つぶやき城。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

二本松城@福島県

2025-02-23 07:18:00 | 100名城
2025年2月23日

仙台で設計打ち合わせと実測のため、前乗りして二本松城に訪問。

二本松城は会津若松城、白河小峰城と並んで、福島県の日本100名城に選定されています。

歴史上では戊辰戦争時に壮絶な戦いをした、二本松藩の少年隊がとても有名です。

奥州管領の畠山氏から始まり、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏と有名な大名が納めてきた歴史もあります。

東京駅から東北新幹線で郡山駅まで行き、東北本線で二本松駅を目指します。



郡山駅のホームに向かうエスカレーターには会津の看板!

松平容保公の写真もあります。



郡山駅から磐越西線で会津に行けるので、プロモーションされています。

やはり会津はカッコいい!
この時点でテンションが上がります。



郡山駅から二本松駅までは5駅、25分程度。

「丹羽十万石の城下町にふさわしく、二本松城を型どった駅舎」として、東北の駅百選に選定されています。

左の石垣は天守台で、駅舎は多聞櫓をイメージしているのかな?

街が一体となった城下町造りの取り組みに非常に感心しました。



駅のロータリーには少年隊の像があります。
城に直接足を運んで行くということは、その地域の歴史に触れること。

そうして、歴史は守り語り継がれていきます。

二本松市の取り組みは、観光のモデルケースだと思います。



歩いて二本松城を目指します。

駅前には奥州街道があり、駅から割とすぐの場所に大手門跡があります。

Googleマップで二本松城を検索して向かうと本城に誘導されますが、大手門から本城の麓までは1km程あるので注意です。



江戸城や大阪城のように、隙間なく美しく加工された切込接の石垣。

石垣の2段だけ残っています。



反対側は私有地のため入ることはできませんが、立派な算木積みは確認できました。

初代二本松藩主、丹羽長重から大手門を築造することは悲願でしたが、財政状況もあり1832年に幕府から許可を得て普請。

本格的な櫓門が完成しました。

しかし僅か35年後の戊辰戦争後に、門前の堀は埋められ大手門は取り壊されました。



大手門跡の先は急な坂道になります。
両脇は民家が連なっており、安土城の大手道を彷彿とさせます。

民家には近世の石材を使われていますが、この辺りは石を使っている家が多いのが特徴。

私有地なので写真は控えたのですが、明らかに城の石垣だったと思われる矢穴の入った石材が、民家の花壇に使用されているのも発見。

個人的には二本松市に根付いた石文化を感じました。



急な上り坂を登って、そのまま主郭へと続くのかと思いきや、今度は急な下り坂になります。

この辺りには久保丁門という城門がありました。

アップダウンする珍しい城郭設計。
城全体を自然地形を利用して区画しているようです。



そして、何より気になったのは久保丁門があった場所は、山の頂が人工的にV字にカットして大手門から続く道が貫通していること。

見た目は完全に堀切。主郭への道を通しているので、切り通しですね。

石垣で有名な二本松城ですが、中世城郭の醍醐味、宝探しのようなワクワク感を味わいながら進みます。

二本松城の麓には情報館があるので、二本松城と二本松藩について改めて学び、パンフレットを持って登城開始です。



情報館を出ると二本松城の藩校だった敬学館の跡があります。

本来は文化観光施設が建設予定でしたが、絵図を元に発掘調査を行い、遺構が発掘されました。



大手門跡から続く山城テイストから一変して、情報館の前には三ノ丸下の巨大な石垣が出現!



高さ10mから13mの圧巻の石垣が三の丸を囲みます。
加藤氏時代に積まれた石垣と確定しています。



高い石垣に土塀があるだけでも雰囲気がガラリと変わります。



石を切り出す際にできる打ち込みの証、矢穴も至る所で確認できます。



三ノ丸の左手の石垣には排水口らしき穴を見ることができます。



直下にある巨石は排水した水の受け材でしょうか。



少年隊像と登城口。

詳しく書くと長くなるので割愛しますが、少年隊は13歳から17歳の少年を含んだ二本松藩の藩兵で、戊辰戦争時に戦場へと出兵します。

新政府軍の総攻撃に二本松城は陥落し、少年隊も多くの命が失われました。

会津藩の白虎隊と並んで、悲劇として現代でも語り継がれています。

12歳って小学6年生か中学1年生ですよ。

少年が国を守る為に戦う精神。武士道を感じると、ワタクシなんてまだまだ甘いと戒められます。


像があるあたりは、広大な広場と駐車場になっていますが、千人溜という藩兵が集まる場所とされていました。

戊辰戦争時は少年隊兵もここから出陣していきました。



二本松城は標高345mの平山城。

いよいよ枡形になっている麓の三ノ丸正面より入城です。
とても絵になるショット!



