つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

高田城@新潟県

2023-12-30 16:00:00 | 続100名城
2023年12月30日

今年も残り2日となった12月30日は、今年最後の城巡りとなります。

城納めに選んだ城は新潟県上越市にある高田城です。

高田城は日本三大夜桜で有名ですが、城好きとしては、やはり続100名城に選定されているので要チェックな城です。

実はワタクシ、18歳〜20歳まで上越市に住んでおりましたが、恥ずかしながらその時は歴史にあまり興味がなかったので、高田城の前を通ったことさえありませんでした。

そんな勿体無い過去を払拭するために、城巡り納めとして2023年の年末にやってきました。

前置きが長くなりましたが、高田城はえちごトキめき鉄道の高田駅から歩いて10分少々の場所にあります。

高田城は現在、高田公園として整備。
復元された三重櫓が見どころ!

年末年始が博物館が休館、櫓も年末年始は閉鎖されていた為、12月30日と1月5日の二日間で観覧しました。

故に日が違う写真を合わせて掲載するので、雪の状況や天候が違う写真が混ざっていますが悪しからず。



慶長19年(1614年)に徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請で築城された近世城郭。

普請総裁は忠輝の舅である伊達政宗。縄張りから陣頭指揮をとりました。

天下普請とは諸大名に、幕府の命で城造りを命じることです。幕府の要請ということは国家プロジェクトのイメージ。

普請総裁とは現代でいう、現場監督(所長)みたいな立ち位置でしょうか。
国家プロジェクトの総裁なので後世に名も残ります。

大坂の陣でやらかした忠輝の後は、徳川四天王の榊原氏や松平氏など城主が変わりました。



今回歩いたルート。
地図を見ての通り、城郭の形がしっかり残っていて、外堀も一部残された貴重な城跡です。


早々に土堀と高田城の顔でもある三重櫓が見えてきます。

三重櫓の前には広大な内堀があり綺麗です。



二の丸と本丸を繋ぐ極楽橋は発掘調査の上、2002年に復元。



橋の先には巨大な枡形虎口になっており、本城御門という立派な城門がありました。



当時はこのように橋の両脇には多聞櫓があり、この門を通過すると枡形になっていました。
多聞櫓から土塁に沿って下がる土塀がカッコいい。



模型で見ると極楽橋を渡って先が枡形になっているのが分かります。

土堀でこの迫力。生きている間に一度でいいから実際に見てみたいものです。



こちらが当時枡形になっていた場所。奥が極楽橋。



極楽橋を渡って右手。こちらに本城御門がありました。

一部、土塁は残っています。



本城御門の模型。かなり立派な櫓門だったことが分かります。

この模型は三重櫓の内部で見ることができます。



本城御門の先には本丸があり、巨大な御殿がありました。

現在、本丸は学校に。
学校がある以上は御殿の復元の可能性が無いので少し残念な部分もあるが、城郭のど真ん中の本丸に学校があるなんて生徒が羨ましい気もします。

ちなみに、高田城の御殿は二条城や江戸城と同等の大きさだったらしい。
さすが天下普請で造られた江戸幕府の要衝となった城。



こちらは東不明門。
こちらにも枡形と堅固な土塁、城門がありました。



ゆっくりと内堀を一周します。
城郭内には本丸以外にも学校が多く、近づけない箇所もあります。



北堀からのショットは妙高の山々が綺麗で絶景。

当時の武士達もこの壮大な景色を眺めていたのだと思います。



この先に大手門跡があります。



高田駅から高田城に向かうと大手門跡に出ます。
残念ながら今は普通の車道になっている為、大手門の影も形もありません。



