魅力的な城だったの為、予定より大幅に時間を押してしまいました。

再び金谷駅から東海道本線に乗って次の城へと向かいます!



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掛川城【二回目】・掛川古城@静岡県

2025-02-08 09:30:00 | 100名城
2025年2月8日

掛川市で一泊し、本日も過密スケジュールで東海道本線で三つの城を巡る旅に出ます。

昨晩はライトアップの掛川城を楽しみましたが、今日は快晴の掛川城をホテルの部屋から見ることができました。



たまたまですが、素晴らしい部屋を用意して頂きました。



最高にかっこいい天守!
朝起きてこのロケーションを見ることができるとは、本当に贅沢でした。

ホテルの朝食を食べ、7時30分に出発。

個人的にはオープン前は人が少ないので、良い写真も撮れるの為、朝一の城が好みです。



ホテルを出て約10分程で大手門に到着。
天守に続いて復元された櫓門。

出入りする冠木門下が4.4mありますので、馬に乗ったまま入城できます。



昨晩もこの角度から写真を撮りましたが、このスポットはとても映えます。

現在の大手門は、当時の位置から50m程離れた場所に復元されています。

天守もカッコいいですが、やはりワタクシは城門も大好きですね。

威圧的な佇まいに、とても痺れます。



大手門のすぐ裏手には、江戸時代末期に建築された大手門番所があります。 

城内に出入りする人たちの監視や警備をする役人の詰所。



中には入ることはできませんが、覗くことができます。

大手門に付随した番所は全国でも珍しいそうです。

 

とてもシンプルな造り。

明治の廃藩により、藩士が居宅用として譲り受けたことで現存していました。

昭和に掛川市に寄与されたことで、現在は貴重な市の指定文化財に登録されています。



掛川城の前を流れる逆川は天然の要害で守られています。



逆川と天守。
春になると逆川の川沿いには桜が咲きます。

いつか桜の季節に訪れてみたい。



三の丸広場からの一枚。
左には現存の太鼓櫓。

三の丸広場は定番の撮影スポット。

掛川城を大改修したのは山内一豊。
山内一豊は後に土佐に移り、初代土佐藩主となります。

そして高知城を造りますが、高知城の天守はは掛川城をベースにしたそうです。



天守は高知城とやや似ていますが、高知城は総石垣の要塞。掛川城は土造りの美しい城郭です。



天守は1994年に日本初となる本格的な木造で復元された、望楼型三層四階の複合型天守。

以前は鉄筋コンクリートでの復元が多かったのですが、やはり外観だけでなく材質や工法など当時に近い形で復元するということは、次の世代に技術を継承していくことに繋がるので、とても大切なことだと感じます。



復元された四足門。

発掘調査では門の跡は見つかりませんでしたが、絵図に基づいて四つ足の薬医門を復元しました。



四足門の右手の三日月堀。
深さは8m。調査では堀南側で石垣も発見されました。

三日月堀は武田築城術でよく見られるスタイル。



三日月堀と天守。
やはり天守はどこから眺めても美しい。



三日月堀と並ぶように十露盤(そろばん)堀があります。

明治期に埋め立てられましたが、発掘調査によって復元されました。
しかし、本来の1/3程度の範囲で復元されたので、実際は本丸を守る大きな堀だったと思われます。



四足門の先には本丸門がありました。
現在は石垣のみが残ります。

左手の石垣の上には太鼓櫓が移築されています。



本丸門跡と天守。
復元模型を見ると、この場所には大きな櫓門が建っていました。



本丸から天守がある天守曲輪には曲がりくねった階段を登ります。

天守の前には天守下門がありました。



太鼓櫓は天守に続く階段からが一番綺麗に見えます。

本来、太鼓櫓がある場所には荒和布櫓という見張のための櫓が上がっていましたが、昭和30年に三の丸から太鼓櫓が移築されました。

太鼓櫓は城下に太鼓で時を知らせる為の櫓門であり、太鼓は二の丸御殿に移されています。



三の丸方面から見た太鼓櫓。
太鼓櫓には現在立ち入ることが出来ず、石垣下までしか近づくことが出来ません。

現地のスタッフさんに聞いたら、老朽化によってとても中に入れる状況ではないらしい。

太鼓櫓は貴重な現存建築なので、なんとか活かし続けて頂きたい。



二の丸御殿の入り口からのショット。
ここからなら写真も、風情があって映えます。



日本に現存の御殿建築は四城しか残っていません。
高知城、二条城、川越城、そして掛川城。

城は明治期には陸軍の駐屯地となった為、大きなスペースを要いる御殿建築は真っ先に解体されました。

掛川城の二の丸御殿は廃条例後は学校として使用、さらに町役場、消防署など役割を変えながら現存しました。



グッズ、御城印、日本100名城スタンプは二の丸御殿内にあります。

二の丸御殿は藩の政務や儀式や公式対面などで使われていました。



内部は書院造で20の部屋に分かれています。



御殿の縁側からのショット。



太鼓櫓で時を知らせていた太鼓は、市の文化財となっています。



掛川城は天守や御殿だけではありません。

裏側には竹の丸や茶屋などがあり、掛川城の魅力を引き立てます。

写真は竹の丸(旧松本邸)。
1590年に城主となった山内一豊は、城を拡張。その際に竹の丸が造成されました。



主郭部への通路上にあるので、防衛上重要な場所だったことから、重臣の屋敷地に割り当てられました。



掛川城に来たら、是非寄って頂きたいのが掛川古城!

