つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

高知城@高知県

2024-10-18 10:00:00 | 100名城
2024年10月18日

岡山城を見た後、20時に高知市のビジネスホテルに到着。

高知県といえばカツオ!
ホテル近くの堀川さんで食事をしましたが、全ての料理が超絶品。



素晴らしい夜を堪能し、ホテルに帰って就寝。

高知県に来たからには高知城に行かない選択肢はありません。

朝7時にホテルを出発し、高知城を目指します。



ホテルから高知城までは約2キロ。
メインストリートの脇には水路が整備されています。

何気ない水路でも、城郭近くだと遺構ではないかと想像してしまいます。

城造りで欠かせないのは水路。
水路は城下町発展のファクターとなります。



高知城へと続く道は開けて中央には路面電車が走ります。

普段の生活では2kmは抵抗感ある距離ですが、思いを馳せながら見知らぬ土地を歩けば、あっと言う間です。



歩いて25分程で高知城が見えてきました。

設計の打ち合わせは10時からなので、それまで存分に楽しみたいと思います。



水堀と現在のメインゲートとなる追手門から入城します。

奥には天守見え、あいにくの天気ながら素晴らしいショットです。

高知城には貴重な現存12天守があり、日本で唯一の天守と本丸御殿が現存している城です。



追手門は枡形となっていて、1663年に崩壊しましたが、翌年64年に改築したものが今でも現存している貴重な門です。



やはり城門は良いですね。
追手門は格式高く、櫓門となっています。

追手門と天守が現存している城は、高知城、弘前城、丸亀城のみ。


高知城の櫓門の特徴は、脇の櫓台よりも跳ね出して柱で支えている点。

このアングルから見ると、清水寺の懸造のようになっています。

こんな有難い追手門ですが、昭和の写真では門の下を普通に自動車が通行していました。

現代では考えられませんが、城の文化的価値は年数が経つ度に高まってきています。



追手門を抜け、右へ左へとクランクしつつ、標高44mの天守方面へ向かいます。



まず、高知城は石垣が素晴らしい!
昨日の岡山城も圧巻でしたが、高知城もマニアの心をくすぐる石垣です。

そして、見どころの一つでもある石樋が現れます。

他の城ではなかなか見ることのできないレア技術。
排水が直接石垣に当たらないように多雨地帯の高知城では排水に関して工夫がなされました。


三ノ丸下の石垣。
見事な野面積み。しかも隅石が算木積みになっていて、急勾配を実現しています。

これが野面積みの技術における最高到達地点。



感動すら覚えるこの石垣を積んだのは、最高技術を有した石工集団の穴太衆。

数々の名城の石垣を手掛けた穴太衆。

ワタクシのブログにも度々出てくるワードですが、穴太衆が詰んだ石垣を目の前にすると涙が出るほど感動してしまいます。

カッコ良すぎる。



見上げる天守と石垣。

後ほど記載しますが、決して大きな規模の天守ではありませんが、この大迫力な石垣の要塞を前にすると、威圧感が凄いです。


本丸と二ノ丸の間から撮った一枚。
いつの間にか天気も快晴に!



左手は天守のある本丸。
右手は二の丸で、正面には本丸と二ノ丸を繋ぐ詰門。

貴重な現存天守と現存本丸御殿がピックアップされがちな高知城ですが、縄張りが素晴らしい。



追手門から見て天守裏側に周ります。
本丸下の石垣。

本丸、二ノ丸、三ノ丸それぞれが高い石垣で強固に守られていて、まるで迷路のような縄張りはまさに戦う為に造られた城。



本丸に向かう道と二の丸に向かう道の分岐点。
エグい程の180度に折り返した道。

石垣だけでも興味深く、また十分楽しめる城です。


二ノ丸から見た本丸側の天守。



そびえ立つ石垣の上には櫓群で囲まれています。

これが本来あるべき日本の城の姿です。

城にはたくさんの櫓などが存在していましたが、廃城令によって明治初期に全国の城は取り壊されてしまいました。

城の文化的価値が見直されたのは、残念ながら壊された後のこと。

左手は本丸に繋がる詰門。横向きになっている櫓は廊下門。
奥に見えるのは西多聞櫓。



二ノ丸から本丸を繋ぐ現存の詰門は2階が渡廊下になっていて、1階は門になっています。

他の城には無い、1802年から残り続ける現存唯一の廊下橋です。



詰門の出口は廊下門の下をくぐる造りになっています。
この先を抜けると、いよいよ本丸へ。



抜けた先の廊下門。

天守は白漆喰のホワイトで、櫓群も外側はホワイト色に対して、本丸側は黒色。



そして、天守にやっと到着です。
ここまで、既に見どころが多すぎて書ききれないほど。

しかし、高知城の凄さはここから!



