つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

茅ヶ崎城@神奈川県

2025-01-18 16:00:00 | その他城
2025年1月18日

午前中に小机城を訪城した後は、茅ヶ崎城に移動!
電車で30分くらいで行けるので、ぜひセットで周って頂きたいですね。

地下鉄ブルーライン センター南駅が最寄りになります。
住所は神奈川県横浜市都筑区。

駅から10分程度で茅ヶ崎城に到着です。



センター南周辺はニュータウンですが、その住宅街の中にポツンと現れる森。

現在は茅ヶ崎城址公園として整備されています。



標高は約35mなので、これから中世城郭に足を踏み入れるビギナーさんも、訪城しやすいと思います。

公園化されているので、至る所にベンチもありピクニックもできそうです。



公園入り口から階段を上がって進むと、中郭と西郭に向かう道で分岐します。

まずは中郭を目指します。



中郭の下には北郭があり、広めな曲輪が広がります。



北郭の前には中郭があります。
茅ヶ崎城は資料が少ないため、解明されていないことが多い城でもあります。

中郭は茅ヶ崎城のメインとなる本丸の可能性が高いエリア。



かなり大きな土塁が中郭を取り囲んでいます。
約4mほどでしょうか。当時はもっと大きな土塁であった可能性が高いです。



中郭も公園として、大きな広場になっています。草木の茂みで分かりづらくなっていますが、全面的に土塁で囲んでいます。

この場所が重要な場所であったことが分かります。



中郭南側には石で区画されています。
発掘調査でここには建物の跡が発見されています。

礎石チックな石垣並んでいますが、実際は掘立柱の跡が発見されているので、礎石の持たない建物でした。

この遺構は倉庫の跡だったようです。

茅ヶ崎城では居住となる遺構はまだ発見されていないようです。

続いて、中郭南側より西郭へ向かいます。



中郭南側出入り口。

土塁が途切れた間には虎口があったのではないかと連想させる造り。



中郭の土塁沿いを西側へ歩きます。
右手には中郭の綺麗な土塁を見る事ができます。



右側が中郭、左側は西郭。
この辺りの遺構は良好で城郭の形がハッキリと分かります。



西郭内部。
左側は土塁なっています。
右手は広い曲輪になっていますが、入ることはできません。



中郭と西郭を分断する空堀は、現在公園の通路になっています。

城跡だと認識して眺めると、綺麗な空堀になっているのが分かります。

北側に向けて傾斜になっているので、もしかしたら割と深い空堀だった可能性があります。



先には虎口跡があります。
手前左側が中郭、奥が西郭。その間に虎口があり、道もグイッと曲げてあります。

案内板もしっかり建てられているので、かなり分かりやすいです。



再度、中郭に戻ります。
やはり中郭を囲む土塁は高さがあり迫力があります。



東郭に行くには、中郭から行くのが近道です。
中郭の南側より出て、左手に進むと東郭に行く事ができます。

階段で下って、すぐに階段を登るので、V字になっているのが分かります。

ここも中郭と東郭を分断する空堀だったとも思われます。

何気なく下って登るだけの階段ではありますが、城の形状を想像しながら歩くと中世の山城らしさを感じる事ができます。



東郭は完全に孤立した曲輪になっていますね。

東郭は茅ヶ崎城で最も高い位置にあることから、物見台の役割があったようです。
現在は木々が多いですが、周囲を一望できる見晴らしの良さがあります。

また、籠城戦の際に最後の最後に逃げ込む曲輪だったとも考えられています。

北側の下には行くことはできませんが、腰曲輪が配されています。



茅ヶ崎城に来た際は、ぜひ見て欲しいスポットがあります。

見過ごしてしまいそうなほど、住宅街に馴染んでいるのですが、北郭の道路には土橋跡があります。



これのどこが土橋跡かというと、台形のコンクリートの形そのものが土橋の形になっています。

つまり、この道路そのものが空堀だったと思われます。



この角度から見ると、よりイメージがつきます。

台形のコンクリートになっている、土橋跡は、右側の住宅地まで伸びていて、住宅地のあたりはもう一つの曲輪であったと思われます。

ニュータウンに馴染みすぎた遺構ですね。
これはこれで面白い保存の仕方です。

コンクリートの上に小さく土橋跡という看板があります。

これ一つあるだけで、まったくイメージが変わります。
この他にも城内には至る所に、丁寧に看板が配されているのは素晴らしかったです。



最後に茅ヶ崎城の南側にある、正覚寺をサラッと見てまわります。
城の麓にありますが、直接行くことはできないので、ぐるりと城の周りを歩いて向かいました。

素晴らしい惣門を見る事ができます。
まるで城門のように立派です。

正覚寺の創建は室町時代とされています。



ハッキリとした史実は分からないのですが、茅ヶ崎城主の菩提寺という話もありますし、北条氏との関わりがあったとも言われています。

その他、ネットでは豊臣秀吉の話もありました。

不明確な部分が多いので、気になる方は調べてみて下さい。



近くには早淵川が流れています。
時を忘れてしまいそうなくらい穏やかです。