大手門の左手には松の木が生えていて、一部盛り上がっているのが分かります。

これは土塁の跡らしく、当時はおそらくこの高さで土塁が大手門と繋がっていたのだと思います。



右手には野球場が見えます。
当時の地図を見ると、大手門の脇に島のような独立した瓢箪曲輪というのがありました。

その曲輪を生かして野球場が作られました。その発想がすごい。 

Googleマップで見ると一目瞭然です。



この時代は石垣の城が主流で技術も発展していましたが、高田城には石垣が全く使用されていません。

しかし、石垣に負けない立派な土塁と水堀は魅力的です。



高田城には天守がありませんでしたので、三重櫓が実質的な天守の役割だったと思われます。

雪国らしく下見板張りで黒をベースとした櫓は、三層三階ながらかなり重厚感があり、見たものを圧倒して満足感を与えてくれます。



石垣や天守が存在しないのは、大坂冬の陣の直前だったので、築城を急いだことが有力とされています。

60ha、東京ドーム12.8個分を超える城郭を僅か4ヶ月間で完成させました。



近くで見るとかなりカッコいいです。
張り出した切妻破風や入母屋破風が威厳と華麗さを出しています。



三重櫓は明治期に焼失しましたが1993年に復元。
その他、城郭全体を現在まで保存できたのは、行政や地域の方々の力があってこそ。

三重櫓内は資料館となっていて、高田城について詳しく知ることができます。



三重櫓から見た水堀。

かなり幅が広く、最大58mなので水に浮いた城のようです。



三重櫓から見た極楽橋と土塁。
上から見ても土塁の美しさが際立ちます。

ちなみに、チラッと見える瓦は本瓦葺きと言われる伝統工法で、平瓦と丸瓦を使うので瓦の枚数が多く屋根自体が重たくなります。

よく一般住宅で見られる瓦は桟瓦が使われ、軽量化され施工も簡素化されました。



復元された三重櫓はS造(鉄骨構造)ですが、内部に木を使って雰囲気だけは出しています。

明治の廃城令後は天守や櫓や城門などの建築物は取り壊し、堀も埋めて一般の土地として活用したために、原型を留めない城跡は全国にたくさんあります。

しかし、高田城は今でも近世城郭の形を保っているのが素晴らしいポイントです。

また、高田駅周辺には寺が多いからか、街並みはおそらく江戸時代の土地割のまま生かされているので、整備したらすごい城下町になりそうです。

先に書きましたが、高田城は天下普請によって築かれましたが、その他にも全国では10城前後あります。
名古屋城(愛知県)
二条城(京都府)
彦根城(滋賀県)
江戸城(東京都)
大阪城(大阪府)
など、名だたる城が天下普請によって築かれました。

それだけ幕府にとって重要な位置付けであったことが分かります。

理由としては加賀の前田、出羽に移封となった上杉に対抗する為と言われています。

また佐渡の金山の支配を強化する為とも考えられています。

長くなるので割愛しますが、幕末の高田藩の結末なども非常に興味深い話です。

また登城した際に書きたいと思います。

上越地方は上杉謙信が居城としていた街なので城跡も多く残ります。

今後、少しずつ越後の山城を攻めていきたいと思います。

素晴らしい2023年でした。



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寺田屋旅館と伏見の街@京都府

2023-12-12 16:30:00 | その他建築物
2023年12月12日

伏見城跡→御香宮神社に行った後は、伏見桃山駅に向かいました。
しかし、寺田屋旅館が近いと知ったので、急遽向かうことに!

寺田屋旅館は幕末に二つの大きな出来事の舞台となります。

1862年。倒幕を進めようとする薩摩過激派志士と暴発を止めようとする薩摩藩士によって斬り合いが勃発。薩摩藩氏9名が命を落としました。
寺田屋事件や寺田屋騒動と呼ばれています。