高石垣に囲まれた枡形は、異常なほど威圧感があります。



右は二重櫓、正面は箕輪門、右は多聞櫓となります。

二重櫓は当時は存在していなく、模擬で建築されました。

古い絵図を見ると、箕輪門の櫓門が二重櫓の位置まで伸びているように見えました。

戊辰戦争時に新政府軍によって、箕輪門は焼き払われましたが、昭和に復元。



軒丸瓦や鬼瓦は丹羽氏の家紋。

江戸時代は初代藩主丹羽長重から幕末まで、10代に渡って丹羽氏が納めました。

二本松市はやはり礎を築いた丹羽氏推しです。


箕輪門を抜けると石垣の枡形虎口を通過して三ノ丸下段に入ることができます。

この枡形虎口には建築物は建造されなかったようです。



上からのショット。

確かに建築物を築造するには、やや土台が細いようにも感じますが、土塀くらいはあったのでしょうか。

三ノ丸に続く重要な門なので、箕輪門から連続して折れ曲がる設計。

三ノ丸は城郭の平城の部分にあたり、御殿が並びました。



三ノ丸下段の狭間から見た、箕輪門前の枡形。

敵の動きがよく見えます。



本坂御殿跡と石垣。
スルーされてしまいそうな、三ノ丸の脇にある御殿跡。

今は使われているのか不明な倉庫が建っています。


三ノ丸から主郭に向かう途中には、二本松藩士の自刃の石碑があります。

この他、二本松城には幾つもの悲しい歴史の足跡が残っています。



主郭に向かう道中には至る所に中世城郭の遺構らしきものが広がります。

空堀かなと思って撮った一枚は、畠山氏時代の虎口と推測されています。



日影の井戸は日本三大井戸の一つ。

深さは16mで、さらに岩盤を通して北に14mも伸びています。

中を覗いてみると、水が今だに溜まっていました。
※湧き出ているのかは不明。



本丸下南面大石垣。

二本松城における最も古い石垣の一つが、本丸下に残っています。

約13mの高石垣は、慶長初期に蒲生氏郷の時代に、全国各地で名城の石垣を積んだ穴太衆によって築かれました。

自然石で芸術的に積まれた野面積みの石垣。



本丸東櫓台の石垣。
石垣の折れ方が鋭角なのが特徴的。



本丸の石垣は崩壊して、原型を留めていない状態でした。

平成3年の発掘調査によって、本丸の形状と規模が判明し、学術調査と合わせて全面修築、復元を果たしました。



奥には天守台。
発掘調査で江戸初期の野面積みの石垣が発掘されましたが、隅部は後世に積み直されて算木積みだったそうです。



北側からのショット。
張り出している石垣は天守台。

右側に写っている石垣は、発掘調査で発見された野面積みの本丸石垣を、後世に残すために移築したもの。



本丸には枡形の食い違いの虎口を通過します。



虎口の右手は本丸東櫓台。



本丸のレベルから少し高く積まれた石垣は本丸東櫓台の頂部。



本丸東櫓台の上から見た枡形虎口



本丸東櫓台から見た天守台。
本丸を囲む石垣の中で、天守台だけは少し外側へせり出しています。

多聞櫓で繋がっていたとされていますが、実際に天守が上がっていたかは、謎に包まれています。



天守台からの景色。

山頂は雲で隠れていますが、標高1700mの安達太良山を望むことができます。



天守台から見た本丸西櫓台方面。
こちらにも多聞櫓が繋がっていたと想定されています。

本丸の構造を見ても、個人的にはどこかの時代には天守があったのではないかと思っています。



天守台から登城してきた道を見ると、現在は駐車場になっていますが、本丸下から飛び出すように円形の曲輪を見ることができます。



帰りに謎の円形の曲輪を調査。

人工的に切り落とされたかなり高めの土手。
この土手が一周囲んで独立した曲輪になっています。

こちらは乙森という曲輪で、東西27m・南北42m・四方150mを塀で囲んでおり、本丸東側を補完する重要な施設であったと考えられています。

中世に造られた曲輪なのか謎ですが、上から見ると丸型の馬出に見えます。

最近、諏訪原城で丸馬出を見過ぎた為か、思考がどうしてもその方向へ進んでしまいます。



本丸の北側、西側には中世の二本松城の遺構が残っているので、登ってきた逆側から一度下ります。

天守台下には蒲生氏時代の2段の石垣を見ることができます。



本丸天守台と併せて3段の石垣は芸術的。

穴太衆の石垣を東北の地で見られるのは感動です。この時代にはまだ石垣の勾配が緩めなのも特徴。

土造りの城から石垣の城へと変化する過程で、石垣技術は数十年で飛躍的に進化を遂げます。

石垣造の城が少ない東方の地では、特に貴重な遺構です。



本丸の北側の茂みの中に入ると堀切のように尾根を分断した遺構がありました。



形状の美しい空堀が残っています。



この辺りは完全に中世の山城らしさを見ることができます。

見事な石垣に目が行きがちですが、テイストの異なった山城の遺構も同時に見れるのが、二本松城の魅力の一つ!