約2時間ほど、ゆっくり散策。
住宅地に囲まれた公園ではあるものの、しっかりと遺構が残っていたので、楽しむことができました。

茅ヶ崎城は今でも謎に包まれています。
小机城の支城という説が有力でしょうか。

小田原合戦の際の、戦の記録がないので小机城と同じく小田原合戦の際は戦わず放棄された可能性もあります。

城の全容はベールに包まれていますが、豊臣の大軍勢に対抗するには規模が小さいかなと思います。

しかし、ここには間違いなくこの地を守り抜いた城の息吹を感じる事ができます。

北条氏の滅亡と共に、茅ヶ崎城も廃城となったようです。

謎多き中世城郭は、謎そのものが楽しみ方の一つでもあります。

最後は歩いて15分くらいのところにある、横浜市歴史博物館に行きました。

近いので、併せて楽しめるかと思います。
茅ヶ崎城の御城印も歴博で購入できます。

とても充実した、素晴らしい1日でした。
茅ヶ崎城の中郭で食べたコンビニのおにぎりが、格別に美味しく感じました。



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小机城@神奈川県

2025-01-18 12:30:00 | 続100名城
2025年1月18日

今日は初めて神奈川県横浜市にある小机城に訪城しました。

小机城は室町時代に築城。
長尾景春の反乱に対して、太田道灌が攻め落としたことで、小机城は一度廃城。

その後関東一円を支配する北条氏によって、再び城として復活しました。

小田原を本城とする北条氏は、城代として笠原信為を任命。

しかし、小田原合戦で豊臣によって北条氏が滅ぼされた事で、やはり小机城も廃城となります。

今残っている遺構は北条氏時代のものになるので、是非行ってみたいとずっと思っていました。

続日本100名城に選定されています。

JR横浜線 小机駅から歩いて10分ほど。
小机駅は新横浜駅からも一駅と、かなりの好立地です。



小机駅のホームから見た小机城。
奥にある小高い山の上が小机城になります。

標高は約50mの山城。



小机駅に着いたのは10時頃。
まずは駅近くにある、地区センターに行きます。

ロータリーを右手に行けばすぐです。
地区センターには続日本100名城スタンプがあります。

そして小机城のパンフレット。
これは事前に持って訪城するのがベストかと思います。

麓には「小机城のあるまちを愛する会」が創ったパンフレットを置いてある民家があります。
こちらのパンフレットの方が、より分かり易かったです。



大きな看板などはないので、登城口がやや分かりづらいですね。

住宅街に囲まれているので、迷惑にならないように節度ある行動が必要です。

そして、この住宅街あたりは当時も根小屋(集落)であったと考えられています。



城内看板で全体の縄張りを把握。



道なりに登っていくと、帯曲輪のように横長の曲輪が広がります。

お城らしく右へ左へと食い違いになっている道を進むと、大きな空堀の前に出ます。

左手は本丸(西曲輪)、右手は二の丸(東曲輪)に分かれます。

まずは、左手の本丸を目指します。



空堀沿いを歩くと、先には土橋が見えます。
右手は本丸(西曲輪)。

本丸を仕切るための空堀なので、かなり深く掘り込まれています。

高低差は約6m。こちらがら本丸南側の空堀となります。



土橋の前には角馬出があります。
虎口などの前に設けることが多く、敵を迎え撃つ重要な防衛ラインといえます。

そして、虎口や土橋の前に設ける角馬出は、北条氏の城でよく見る築城スタイルといえます。



土橋の手前、馬出あたりからのショット。
奥は本丸(西曲輪)になります。

左右が空堀となっていて、本丸に行くにはこの細い土橋を渡るしかありません。

この細い土橋では並んで進むのは不可能ですので、1人ずつ進軍するしかないですね。
これぞ「守り易く攻めにくい」

城とは戦うための軍事施設。

城の本質は、意外と中世城郭の方が強く感じることができます。


土橋から見た右側の空堀。
見事な空堀なのが分かります。

左側は草木でやや分かりづらいかな。



土橋を渡ると、当時をイメージさせる冠木門があり、いよいよ本丸になります。

おそらく、実際は冠木門の手前にある土塁のライン上に本丸虎口があったのではないかと思われます。



本丸は広めの曲輪となっており、周りは土塁で囲まれていています。



本丸北側の空堀。深く急勾配に削り込まれています。

こちらは、立ち入り禁止エリアになります。

本丸北側の空堀は発掘調査対象区域で、令和4年の調査で堀底付近は約49°で急勾配になっているそうです。

2m以上掘っても堀底を確認できなかったということは、相当深い空堀であったと思われます。

これからの発掘調査で様々な事実が明らかになってくることに期待したいと思います。



本丸(西曲輪)と二の丸(東曲輪)の間には、細長い曲輪があり土橋で繋がっています。

整備もされていて、遺構が分かりやすいのが良いですね。



左右には曲輪を分断する空堀があります。
左側が本丸。



右側が本丸。

実際は発掘調査実績が少ない小机城では、本丸も断定はできていないそうですが、空堀でぐるりと囲まれ、独立した曲輪で守りを堅固にしていることを考えると、本丸と想定するのは妥当かもしれません。