三の丸から周りを眺めた時に、竹の丸方面に小高い山があります。

出城とかに最適そうな山だったので何気なく行ってみると掛川古城の案内がありました。

山一帯は切岸で急な土手になっています。



下には小学校があり、元は三の丸でした。校庭との高低差が結構あるので、中世の城らしさを感じることができます。



切岸の先には立派な大堀切があり、曲輪が分断されています。



まさか中世城郭の遺構を見れると思わなかったので驚きました。



堀切になっている本曲輪に行ってみると、全体が土塁になっています。



現在の本曲輪跡には、江戸時代の1656年に、当時の藩主北条氏重が幕府に願い出て、徳川三代将軍「徳川家光」の霊牌を祀るために建てた「龍華院大猷院(りゅうげいんたいゆういん)霊屋」が建ちます。

この建物は火災に会いましたが、1822年に藩主「太田資始」によって再建されたものです。



美しい装飾が施された霊屋。

何気なく行った場所がまさかの凄いスポットでした。

現在の掛川城からも歩いて10分程度なのでオススメです。



掛川古城から竹の丸あたりで見る天守が個人的には一番お気に入り。

本丸側から見る天守は、1Fが大きく横に張出して、ややゴツっとした望楼型天守らしい姿をしているのに対して、裏側から見ると完全に層塔型の姿をしています。

この角度から見る天守は、とてもシャープです。

昨年訪城した時には見ることのできなかった発見がとても多かったので、充実した時間を過ごすことができました。



掛川古城の存在を後から知ってしまった為、予定よりやや時間がオーバー。
9時30分に城を出て掛川駅に向かい、次の城を目指します!



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掛川城【ライトアップVer】@静岡県

2025-02-07 20:00:00 | 100名城
2025年2月8日

大垣城に行った後は新幹線で掛川市に移動。

岐阜や名古屋に宿泊して、その周辺の城を攻めることも検討したのですが、寒波が到来していたので、事前に天気予報を見まくって掛川市に泊まることを決めていました。

そして、次の日は掛川城→諏訪原城→興国寺城を東海道本線で巡る計画です。

ちなみに掛川城は二回目。

そして、忘れてならないのは掛川城のライトアップを見に行くこと!

ホテルに着いたのは18時。

ホテル選びにも一つのプランがありました。

掛川城方面のビジネスホテルはいくつかありますが、掛川城が一望できそうなビジネスホテルをチョイス。

何階のどっち向きの部屋になるかは運次第。

チェックインを済ませると部屋は10階!
部屋に入って窓を見ると



見事に掛川城方面の部屋でした!
テンションが上がったので、チェックインして荷物を整理して18時30分に掛川城へと向かいます。



大手門とライトアップされた天守。
本来の位置から50m程離れた場所に移築されたので、大手門は天守から少し離れていています。

しかし、ここから見える天守は映えるので、是非大手門を見てから天守に向かって欲しいですね。



大手門の先には逆川が流れていて、川に架かった橋からも幻想的で素晴らしい写真を撮ることができます。

春には川沿いに桜が咲きます。ワタクシはまだ春の掛川城を見たことがないのですが、とても素敵な景色になると思います。

今年は厳しいかもしれませんが、桜の季節にまた来たいですね。



三の丸広場から見た四足門と天守。
やはりライトアップされた城は特別感があります。 

天守は1994年に日本初となる本格的な木造で復元された、望楼型三層四階の複合型天守。



ほぼお客さんがいなかったので、独り占め状態!

何度も降りたり登ったりして、満足するまで角度を変えたりして写真を撮影しまくります。



天守内部には入れませんが、冠木門の前まで観覧できます。

白漆喰の壁は夜になると、闇に浮き出してカッコいいです。

日中に行く城は当然ながら好きですが、夜はちょっとしたスリルとワクワク感があるので、冒険しているような気分になります。



暗くて見えにくいですが、太鼓櫓が鎮座する石垣。

時を知らせる太鼓櫓は本来は三の丸にありましたが、昭和に本丸の荒和布櫓跡に移築されました。

ここは本丸に入る為の、最後の門となりますので、立派な櫓門だったようですが、現在は石垣のみが残ります。



二の丸御殿あたりからのショット。
掛川城天守の珍しいポイントとしては、1Fの左右が張り出している点。

少しでも天守を大きく見せる工夫なのだとか。

このアングルからだと分かりやすいです。

夜の掛川城を存分に楽しみました。

掛川市は城下の雰囲気も素晴らしく、更に観光マップの種類も他の地域に比べると圧倒的に多いです。

街全体が力を入れて盛り上げているのを感じます。

ビジネスホテルで一泊したら、明日は朝一から改めて掛川城を見てまわります!


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