天守は外観は4重ですが、内部は三層六階。
望楼型天守で、最上階にある高欄と呼ばれるバルコニーは、現存電車の中では犬山城と高知城だけ。

そして、高知城といえば天守と直結した現存の本丸御殿!



店主の開城は9時。8時半に本丸到着。
天守に入る前に重要文化財の黒鉄門を紹介しないわけにはいきません。

本丸を守る黒鉄門は黒漆で塗られた鉄板が打ち付けられており、石落としや武者が隠れることができることを考えると、最後の砦となる本丸を防御する極めて重要な城門だったかが分かります。



白と黒のコントラストが絶妙なアングル。

高知城はやはり戦う為の城。
これこそ日本が誇る城郭建築です。



いよいよ本丸御殿の懐徳館に入ります。
少し早めに開城して頂き、ポールポジションから入城します!

本丸御殿は対面所としてつくられました。



高知城は1601年に山内一豊が初代佐賀藩の藩主として着工。1611年に完工しました。

1600年の関ヶ原の合戦以降、大坂の陣までの14年間は軍事緊張が高まり、日本全体が築城ラッシュの時代。



日本の伝統的な書院造り。

城は軍事施設ですが、御殿に入ると何故かひと時の安らぎを感じます。

日本人の中に脈々と流れている木造のDNAがホッとさせるのでしょうか。



日本で唯一、現存天守も見える御殿。
これは高知城でしか味わうことができません。

清々しい朝と城巡り。
こんな贅沢は他になし。


御殿からの景色。
今も昔も変わらぬ眺め。

すごく安らぎと風情を感じます。



左が本丸御殿、右が天守。


右手には石落としと鉄砲狭間。

先程の安らぎの御殿とは一変、軍事施設にテイストが変わります。



天守の一階は模型など展示品があります。
高知城は石垣の大要塞。

天守は1603年に完成しましたが、1727年に火災により焼失してしまいます。

しかし1749年に再建され、当時のまま現代を生き続けています。



ポールポジションだったので、階段も気兼ねなく写真撮れました。

急勾配の階段も、軍事施設としての役割を果たしています。



天守最上階。
やはり現存の天守は内部も隅々まで楽しめるので素晴らしいです。



天守からの本丸エリア。
本丸にこれだけの建築物が現存しているのは他にはありません。

江戸時代の形をそのまま大切に保存してきた地域の努力の賜物。



上から見るとよく分かる城郭の形。
奥には二の丸、手前は本丸。

完全に独立した曲輪は、先ほど歩いた詰門で繋がっています。



三ノ丸の高石垣。

下から見上げる石垣もカッコいいのですが、上から見るとまた違った見え方がして良き!



高知市を一望。



意外と山に囲まれた高知市。
何百年も前には、山内一豊も見ていた景色。


天守を降り、右手の廊下を渡ると現存の東多聞に入ることができます。


東多聞→廊下門と繋がり、櫓内は展示物や高知城の歩んできた道のりを学ぶことができます。



廃城令、空襲、南海地震。
数々の苦難を乗り越えた高知城ですが、古い写真を見ると漆喰は剥がれ、瓦も落ち大きなダメージを受けています。

昭和に10年以上の歳月をかけて修復。

今の高知城は日本の受け継がれてきた技術の結晶ともいえます。



こちらも本丸にある西多聞櫓。
西多聞櫓も含めて、高知城には15棟もの現存建築物が残っており、国の重要文化財に指定されています。



帰りは二ノ丸の北側より下ります。
こちらは、より無骨感のある野面積み。

たまらないですね。この高石垣!


錦倉門跡からのショット。
高知城に来たのであれば、是非北側も周って頂きたい。



北側より三ノ丸下から。
高知城の石垣を存分に楽しみ9時45分に周り終えました。

夜はライトアップをしているようなので、見てみたかった!