L字型の空堀。
この辺りは畠山氏時代のものと思われる遺構が多く残っています。

室町時代に奥州管領に任ぜられた畠山氏は、二本松城を築城。

戦国時代の1585年、1586年に伊達政宗の攻撃により二本松城は開城され畠山氏は滅亡。

1591年に伊達家は米沢城から岩出山城に転封された為、二本松城は会津若松城の支城として蒲生氏郷の拠点となり改修が進められます。



空堀脇の土塁。

空堀内部からは、あまり大きさを感じなかった土塁ですが、外側から見ると大きな土塁であることが分かります。



まだまだ二本松城の石垣は終わりません。

山城の遺構を堪能していると搦手門が出現。

中世城郭と近世城郭がMIXされた面白い城ですね。



打込接の綺麗な石垣。



この石垣の脇に門が置かれていました。
前には当時の礎石が残っています。

蒲生氏時代の冠木門と思われる掘立柱の門があり、加藤氏時代に礎石を用いて改修されました。
その際に搦手門の石垣も造ったと思われます。

この石垣の反対側にも石垣がありましたが、現在はほぼ原型が残らない状態です。

一度本丸に戻って、登ってきた道から下山します。



箕輪門の枡形を正面に見て左側は、死闘を繰り返した城郭のテイストから一変して、平和な江戸期らしさが残ります。

池が2段で連なっていて、上段が「るり池」。

初代二本松藩主、丹羽長重の造園の姿が残っています。



下段は霞ヶ池。



るり池、霞ヶ池の間の道を進むと洗心亭があります。
二本松城内の茶亭。色々ありながらも元の今の位置に再移築された現存建築。

かや葺屋根が素晴らしい雰囲気を出しています。

るり池や霞ヶ池を見ながら、茶を楽しんでいたのでしょう。

洗う心と書いて洗心亭という名前も素敵です。



城という軍事施設の中での、穏やかな時間。

城主もこの場所で同じ空間を過ごしたと考えると、エモーショナルゾーンに突入したのでセルフタイマーで自撮り。笑



洗心亭の裏手から登ると本宮館跡があります。
尾根上に平場を築いて、建物が建築されていました。

畠山氏に仕えていた氏家新兵衛と遊佐丹波守の居館と推測されています。



本宮館跡には現在、丹羽霊神社があります。
お参りをして下山です。



帰りも同じルートで帰り、駅前の二本松神社脇の裏手に何やら石垣らしきものを発見。

下段は近世っぽいのですが、奥の竹藪にある石垣は城郭っぽい感じもします。

ここは大手門と同じライン上にあるので、可能性はあるのかなと。

山全体、町全体を城郭化しているので、二本松城は領域が広い為、見て周るのに3時間半は費やしました。

それでも全ては見れなかったので、次回の宿題です。

今年の5月は会津若松城に行く予定なので、福島の歴史に触れる良い機会でした。


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掛川城【二回目】・掛川古城@静岡県

2025-02-08 09:30:00 | 100名城
2025年2月8日

掛川市で一泊し、本日も過密スケジュールで東海道本線で三つの城を巡る旅に出ます。

昨晩はライトアップの掛川城を楽しみましたが、今日は快晴の掛川城をホテルの部屋から見ることができました。



たまたまですが、素晴らしい部屋を用意して頂きました。



最高にかっこいい天守!
朝起きてこのロケーションを見ることができるとは、本当に贅沢でした。

ホテルの朝食を食べ、7時30分に出発。

個人的にはオープン前は人が少ないので、良い写真も撮れるの為、朝一の城が好みです。



ホテルを出て約10分程で大手門に到着。
天守に続いて復元された櫓門。

出入りする冠木門下が4.4mありますので、馬に乗ったまま入城できます。



昨晩もこの角度から写真を撮りましたが、このスポットはとても映えます。

現在の大手門は、当時の位置から50m程離れた場所に復元されています。

天守もカッコいいですが、やはりワタクシは城門も大好きですね。

威圧的な佇まいに、とても痺れます。



大手門のすぐ裏手には、江戸時代末期に建築された大手門番所があります。 

城内に出入りする人たちの監視や警備をする役人の詰所。



中には入ることはできませんが、覗くことができます。

大手門に付随した番所は全国でも珍しいそうです。

 