本丸と二の丸の間には、細長の曲輪が伸びていています。



謎に設けられた小さな曲輪。

しかし、実際にこの曲輪に立って見ると、二の丸と本丸両方を見渡すことができ、攻撃しやすい曲輪なことが分かります。



先端には櫓があったとされています。



謎の曲輪の左側。
急斜面の崖になっていて、二の丸方面から攻めてきた敵を上から容易に攻撃できます。



謎の曲輪の右側。

反対側には本丸。間には広大な空堀。
こちらも、本丸と謎曲輪の両方から攻撃が可能になっています。



二の丸に向かうと、曲輪の入り口に櫓跡があります。



二の丸(東曲輪)で櫓跡だけ小高くなっています。



二の丸も令和の発掘調査されていて、掘立ての建物があったとされています。



二の丸を降りると、空堀の底を歩くことができます。



竹林が広がっていますが、道も含めて綺麗に整備されています。



空堀が張り巡らされていて、曲輪を分断する圧巻の景色!
堀底からの高低差は約10m。

当時はもっと深かったと考えられます。

横堀で囲んで曲輪を独立させることで、向かい合う曲輪同士は堀切となって分断されるこの築城スタイルもまた、北条氏らしさが溢れています。



芸術的で、アートのように美しい設計です。






もはや言葉はいらない。

これが歴史の表舞台から消え、400年もの間眠り続けた城。

逆を言えば表舞台から姿を消したことで、この良好な保存状態だったとも言えますね。

南側の空堀は、後ほどまた周ります。


東側〜北側の空堀をぐるりと周ったら、一度本丸に行き、もう一つの小机城に向かいます。

小机城はこれだけではありません。

一番最初に本丸に行くために渡った土橋の手前を真っ直ぐ進むと、一度麓に下山させられます。

そして、トンネルを抜けて反対側に行きます。


トンネルを抜けるとすぐに、かなり急な階段があります。



階段を登り切ると先ほどいた小机城の本丸が一望できます。

右奥には横浜スタジアム。



下には高速道路の第三京浜が走っています。
トンネルは第三京浜の下を抜けるためのものでした。



実は小机城は横長に広がった城でしたが、城を破壊して高速道路を開通させたことで分断されました。

今では高速道路が最強な堀切の役割をしています。


細い道を進みます。
主郭があるエリアには人が多かったのですが、皆さんこちらには来られないようで、人の気配が全くありません。



高く山になっている場所は富士仙元。

上には石碑があるのですが、ワタクシは行くのを控えました。



どんどん先に進みます。
小学校の時に知らない森を、友達と探検しまくっていた頃を思い出します。



道の行き着く先は、私有地の駐車場でした。

この辺りは開けたスペースになっていて、最初に見た看板ですと出城の部分にあたります。



主郭側から見た、出城方面。
再び、主郭側に戻って残していた南側の空堀を見に行きます。



本丸から謎の中曲輪まで伸びた南側の空堀。



先には腰曲輪があり、開けたスペースになっています。



左側は腰曲輪で先ほど通ってきた道。右側は中曲輪でこの先端の上には櫓がありました。

堀底を歩けるようになっていたので、当然堀底を歩きます。



さらに先に進みます。



分断された曲輪は、左側が本丸(西曲輪)で右側が謎の曲輪(中曲輪)になります。



急な崖になっているのが中曲輪で、この最頂部に櫓がありました。



北側も素晴らしい空堀を見ることができましたが、南側も芸術的な造りをしています。

コンパクトな城ながら2時間半ほど散策。
見どころは沢山ありました。

発掘調査が今までされて来なかったので、まだ史跡にもなっていないのが現状ですが、令和になって調査が開始されたので、これからの調査結果が楽しみな城です。