江戸時代の姿のまま残された本丸と天守も魅力的ですが、個人的には戦う城として造られた縄張りと、穴太衆の技術の結晶を感じる石垣が本当に魅力的でした。

築城ラッシュによって急速に発展した石垣ですが、江戸時代になると一国一城令によって城の築城が禁止されたことで、石工職人も数が減ってしまいました。

しかし、穴太衆の技術は400年以上経過した今でも、滋賀の粟田工業によって継承され続けています。

城の楽しみ方は様々。
城を通してその地域の歴史を知り、日本の伝統的な技術を知る。

素晴らしい一日の始まりです。


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岡山城@岡山県

2024-10-17 17:00:00 | 100名城
2024年10月17日

岡山県に初上陸!
高知県で設計打ち合わせがあった為、岡山駅で乗り換え四国入り。

当然、岡山で乗り換えるならと岡山城へやってきました。

岡山城は日本100名城で宇喜多秀家、小早川秀秋、池田氏などによって戦国期から江戸時代末期まで活躍した城。

結論から言うと、想像を超えて素晴らしい城で3時間ほど見て周りました。

岡山駅から歩いて15分〜20分ほどですが、岡山到着が15時だったので、タクシーでひとまず岡山城に向かうことにしました。

運転手さんの計らいによって、大手門の前まで連れて頂きました。

降車の際に、楽しんで!と運転手さんに言われ暖かい気持ちになりました。



橋を渡るとすぐに本丸となります。

つまり、この水堀は主郭を囲んでいて、当時は内堀とさらにその外周を囲む外堀で形成された大きな城郭でした。

岡山城は旭川に面している為、城の後方部は旭川によって守られ、前方は幅の広い水堀で防御しています。

水堀の石垣は高くありませんが、石材ひとつひとつが大きく威圧感は十分です。


入ってすぐに枡形虎口の跡があります。
櫓門と櫓が上がっていたそうです。



こちらは、枡形虎口の正面にあたる石垣。
かなり巨大な石材が使われていることがわかります。

縦に長い隅の石は、他の城では見ることのできない独特な積み方。



模型で見るとこのような重厚感のある櫓と櫓門がカッコいいですね。


岡山城といえばやはり特徴的な天守が有名なので、ネットを見てもやはり天守の写真が多いですね。

しかし、まず思ったのは岡山城は石垣がすごい!

時代を感じる幾つかの積み方を見ることができます!