とてもシンプルな造り。

明治の廃藩により、藩士が居宅用として譲り受けたことで現存していました。

昭和に掛川市に寄与されたことで、現在は貴重な市の指定文化財に登録されています。



掛川城の前を流れる逆川は天然の要害で守られています。



逆川と天守。
春になると逆川の川沿いには桜が咲きます。

いつか桜の季節に訪れてみたい。



三の丸広場からの一枚。
左には現存の太鼓櫓。

三の丸広場は定番の撮影スポット。

掛川城を大改修したのは山内一豊。
山内一豊は後に土佐に移り、初代土佐藩主となります。

そして高知城を造りますが、高知城の天守はは掛川城をベースにしたそうです。



天守は高知城とやや似ていますが、高知城は総石垣の要塞。掛川城は土造りの美しい城郭です。



天守は1994年に日本初となる本格的な木造で復元された、望楼型三層四階の複合型天守。

以前は鉄筋コンクリートでの復元が多かったのですが、やはり外観だけでなく材質や工法など当時に近い形で復元するということは、次の世代に技術を継承していくことに繋がるので、とても大切なことだと感じます。



復元された四足門。

発掘調査では門の跡は見つかりませんでしたが、絵図に基づいて四つ足の薬医門を復元しました。



四足門の右手の三日月堀。
深さは8m。調査では堀南側で石垣も発見されました。

三日月堀は武田築城術でよく見られるスタイル。



三日月堀と天守。
やはり天守はどこから眺めても美しい。



三日月堀と並ぶように十露盤(そろばん)堀があります。

明治期に埋め立てられましたが、発掘調査によって復元されました。
しかし、本来の1/3程度の範囲で復元されたので、実際は本丸を守る大きな堀だったと思われます。



四足門の先には本丸門がありました。
現在は石垣のみが残ります。

左手の石垣の上には太鼓櫓が移築されています。



本丸門跡と天守。
復元模型を見ると、この場所には大きな櫓門が建っていました。



本丸から天守がある天守曲輪には曲がりくねった階段を登ります。

天守の前には天守下門がありました。



太鼓櫓は天守に続く階段からが一番綺麗に見えます。

本来、太鼓櫓がある場所には荒和布櫓という見張のための櫓が上がっていましたが、昭和30年に三の丸から太鼓櫓が移築されました。

太鼓櫓は城下に太鼓で時を知らせる為の櫓門であり、太鼓は二の丸御殿に移されています。



三の丸方面から見た太鼓櫓。
太鼓櫓には現在立ち入ることが出来ず、石垣下までしか近づくことが出来ません。

現地のスタッフさんに聞いたら、老朽化によってとても中に入れる状況ではないらしい。

太鼓櫓は貴重な現存建築なので、なんとか活かし続けて頂きたい。



二の丸御殿の入り口からのショット。
ここからなら写真も、風情があって映えます。



日本に現存の御殿建築は四城しか残っていません。
高知城、二条城、川越城、そして掛川城。

城は明治期には陸軍の駐屯地となった為、大きなスペースを要いる御殿建築は真っ先に解体されました。

掛川城の二の丸御殿は廃条例後は学校として使用、さらに町役場、消防署など役割を変えながら現存しました。



グッズ、御城印、日本100名城スタンプは二の丸御殿内にあります。

二の丸御殿は藩の政務や儀式や公式対面などで使われていました。



内部は書院造で20の部屋に分かれています。



御殿の縁側からのショット。



太鼓櫓で時を知らせていた太鼓は、市の文化財となっています。



掛川城は天守や御殿だけではありません。

裏側には竹の丸や茶屋などがあり、掛川城の魅力を引き立てます。

写真は竹の丸(旧松本邸)。
1590年に城主となった山内一豊は、城を拡張。その際に竹の丸が造成されました。



主郭部への通路上にあるので、防衛上重要な場所だったことから、重臣の屋敷地に割り当てられました。



掛川城に来たら、是非寄って頂きたいのが掛川古城!

三の丸から周りを眺めた時に、竹の丸方面に小高い山があります。

出城とかに最適そうな山だったので何気なく行ってみると掛川古城の案内がありました。

山一帯は切岸で急な土手になっています。



下には小学校があり、元は三の丸でした。校庭との高低差が結構あるので、中世の城らしさを感じることができます。



切岸の先には立派な大堀切があり、曲輪が分断されています。



まさか中世城郭の遺構を見れると思わなかったので驚きました。



堀切になっている本曲輪に行ってみると、全体が土塁になっています。



現在の本曲輪跡には、江戸時代の1656年に、当時の藩主北条氏重が幕府に願い出て、徳川三代将軍「徳川家光」の霊牌を祀るために建てた「龍華院大猷院(りゅうげいんたいゆういん)霊屋」が建ちます。