もう一つは、1866年。
坂本龍馬が襲撃された事件です。

天皇を中心とした政治、徳川幕府を中心とした政治。
この二つの思想で日本が分裂し、幕末の動乱の時代に突入します。

特にこの京都は日本の中心だったので、事件が多く起きて治安も悪化していきました。



向かうまでの伏見の街が凄く素敵だった。
おそらく土地割は江戸時代の状態であると感じました。

道が直角に曲がったり、狭いところもあったりするので、当時を想像しながら歩くだけで既に楽しい。



街並みはまさに情緒溢れています。

建物が江戸時代もしくは江戸時代風に造られ、街の景観を大切にしているのが伝わります。



伏見は現在、京都市ですが昔から独自の文化や歴史を歩んできたそうです。



伏見の景観はノスタルジックで、どこを撮っても映えます。



さらに伏見は豊臣秀吉が大阪をつなぐ水運を整備したことで発展しました。

豊臣秀吉って本当に凄いと改めて感じます。
圧倒的財力もありましたが、秀吉が整備した城下町はどこも近代的で、多くの人で賑わっていたそうです。

商業が発展しやすい街づくりをしていたとも言えます。



今でも街中を綺麗な川が流れています。



山、川、街並み、商店街。
既に伏見の街が好きになり、ここに住んでみたいと本気で思いました。

それくらい美しい街です。



龍馬通り商店街。
駅前のアーケードから一本入った通り。

このノスタルジックな感じも心に沁みます。

新しそうなお洒落なお店も、外観の雰囲気は統一されています。




御香宮神社からゆっくり歩いて15分ほどで、寺田屋旅館に到着です。



これまた素晴らしい外観。
歴史ある寺田屋旅館は幕末の戊辰戦争の前哨戦、鳥羽・伏見の戦いにて焼失。

その後再建されて今に至ります。





旅館の横には坂本龍馬の銅像や記念碑が据えられています。



当時はこちらの敷地が旅館があった場所のようです。



坂本龍馬の襲撃は、幕府の役人が1866年1月26日の午前3時頃に決行。

坂本龍馬はピストルで応戦しながら裏手から脱出したとされています。



寺田屋旅館には10:00〜15時40分受付まで、400円で入ることができます。

中には坂本龍馬と新撰組局長、近藤勇が飾られグッズなども売っています。



当時の資料などが各部屋に貼られ、伏見の歴史を今に伝えています。

当時、坂本龍馬を支援していた寺田屋の女将・お登勢の資料なども多くあります。























まさに幕末にタイムスリップ。
最高の雰囲気を味わうことができます。

坂本龍馬は現在の高知県、土佐藩の下級武士の末っ子。

倒幕を掲げながら最大の敵同士だった、薩摩藩と長州藩を薩長同盟に繋げた立役者です。

ちなみに、新撰組は会津藩管轄の幕府側。京都の治安維持のために結成された浪士組です。

幕末の歴史の舞台の中心は京都です。
いかに天皇を取り入れるかがポイントだったので、攘夷派と江戸幕府による高度な戦略が繰り広げられました。

その歴史の一部を味わうことのできる伏見の街でした。

さらに、衝撃なのがこの寺田屋旅館、今でも宿泊できるのです。

しかも一泊6500円!

個人的にすごく興味があります。

その他、伏見だけで多くの歴史の足跡があります。しかし、半日で周り切るのはやはり難しいですね。

それだけ魅力が多いエリア。
また時間を作って訪れたいと思います。




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伏見城@京都府

2023-12-12 14:00:00 | その他城
2023年12月12日

大阪から再び京都へ。
淀城に行くか、二条城に行くか悩みましたが、時間もあるのでゆっくり伏見城を目指すことにしました。

伏見城は豊臣秀吉が隠居後の城として築城したのが始まりとされています。

伏見城は戦国時代に歴史のキーポイントとなる城ですが、城としては不運な運命でもありました。

元は豊臣秀吉の隠居城としての計画でしたが、息子の秀頼の誕生により天守を持つ本格的な城郭に整えられました。
初代の伏見城を指月伏見城と呼びます。

しかし1596年に慶長の大地震により築城中に倒壊。
この場所が城地に向かないと判断した秀吉は、現在の明治天皇伏見桃山陵になっている、伏見木幡山に移して新たに築城しました。