現状でもかなりハイレベルな空堀を見ることができますが、当時は20mクラスの空堀だったとも言われています。


森の中を周っている時のワクワク感というものは、年齢を重ねても変わらないもの。

小学校時代の探検好きの少年心は、30年経っても血は変わらないことを実感します。

これだから山城は楽しい!

標高50mくらいなので、山城を行った事がない方でも、十分楽しめると思います。


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法光山 妙正寺【徳川家光公 縁の寺】@東京都

2025-01-05 16:00:00 | 
2025年1月5日

1月2日は江戸城に行き、本年度がスタートしました。

昨年から江戸城や徳川家に縁のある場所を、少しずつ周っております。

今回は東京都杉並区にある妙正寺に行ってきました。
正月最後の休みのこの日、家から歩いて約1時間少々ですが、ウォーキングを兼ねて訪問。

新宿区、中野区、杉並区を流れている川で、新井薬師あたりから約9.7kmの区間を流れる妙正寺川があります。

妙正寺川沿いは、ほとんどの区間が歩行者専用なのでウォーキングやランニングには最適。

妙正寺の裏側には妙正寺公園があり、噴水もある広い公園があります。川は公園に繋がっています。

妙正寺は1352年に堂を建てたのが始まりとされています。
670年以上の歴史があるお寺です。



妙正寺の正門。
こちらは昭和56年新築の門になります。



鐘楼堂は昭和38年に建て替えられました。

都内にいることを忘れてしまう程、緑に溢れています。



本堂は天保元年に火災によって消失。天保3年に再建されました。
昭和6年に改築。

木造の格式ある建築物。

1649年に徳川家光公が、鷹狩りの際に神前に武運長久を祈願し、徳川家の葵の紋幕と朱印地五石を寄進したことで、御朱印寺として有名になりました。

朱印地とは江戸時代に、幕府によって神社や寺院の領地として安堵された土地のこと。



本堂の中には本尊のほかに、安産に霊験ある鬼子母神像が祀られています。

この鬼子母神像は、かつて江戸城の大奥にあり、安産にとても霊験があると信仰されていました。

徳川家光公にまつわる話と、大奥にまつわる話。
江戸城から遠く離れた杉並区のこの地で、息吹を感じることが出来ます。

今でも葵の紋幕を掲げて法会が行われています。



妙正寺の目と鼻の先に、井口喜容家所蔵文書があります。

江戸時代の文書が500点以上あり、杉並区の有形文化財になっています。



井口家は村役を勤めており、江戸時代の高家支配の歴史を知る上で貴重な資料となっています。

長屋門も立派。



ウォーキング頑張りました。

歴史を知れば、住んでいる街も見え方が変わります。
これからも、少しずつ江戸にまつわる場所を周っていきます。



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江戸城【三回目】@東京都

2025-01-02 13:00:00 | 100名城
2025年1月2日

新春、あけましておめでとうございます。
今年もゆったり城めぐりに勤しみたいと思います。

さて、2025年の最初の城めぐりは江戸城です。
1月2日は一般参賀があり、天皇陛下がお出ましになる日。
ワタクシも産まれて初めて、参加致しました。

一般参賀の時は、江戸城の普段入ることのできないエリアに入ることができるので、お城ファンにとっては特別な日なのです。

大手町の駅に到着したのは朝の7時50分頃。天皇陛下のお出ましは10時10分頃なので、割と早めに到着したつもりでしたが、既に大大大行列!