内堀の低めな石垣とは一変して、高い石垣群が現れます。
より本段に近い、中の段を囲む石垣。
重要な場所だけに堅牢な造りになっています。



信長の安土城から始まった総石垣の城ですが、野面積みの技術がかなり進んでいるのがよく分かります。



武骨ながら出隅は算木積みになっていて、出隅が急勾配になっています。

これこそ、荷重分散の石垣技術進化の象徴。

長い石材を角部で交互に積むことで、石垣の荷重が一点に集中せず分散することで、高く急勾配の石垣を積むことができるようになりました。



復元された不明門。
この門は主郭の本段に直結した門で、普段は閉ざされた門だったことから不明門と呼ばれました。



櫓門で明治の廃条例で取り壊されましたが、昭和41年にRC造で復元。

門の土台の石材は鏡石と呼ばれる巨石を使用。

鏡石は敵への威嚇や権力の象徴として、重要な門に使われます。

徳川大阪城が典型的ですね。



不明門を抜けると岡山城天守が見えてきます。
天守の前は現在広場になっていますが、当時は城主が住んだり政治を行う御殿がありました。



横幅のある、ずんぐりとした造りが特徴的の岡山城。
脇には付櫓もある複合式の望楼型、四層六階。

望楼型天守は豊臣期の象徴した天守といえます。


外壁は下見板で真っ黒。
この外観から岡山城は烏城と呼ばれています。



天守内は現在、展示や歴史を学べる博物館になっています。

金箔瓦なとが展示されています。



天守を出て、付櫓の脇の道から天守の裏側にまわります。



極度に狭く、まるで迷路のように折れ曲がります。



振り返っての一枚。
奥には天守台の石垣見えます。



右は天守を含めた本丸石垣。
左手には廊下門。
個人的にこのアングルの写真はお気に入り。

何百、何千という敵が攻めてきた際に180°旋回すればスピードが落ちます。

そこを、石垣上の狭間から攻撃。

道が急に狭くなるのもポイント。
大勢の軍勢がせめてきても、この場所では横並びで進むことはできません。

攻めにくく守り易い。
城は戦国の軍事施設。岡山城は至る所でその片鱗を見ることができる素晴らしい城です。



廊下門は1620年の池田忠雄によって造られましたが、明治に取り壊されました。

現在の門は1966年にRC造で復元されました。



廊下門の左手に、年季の入った建築物が現れます。

こちらは現存の月見櫓。
廊下門と同じ時期に作られたとされていて、外観は二層ですが内部は三階の造りになっています。


月見櫓の脇には穴倉があります。
上から銃で攻撃する際の穴で、石垣が加工されています。

同じ穴倉田は大阪城や江戸城でも見ることができます。



月見櫓アンダーショット。
月見櫓はその名の通り、お月見をするための櫓。

軍事施設の役割だった城は、江戸時代に戦のない平和な世が訪れたことで、役割も変化しました。

月見櫓は平和な象徴とされています。
岡山城にとって貴重な現存建築物といえます。



月見櫓脇の石垣。
月見櫓が建築されたのは1620年。
つまりこの石垣も岡山城が拡張されてから、日が経過した石垣といえます。

この一帯の石垣は、石材の形をそのまま生かした野面積みではなく、石材を加工して積んだ打込接。

特に隅にある石垣は綺麗に加工され、長手と短手を交互に積む算木積みのお手本となるような技術が詰め込まれています。



岡山城の天守裏側。
特徴は多角形の天守構造という点。

安土城をモデルにしたとも言われています。
こちらから眺めた天守の方が個人的には好みです。



天守裏は石垣が高いので、より迫力を感じます。
歪で特殊な形状をしている珍しい天守。
この多角形が安土城と同じスタイル。



こちらも天守のある本丸に直結した六十一雁木門。

この階段の下に当時は櫓門があり、強固で大きな城門を抜けた先の門のため、守りに徹した城門とは一味違います。



六十一雁木門の脇には土塀が連なり、その下の石垣は岡山城の中でも古い積み方をしています。

自然の石を生かした野面積みの中でも、岡山城は比較的大きな石が使用されていますが、こちらは小さな石材が使われています。

土塀と取り合っている石材だけは、綺麗に加工されていますね。



一周まわって最初に通過した不明門の下に戻ってきました。

この辺りの石垣が一番迫力あるように感じました。

それもそのはず!
豊臣政権時代の石垣技術の中ではトップクラスの15m級!



出隅は算木積みになってはいますが、技術の進化途中なのが分かります。

先ほどの月見櫓下の石垣とは違いが一目瞭然。
算木積みの技術が確立されて、高く勾配がきつい石垣ができるようになりましたが、この時代はやや勾配が緩いのが分かると思います。

しかし、この時代で15mの石垣は素晴らしい。

これだから、城の石垣は見ていて楽しい!
ちなみに、この石垣は築城者の宇喜多秀家の時代になりますので、関ヶ原の合戦前となります。

城の技術は石垣も含めて、関ヶ原の合戦以降に急激に進化します。



中の段の隅には大きな櫓が上がっていました。

櫓台を見ても横幅が大きいですね。
そして、石垣はやや大きめの自然石で積まれた野面積み。



模型で見るとイメージがつきやすい。
右下には変わった形の幅広い櫓が、先程の櫓台の上に上がっていました。


このまま中の段を囲む石垣下を進みます。



このあたりは、石材が綺麗に加工された打込み接。

場所によって石垣のタイプが全く異なります。
宇喜多秀家時代の岡山城の石垣を積んだのは、石工職人の集団穴太衆。
織田信長の安土城の石垣を積んで以来、全国各地の名城といえる城郭石垣を手掛けた集団。

穴太衆の技術は日本の宝です。



再び天守裏側へ。
天守裏側には旭川が流れていますが、現在後楽園と繋ぐ鶴見橋があります。

鶴見橋からの天守の写真が一番かっこいい。
段々に連なった入母屋破風がオシャレです。

主郭から見た姿とは違った見え方をします。



岡山城の特徴とも言える金箔瓦と金鯱、金の鬼瓦。

一部の大名にしか使用を許されていなかった金箔瓦を、岡山城は大量に使用しています。
やはり豊臣政権下での宇喜多秀家の立ち位置は重要であったと考えられます。

白漆喰の城も素晴らしいのですが、黒漆の城は重厚感があり金色が綺麗に映えます。



岡山城の裏に流れる旭川。
河岸にも石垣が使われています。


現在の上空写真。
旭川が岡山城の三方を守っているように流れています。

現在は主郭の前の内堀しか残っていませんが、当時は城の前面はいくつもの水堀で防御していました。



最後は内堀からのショット。左手には月見櫓。奥には小さく天守が見えます。

現在は本丸しか残っていない岡山城ですが、見どころは満載でした。



岡山駅まで帰る途中、至る所に石垣を発見しました。

天守台クラスのこの高石垣の上には、現在駐車場になっています。
これには衝撃でした。



突如街の中に現れたこの石垣も素晴らしい。



食い違いになっているこの場所は、門があったのではないかと個人的には思います。

今では一般車が普通に通行しています。



街と完全に一体化しています。
貴重な城郭の遺構なので、複雑ではありますが、ある意味では市民の手で守られているとも言えます。



駅へ向かっている路地で、偶然に櫓が出現しました!