この建物は火災に会いましたが、1822年に藩主「太田資始」によって再建されたものです。



美しい装飾が施された霊屋。

何気なく行った場所がまさかの凄いスポットでした。

現在の掛川城からも歩いて10分程度なのでオススメです。



掛川古城から竹の丸あたりで見る天守が個人的には一番お気に入り。

本丸側から見る天守は、1Fが大きく横に張出して、ややゴツっとした望楼型天守らしい姿をしているのに対して、裏側から見ると完全に層塔型の姿をしています。

この角度から見る天守は、とてもシャープです。

昨年訪城した時には見ることのできなかった発見がとても多かったので、充実した時間を過ごすことができました。



掛川古城の存在を後から知ってしまった為、予定よりやや時間がオーバー。
9時30分に城を出て掛川駅に向かい、次の城を目指します!



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掛川城【ライトアップVer】@静岡県

2025-02-07 20:00:00 | 100名城
2025年2月8日

大垣城に行った後は新幹線で掛川市に移動。

岐阜や名古屋に宿泊して、その周辺の城を攻めることも検討したのですが、寒波が到来していたので、事前に天気予報を見まくって掛川市に泊まることを決めていました。

そして、次の日は掛川城→諏訪原城→興国寺城を東海道本線で巡る計画です。

ちなみに掛川城は二回目。

そして、忘れてならないのは掛川城のライトアップを見に行くこと!

ホテルに着いたのは18時。

ホテル選びにも一つのプランがありました。

掛川城方面のビジネスホテルはいくつかありますが、掛川城が一望できそうなビジネスホテルをチョイス。

何階のどっち向きの部屋になるかは運次第。

チェックインを済ませると部屋は10階!
部屋に入って窓を見ると



見事に掛川城方面の部屋でした!
テンションが上がったので、チェックインして荷物を整理して18時30分に掛川城へと向かいます。



大手門とライトアップされた天守。
本来の位置から50m程離れた場所に移築されたので、大手門は天守から少し離れていています。

しかし、ここから見える天守は映えるので、是非大手門を見てから天守に向かって欲しいですね。



大手門の先には逆川が流れていて、川に架かった橋からも幻想的で素晴らしい写真を撮ることができます。

春には川沿いに桜が咲きます。ワタクシはまだ春の掛川城を見たことがないのですが、とても素敵な景色になると思います。

今年は厳しいかもしれませんが、桜の季節にまた来たいですね。



三の丸広場から見た四足門と天守。
やはりライトアップされた城は特別感があります。 

天守は1994年に日本初となる本格的な木造で復元された、望楼型三層四階の複合型天守。



ほぼお客さんがいなかったので、独り占め状態!

何度も降りたり登ったりして、満足するまで角度を変えたりして写真を撮影しまくります。



天守内部には入れませんが、冠木門の前まで観覧できます。

白漆喰の壁は夜になると、闇に浮き出してカッコいいです。

日中に行く城は当然ながら好きですが、夜はちょっとしたスリルとワクワク感があるので、冒険しているような気分になります。



暗くて見えにくいですが、太鼓櫓が鎮座する石垣。

時を知らせる太鼓櫓は本来は三の丸にありましたが、昭和に本丸の荒和布櫓跡に移築されました。

ここは本丸に入る為の、最後の門となりますので、立派な櫓門だったようですが、現在は石垣のみが残ります。



二の丸御殿あたりからのショット。
掛川城天守の珍しいポイントとしては、1Fの左右が張り出している点。

少しでも天守を大きく見せる工夫なのだとか。

このアングルからだと分かりやすいです。

夜の掛川城を存分に楽しみました。

掛川市は城下の雰囲気も素晴らしく、更に観光マップの種類も他の地域に比べると圧倒的に多いです。

街全体が力を入れて盛り上げているのを感じます。

ビジネスホテルで一泊したら、明日は朝一から改めて掛川城を見てまわります!