この時代の伏見城を木幡山伏見城と呼びます。

当時は最新技術を集結した五層の豪華絢爛な大天守が建っていたようです。

また政務の中心となっていたので、伏見城の周りには大名達の屋敷が並びました。

また豊臣家の財力によって城下町も整備され、水陸交通の要衝になり、情報と物資が集結する当代随一の近代的な都市となりました。

秀吉が亡くなった後は徳川家康が伏見で政務を行いました。

そして、1600年に天下分け目の関ヶ原の前哨戦として、豊臣軍と徳川軍が伏見城で激突した為、残念ながら伏見城は焼失。

天下を取った徳川家康は1602年に伏見城を新たに築きましたが、1623年に廃城となりました。

現在は全く違う場所に四代目となる模擬天守が1964年にキャッスルランドというテーマパーク内に建てられました。

現在キャッスルランドは閉園。天守の中に入ることもできません。



今回ワタクシは近鉄京都線の丹波橋駅から向かいました。

歩いて15分ほどで入口らしき所に辿り着きます。



最初に現れたのは桓武天皇陵。



このあたりも、おそらく城の一部だったと思われます。



後世に造られた可能性もありますが、周りは土塁のようになっています。

この裏には堀があったようなので確率は高そう。



桓武天皇陵を越えると巨大なゲートが見えてきます。

キャッスルランドの入り口。
現在は閉園しているので、自由に通過することができます。



大きな駐車場の先には模擬城門と模擬天守が見えてきます。



模擬とは言え凄い大迫力。江戸城の大手門並みに大きな櫓門です。





これまた立派な模擬天守。
大天守と小天守の連立。
大阪城の復興天守と似た造りになっています。



天守があった場所は若干違えど、この伏見のエリアに巨大な城があったことは事実ですからね。

雰囲気は存分に味わえます。

しかし、人が一人もいなかったので寂しい雰囲気でした。



続いて明治天皇伏見桃山陵の近くにあると言われる石垣を見る為に山林を抜けて向かいます。



天守近くにある森の中の池。
これは治部池と呼ばれています。

治部といえば石田三成。

この地に治部少丸という建物がありました。
石田三成は豊臣秀吉に信頼を得ていた奉行衆でしたので、伏見の城内に建築することを許されたそうです。

この池は当時、内堀の一部だったとのこと。



明治天皇伏見桃山陵に向かう広い砂利の道は桃山御陵山道。両側は杉の木で美しい山道となっています。

こちらも平日だからか、人が全くいません。



至る所で城らしい自然地形もあるのですが、説明看板やパンフレットもないので不明。



やっと当時の石材が現れました。
一つ一つが大きくインパクトあります。



矢穴と呼ばれる跡が石材の至る所に見られます。



矢穴とは石工職人が石材を割るときに、ノミで矢(クサビ)を入れる穴を掘ります。

そこに矢を入れて大ハンマーで叩くと綺麗に左右に割れる技術。

その痕跡がはっきりと分かる石材です。
この頃には石垣の技術がさらに上がり、石の形状をそのままに積んでいく野面積みから、石を加工して使用する切込み接や、打ち込み接が出てきました。