櫓を模した建物かと思って調べたら、西丸西手櫓という重要文化財でした!

岡山城で一番大きな石材が使われていて、月見櫓と同じ現存建築物です。

10.4m×7.3m。高さ10.6m。二層の櫓です。

超貴重な建築物が、街中にあります。

まるでスタンプラリー。街そのものが城郭の遺構です。


こんなに素晴らしい岡山城ですが、天守や櫓など廃条令による取り壊しを免れた建築物は、空襲によって残念ながら焼失してしまいました。

もしこの大天守が現存で残っていたら・・・
そう思わずにはいられません。

すごく胸が締め付けられる悲しい歴史。

しかし、今では岡山県のシンボルとして、歴史を知るための観光スポットとして市民や観光客に愛され続けています。



戦う城、権威の城、政治の城。様々な時代を生きてきた岡山城は、今でも金箔瓦のように輝いています。


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佐倉城@千葉県

2024-10-14 15:00:00 | 100名城
2024年10月14日

本佐倉城の最寄駅、大佐倉駅から一駅の京成佐倉駅へ。

戦国期の中世の城が本佐倉城であれば、江戸時代の近世の城は佐倉城になります。

駅を降り、歩いて15分ほど。
本佐倉城で歩きまくったので、体力的には厳しめ。

しかし、佐倉城は日本100名城の千葉県を代表する城なので、行かないわけには行きません。



城郭の麓には水堀になっていて、整備された道路を上がっていきます。

雰囲気が出てきました。



戦国時代、この一帯の下総は千葉氏が納めていました。

本佐倉城が本城だった千葉氏は、この地に築城を命じたが事情により頓挫。

1610年に徳川家康の命で土井利勝によって築城が再開し佐倉城が完成しました。

佐倉城は佐倉藩の藩庁が置かれた城でした。



切り落としたような崖があり、城郭に近づいていることを肌で感じることができます。



佐倉城の見どころの一つの馬出し空堀。
この空堀は明治期に連隊造営のために埋められました。

しかし、発掘調査をした上で復元。
現在は深さ3mですが、当時は5mでした。

綺麗に整備されています。



早速、主郭に向かいます。
入り口には堀田正睦の銅像があります。

佐倉城は長きに渡り、堀田氏が幕末まで藩の経営を行ってきました。



こちらは二之門跡。
ここには桁行8間ほどの二重の櫓門が建っていました。

当時の写真も残っていて、見事な城門でした。
現在は公園になっている佐倉城ですが、何気ない道の折れ曲がりも、城跡であれば全てが意味をもたらしていると感じることができます。



二の門を抜けると二の丸が広がります。
二の丸の周りは空堀で防備されているのですが、木や草が生い茂っているため、深さなどを確認するのは困難です。



さらに先に進むと二の丸と本丸を区切る空堀があり、橋がかけられています。

本丸は孤立させて敵が攻めてきた際の防御策をしいています。

草木で見えはしないものの、空堀はけっこう深さがあるように思えました。

この橋の先には一之門があり、当時は間口が4間の二階建ての櫓門でした。

こちらも、当時の写真が残されています。



一之門跡。
脇には高めの土塁があります。
高さは3m越えくらいでしょうか。


土塁の上は歩くことができ、主郭となる本丸はこの土塁で全て囲まれています。



本丸の角にある天守台跡。



佐倉城には天守があがっており、7×8間の三重三階の天守でした。
三層としては規模の大きな天守だったそうです。
慶長の築城ラッシュ後の天守のため、破風などの装飾がなくシンプルやデザインだったようです。