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足利氏館(鑁阿寺)@栃木県

2025-01-25 16:30:00 | 100名城
2025年1月25日

鉢形城→金山城→最後は栃木県にある足利氏館に向かいました。
こちらも日本100名城です。

現在は鑁阿寺として、栃木県の観光名所となっています。

金山城からは車で30分もかからず到着。
15時前に着いたので、計画していた通りに3城攻略できました。

実際に城を見て周るのも楽しいのですが、計画している時間も楽しいと思う今日この頃。

そして、計画通りにいった時の達成感も格別。

足利氏館は近くに観光客用の無料の駐車場がありますので便利です。


足利氏館は平安時代から鎌倉時代初期に、二代目足利義兼によって建てられた居館となります。

北223m、南211m、西206m、東175mの不整台形をしていて、周囲を堀と土塁で囲んでいます。

足利義兼は鎌倉時代に鑁阿寺を建立。
室町幕府の将軍家、関東公方家に厚く保護されてきた鑁阿寺は現在国宝となっています。



メインゲートとなるのが、南側にある八脚楼門。
水堀に架けられた橋は太鼓橋、唐破風を引き延ばしたような屋根の付いた橋は初めて見ました。



高欄を配した八脚楼門は本堂と同じ年代に建築されましたが、現在の楼門は江戸時代に再建されたとされています。

本瓦葺の瓦、何よりも特殊なのが山門でありながら鯱が上がっている点。



下から見上げると木造の重厚感があります。

寺院建築の特徴といえる、外側にせり出す彫刻のような組み方を三ツ斗組といいます。



楼門を抜けると真っ直ぐ鑁阿寺の本堂に繋がります。

本堂は入母屋造りの禅宗様式という垂直に降りてくる屋根が中間くらいで外側に曲線を描いて跳ね出すスタイル。

禅宗様式は建築士の試験でもよく出ていた定番の問題でした。



楼門と同じく本堂にも鯱が上がっています。

木造建築の難敵はいつの時代も火災。
城郭建築では火除けで鯱を上げるのが一般的となりました。

鑁阿寺も武士である足利氏の名残なのでしょうか。

最初に鯱を上げた城は安土城と言われています。
そして、日本で最初の鯱は長野県の大法寺で鎌倉末期〜室町時代に造られたものと言われています。

詳細は分からないのですが、時系列から推測すると鑁阿寺の鯱は後世に上がったものなのでしょうか。
とても、気になるところです。



間近で見ると迫力があり、同時に鎌倉時代の建築らしさを感じます。

本堂の建立は1197年。
その後、足利義氏が大堂を建立したが消失。
1299年に再建しました。
すでに720年以上経過しています。

修復などのメンテナンスは必要ですが、これだけの年月を生かし続けることのできる日本の技術の高さは誇るべき点です。

本堂は国宝に指定されています。

関東・東北の中でも、本堂が国宝指定されているのは数少ないため、とても貴重です。



本堂の軒下。
横架材で中全体を支えていますが、全ての材料で曲線を描くRが均一で配列されています。

また、木材一つ一つに彫刻が施されているのが特徴。
これは城郭建築では見ることのできない装飾。



国の指定重要文化財の鐘楼。
1196年に足利義兼が本堂に次いで創建しました。

禅宗様式の入母屋造りで、瓦は本瓦葺き、寺院建築特有の三ツ斗組。

建物は小さいながらも、当時の木造建築の技術を盛り込んだ鐘楼です。



鐘楼前の広場は綺麗な庭園となっています。

夕方に近づいたことで人も少なくなってきたので、より一層この空間には優雅な時間が流れています。



土塁の上は歩けるように整備されています。
この辺りは城郭っぽさを感じるポイント。



鑁阿寺内部からの土塁。
この時代にこの規模の館を造った足利氏は、やはり力があったのだと想像できます。

平安時代末期の武士の館の面影を今でも残しています。



栃木県の指定文化財の多宝堂。
足利義兼が創建したとされていますが、江戸幕府五代将軍の母が再建。



中には限られた日しか入ることができませんが、外観だけでも十分見所があります。

多宝堂では大日如来と勢至菩薩を祀っています。



こちらは国指定重要文化財の経堂。
足利義兼が妻の供養のために一切経会を修する道場として鎌倉時代に創建しました。

寺の言い伝えでは1196年。鎌倉幕府ができてすぐに創建。

現在の建物は1407年に再建。

今回、中に入ることができました。
中は写真撮影不可でしたが、八角形の回転式の経棚があり、さらに歴代の足利将軍の坐像が祀ってありました。



北門。
足利市重要文化財で江戸末期の面影を残す薬医門。

足利義兼の息子の足利義氏は、鑁阿寺維持のために堀の外に十二の支院を造りました。