後からニュースを見たら、今年は6万人が大集結したそうです。



快晴で空気が澄んでいて最高の朝です。
和田倉門側から行列に接続です。

水堀に逆さに映った石垣がとても綺麗です。



和田倉橋と和田倉門。

関東大震災によって和田倉門が大破し、渡櫓は翌年の地震で潰れてしまった為、現在は石垣のみが残ります。

和田倉橋は木橋で復元。
江戸城には幾つもの橋がありましたが、木造で復元しているのは、平川門とこの和田倉門のみ。



皇居正門より入っていきます。

通常は橋の前には柵があり、警備員も常時いてセキュリティが万全。近づくこともできません。

当然この先は立ち入り禁止エリアとなっています。



皇居正門から見た二重橋と伏見櫓。

この水堀と石垣も普段は見れない景色なので、しっかりと目に焼き付けます。



皇居正門は江戸幕府の時代には西の丸大手門と呼ばれていました。



櫓門の石垣。当時はこの石垣から土塀が少し伸びて、西の丸大手門の目の前に直線上に高麗門がありました。

本来は一つ目の門を抜けると90度折り曲げて二つ目の門があるので、防御の観点から見ると珍しい構造。



西の丸大手門も江戸時代から存在する、貴重な現存の門となります。

鉄板が貼られ、重厚感がある素晴らしい門。



二の丸大手門を抜けると、ぐるりと傾斜を上りながら緩やかなカーブを90度曲がると、先ほど写真に撮った二重橋へと繋がります。



今日の目当ての一つが、この伏見櫓。
鉢巻石垣の上には現存の二重櫓と渡櫓が鎮座。

立ち入り禁止エリアの為、伏見櫓をこんなに目の前で見ることは普段できません。

写真でしか見たことがなかった伏見櫓ですが、間近で見ると大きくて迫力があります。



江戸城は現代では皇居という名が一般的な名称となっていますので、初めて参賀に来た方の会話を聞いていますと、ここが城であったことを実感した方も多かったようです。

そうです!
ここは日本が世界に誇る天下の名城、江戸城跡なのです。



二重橋を渡った先にも櫓門がありましたが、現在は石垣のみが残っています。

美しい切込接の石垣。
石材一つ一つをよく見ると、角を削って立体的な石材となっています。

さらに表面には、すだれ仕上げという細かい線を入れて化粧仕上げなのが分かります。

さらに隅の算木積みにおいては、下になるほど規則的に幅広くなっています。

美的センスが光る、石垣技術の最終形態!


天皇陛下のお言葉を拝聴した後は、坂下門方面へと降っていきます。

そして、もう一つのお目当てが富士見櫓!

富士見櫓も普段は見ることが出来ません。
通常日でも東御苑からは見れるのですが、櫓の裏側しか見れないので、やはり皇居側から見るのが一番美しい。



明暦の大火で天守を失った江戸城において、天守の代用とされたのが富士見櫓。

江戸城の中心に位置していて、当時は富士山も見えたことから富士見櫓と名付けられたと言われています。



三層三階、高さ16mの木造現存櫓。
関東大震災で大破しましたが、旧材を使用して復元されました。

建築物のほとんどを失っている江戸城にとっては、とても貴重な遺構です。



富士見櫓の石垣は、城内の現存石垣の中で最も古い石垣の一つ。石垣の高さは15m。

出口のルートは桔梗門か大手門から出ることができるのですが、今回は大手門から帰ることにしました。

次の楽しみを残しておきたい性格です。
桔梗門はまた来年見たいと思います。


中之門跡。一際大きな石材を綺麗に加工した石垣。

瀬戸内海沿岸の白い花崗岩を使用しています。この石は大名が通る道や、天守台など特別な場所にのみ使用されています。

本丸に続く中之門が重要な場所だったのは明白ですね。



最後は大手門。
江戸城の顔となる特別な門です。

桁行22間(40m)×梁間4間2尺(7.9m)の巨大な渡櫓の櫓門。

残念ながら世界大戦の空襲により、江戸時代の建築物は消失。
昭和に復元されました。



大手門には珍しい石狭間があります。
鉄砲を撃つための狭間と呼ばれる穴を、土塀ではなく石垣を切り欠いて設置しています。

このタイプは大阪城や岡山城などでも見ることが出来ます。



大手門の石垣は1620年の改修時に伊達政宗が担当したと言われています。

その際に現在のような枡形虎口になりました。



新年のスタートには申し分ない程、満足した1日でした。

日本で一番巨大な江戸城は、行くたびに新しい発見があります。

ずっと近くで見たいと思っていた伏見櫓と、富士見櫓を見て改めて江戸城の素晴らしさを実感しました。

引き続き、今年も宜しくお願いします。



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