しかし、城郭の一番角部に造られた天守だったので、城下からもよく見えたであろうと思われます。

1813年に盗賊による火の不始末が原因で、天守は焼失してしまいます。



天守の近くにあるのが銅櫓跡。
6間四方の二重の櫓で、下方は下見張り、上方は白漆喰。

明治の廃城令によって解体される時の写真がしっかり残っています。

複雑な気持ちになります。


本丸から登城した逆側の方面は向かいます。
整備された道から一転、急に山城のような雰囲気に。

佐倉城は平城の近世城郭だと思っていたのですが、裏の道から通ると割と高低差があり、やる小高い山に築かれた城なのだと感じることができます。



城郭の一番下にあたる場所では城郭の片鱗を見て取れます。



水堀と外郭の曲輪。
奥の山の上が本丸になります。

地上との高低差を考えると、やはり本丸と二の丸を区切る空堀は、深いかもしれませんね。


遠くから見た佐倉城。
外から見ると本佐倉城と変わらないくらいの山ですね。

近くには一級河川の鹿島川が流れます。



城の周りを歩くと、水堀が所々で現れます。

本佐倉城と佐倉城。
近くにありますが、全く異なる性質を持った城です。

それは、時代の移り変わりを象徴しているともいえます。

千葉氏時代の本佐倉城は、中世城郭で戦うための城。
それが役割でした。

しかし、江戸期の佐倉城は藩庁がおかれ、政治を行う場所としての役割を果たしました。

今では公園としての役割を話していますが、あれだけの貴重な写真があるのであれば、いつか城門や天守を復元すれば、より魅力的な城になるのかなと思います。







名古屋城@愛知県

2024-09-16 10:00:00 | 100名城
昨日は国宝犬山城と岐阜城に行き、二日目は名古屋城に移動。

途中に小牧山城、墨俣城、清洲城など様々な城跡があるのですが、二日目は名古屋城一択と決めておりました。

名古屋城はそれだけ時間をかけてゆっくり周る価値があります。


岐阜羽島の駅近くに宿泊し、車で約50分程度で到着です。

今まで何度も行くチャンスはあったものの、利便性が良いから逆にいつでも行けると後回しにしていました。

しかし、近い内に天守は解体されて木造復元される予定。
現在、耐震の問題で既に天守内部には入ることができません。

城郭建築の最高到達地点と言われる名古屋城の現在の姿を、この目で焼き付けておきたいと思います。


場内には有料の駐車場があり、今回は三の丸の駐車場に停めました。

名古屋城の三の丸は跡形もなく駐車場となっています。



名古屋城正門から入城します。
元は藩主や一部の家臣しか通ることを許されなかった格式の高い門でした。

現在チケットはここで購入しますが、この門は枡形になっていて、本来は正面にもう一つ門があり、枡形虎口で折れ曲がってこの門を通過する構造でした。

明治に江戸城から移築して再現したものの、残念ながら空襲により焼失してしまいました。



しかし、昭和に天守と共に再建。
RC造での復元でしたが、名古屋城に訪れる方のテンションを上げる起爆剤となっています。



復興された門とはいえ、やはり城門があると無いとでは雰囲気が180度変わります!

天気にも恵まれ素晴らしい一日の予感。



正門を抜けるとすぐに本丸が斜め左手に現れます。

出だしから城郭建築の最高到達地点と呼ばれる所以を見せつけられます。

重要文化財の西南隅櫓と奥には名古屋城天守も見えます。

徳川家康が天下普請を命じて造らせ、以後尾張徳川家の居城だった名古屋城。

徳川の凄さを感じることができるでしょう。



天守の反対方向には表二之門も見えます。
まさに芸術というべき建築物と石垣。

華麗に加工された打込接。
隅の算木積みは昨日訪れた岐阜城とは全く異なります。

総石垣の城を日本で初めて造った織田信長の時代から、わずか40年で石垣の技術は急速に進化しました。



表二之門は天守に向かう門です。
1612年の建築物で、重要文化財に登録されています。



表ニ之門の先には東南隅櫓。
当然こちらも重要文化財で、1612年に表ニ之門と一緒に建築されました。

西南隅櫓と同様、二層三階で出窓の下には石落としがあり、唐破風も施された防御機能と美的センスに優れた櫓です。



表ニ之門の先には巨大な枡形虎口があります。
櫓や土塀などの建築物は残っておらず石垣のみが残っていますが、当時は四方を囲んで敵が侵入した際に十字砲火で迎え撃つことが可能です。

これも信長の安土城から始まり、ここが近世城郭の完成系と言えます。



枡形虎口の先には復元された本丸御殿があります。

中に入りたかったものの、ものすごい行列のため断念。

※写真に人が映り込まないように、いつも努力しています。
人がいなくなるのを待つために何十分もその場にいることもあります。
本当は名古屋城は、観光客の方でいっぱいです。