伏見城は石垣も最先端技術であったことが分かります。



当然、明治天皇陵には立ち入ることができないので、紅葉を見て引き返します。



こちらが木幡山伏見城の本丸があったとされている場所です。

残念ながら現在は伏見城跡として開放しているわけでは無いので、どこに行っても遺構などの説明書きも地図もありません。

また京都市が出しているパンフレットはあるらしいのですが、園内には一切ないので事前に調べていかないと、広大な土地故にどこを歩けば良いのか分からなくなります。

ワタクシは一度伏見城跡を出て、伏見桃山駅方面へ向かいます。

目指すは御香宮神社。
こちらは徳川家康が建立したとされる神社で、豊臣秀吉と徳川家康を祀っています。



一番の目的は御香宮神社の門を見ること!
重厚感のある巨大な門。



立派な石垣の上に漆喰の土塀と瓦が目を惹きます。



神社の門でありながら、上には鯱が鎮座しています。



これは伏見城の大手門を移築したそうです。
近くによると尚更、城門にしか見えません。



惚れ惚れするような立派な門。



これが伝説の伏見城の門だと思うと、感慨深いものがあります。



こちらの門は重要文化財に指定されています。

伏見の周りには伏見城から移築された建築物が存在しています。

石垣も至る場所で部分的に保存されています。

巨大だった伏見城は城郭の櫓なども移築されました。
天守は二条城へ移築。
櫓は福山城に移築されたのは信憑性が高く有力とされています。

その他、大阪城や江戸城にも伏見櫓は存在していて、いずれも伏見城から移築との言い伝えがあります。

歴史から姿を消した城でしたが、全国の至る所で伏見と名の付く建築物が存在します。


歴史的に外すことのできない城。

二日前に行った勝龍寺城。明智光秀の娘の玉(細川ガラシャ)が最後を迎えたのも、伏見城で勃発した関ヶ原の前哨戦。

徳川家康が征夷大将軍に任命されたのも伏見城。

一大シティとなった伏見城は、江戸時代には立ち入り禁止となりました。

静けさなども相まって、何となく禁足地に近い雰囲気がありました。
そんな不思議なエリアでした。


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安居神社@大阪府

2023-12-11 18:00:00 | 神社
2023年12月11日

堺で打ち合わせの後、茶臼山に行き最後は安居神社に向かいました。

大阪冬の陣、夏の陣で激戦地となった大阪の天王寺。

至る所に戦いの爪痕が残っています。

冬の陣で徳川家康が本陣を置き、夏の陣では真田幸村が陣を置いた茶臼山→真田幸村縁の安居神社。
これはセットで周るのがマストです。

この天王寺一帯が大坂冬の陣と夏の陣において、大激戦の地だったことは前回書きました。

豊臣が滅亡することになった大坂夏の陣。
そして戦国時代最後の戦。

徳川家康率いる東軍と豊臣秀頼率いる西軍。

人数には諸説ありますが、西軍は圧倒的に兵力で劣っていました。

また、豊臣秀吉が造った難攻不落の大阪城は、冬の陣後に徳川家康によって堀を埋められたことで、防御機能を完全に失っていました。

その中で大活躍をしたのが、冬の陣同様で真田幸村です。

真田幸村は大坂夏の陣で討死しましたが、その最後の地となったのが安居神社とされています。


安居神社は茶臼山の目と鼻の先にあります。
ビルの隙間のような細い路地を抜けると境内に繋がります。

到着が16時40分頃と遅くなりました。
17時までだったのでギリギリでした。



境内には真田幸村の像があります。
まるで時が止まったかのような静けさ。

戦い続けた真田幸村は松の木の下で疲れ切って座っていたそうです。

そして最後を迎えました。



1615年に勃発した大坂夏の陣で、圧倒的不利な西軍の真田幸村は、総大将徳川家康の首のみを狙います。

冬の陣は出城の真田丸で、夏の陣は茶臼山で真田幸村が戦いの最前線に陣を敷いて徳川家康を迎え撃ちました。

三度も徳川本陣を攻撃し、徳川家康は一時退き自刃を決意したと言われています。

しかし、戦というのは勝敗の流れというのがあるもの。

勝利したのは東軍で、その後世界でも珍しい200年以上もの間、戦のない平和な時代が日本に訪れます。



平和で多くの人が行き交う天王寺。

400年以上も前に激戦だったこの地に立ち、昔の情景を想像すると、タイムスリップをしたかのような感覚になります。

真田家の家紋、六連銭。

六文銭は「三途の川の渡し賃」であることから、いついかなるときにおいても死をいとわない不惜身命の決意で望んでいることを示していたともいわれています。

まさに家紋に恥じない戦いをした真田幸村。
そんな知力に優れ、武力に優れ、義理に堅い武将は長い時を経た現代でも我々を魅了し続けている。



安居神社は創建時は不明のようですが、942年には既にあったとされる由緒ある神社です。

世界大戦時の大阪大空襲で全焼するも、戦後に復興。



あと一歩まで徳川家康を追い詰めた戦国最後の名将は、後に日本一の兵(ヒノモトイチノ ツワモノ)と称されます。

真田家は長野県上田の家系。
しかし、この大阪の地で六連銭の家紋や真田という名をよく目にします。

豊臣のために最後まで戦った真田幸村は、それだけ大阪の人々にとってインパクトある存在であると言えます。

先日放送されたNHK歴史探偵の、VR大坂の陣の回は凄くリアルで面白かった。

大河ドラマどうする家康ではまさに終盤の大坂の陣の回となった。

そんなタイミングで来ることができたのは、何かの縁かもと勝手に思ってしまうのです。



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茶臼山陣城@大阪府

2023-12-11 17:00:00 | その他城
2023年12月11日

昨日の京都城巡りから大阪市内に入ったので、本日は茶臼山陣城にやってきました。

夕方の到着だった為、急ぎ足で周りました!

大河ドラマ「どうする家康」で大阪冬の陣と夏の陣の回となり佳境を迎えています。

縁あってこのタイミングで大阪に来れたので、やはり茶臼山には足を運ぶべきと思い向かいました。

茶臼山といえば、大坂冬の陣の際は徳川家康の本陣があった場所。
さらに大阪冬の陣の際は、この戦いで日本一の兵(ヒノモトイチノ ツワモノ)と称されるようになった真田幸村が陣を置いた場所になります。