その中の十手院が筆頭であり、北門は大正時代に十手院から移築しました。

規模としてはかなり大きめの薬医門。


東門と水堀と土塁。
東門は栃木県指定文化財です。



城郭建築というより、武家屋敷の格式ある門っぽさと個人的には感じます。

鎌倉時代から室町時代になり、戦国の世の中になると城は戦う城へと役割が変わり、山城へと変化していきます。

しかし、特に鎌倉時代の建築はベースになっています。



入母屋の四脚門。
シンプルながらも礎石を使った、しっかりとした造り。



ワタクシはこの1年半で戦国の城ばかりを見てきたので、今回の訪問は原点を知れたような気がしてとても貴重でした。



最後は反対側の西門を抜けます。
西門も東門同様に栃木県指定文化財。

足利尊氏が室町幕府を開くと、鑁阿寺は足利市発祥の地として重宝されました。


寺院内には公園もあり、子どもたちが元気に遊んでいました。

国宝のお寺の中で普通に遊べるなんて凄いなと思いつつ、
何百年もこの地で歴史を見てきた鑁阿寺内で無邪気に遊ぶ子ども達の姿がとても新鮮でした。

子ども達の楽しそうな笑顔こそ、平和の象徴。

鑁阿寺は700年以上、この地で様々な出来事を見てきたと考えると、今の世の中は幸せな時代なのかもしれません。

これからも素晴らしい伝統と文化、そして何よりも平和を守り続けることは、我々の使命です。

約1時間半ほど見て周り日帰り弾丸1人旅は終わりました。




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金山城@群馬県

2025-01-25 14:30:00 | 100名城
2025年1月25日

鉢形城に訪城の跡は、またしても日本100名城の金田城へ移動。

群馬県の太田市に位置する山城で、下道で1時間程で到着。

車の場合は山の麓にあるガイダンス施設に車を停めて歩いて登るか、山頂付近に駐車場があります。

ワタクシは山頂付近まで車で行きました。

しかし、上にはどこにも金山城のパンフレットがない為、いずれにしてもガイダンス施設に寄ってから訪城するのがお勧めです。

ちなみに、御城印もこちらで購入できます。



金山城は標高235mの金山の尾根上に曲輪を配した山城。

駐車場の前には展望デッキがあり、絶景を望むことができます。

この日は快晴だったので、最高の景色を見ることができました。

金山城の1469年、新田一族の岩松家純によって築かれ、その後は由良氏→北条氏と変わり小田原合戦で滅亡した北条氏と共に金山城も廃城となりました。



駐車場のあたりは金山城の西城となり、土塁や堅堀を見ることができます。

金山城は西城、北城、本城、八王子砦に分かれています。

頂上の駐車場を起点にして、西側と東側で城郭エリアがあり、その間600m程の尾根に曲輪を配置して防御機能を備えています。

主郭となる本丸は東側になります。



駐車場から左側に進むと見附出丸跡に到着します。

見附出丸は金山城西側の守りの要。
割と広い曲輪になっていて、土塁が発見されています。

また、柵の跡も発掘調査で明らかになっています。

後の復元の可能性があるので、今は埋め戻されているようです。



見附出丸を囲む南土塁。



見附出丸の南土塁には土橋がかけられていて、土塁を切り通しています。



土塁の上から見ると、土橋になっているのが何となく分かります。



再び駐車場方面へ戻り、東側の本丸方面へ向かいます。

主郭への入口には休憩所があります。



金山城は関東にも関わらず石垣を使用している城として有名です。

道中、岩盤が剥き出しになっており、この山自体が石材に恵まれていることを確認できます。



旧道と新道の2ルートに分岐します。
当然旧道を選択して進みます。

旧道に入ってすぐに木橋が架けられています。



西櫓台 西堀切。
この堀切に木橋が架けられています。

やはり山城に来たら、堀切は絶対に見ておきたいポイント。

当時はさらに1.5m程深く掘られていたそうです。
左側の一段高い曲輪が西櫓台となります。



西櫓台
西櫓台は旧道と西堀切を上から見下ろすことのできる高めの曲輪のため、敵が攻めてきても守りやすい構造になっています。



西櫓台から馬場下通りまでの登城ルートは石畳みになっており、発掘調査によって発見されました。



物見台下虎口。

入口には立派な石垣があります。
山城の中に突如現れた石垣に感動します。



通路の左手には岩盤を切り崩して造られた物見台下堀切。

右側が物見台となります。
中世城郭では土造りの堀切が多い中で、岩盤を切り通した堀切は珍しく、剥き出しの岩盤と積み上げた石垣が同化しているのは、さらにレアなショットです。