大天守と小天守、そして本丸御殿。
これが本来あるべき江戸期の名古屋城の姿。

本丸御殿は城郭建築で天守と共に国宝第一号になりましたが、残念ながら天守も本丸御殿も空襲で焼失。

しかし、名古屋城は大量の写真と資料が残っているので、本丸御殿は木造で復元されました。

本丸御殿は政治を行う場所であり、藩主の住居です。



現代の建築基準では耐震上問題があると判断された為、現在閉鎖中の大天守と小天守。



二層の小天守。
名古屋城は大天守だけでもかなりの迫力ですが、小天守と連結しているので、より重厚感が出ています。



青空に映える大天守と小天守。
現在、木造での復元プロジェクトが進行中。

ちなみに、復元プロジェクトの求人が以前に出ていたのでワタクシ応募しましたが、定員に達した為、夢実現ならず。



天守の東から北へ抜ける門は不明門。
調べたところ、大奥に繋がる門だったらしく、常に鍵がかけられていたそうです。

開かずの門だったとか。
なるほど。奇妙な門の名前の由来が何となく分かった気がします。



現在、石垣の修復工事も行われています。
伴って立ち入り禁止エリアもあります。

堀に並べられた石垣達。

修復個数はなんと4000個!
1日に多くても6個ずつのペースでしか積めないため、気の遠くなる地道な作業です。

しかし、過去の産物を未来に繋げる重要で誇り高き工事です。
本当に頭が下がります。



そして、これが大天守を支える石垣!
素晴らしい!の一言。

扇の勾配と呼ばれる、緩やかな傾斜から垂直に立ち上がっていく石垣は芸術です。

熊本城でも同様に見られるこのダイナミックな石垣。

熊本城を築城した加藤清正がこの天守の石垣を担当しました。

清正流と呼ばれる芸術的な石垣は遠い地の名古屋でも存分に発揮されています。



名古屋城天守の延べ床面積はなんと4564㎡。
姫路城の2倍!

五層五階の層塔型。天守の高さは35.85m。石垣を含めると48.27mのビックスケールな天守です。

高さもありますが横幅もあり、こんなに図体の大きな天守は現存、復元天守含めて他にないでしょう。

さらに軒唐破風や千鳥破風など建築物としても美的センスもがあり、金の鯱は権威も象徴でもあります。



どの角度から見ても美しい。

国内最大級ゆえ、江戸時代に自重に耐えきれず石垣がはらみ、天守が傾いてしまいました。

わずか2年数ヶ月で築城した名古屋城ですが、天守の修復には3年を要しました。

その際に、荷重のかかる本瓦葺きから銅瓦に変更されたと言われています。

屋根が緑色なのは、銅が時と共に変色したからで、もともとは黒色の瓦です、

年季が加わった緑色の銅瓦は名古屋城のイメージカラーとしても定着しています。



名古屋城は一回では周り足りず、もう一周しました。

現在の東二之門は元々二之丸にあったものを移築。
高麗門で1612年の貴重な門です。

現在この一帯は石垣工事中で立ち入り禁止も多いため、賑やかな名古屋城も時が止まったかのように静かで逆に落ち着くスポットでした。



門を抜けると清正石が現れます。


巨大な鏡石。
この石は加藤清正が運んだと言われてきましたが、黒田長政がこの門の担当だったことから、加藤清正が運んだ石ではないと現在は考えられています。

それでも、この石は清正石です!



不明門の先には、広場に石材が転がっています。

皆さん天守に夢中でスルーしていますが、この石材達は凄く価値あるもの。

名古屋城は空襲で焼失して、現在鉄筋コンクリート造で復元されています。

その際に天守の礎石を全く同じ位置でこちらに移動したそうです。

あの巨大で高層の木造建築物を何百年と支え続けた石材。

よく見るとちゃんと木材が建っていた形跡も残っています。

この礎石の数には驚かされました。


最後は西北隅櫓。1619年に建てられた現存の櫓。
見た瞬間、櫓とは思えないほど大きさを感じることができますが、本丸からでは裏の姿しか見ることができません。



西北隅櫓を見るために、名古屋城を一度退城して水堀の周りを歩きました。

快晴だったので、水面にも綺麗に映っています。

水堀の幅が広いので、これでは敵も攻め辛いこと間違いなしです。



非の打ち所がないほど綺麗な櫓。
品があり、尚且つ重厚感もある素晴らしい現存の建築物です。

西北隅櫓は高さ16.3m。
桁行、梁間方向それぞれ8間×7間。

他の城の天守を凌ぐほどの大きさ!