JR南海線の新今宮駅から歩いて15分程で茶臼山公園に到着しました。



あべのハルカス前からのショット。
線路の奥に見える木々のあたり一帯が茶臼山公園です。

最近、NHKの歴史探偵で大坂の陣のVR再現映像を見ました。

この茶臼山の前には高さ5m、長さ1kmにも及ぶ堀のような自然地形の谷があったそうです。

あべのハルカス側から向かうと、電車の線路がかなり下がった位置にあります。

もしかして、その自然地形を利用してできたのがこの線路か!?なんて妄想を膨らませていると身体に電流が走りました。

実際は分からないのですが、そんな妄想を膨らませることができるのも、戦国のロマンです。



公園入り口に入ると、オシャレな空間が広がります。
この時期はイルミネーションやスケートリンクもあり、カップルが多くいました。

この空気感と自分の中で、歴史跡の期待度のギャップが激しくて多少ショックを受けましたが、陣の跡は更に奥のようで安心しました。



一度この空間から出て、案内図通りに茶臼山山頂に向かいます。
写真の右手が茶臼山となります。



この地で激戦が繰り広げられたと考えると、当時を勝手に想像してしまいます。



茶臼山は小高い丘のような山で、簡単にアクセスできます。



階段を登り切ると、中心にこんもりと盛られた場所があります。

そこに真田幸村についての案内板が建てられています。



あべのハルカスも近くに見えます。
大坂夏の陣ではこの先に徳川家康の本陣があり、兵力で劣る西軍の真田幸村は徳川家康の首だけを狙い、三度に渡って本陣を攻め込みました。

大坂冬の陣では大阪城を防御する為の出城、真田丸を戦の最前線に築いて迎え撃ち、
夏の陣でも最前線に陣を張って東軍の徳川を迎え撃ちました。



最頂部には真田幸村の看板が立ち並びます。



真田幸村はワタクシの好きな武将にランキングされています。

昔から好きでしたが大河ドラマ真田丸を見て、もっと好きになりました。

堺雅人が演じた真田幸村は本当にカッコよかった。



真田家は二度、領地だった長野県の上田城で徳川軍と戦っています。
知将だった父の真田昌幸は戦巧者だったので、どちらも勝利しています。



真田家の歴史を紐解くとすごく面白く奥が深いです。
特に真田幸村に関しては日本人の美学そのものと言っても過言ではないと思っています。

関ヶ原で東軍につくか西軍につくかで、真田家は父昌幸、兄信之、信繁(幸村)で会議を開きます。真田家が生きる道を模索した結果、兄信之は東軍に、昌幸と信繁は西軍につきました。

そして、関ヶ原では東軍の徳川が勝利して天下を納めました。
結果として真田昌幸と信繁は和歌山県の九度山に12年間幽閉されます。

一国を納めていた戦国大名にとっては、とても暇じい生活だったようです。

幽閉中に父昌幸は死に、信繁は豊臣秀頼の呼びかけに応じて西軍として大阪の陣に参戦します。

既に戦国武将として表舞台から消したにも関わらず、大坂の陣で活躍した真田幸村はまさに日本人の大好きな、底辺から這い上がった武将と言えます。



冒頭にも書きましたが、大阪冬の陣では東軍の徳川本陣跡でもあるのですが、徳川家康の説明看板は一切ありません。笑

さすが大阪。



山頂下は公園になっていて、広めの曲輪の跡のようになっています。



だいぶ暗くなってきた上に、雨が降ってきました。
しかし、この薄暗さも雰囲気があってまた良き!



本陣跡の堀と通天閣のコラボレーション。





歴史探偵のVR大坂の陣では、真田隊は徳川の陣から見えないように右手に巨大な馬出を隠していたようです。

敵を十分に引きつけてから、天然の地形を利用して一斉攻撃。
敵がどんどん引きつけられ、徳川本陣が薄くなってから、隠した馬出から一気に真田幸村率いる本体が徳川本陣を側面から回り込んで攻めました。



本陣を攻められたことで、徳川家康は敗走。この時に自刃を決心したと伝わっています。

話が長くなるので割愛しますが、その後形勢が逆転し真田幸村は戦死。西軍は敗れ豊臣家は滅亡します。

東軍150000に対して西軍50000の劣勢な状況の中で勝てる策を見い出し、あと一歩まで徳川家康を追い詰め、華々しく散った真田幸村。

個人的に日本人は散り方を大事にする人種だと思っています。
滅びの美学はワタクシも含めた日本人が大好きです。

鬼滅の刃では煉獄さんが炭治郎達と乗客を守るために去った時。

ドランゴンボールならピッコロが孫悟飯をかばって去った時

その散り方に人々は感動しました。

あと一歩で勝てたのに・・
もし真田が勝っていたら・・
あの時豊臣秀頼が大阪城から参陣したら・・・

真田幸村の最後は、まさに日本人の美学の芯を突いているのです。

地の底から這い上がり、勇猛果敢な戦いぶりに日本一の兵と呼ばれるほど名を上げた真田幸村。

ぜひ大阪に行った際は、この地を訪れて頂きたい。



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