通路の右手は堅堀。斜面に沿った縦方向の堀の両脇を石垣で守りを固めています。

中世の築城技術と近世の石垣技術が融合した素晴らしい遺構。



石垣は段々になっていて、当時は守りの為の防御機能でしたが、現代では間違いなくアートです。



堀切の上にあるのは物見櫓。
こちらも土台は石垣で形成されています。



物見台には現在展望台となっています。
発掘調査では4本の柱穴が発見されたので、物見矢倉があったと考えられています。

物見台には石垣が使われていて、火縄銃の弾丸なども出土しています。



展望台からは周囲を一望できます。

金山城は武田氏や上杉氏との戦場になっていますので、当時はここから見張っていたと考えると痺れます。

金山城は北に渡瀬川、南に利根川が流れており、さらに現在の埼玉・栃木・群馬を結ぶ交通の要所だったことから重要な場所でした。



馬場通路を進むと、馬場曲輪に繋がります。
この曲輪には岩盤をくり抜いた240個もの柱穴が発見されています。

建物は少なくとも5階の建替え、3回の造成がなされたことが分かっています。

土を掘ってそこまで分かるのは凄い調査力と発見。



馬場曲輪を取り囲む2段の石垣。
馬場曲輪は大手虎口を守る兵が待機していたと考えられているようです。



馬場曲輪の前にあるのは月ノ池。

調査前は上に汚泥が堆積した、ただの池だと思われていましたが、調査で2段の石垣が発掘され、戦国時代の池だったと判明。

下段は状態が良く、戦国期の石垣をそのまま整備。



馬場曲輪と主郭に繋がる曲輪には、完全に分断する大堀切。

馬場曲輪との高低差は高くはありませんが、右側は約15mの高さがあります。

さらに、長さは46mもある巨大な堀切です。



大手虎口は金山城最大の防御施設。

関東には石垣の城はないとされていましたが、金山城はその常識を覆したと言われています。



大手虎口の石垣。
割と大きな石材が使用されていています。

整備前の写真を見ましたが、見違えるほど変わっています。



上から見た大手虎口。
虎口には新旧の礎石が見つかっているので、門があったと思われます。



よくここまで綺麗に整備したと思います。
現存石垣と転用・新補石垣の間には鉛板を仕込んで区別されています。  


大手路の右側は南曲輪。

ちなみに、南曲輪の休憩所にて日本100名城のスタンプを押すことができます。



大手路左側は三の丸。

どこまでが残存石垣で、どこからが整備して積み上げた石かは分からないのですが、間違いなく今この景色は、迫力があって美しいアートの世界です。



大手虎口を真っ直ぐ進むと、石塁にぶつかりT字路になります。

その石塁は段になっており、細めの大手路から敵が攻めてきた際にとても攻撃がしやすい構造になっています。



こちらが大手正面の石塁。


上から見ると、守りの構造がより分かりやすい。
金山城は日本のマチュピチュと呼ばれているようです。



南曲輪を囲む石垣は、剥き出しの岩盤の上に石垣を積んでいます。



南曲輪の一段下の曲輪には復元された建築物があります。

この小屋みたいな建物は武器庫や詰所として使用されていました。

建築物の脇にはカマドがあり、井戸も近くにあるので生活感を感じることができます。



南曲輪からのショット。
向かい合う曲輪は三の丸。



南曲輪からも絶景を見ることができます。
遠くが曇ってしまっているのですが、富士山を望むことができます。

この場所は関東富士見100景にも選ばれています。



金山城の遺構の一つとして有名なのが日ノ池。
直径15m×16.5mは山の上にある池としては珍しく貴重な大池です。

石積みの井戸跡もあるので、生活用水として使用されていました。



石垣は発掘調査で発見されたものを可能な限り生かして復元。

案内板を見ていて面白いと思ったのが、水の信仰が強かった平安時代の遺物もここで発見されたこと。

この場所は築城する以前から神聖な場所であったとされています。

戦国時代では戦勝祈願の儀式などで使われました。

武田勝頼、上杉謙信から何度も狙われた金山城でしたが、一度も落城することなく城の役目を終えた金山城。

金山城は強力なパワースポットかもしれないですね。



いよいよ本丸です。
本丸の前には太田市指定天然記念物、金山の大ケヤキがあります。

最低樹齢800年。
戦国の世の中もこのケヤキは全てを見てきたことになります。

大ケヤキの前には階段があり、一段と高い曲輪に現在は新田神社があります。

参拝をしたら、本丸の下を一周します。



右側は本丸、左側は二の丸。

見事は空堀になっていて、本丸を完全に分断して孤立した曲輪にしています。



振り返っての一枚。
右側が二の丸、左側が本丸。

本丸の上には神社が見えます。

先ほどの石垣でガッチリと固めた近世の曲輪から一転して、中世山城らしい遺構を再び見ることができます。



本丸の裏手には天守曲輪下馬場があり、広いスペースには馬屋がありました。

左手には本丸唯一の残存の石垣が残ります。
奥には二の丸。

本丸の神社でお参りして、そのまま引き返さずに、是非このスポットも見て頂きたい。

帰りは登城したルートを改めて見ながら帰りました。

中世と近世がミックスしたような面白い遺構、徹底的に守りを固めた縄張り、山城の中でも異次元のテイストを持ち合わせています。

鉢形城→金山城を攻略して、時間は14時30分。
ここまでは全て予定通り。
そして、3城目に向かいます!


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