こちらも石垣修復中です。
はらんでしまったらしく、足場を組んでの作業。



デジカメを拡大すると隅石も石垣内部の構造もよく見えました。

これはこれで貴重なシーンを見れた気がします。

名古屋城があってこその、名古屋の街。

空襲で焼失したものの、復元して元の姿を取り戻しました。
そして、近いうちに江戸期と同じ木造天守に生まれ変わります。

戦うための城から、政治のための城となり、今では市民や観光のための城へと変化してきました。
我が国の文化の象徴となる城は、次の世代に受け継がれていきます。

そんな努力も見ることができました。


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岐阜城@岐阜県

2024-09-15 15:00:00 | 100名城
犬山城の後は車で45分の岐阜城にやってきました。
岐阜城は岐阜市の金華山にある城で、鎌倉時代からの長い歴史があります。

1567年に稲葉山城の戦いで織田信長が斎藤龍興に勝利したことで、稲葉山城から岐阜城に変えて居城にしました。

まさに天下統一への足がかりとなった城ですね。

100名城にも認定されています。

この界隈は名城の密集地帯なので、セレクトするのが本当に難しい。


岐阜城の入り口に到着です。
若かりし織田信長の銅像もあります。



麓から岐阜城の天守が小さく見えます。
標高は329m!今回はロープウェイを使うことにしました。



麓は現在発掘調査が進められています。
歴史上、超重要人物でもある織田信長の城ですから、積極的に調査して頂けるのはありがたいです。



岐阜城ゆかりの武将は、戦国の中心となったスター集団。



ロープウェイを降りて、天守までは約10分。

安土城をイメージさせる石畳の階段です。



天守への道中、天然の巨大な岩なども多く見ることができました。

岐阜城が石垣の城になった所以は、この恵まれた岩にあると言えます。


見事な堀切を発見!
これぞ戦国時代真っ只中の中世の城です。
当時は木の橋が架かっていたそうです。

尾根を切ることで進行を防ぐ役割があります。
また万が一敵が進行してきた際は、橋を落とすことで、敵を阻みつつ上から攻撃します。

中世の城ではよく見られるスタイル。



さらに先には食い違いの虎口、二の丸門。
石垣で形成されていて、安土城の天主入り口の食い違いのような風貌。



ロープウェイを乗るまでは土砂降りだったのに、またしても天守を前にして一部青空が。

最高のプレゼント再び!



織田信長が築いた石垣。
信長が入城したのは1567年。安土城が築城されたのは1579年。

やはり、岐阜城をモデルケースにして日本初の総石垣の安土城を完成させたと考えて良さそうですね。



現在の天守は昭和に復興天守として再建。
信長の時代は望楼型の四層五階だったそうです。



石垣は野面積み。
使っている石材は信長時代のものとされているが、天守を再建の際に一回り小さな天守台にするため積み直したそうです。

今では考えられませんが、もったいない。



天守内からのショット。

辿ってきた道を上から見ると、尾根の両側を削ぎ落として極度に狭い道にしているのが分かります。

大軍勢が攻めてきても、一列か二列でしか並んで進行できません。しかも後退することもできないので、一網打尽にされてしまいます。

堀切も含めて、こういった山城らしさも兼ね備えているのが岐阜城の魅力だと思います。

まさに城郭建築の転換期の起点となる城です。



岐阜城の周囲は長良川があるため、より堅牢な城になっています。



山と川に囲まれた城。 



ロープウェイで下山し、隣にある信長公居館跡に向かいます。

観光の方でいっぱいの岐阜城ですが、皆さん天守閣以外はあまり行かないようですね。



史実とは異なる天守閣と、新しく積み直した天守台の石垣よりも、麓の信長の館跡の方が歴史的には貴重かと思っています。

あれだけ大勢の観光客がいても、信長公居館跡を散策する人はワタクシ1人しかいませんでした。



入り口の前の階段を登ると、巨石で形成された食い違いがあります



館跡はロープウェイの乗り口の真隣です
石垣も積まれていて、宣教師ルイス・フロイスはこの館を宮殿と評しています。

それを裏付けるように、発掘調査では金箔瓦が出土しています。

安土城は豪華絢爛な城だっと言われているが、やはり岐阜城で既に試みていたと言えます。



巨大な岩壁。
金華山の石は各所の城で使用されています。



岐阜城は目まぐるしく城主が変わり、最後は織田秀信が城主でしたが、関ヶ原の戦いで西軍についた織田信秀は、徳川東軍先鋒隊と戦いますが敗戦。

岐阜城は開城され、後に廃城となります。

こうして、織田信長が創った歴史の中心にあった天下布武の名城、岐阜城は表舞台から姿を消すこととなりました。

岐阜城は歴史的価値が改めて見直され、2011年に金華山一帯を国指定史跡となりました。

今後の発展が十分見込めます。
いつか、この館も復元されることを願っています。

久々の城巡りは、充実した時間となりました。


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